自叙伝:斎藤修二の採鉱屋の半生思い出すことなど 第Ⅱ部 流水の巻

斎藤修二自叙伝
思い出すことなど
第Ⅰ部
思い出すことなど
第Ⅱ部 行雲之巻
思い出すことなど
第Ⅱ部 流水の巻
栃洞坑27年間の断想



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はじめに 第1章
初期の改善
(1969年~1980年)
第2章
栃洞鉱の技術革新
(1983年~1992年)
第3章
技術革新が齎したもの
 
はじめに 1 1.長期計画第4報 5 1.採鉱法 32 1.生産性の向上 57
2.坑内図面整備 14 2.穿孔機械の油圧化 35 2.総コストの削減 59
3.崩落鉱回収 17 3.発破システムの改善 38 3.黒字基調 60
4.-370m準坑道整備 19 4.運搬機械の大型化 43 4.災害の減少 62
5.導入口作り 22 5.支保作業の機械化 45 5.鉱山業 63
6.第2次円山安定化計画 24 6.坑内通信システム 53
7.事務所移転 54
8.時短操業 55
9.坑内賃金改定 56
10.間接部門 56
第4章
学会に投稿した小論文
(1994年~1997年)
付録 1
付録 2
海外出張あちこち
おわりに
原稿:
海外鉱山の開発
66 神岡鉱業の歴史 132
1.カナダ・アメリカ鉱山視察 147 おわりに 177
神岡町の歴史 135 2.インド: マイニングコングレス 158
原稿:
ワンサラ鉱山の近代化
77 ペルーという国 140 3.アメリカ: ウェストマネージメント 161
4.ブラジル・チリ鉱山視察 162
原稿:
神岡鉱業の現状
96 5.アメリカ地下利用視察 166
6.フィンランド: タムロック社訪問 167
原稿:
我が国の地熱発電の現状
108 7.ペルー勤務
168
8.中央アジア鉱山調査 169
9.ペルー出張
170
10.ロンドン: RTZ社訪問 171
11.カナダ・オーストラリア事務所訪問 171
12.イタリア・オーストリア地熱発電視察 172

思い出すことなど 第Ⅱ部  流水之巻
はじめに
 
 我が人生を振り返る時,以下の鴎外の「妄想」の一文を思い起こす。
 「生まれてから今日まで自分は何をしているか。(中略)自分のしている事は,役者が舞台に出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後に別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる。(中略)赤く黒く塗られている顔を洗って,舞台から降りて,静かに自分というものを考えてみたい,背後の何物かの面目を覗いて見たい。
 背後の何物かの面目とは「黄梁一炊の夢」で示される「人間の欲望」ではなかろうか。又
    夏草や兵どもが夢の跡      芭蕉
 「けばけばしく」生い茂る夏草を見ていると,「兵ども」が戦いの果てに得た藤原三代の栄耀栄華を思い起こされるが,これとて悠久の歴史に比べれば儚いものである。と歌っている。
 この「夏草」を自分の中に住む「欲望」や「願望」であると解釈すれば,人生は「欲望」や「願望」との闘いであり,例え,それを成就したとしても,儚い夢のようなものである。と歌っているように思える。
 そうではあるが,人間生きていくためには,世に出て次から次へと役を勤めざるを得ない。
 本書に記述した事項の大半は,自分がこれまで,役者が舞台に出て或る役を勤めているように,次から次に役を勤めあげてきたことを綴っている。その行跡は,人間の欲望や願望そして,儚い夢であったであろうか。


第1章 初期の改善(1969年~1980年)
 
 1968年に生産管理職に就き,やっと頭脳を使うようになった。それまでは保安係員に従事し,労務管理のために「胃」と「金」を使って仕事をしていたようなものである。勿論鉱山と云うものが何んであるかも勉強した。
 1979年に係長に昇格するまでの6年間は生産管理職を務めた。その後,係長に昇格しやはり6年間努めた。下部担当1年半,円山係4年半であった。その間の記憶に残る改善事項を記す。


1.長期計画第4報
 
坑長は管理職と生産管理職を集めて,長期計画第四報を作成された。「夢の44計画」が網羅されており,栃洞坑「百年の計」であったと考える。
「44計画」とは昭和44年には産出鉱量を1日辺り4400トンに増産するという意味である。
先輩達の話と,栃洞坑の歩みから判断して,第四報の内容は以下のようであると推測する

1-1.生産量
 栃洞鉱山の可採粗鉱量は年々増加傾向であった。図1に示すように,1970年までは獲得鉱量は産出鉱量を上回り,可採粗鉱量は年々増加していた。1950年から1970年までの20年間で,獲得鉱量は約36百万トンで,年間の獲得鉱量は約1600千トン以上で「古きよき時代であった。」

 その当時の出鉱計画を振り返ってみると
  ¶ 昭和36年 : 3600t/日
  ¶ 昭和40年 : 4000t/日
  ¶ 昭和44年 : 4400t/日
  ¶ 昭和48年 : 4800t/日
 この増産方法をカレンダー増産と称している。


 
 栃洞坑は2つの選鉱場を保有していた。一つは栃洞選鉱場で処理鉱量は一日当たり最大1600Tで,もう一つは鹿間選鉱場で処理鉱量は一日当たり最大3200Tであった。
栃洞選鉱場は上部係の鉱石全量と円山係の0m準以上の鉱石を,鹿間選鉱場は本坑と円山坑の0m以下の鉱石を処理していた。

1-2.採鉱法属
 採鉱法は鉱床の規模,形態,岩盤の強度等を勘案して選択される。基本的にはズリ混入率が少なく,実収率が高い方法が適用される。サブレベルストーピング法は規模の大きい塊状鉱床に適用される。栃洞坑の9番鉱床や円山坑の5番鉱床に適用されてきた。
サブレベルストーピング法の特徴は
 ¶ 大量出鉱が可能である。
 ¶ ズリ混入率が低い。
 ¶ 保安上安全な採掘方法である。
 ¶ 出鉱までに開坑に時間が掛かる。
 ¶ 採掘後に大規模な空洞を生じる。
等である。
 1955年~1975年頃まで,サブレベルストーピング法は栃洞坑の主力採鉱法であった。
 1965年頃,下部係では9番鉱床の24号,26号がサブレベルストーピング法で採掘され,32号が開坑中,30号は手つかずの状態であった。
 9番鉱床の堀場規模は,幅40m×長さ100m×高さ80mが標準的な規模であった採鉱の段階では露天掘りのベンチカット以上の高能率であった。1980年代に入るとこのように大規模に採掘し得る堀場は姿を消した。




1-3.ANFO爆薬

 硝酸アンモニウムのプリルに数パーセントの軽油を混合するだけでANFO爆薬となる。従来のダイナマイトに比べ爆速は遅いものの,格段に安価で得られ,取扱上の安全性も優れていた。
 コストの観点から,1965年頃,従来のダイナマイトに代わる爆薬として脚光を浴びトンネル業界でも導入が試みられていた。
 海外鉱山では坑道の一画でANFO爆薬を製造して使用されていた。国内鉱山でも海外鉱山同様に,坑内で製造する事を試行された。昭和30年代の後半に,栃洞鉱の保安技術係でANFO爆薬製造する試験研究が行われていた。
しかし,日本国では鉱山会社が爆薬類を製造することは,多くの法的規制をクリアーしなければならないので極めて困難なことであった。

1-4.圧縮空気の高圧化
 鉱山機械の殆どが圧縮空気で作動するものであった。この圧縮空気のゲージ圧は7kg/?であった。「44計画」で,このゲージ圧を8kg/?に昇圧する計画であった。
 空気動の機械を使う作業の能率は圧縮空気圧の3/2乗に比例するといわれる。
 これを実現する為には,圧縮機の更新や,使用する鉱山機械がゲージ圧8kg/?に耐え得るものにしなければならなかった。
 とりわけビット・ロットのライフは重要な問題であるので,技術係でビット・ロットの耐久試験が行われていた。
ロットとは岩石に孔を開ける鏨のことで,ビットとはその先端にタンガロイが鋳込んである金属チップである。又,
 その当時,圧縮空気のピークカットのために坑道レシーバが使用されていた。高圧化に伴い坑道レシーバも,これまでより高い海抜レベルに建設する必要があった。
 坑道レシーバとは圧縮空気を貯蔵する設備である。鉱山の操業時間中で圧縮空気が多量に消費される時間帯は空気圧が下るので,これを防ぐ為,坑道レシーバに圧縮空気を貯蔵し,ピーク時に供給する設備である。このレシーバには,深夜電力を使用して圧縮空気を坑道に貯蔵される。

1-5.運搬合理化計画
 「鉱山は運搬業である。」と言われる。各切羽で採掘された鉱石は立坑に投入され,LHD等の運搬機械を使って立坑に投入され,横持ちをされ,再び立坑に投入される。これを数回繰り返して主要運搬坑道にたどり着く。主要運搬坑道に集まった鉱石は電車と鉱車で選鉱場に運搬される。選鉱場で精鉱にされ,製錬所に運搬される。製錬所でインゴットになった商品は各消費地まで運搬される。このように鉱石が製品になるまでに多くの運搬作業がなされ,大きなウェイトを占めていることを述べている。
 例えば,ペルーのワンサラ鉱山で採掘された鉱石は鉱山で精鉱にされる。山からカジャヲの港まで450Km運搬される。カジャオ港から太平洋を横断して富山港に運搬される。更に,富山港から神岡まで運搬して,やっと製錬される。
 地球の反対側の国ペルー,しかも海抜4,000mの高い鉱山から,地球の裏側の富山港に運搬し,北アルプスの麓,飛弾の山奥(海抜400m準)で製錬をしているのであるこのように考えると,鉱山は運搬以外の何物でもないと言う気がする。
 長期計画第4報で鉱石の運搬システムが画期的に改善された。これを運搬合理化計画と称していた。

1-6.-430m準に主要運搬坑道を開削
 主要運搬坑道とは坑内と選鉱場が連絡している坑道のことである。各切羽で採掘された鉱石は最終的に主要運搬坑道でまとめて選鉱場に運搬される。
 以前は-370m準で,電車と鉱車で鉱石を選鉱場に運搬していたので-370m準が主要運搬坑道であった。しかし,運搬合理化計画により,-370m準の更に下のレベルである-430m準に,新しく選鉱場に連絡する坑道が開削された。このレベルで鉱石はベルトコンベヤで選鉱場に運ばれるようになった。
 これにより,主要運搬坑道は-370m準坑道から-430m準に代わったのである。

1-7.立坑開削
 坑内では採掘された鉱石は垂直方向と水平方向に運搬され選鉱場に運ばれる。垂直方向は,当然,重力によって運ばれる。従って,鉱石を運搬するに当たっては,水平方向と垂直方向を重力の力を借りて,同時に運搬する立坑が好都合である。そのためには,長距離の立坑開削が必要であり,その長距離立坑を掘削する技術が焦眉の課題であった。
 この立坑の掘削に当たり,昭和40年代にリンデンアリマック社のアリマック・クライマーが導入された。これにより,坑内作業の中で,技術的に最も難しく,保安上も,最も危険な作業であった切り上が,安全に,効率よく,開削する事が可能となった。
 かくして念願の-370m準から0m準までの長距離立坑,「新2番立坑」や「円山立坑」等が開削された。
 この立坑が掘削されたことにより,本坑では0準以上で採掘された鉱石は0m準で集鉱され,一挙に,-370m準に落下させることが可能となった。一方,円山坑では0m準以下で採掘された鉱石を鹿間選鉱場で処理することが可能になった。

1-8.貯鉱舎と破砕室
 -370m準と-430m準の間に,粗鉱が約3千トン入る貯鉱舎が建設された。坑内各所の立坑から集鉱された鉱石を貯鉱する空間である。貯鉱舎はオアービンとも呼ばれた。
貯鉱舎の下部には東洋一大きいといわれるブレーカが据え付けられている。
 貯鉱舎から抜き出された鉱石はブレーカで破砕され,長尺コンベヤ(1300m)で,選鉱場まで運ばれる。

1-9.長尺ベルトコンベヤ
 -430m準に貯鉱舎と選鉱場を連絡する坑道が開削され,長尺のベルトコンベヤが据え付けられた。ブレーカで破砕された鉱石は-430m準の長尺ベルトコンベヤー(長さ1300m)で坑外の選鉱場に運搬されることとなった。
 鉱石を選鉱場まで運搬する作業を運鉱と言い,立坑から貯鉱舎,又は中間の立坑から立坑への運搬作業は集鉱という。
 栃洞鉱は栃洞選鉱と鹿間選鉱の二つの選鉱場を有しており,0m準以上の鉱石は0m準で運搬され栃洞選鉱で,0m準以下の鉱石は-370m準で運搬され鹿間選鉱で処理されていた。
 長距離立坑が開削されたこと,長尺ベルトコンベヤが導入されたことにより,従来の運鉱作業は以下のように改善された。
 ¶ 0m準で栃洞選鉱に渡していた鉱石の一部は新2番坑井に集鉱され,
   -370m準に投入されるようになった。
 ¶ 従来,-370m準で集めていた鉱石は坑内貯鉱舎に投入されるようになり。
   これを集鉱作業という。
 ¶ 鹿間選鉱場へ運搬は-430m準の長尺ベルトコンベヤで行うシステムに改善
   された。
 ¶ 鉱車は3トン鉱車から7トン鉱車に大型化された。

1-10.7トン漏斗の取付け
 切羽で採掘された鉱石は立坑に投入される。立坑に投入された鉱石を抜き出し,鉱車に移す設備を漏戸と称する。
3トン鉱車用の漏斗を7トン鉱車用の漏斗に取り替えられた。

2.坑内図面整備

1-1.MECE(ミッシー)的図面

 坑内の図面はレベル原図と堀場図の2通りがあった。レベル原図は主要レベルの図面である。国の設けた三角点を原点として,各地点の経距,緯距の計算に基づき,作成されている。図面は互いに重なりあうこともなく,隙間が空くこともないように作成されていた即ち,MECE(ミッシー)的に全てのエリアを網羅されていた。
 一方,堀場図は鉱床の規模・形に基づいて鉱床ごとに作成されていた。隣接するA鉱床とB鉱床の図面は別々に作成され,何れの図面も,該当する鉱床が図面の中央に位置するように作成されていた。 従って,隣接する堀場図は重なり合う部分も,隙間となる部分も生じていた。
 この重なり合う部分に坑道が開削された場合は,両方の図面に記載されるべきであるが何れか一方の図面にしか記載されていのが通常であった。ある鉱床の堀場図を使用して計画を立案し,それに基づき作業を進める。
 現場で突然「旧坑」に貫通したと苦情が来る。よく調べると貫通した「坑道」は隣接する鉱床の堀場図には記載してある。「旧坑」ではなく単なる記載漏れである。
 このような不都合を解消するため.堀場図を廃止し,レベル原図の規格を主要レベルのみならず,中間レベルにも適用するよう改めた。計画を作成する図面はその都度別個に作るようにした。計画図面はいわば落書き帳で記録として残す図面ではないから何時破棄されても好い。
 新しく中間のレベル図を作成するに当たって,図面のレベル間隔が問題となった。間隔は細かければ細かいほど記入しやすいが,それでは図面の枚数が多すぎて管理が不能となる。色々議論した結果5m間隔で作成することにした。
 その中間レベルは「2捨3入方式」で上または下の何れかに記入することにした。例えば,922m準は920m準の図面に,923m準は925m準の図面に記載することにした。
 これにより稼働する全ての範囲がレベル原図と同様に重なり合うこともなく,隙間ができることもなく網羅されるようになった。

1-2.坑内図面1/500
 トラックレスマイニングが普及するに従い,鉱床の賦存状況を広範囲に見る必要が生じてきた。
 従来の図面の縮尺は1/300であった。この縮尺の図面で広範囲の計画を立案しようとすれば,図面の大きさが,縦・横とも数メートルの長さになってしまう。そこで坑内図面の縮尺を1/500に改善することにした。
 既成の図面の書き換えには膨大な労力が必要であった。通常の時間内では先ず仕上がらない。測量員と相談の上,請負制で作製にすることにした。即ち,Aゼロ版の図面1枚につきいくらと云う具合に。彼らは昼休や就業時間外で,精力的にこの仕事をこなしてくれた。稼働範囲の図面が仕上がるに1年以上はかかったと思うが1/500図面が仕上がった。
 これによって採掘順序や計画について思考することが非常に便利になった。しかし,1/500に変更する過程で探査課からクレームがきた。従来,リコメン図には,亜鉛品位等が記載されていたが,1/500の図面には縮尺が小さすぎて,亜鉛品位の記入は不能であった。話し合いの結果,以後,地質図(リコメン)への品位の記入等の詳細なスケッチの記入は廃止し,鉱床範囲のみ記載するよう改善した。この改善は自分が中部係の生産管理職を勤めている時であった。他の係の生産管理職に勧誘したが,賛同は得られなかった。
 ただし,上部係の測量担当係員である工藤さんは,生産管理職に命じられる迄もなく,自発的に図面の更新作業を実行してくれた。
 下部係は自分が下部係長に就任した時,弘中生産管理職と話し合って,逐次1/500に更新していった。下部係は9番鉱床を抱えており,図面の枚数が桁外れに多かった。中部係のように一挙に更新することは不能であった。稼働している切羽から順次,更新して行った。
 円山係も自分が係長に就任した時,木村生産管理職と相談して,1/500に更新した。偶々,3人の測量員の内2人が以前中部係で1/500に更新したメンバーであったので,何の抵抗もなく更新作業は実行された。
 かくして栃洞鉱の坑内図面は縮尺1/300から1/500に更新された。昭和47年に中部係で始めてから,52年に円山で完了するまで5年間の月日が流れていた。
 因みに,ワンサラ鉱山の坑内図の縮尺を調べたら,1/500であった。1/300の縮尺はどう考えても変な縮尺である。

3.崩落鉱回収

 崩落鉱とはサブレベルストーピングで採掘していた昭和35年頃,本坑も円山坑も大きな空洞を支えていた。採掘跡の充填が間に合わず,大崩落を惹起した。崩落した鉱量は本坑,円山坑共に,数百万トンであった。この崩落した鉱石を如何に回収するかが焦眉の課題となっていた。
 円山坑では崩落鉱の下部が岩盤であったので,崩落を惹起した下部のレベル,即ち40m準に抽出坑道を設けブロックケービング法で崩落鉱を回収することに成功した。
 一方,本坑の崩落鉱についても,円山坑と同様のブロックケービング法で抽出する事が望ましかったが,崩落鉱の下部は岩盤では無く,薄い水平ピラーか充填土砂であった。円山坑のように計画する事は不能であった。
 昭和37年に垂直ピラーの内部に抽出坑道が開削され,ピラーの両側に崩落している鉱石を回収することが試みられた。抽出坑道準で導入口を作るために,堀場の中に5m程度の坑道掘進が開削されたが,崩落物は圧密された状態で自然にケービングする状態ではなかった。
 そこで,抽出坑道順の上部レベルにも調査坑道が入れられた。崩落鉱はやはり圧密状態で,自然に落下する状態では無かった。時間の経過に伴い開削された抽出坑道に亀裂が生じ,崩落鉱を抽出する期間は耐え得ないことが判明した。
 崩落鉱の回収はその後の10年間,殆ど進捗していない状態であった。
 自分が中部係の生産管理職時代に80m準の8甲鉱床の崩落鉱を回収する為,戯れに,崩落高の内部に坑道を入れ,サブレベルケービング方式で.崩落鉱を抽出した事がある。これが意外と好調であった事から,9番鉱床にも適用するようになった。決して,計画的なものでも,システマティックなものでなく,試行錯誤のうちに,サブレベルケービング法を適用することになった。
 崩落鉱のトップが60m準と予測されていたので,最初の抽出坑道を53m準に計画した。しかし,崩落坑はある程度抽出すると,それ以上は順調にケービングせず,大きな空洞を形成した。空洞の高さは10m以上であった。この空洞を崩壊させるために空洞に向けて長孔を穿孔して爆破し,強制的に崩落させた。時間の経過で崩壊することもあった。苦労しながらも53m準の崩落坑の回収が終った。
 それ以下のレベルの崩落鉱の回収については,自分は担当を外れていたので詳しい成り行きは不明であるが,比較的システマティックにサブレベルケービング法の坑道を開削し,順調に崩落鉱が回収されていったようである。
 この53m準の命名には
 「何故,区切り切りの良い,50m準としなかったのか?」
とクレームがついた。抽出坑道の海抜は1003mで0m準の海抜が850mであるから    1003m-850m=53m
測量員が「53m準」と称していたことに始まる。自分達,仲間同士で「53m準」と称しているうちに定着し,呼称を改めることが難しくなってしまったのである。「53m準」がかくも有名な坑道になるとは想像しなかった。

4.-370m準坑道整備

 以下の記述は1973年の下部係長時代である。

3-1.通洞坑道拡幅工事
 -370m準坑道は,人員・資器材を搬入する坑道であり,通洞坑道と称され重要な坑道であった。毎日作業者が人車に乗って坑内の事務所に出勤していた。
 トラックレス坑道は10㎡以上の断面積であるが,この坑道は昭和20年代に開削された坑道なので,坑道断面が5㎡程度であった。大型機械を搬入するネックになっていたので,この坑道を幅4m,高さ3mの断面に拡幅することにした。素堀部分は直轄で掘削し容易に工事を完了した。
 坑口付近の留付部分については,中部係で崩落鉱を回収していた吉沢組に発注して掘削をした。吉沢組は崩落鉱の抽出坑道の掘削を専門に行っているので,差抜工事は得意であった。

3-2.オアービン直投坑井
 9番鉱床の30号や32号の-370m準以下の鉱石を選鉱場に運搬するためには,電車と鉱車による集鉱は不能で,LHDで直接オアービンに投入する必要があった。
 オアービンに鉱石を投入するに設備しは鉱車を覆す設備で,LHDで投入する設備は設けられていなかった。オアービンから-370m準まで立坑を掘削する必要があった。その方法は
 1)レーズボーラによる方法
 2)切上による方法
 3)長孔によるノーカット法
等が考えられた。
 「レーズボーラ案」は作業の安全上でも,オアービンの空間に与える影響においても,最も安全な方法であるが,準備・段取りが大がかりな上に,カッターベースをオアービンの中に持ち込む作業が極めて困難である。
 「切上」案は作業に若干の危険を伴い,オアービンに鉱石投入を中止する期間が必要であり,その期間を最小限に留めるため公休出勤の仕事となる。公休出勤は組合と協議する必要がある。特に進削員の本業である切上作業を公休出勤で行うことは組合が抵抗することは目に見えている。
 「長孔によるノーカット案」は保安上安全で操業に殆ど支障を与えない。オア-ビン空間には若干の衝撃を与えるが,崩壊を惹起するような事態には至らない。それで,長孔によるノーカット案で実施するよう,高多課長に申し出た。
 「馬鹿モノ! オアービンを崩落させるつもりか!崩落したら,栃洞鉱も崩壊してしまう!もっと確実な方法でやれ!」
と頭のてっぺんから声を張り上げて叱られた。止むを得ず,盆休みにオアービンに足場を作って切上で実施することとし,職場委員長の黒崎儀八郎氏に申し入れた。二日間に亘って彼を説得し,渋々受け入れてもらった。
 切上の足場を作るために,選鉱課に協力を得て,オアービンの貯鉱を調節した。切上を短期間で終了させるため,切上を実施するに先立って,切上の「心抜き」用の空孔として,口径100mmの孔を,-370m準からオアービン内部迄掘削しておいた。15m程度の切上も僅か,3日で終了した。

3-3.-370m準貯鉱舎前の拡幅
 貯鉱舎(皆はオアービンと称していた)には坑内で産出される全ての鉱石が集まってくる場所である。オアービンの直上では軌条が複線になっており片方は本坑用で,もう一方には3km離れた円山係からの鉱石を投入するブリッジが取り付けられていた。
 此の辺りの坑道断面は小さく,薄暗い場所であった。本坑の鉱石を集鉱する列車と円山の鉱石を集鉱している列車の接触事故や歩行者が列車に巻き込まれる事故等が懸念された
 12トン電車が牽引する一連の鉱車が脱線すると操業上の大トラブルとなる。従って,オアービン付近の坑道を大々的に拡幅し見通しを良くする工事を実施した。

3-4.清濁水分離工事
 従来の清濁水の排水系統では,清水は-370m準のパイプと-430m準の側溝で,濁水は-430m準のパイプで坑外に導いていた。しかし-430m準で「土砂中出し」の作業を行うと,濁水が清水側溝に混入し,屡々,トラブルが発生していた。
 そこで-430m準の清水はパイプで坑外に導き,濁水は側溝に流すよう改善した。その結果,濁水は水抜き孔で-430m準に落とすことになり,清濁水の管理は大変容易になった。
 -370m準と-430m準のベル差は60mである。この水抜き孔を長孔削岩機KH80で掘削した。通常,KH80で長さ60mを掘削することは困難であると考えられていたが,採鉱員の宮脇氏が掘削してくれた。

5.導入口作り
 
 サブレベルストーピング法の開坑作業で最も手間の掛かる作業が導入口作りである。
 9番鉱床の30号の抽出坑道は,当初-350m準に設けてあり,切羽運搬機として100馬力のスクレーパを使用していた。
 しかし鉱床のボトムは-380m準であった。これを採掘するためには-380m準に抽出坑道を設ける必要があった。この時,導入口をVカット方式で開削を試みたが,導入口を作る方法としては,この方法が最良であったと考える。
 導入鉱の開削方法としては以下の3通りが考えられる。
 1)抽出坑道準からUCLレベルまで切上を上げ,切上内部に足場を作り,
   ストーパを使って拡幅する方法。
 2)抽出坑道のレベルからUCLレベルまで切上を上げ,UCL準で長孔を
   用いて切上を扇形に拡幅する方法。
 3)-380m準に抽出坑道で試みたVカット方式で導入口を作る方法。
 1)の方法は初期に行われていた方法であるが,低能率で危険作業を伴う。
 2)の方法は,トラックレスマイニングの導入により,UCL準の拡幅作業が容易に可能となってから採用された方法である。1)の方法に比べ遙かに安全で高能率である。
 3)の方法が最も好ましいと考える。
 Vカット方式を図3で説明する。
  ¶ 抽出坑道とVカット坑道の2本の坑道を平行に開削する。
  ¶ Vカット坑道の先端のA地点でスロット切上をUCL準まで上げる。
  ¶ これをパイロット孔として,Vカット坑道とUCL準の間を,上向きの
    扇形採鉱をA地点からC地点まで行う。
  ¶ 最後に,抽出坑道からVカット坑道に向けて坑道を開削する。
 この坑道により鉱石を抽出することになる。以上で,A,B,C,の3個の導入口が一度に出来上ったことになる。




6.第2次円山安定化計画

 1974年12月に下部係長から円山係長に転任した。円山係の操業安定のため第二次円山安定化計画を作成した。

6-1.円山坑の概要
 円山坑の鉱床群は1~6番までの鉱床と下盤鉱床で,可採粗鉱量は約12百万トンを保有していた。5番鉱床が中央に位置し,その他の群小鉱床は5番鉱床の周辺に賦存していた。
 従来から5番鉱床をサブレベルストーピング法で採掘が進められてきた。昭和35年に5番鉱床が大崩落を惹起した。その後,崩落鉱の回収計画の立案に1~2年,採掘計画がブロックケービング法と決まり,その準備に4~5年費やされた。本格的に崩落鉱を抽出する前に中段抽出が行われた。
 40m準での本格出鉱は中段抽出終了後の昭和44年頃(1969年)であったと記憶する。以来40m準での崩落鉱の出鉱量は1300~1500T/日規模の出鉱が可能であった。栃洞鉱で最も注目される切羽となった。この崩落鉱の回収は二期に別れており,第一期は円山断層の南側を40mメインで,第二期は40m北メインであった。
 昭和47年(1972年)頃には第一期の崩落鉱の出鉱はほぼ収束していた。40mメインの南側は出鉱開始からほぼ3年間出鉱したことになる。
 第二期の40m北メインの出鉱に移行すれば,出鉱計画は順調に推移したのであるが,その前に,周辺上部に位置する群小鉱床を採掘する必要があった。
 自分が円山係に就任した時の予算出鉱量は1800T/日であったが1800T/日の出鉱が苦しくなっていた。何故なら,群小鉱床の採掘が遅れており,40m北メインの出鉱に移行することが出来ず,又,40南メインに次ぐ代替切羽がなかったのである。

6-2.出鉱量
 新規の堀場を作るために,現場巡視後,円山坑の鉱量計算書やリコメン図を開き,出鉱計画を組み替えてみたが,1日当たりの出鉱量1800T/日を達成する妙案は浮かんでこなかった。
 円山係長に就任した当初は日々の出鉱のノルマが果たせなかった。夕方の7時頃まで働いた。何をしていたかよく解らないが,兎に角,鉱石が出るよう工夫をするため現場を巡視し,事務所に帰って図面を見て,いろいろ考える毎日であった。
 止むを得ず,1日当たりの出鉱量を1800T/日から1600T/日に減産する許可を得た。200T/日減産することにより,余力が生まれ0m準以上の群小鉱床の採掘が容易となった。

6-3.群小鉱床
 0m準以上の5番鉱床周辺の群小鉱床は,本来なら5番鉱床の崩落鉱を抽出する以前に片付ける手おくべきであったが,栃洞鉱の出鉱体制を維持する為止むを得ず取り残されてしまった。
 即ち,昭和44年,本坑で0m以下5番鉱床が崩落を惹起し,本坑の減産分を円山坑が補うことになったのである。
0m準以上の群小鉱床とは,
  ¶ 5番鉱床上盤の2番,6番の鉱床
  ¶ 5番鉱床下盤の下盤鉱床
  ¶ 5番鉱床北側の群小鉱床
  ¶ 5番鉱床南側のピラー
等である。5番鉱床を饅頭の「あんこ」に例えるなら,それを取り巻く群小鉱床は饅頭の「皮」に相当するものであった。これらの群小鉱床を最優先して採掘する方針にした。

6-4.採鉱法の改善
 ズリ混入を避けるため,ブロックケービング法を極力避ける。例えブロックケービング法を採用する場合でも,途中までは極力サブレベルストーピング法で採掘を進め,空洞の維持が困難になった時点で,ブロックケービングに移行することとした。これは本来のCBC法である。因みに,「CBC法」とはCombined Block Caving法の略で,ブロックケービング法と他の採鉱法とを組み合わせた採鉱法という意味である。岩盤が脆弱な鉱体をサブレベルストーピング法で採掘し,発破自由面が得られたとき,上部や側壁のピラーを一挙に起爆し,ブロックケービング法に移行するのである。
 CBC法は後にIBC法(Induced Block Caving)と名前を変えた。その意味は,Induce=引き起こす。即ち,強制的に崩落を引き起こさせる採鉱法である。
 本来のブロックケービング法はアンダーカットレベルで上部の鉱体に向けて発破をするだけで,鉱体がケービングするのである。神岡の鉱体はそれほど脆弱ではないので,発破の自由面を得るため,ある程度サブレベルストーピングで採掘し,その後に崩落を引き起こさせる発破を掛けるのである。
 「CBC法」は神岡の考え出した採鉱法である。実習していた頃,「CBC」とは「中部日本放送Chubu-Nippon Broadcasting Co.Ltd.)」の略だとか,「コア・ボーリング・チェンバー(Core Boring Chamber)」の略だと冷やかす人がいた。
 円山安定化計画を本社で説明するため,東所長,南光鉱長それに自分と3人で上京した。金子副社長は神岡を経験された採鉱屋であるが
 「CBC法とは何だ!そんな採鉱法があるのか?」
と質問されて困ったことがある。CBC法に関して,金子副社長まで十分説明が行われていなかったと思われる。

6-5.円山地表
 円山5番鉱床は昭和30年代にはサブレベルストーピング法で採掘されていたが,採掘跡の充填が追随せず,昭和35年に崩落を惹起し,地表が陥没した。
 その後,崩落鉱,約2百万トンが抽出された。それに伴い陥没部は拡大し,雨水が溜まるようになっていた。この水が坑内に噴出することを防止するため,陥没部の水溜まりにポンプを据え付け,溜まっている水を坑内に導入し,坑内の濁水と合わせて処理する計画にした。
 崩落鉱を抽出した跡の導入口で充填用の土砂を抽出すると,地表に影響を及ぼし,水溜まりの位置が移動する。その都度,遠隔操作で,ポンプの移動が可能な設備を営林署に依頼した。営林署の新井氏が工事を担当し,鉄索でポンプを移動する設備を設置してくれた。彼は円山の地表に来る度に,辺りを見渡して,素晴らしい黒松があると感激していた。あの黒松は「云百万円」この黒松「云百万円」と値を付けていた。黒松は冬の寒波・風雪に晒され,格好の庭木に変身する。円山の地表は北風の厳しい所である。
 東側の斜面を下ると「笈破(おいわれ)」部落に行く。その昔,笈破にも小学校,郵便局,お寺等がったが今は廃村となって無人である。
 江馬氏16代当主輝盛の弟・貞盛が身の危険を察知し,能登に逃れるため家来と愛犬を連れて館を出た。一行は吹雪の中やっと笈破たどり着いたが,貞盛は風邪を引き酷い熱であった。彼は絶望の末切腹して果てた。

6-6.円山下部開発
 0m準以下へのアプローチとして当時は,トラックレスの斜坑が-60m準まで開削されていた。これを-130m準,-200m準と延長した。後年,-370m準まで開削された
 4番,5番鉱床に関しては,将来サブレベルストーピング法で採鉱することを前提に,各サブレベルの開坑をすることにした。
 サブレベル坑道は鉱床内に開削するため,それによる本番鉱で500t/日の出鉱量が稼げた時期があった。
0m準以上の群小鉱床を片付けた後に,0m準以下の4番,5番鉱床を高能率なサブレベルストーピング法で採掘することとした。サブレベル間隔は20mとした。
 1975年から1978年の4年間で,0m準以上の群小鉱床はほぼ片付き,円山下部の4番,5番の開坑も可成り進んでいた。
 5番鉱床の南部を-60m準と0m間をサブレベルストーピング法で採鉱することにした。

6-7.鉱山機械の購入
 以上の計画を遂行するに必要な作業量を算出し,それに見合うLHD,ジャンボ等の鉱山機械を起業費として申請した。
 この頃はトラックレスマイニングに移行する過渡期であり,鉱山機械としてLHDやジャンボが必要であった。しかし,これらの鉱山機械は1台数千万円であったから,容易に買って貰えなかった。購入するに当たっては,起業費の申請をしなければならなかった。例え,起業費に申請しても,何故か購入して貰えなかった。
 円山係は第二次円山安定化計画で必要な機械を申請し,認可を得ていたので,トラックレス用の鉱山機械が順次購入することが可能になった。他の係から羨望の的であった。

6-8.クルーシステム
 従来の坑道掘進は,LHDとジャンボが与えられ親方と手子の二人で行っていた。坑道掘進の切羽にはLHDとジャンボがそれぞれ1台ずつ必要であった。
 この作業方法の場合,ジャンボを使って穿孔作業をしている時は,LHDが遊休状態となり,LHDを使ってズリ取りをしている時はジャンボが遊休状態になるので,重機類の稼働率が極めて悪い状態であった。現場を巡視している解きに遊休状態になっているジャンボやLHDが坑道に見受けられた。にも拘わらず,係員達は
 「ジャンボやLHDが不足している。」
と苦情を言っていた。その度に,自分は
 「ジャンボやLHDが坑道のあちこちに落ちているよ!」
と笑った。
 予算会議では,係間でトラックレス用の機械類が奪い合いの状態であった。
 機械の稼働率の悪い状態を放置して,機械を新規に購入するわけにはいかない。稼働率を上げる方策を模索した。
 坑道掘進は穿孔作業,発破作業,ズリ取り作業から構成されている。この作業を分解し各作業を専門に行うクルーを編成し,全体として協業するシステムを構築した。即ち,
  ¶ ジャンボを使う人は各切羽を巡回して専門に穿孔作業を専門に行う。
  ¶ 発破専用車を使う人は穿孔作業の終了した切羽の発破作業を専門に行う。
  ¶ LHDを使う人は発破終了後の切羽の土砂取り作業を専門に行う。
 このように坑道掘進を分業による共業で行うシステムシステムをクルーシステムと称している。(行雲之巻76頁参照)。
 このクルーシステムは円山係で始めたことであるが,順次,栃洞坑全体に浸透していった。1980年頃は栃洞坑全体がクルーシステムを採用するようになり,ジャンボやLHDの稼働率および坑道掘進の能率が飛躍的に向上し,図4に示すように開坑作業が順調に進むようになった。



第2章 栃洞鉱の技術革新

 1969年に円山係長から栃洞鉱長代理に昇格したが,翌年茂住鉱に転勤し3年間勤務した。1983年に栃洞鉱長として再び栃洞鉱に帰って来た。1992年にペルーに転勤するまでの9年間,栃洞鉱の技術革新に取組み,多くの成果を得た。但し,1987年~1988年の1年間は,本社勤務であった。
以下技術革新の概要を述べる。
1.採鉱法

 井澤鉱長が栃洞鉱にM&F法を導入された(行雲之巻97頁参照)。当初,M&F法は鉱床の規模や形状,それに岩盤の状況に合わせ,数種類のM&F法が採用されていた。これらの方式を「4mスライスC&F法」に統一し規格化した。

1-1.穿孔作業
 先ず,充填面の上からジャンボを用いて水平に穿孔する。その頃のジャンボは空気動の削岩機を2台搭載した2ブームモービルジャンボであった。



 1回当たりのスライス(採掘の厚さ)は4mで,穿孔長は3mである。1989年以降は油圧削岩機を搭載したジャンボを導入した。

1-2.発破作業
 従来,発破作業はジープにANFO装填機を搭載した「装填車」を使用し,2人作業で行っていた。高所作業が必要な場合は,その都度足場を作って作業をしていた。坑外で使用されている高所作業車にヒントを得て,1人作業が可能なANFOトラックを開発した
 ブームの先端に作業用の籠を付け,作業者はこの籠に乗り,居ながらにして,位置を上下左右前後に移動することが可能である。作業者は此の籠に乗りジャンボで穿孔された孔に爆薬を装填する。これによって発破作業を2人作業から1人作業にすることが可能となった。




1-3.運搬作業

 発破により起砕された鉱石をLHDで切羽から立坑に運搬する。LHDは当初バケット容量が1.5m3mクラスを使用していたが,逐次大型化し,最終的にKLDM-12を使用するようになった。KLDM-12のバケット容量は6.8m3で,鉱石の積載重量では約13トンである。




1-4.充填作業

 あるレベルでの採掘が終了すると,天盤は踏前から5mの高さとなる。更に上部の採掘を続けるためには,採掘の足場となる踏前面を高くする必要がある。



 この空間はLHDを用いて土砂で充填する。LHDが積み上げ得る最大の高さは,踏前面から4mの高さである。天盤と土砂を積み上げ面に1mの隙間が生じる。この空間は次に採掘する時,発破の自由面となる。
 充填用の土砂はブロックケービング法で鉱石を抽出が終了した堀場から抽出する。

2.穿孔機械の油圧化

2-1.油圧クローラドリル導入

 サブレベルストーピング法における長孔採鉱のビットゲージは本来,口径75mmを使用していた。穿孔速度を上げるため口径を60mmに置き換える傾向があった。しかし,自分はそれを断じて許容しなかった。何故なら,爆破効果の面からはマイナスとなるからである。ANFO爆薬はビットゲージ75mm以上で爆速が急激に上昇し,ダイナマイトと同等の爆速が得られるからである。
 ビットゲージを75mmにすることにより長孔採鉱で,最少抵抗線や孔間隔を広げることが可能であり,穿孔本数を減らすことが可能であり,結果として採鉱能率が向上するのである。
 油圧削岩機を採用し,ビットゲージを75mmとすれば,空気動の削岩機で口径60mmの孔を穿孔する場合に比べ,穿孔速度は向上することが確かめられた。
 穿孔速度,爆破威力の両面で満足な効果が得られると判断し,古川機械金属製の油圧削岩機を搭載したクローラドリルを導入することにした。

2-2.油圧ジャンボ導入
 図9はタムロック社の油圧ジャンボである。



 岩盤を起爆するには先ず,岩盤に孔を開ける。次にその孔に爆薬を装填して発破を掛ける。火薬を装填するための孔をあける機械が削岩機である。削岩機が岩盤を掘削する速度を穿孔速度と称している。
 空気動による削岩機の穿孔速度は1分間当たり口径50mmビットで30cm~50cmであった。油圧削岩機のそれは1m~1.5mである。
 因みに,自分が入社した当時,圧縮空気の高圧化工事が行われていたが,圧縮空気の圧力を7kg/cm2から8kg/cm2に昇圧して得られる穿孔スピードは1.22倍程度であった。空気動の削岩機穿孔速度の3~5倍である。油圧削岩機の威力は素晴らしいものである。
 油圧圧削岩機を搭載した穿孔機械を油圧ジャンボと称する。1989年に油圧削岩機を2台搭載した油圧ジャンボを導入し,その後の2年間で5~6台購入した。フィンランドのタムロック社製や古河機械金属社製のものである。
 当時,トンネル業界でも油圧ジャンボを導入する気運が高まっていた。タムロック社が日本の鉱山業界とトンネル業界をフィンランドのタムロック社に招いてくれたので,自分もそのツアーに参加した。
 タムロック社の機械製造工場のすぐ近くに,廃止された鉱山を利用して鉱山機械や土木機械の試験場が設けられていた。この試験場で穿孔速度,耐久性等を試験した後に製品を出荷するシステムである。日本のメーカにはこのような試験場を保有している会社はない。見学した現場で,ロットチェンジから穿孔まで全て自動で穿孔し得る長孔採鉱用の機械が試験場で,試験穿孔がなされていた。
 見学の全てが終わったとき,本社事務所の最上階の部屋に案内され,社長との会食の宴が設けられた。席上,日本から案内をしてくれた人が自分を社長に
「タムロック社のジャンボを6台購入してくれた人である。」
と紹介してくれた。
 最上階の部屋にはサウナとレストランの設備が整っている。社長自ら,冷蔵庫から酒や料理を取りだし接待してくれた。酒は火を噴くような強い酒である。料亭に行くこと無く,本社の最上階で接待する事が習慣になっている。合理的なシステムであると思った。繁華街のレストランまでは,自動車で1時間以上はかかるという。

3.発破システムの改善
 
 発破作業を担当する専門のクルーを新設したことは先に述べたが,ここでは発破作業に使用する機械・器具に付いての改善を説明する。


 新入社員のいる時代は,親方に新入社員を交互に付けて,二人作業としていた。実習生が一人前に育ってくると,発破作業の一人作業化が緊急の課題となってきた。坑外で使用している高所作業用車にヒントを得て,図10に示すANFOトラックを開発した。これにより発破作業は2人作業から1人作業にすることが可能となった。ANFOトラックには装填機は勿論,発破に必要な小道具一式を搭載している。

3-2.ANFO自動計量器
 ジャンボで穿孔された孔にANFO爆薬を装填する作業は,圧縮空気を利用して装填される。爆薬は装薬孔に7~8割を装薬するのが適切であるが,圧縮空気を利用して装填する方法ではその正確なコントロールが不能である。
 圧縮空気を使って計量しながら装填するANFO計量器を開発した。これにより各装薬孔に適正な爆薬量が装薬され,爆薬原単位の削減にも貢献した。
 円筒形のカプセルを計量器として用い,これを回転させながら装填する方法である。カプセルが垂直の1に来た時アンフォがカプセルに流れ込む,水平の位置に来たとき圧縮空気でANFO送り出す。この回転を7~8回繰り返すと装薬孔が8割装薬となる仕組みである。
 このANFO計量器は日本油脂(株)に開発して貰った。栃洞鉱では大変重宝しているので,日本油脂(株)がアメリカのさる火薬学会で発表したところ,アメリカの技術者は
  「どうしてそんな計量器が必要なのか?」
  「ANFO爆薬のような安価な爆薬は計量する必要はない。
   遠慮なく,ジャンジャン使えば好いではないか。」
との質問があったとの由。
 これに対する回答は二つある。第一に岩盤を起爆するには「爆薬装填量は少なからず多からず」の適正装薬が最も破壊力が得られる。第二にアメリカではANFO爆薬を鉱山内で自家製しているため極めて安価なのである。日本では鉱山で爆薬を製造するためには色々な法律をクリアーする必要があり,極めて困難である。部区薬はどうしても火薬メーカより購入することになる。アメリカの単価に比べ可成り高いのである。

3-3.定時集中発破
 従来,発破作業は操業時間中,装薬作業が終了した時,危険区域内の隣接切羽で働いている作業者を退避させ,「発破!発破!」と連呼し,随時に発破を掛けていた。
 ¶ 警戒区域が多い場合は,一人では時間が掛かるので,二人作業が必要で
   あった。
 ¶ 危険区域内の作業を一時中断するので,隣接切羽の作業効率上マイナス
   であった。
 ¶ 危険区域内の作業者が退避遅れで発破の影響による浮石落下等の不慮の
   事故が発生することがある。(1983年茂住鉱の災害)
 そこで,発破は昼休,又は,退業時とし,作業者全員が事務所にいることを確認した後に発破を掛けるシステムを導入した。
 坑外事務所(1987年に坑内事務所を坑外に移転)と各切羽の間に中継局を設け,発破母線を敷設する。発破は坑外の事務所で,発破器のボタンを押すシステムとした。この方式のメリットは
 ¶ 全員が事務所にいることを確認した後,発破をかけるので,安全に発破かけ
   ることが可能である。
 ¶ 発破警戒をする必要がない。
 ¶ 発破をかける隣接切羽の作業を中断する必要がなく,作業効率が向上する。

3-4.MBS雷管

 定時集中発破の唯一の欠点は装薬作業が終了し,結線作業も終え,点火寸前の状態で長時間放置しておくことである。
 勿論,当該切羽は「立ち入り禁止」の状態にしておくのだけれども,迷走電流に対して安全な状態とは言えない。計測の結果では,迷走電流は皆無の環境であったが100%安全とは言い切れない。
 そこでMBS雷管を採用し,迷走電流による事故を未然に防ぐことにした。MBSは 「Electro Magnetic induction Blasting System」 の略称である。
 MBS雷管はトランスの原理を応用して電気雷管を起爆するものである。発破器から発破母線側に電流を流すと磁性トランスのコアを介して電気雷管側に電流を発生させて電気雷管を起爆させるものである。
 この雷管の特徴は
 ¶ 雷管の脚線に裸線が無いので,漏洩・迷走電流に対して安全である。
 ¶ 脚線には被覆材質が使用してあり耐静電気性は高い。
 ¶ 結線作業が簡単である。

3-5.NONEL雷管(非電気式雷管)

 ANFO爆薬は安全性の高い爆薬であるが,カットオフや死圧現象で残留するケースが多くあった。ANFOの残留は水で簡単に洗い流すことが可能であるが,死圧現象で残留した爆薬はみずでは洗い流すことは出来ず,処置が困難である。
 ANFOの残留を防止するには,親ダイを孔底に装薬した後に,ANFO爆薬を装填すれば残留は回避可能であるが,静電気による暴発の危険があり,この装薬方法は法律で禁じられている。
 欧米で使用されている非電気式雷管(NONEL雷管)は,非電気式の雷管であるため親ダイを装薬した後にANFO爆薬を装薬することが可能である。
 このNONEL雷管を採用することによりANFO爆薬の残留を回避することが可能となった。
 この雷管の特徴は,次のような点である。
 ¶ 孔底に親ダイが入れてあるので,カットオフ現象もなく,爆破効果も良好で
   ある。
 ¶ 非電気式であり迷走電流,静電気,雷,電波などに対して安全である。
 ¶ 雷管内部に延時装置をもち,良好な秒時精度で段発発破が可能である。
 ¶ 結線が容易で作業能率が極めて良い。
 ¶ NONELチューブの爆発音は極めて小さく,接している物に影響を与え
   ない爆薬に沿わしても爆薬は起爆しない。 
 NONEL雷管は国内では製造されておらず海外製品を輸入している。

4.運搬機械の大型化

 発破で起爆された鉱石を立坑まで運搬する機械を切羽運搬機という。トラックレスマイニングを導入されて以来,切羽運搬はもっぱらLHDが使用されるようになった。
 しかし,立坑に投入された鉱石を坑内貯鉱舎に集鉱していた―370m準では,12t電車と7トン鉱車を使い鉱石の運搬作業を行っていた。

4-1.大型LHDの導入
 1963年に日本で初めて導入したLHD(ロードホールダンプ)はアメリカのワーグナー社やアイムコ社の製品であった。故障した場合アメリカから部品を調達しなければならず,緊急を要する場合は航空便で部品を取り寄せる場合もあった。
 川崎重工業(株)が国産品のLHDを開発した。バケット容量は1m3であったが,その後,以下の如くバケット容量は逐次大型化された。
 ¶ バケット容量1.0m3のKLDM-M5,
 ¶ バケット容量1.5m3のKLDM-M6,
 ¶ バケット容量3.8m3のKLDM-M9,
 ¶ バケット容量6.8m3のKLDM-M12
等が開発された。
 KLDM-M12は鉱石の積載重量は13トンである。因みに,機械化のされていない時代,鉱石を鉱車に積み込む量は鉱夫が一日(5時間=18000秒)で,3トン鉱車に3車分,即ち約9トン程度であった。


 KLDM-12は,約10秒間で13トンの鉱石をすくい上げることが可能である。能率向上は26000倍のである。KLDM-12が主流となり,運搬能力が飛躍的に向上した。
 坑道の加背は4m×2.8mであるからバケット容量が大型化しても車体は現状の坑道加背に納まるように設計して貰った。

4-2.40Tダンプトラック
 円山係の鉱石は-370m準で12T電車と7T鉱車で運搬していた。円山の鉱床のボトムは-200m準であり,本坑と-200m準でトラックレスの坑道で結ばれていた。従って,円山鉱石を-200m準で,40tダンプを使って運搬するよう改善した。
 運搬能率は12T電車と7T鉱車によるタンデム運転の集鉱が有利であるが,鉱車,軌条等の維持管理費に年間25百万円費やされており,この費用が全て削減されるメリットがあった。

5.支保作業の機械化

 岩盤の脆弱な部分は何らかの方法で支保が必要である。脆弱さの度合いにより,以下のような支保が施工される。支保を最小限に留めるため発破方法はスムースブラスティング法を採用することは勿論である。
 ¶ ロックボルト支保
 ¶ 間接留付
 ¶ ロックボルト+金網
 ¶ 三枠留付

5-1.スムースブラスティング法
 岩盤の脆弱な場合でも発破の影響を最小限に食い止めれば支保を施さなくても好い場合がある。坑道掘進において,支保作業を現象させるため,スムースブラスティング法を採用した。
 スムースブラスティング法はコントロール・ブラスティングともいわれる。岩盤の仕上がり面に与える発破の影響を最小限に食い止める発破法である。スムースブラスティング法の特徴は
 ¶ 仕上がり面の穿孔本数を増やす
 ¶ 各孔が極力平行となるように穿孔する。
 ¶ 仕上がり面の装薬孔には,爆薬を低密度に装薬する。
通常の坑道掘進に比べ穿孔本数は多くなるものの,支保を避け得ることを勘案すれば,5~6本の穿孔本数が増加しても何等の問題はない。効果は
 ¶ 仕上がり面が円滑である。
 ¶ 予堀が少ない。
 ¶ 浮き石の発生が少ない。
等である。

5-2.ロックボルトジャンボ
 MC&F法が主力の採鉱法となって以降,ロックボルトを施工する頻度が高くなった。このように切羽内の作業が増えることがC&F法の唯一の欠点なのである。
 ロックボルトの従来の施工方法は,手持ち削岩機(ストーパ)を使い,浮き石の直下で上向きに穿孔し,その孔にロックボルトを挿入する。この方法は,能率面からも,保安面からも好ましい方法ではなかった。
 1965年以降,栃洞鉱の坑内で発生した災害は856件でそのうち浮石災害は162件を占めており,全災害中,約20%を占めている。
 そして災害の殆どは浮石を除去している時か,支保を施している時に発生している。
 浮石災害防止の観点からも,作業能率上もロックボルトを施工する作業を機械化することが重要な課題であった。
 油圧ジャンボを導入した時期にフィンランドのタムロック社が,図12に示すロックボルトジャンボを開発した。全て遠隔操作でロックボルトを施工し得る機械である。安全である上に,従来の方法に比べ5~6倍の施工能率である。
 このロックボルトジャンボを本坑と円山に各1台ずつ導入した。


5-3.NATM工法,

 1950年頃,オーストリアのラビセビッツ博士等が考え出した工法である。
 「NATM工法」は 「New Austrian Tunneling Method 」の頭文字を取ったもので,「ナトム」と読む。
 トンネルは地中の土砂を取り除いた後に出来る空間,もしくは水槽に沈めたホースのような人工的な空洞なので,なんの補強対策も取らなければ土圧(水圧)によって押しつぶされてしまう。30年ほど前,オーストリアで土圧を逆に利用して自らを保つ構造。つまり
 「掘った壁面にコンクリートを吹きつけて壁面を固め,さらにロックボルトを打設してグランドアーチを築き,それを連続した筒状の構造物と出来るなら,トンネルは潰されない。」
という考え方が生まれた。これがNATMの基本概念である。
 NATM工法は一般的に吹き付けコンクリートとロックボルト等を主な支保部材として,地山が持つ固有の強度を積極的に活用し,地山によってトンネルを支持しようという工法である。
 即ち,トンネルの中心部から放射状にロックボルトを打ち込む,このロックボルトと吹き付けたコンクリートによって,トンネル壁面と地山が一体となって強度を得る工法である。栃洞鉱においてもこの工法を採用することにした。




5-4.吹き付けロボット

 栃洞鉱では,最初,上部係長に命じて坑口近くの坑道で,コンクリートを吹き付ける作業を手作業で実施して貰った。効果的には十分満足できるが,吹き付け作業中の環境は極めて劣悪であるとの報告であった。
 技術資源(株)が吹き付け作業をロボットが行う機械を雑誌に掲載していた。鉱山に出入りしていた日高商会の川守田氏に世話をして貰い,購入をすることにした。
 吹き付け中の環境も改善され,この機械は殆どトラブルを起こすことなく稼働した。

5-5.生コンプラント
 当初の吹き付けは,ナマコン業者に依頼し,生コンを4トン車で坑口まで運んで貰い,坑口から切羽まではLHDで運搬していた。
 この方式は能率も作業性も悪いので,南平の坑口に生コンプラントを建設した。建設に当たっては,栃洞坑の露天掘りを受注していた坂本土木から不要になったプラントを払い受け,南平の坑口付近に据え付けた。
 此のプラントは吹き付け用のコンクリートのみならず,坑道の路面を舗装するコンクリートも製造した。従来,路面舗装は生コン業者から生コンを買って,坑道の路面舗装をしていたが,自家製のコンクリートで路面舗装が可能になったので,多大なるコストダウンになった。また,1日当たりの作業量も2倍近くに跳ね上がった。

5-6.トランシットミキサー
 坑外の生コンプラントから坑内に生コンを運搬する車である。アメリカのゲットマン社製を「MK&K社」を仲介して購入した。
 MK&K社は三井造船アイムコの常務取締役をされていた小林さんが退職された後に設立された。「MK&K」はどんな意味があるのかと聞いたら彼は
 「三井,小林アンド神岡」
と言っていた。本当は別の意味があるらしい。
美恵子の「M」,一夫の「K」そして神岡の「K」を取ったものらしい。美恵子は奥さんの名前,一夫は小林さんの名前。
 小林さんは英語が堪能でアメリカのゲットマン社の社長や技術者を神岡鉱山に連れてきた。
 夜の宴席で神岡の飲み屋でカラオケを歌った。アメリカにはカラオケ文化はないらしく,ゲットマン社の社長や技術者等はカラオケを珍しがり,盛んに歌っていた。神岡に来た時は必ずカラオケに連れて行けと催促した。

5-7.タイヤハンドラー
 LHDのタイヤは数百キロの重量があり,人力で交換するには,困難でもあり,保安上危険な作業でもあった。
 機械の力で安全に,しかも効率よく交換するため,フォークリフトにタイヤを挟む構造のアタッチメントを取り付けて,タイヤ交換機を導入した。海外の露天掘り鉱山では,一般的に使用されている機械である。この機械も小林さんの「MK&K」に紹介して貰って購入した。

5-8.スケーラの開発(浮き石払い機)
 1990年頃,ヨーロッパの鉱山機械メーカであるノルメット社によって2種類の浮き石払い機「スケーラ」が開発された。
 一つはブームの先端に小型のブレーカを取り付けたもので,打撃の力によって浮石を払う機械であった。
 もう一つの浮き石払い機は,人間の細やかな動作をロボットに教え込んだようなタイプであった。岩目にくさびを差し込んでこじ開けるように浮き石を落とす機械である。杢地や石灰石のように粘っこい岩質には有力かもしれない。
 栃洞鉱に導入したスケーラは前者の小型ブレーカを取り付けたシンプルなタイプを導入した。


5-9.浮石払いの5原則

 浮き石払除去する作業は重労働であり,しかも危険を伴う作業である。浮石を除去する作業中に多くの災害が発生しており,
神岡鉱山では,「浮石払いの5原則」設けている。
 ¶ 神岡鉱山の5原則
   1)安全な足場を確保する。
   2)適当な長さのスカシ棒を使う
   3)後方の退避路を確保する
   4)岩盤状況の良好な所から悪い所に向かう
   5)意外な処からの浮石落下に注意する
 ¶ カナダのキッドクリーク鉱山の5原則
  図15は昭和55年にカナダのキッドクリーク鉱山を見学した時,「浮石払い
  の5原則」が現場の各所に掲示してあった注意事項である。


6.坑内通信システム

 坑内作業は機械化の進行により,殆どが一人作業になった。会社としては作業が効率的になって喜ばしいことであったが,組合はそうではなかった。
 災害に遭遇した場合,事務所との連絡を如何にするかを問題にした。全作業を昔のように,二人作業に戻せと言わんばかりの要求があった。第1次の時短操業を開始した時,誘導無線設備を導入したが,坑内に張り巡らした配線が,発破等で寸断され,定着しなかった。
 その頃,機械メーカの営業マンが神岡を訪れていろいろな話を聞かせてくれた。その中に以下のような話があった。
 警察ではパトカーで走行中,オートバイの手を離すことなく本署と通話が可能なシステムを採用している。これには骨伝導マイクが使用されており,骨を伝わってくる声帯の振動を,高感度のセンサー素子で集め音声信号に変換するのである。これは首とか胸等の骨に送受信可能なマイクを装着し,無線で本部と連絡しているのである。
 このシステムを坑内に応用し,必要な設備を整えた。穿孔中のけたたましい騒音の中でも,通話が可能なのである。但し,完全な無線でなく半分は有線である。有線の部分は定時集中発破のシステムで敷設しているケーブルを利用した。定時集中発破システムのケーブルは稼働範囲の全域に敷設がされている。このケーブルは5~6芯線であるが,使用しているのは3芯~4芯なので,予備芯を通信システムに利用した。


7.事務所移転

7-1.坑内事務所を坑外へ移転

 トラックレスマイニングの進展に伴い,本坑や円山の通洞坑道が拡幅され,坑口と坑内切羽間がジープで容易に,しかも短時間で往復ができるようになった。これにより,1987年に坑内の事務所を廃止し,坑口付近に事務所を移転した。
 坑内で仕事をする場合,先ず,坑口から15分くらい人車に乗って坑内の事務所に到着する。更衣とラジオ体操が終了後,その日の作業の番割を受ける。その後に切羽に出発する。事務所を坑口付近に設けることにより,人車に乗る時間,朝の15分,と退業時の15分,合わせて1日30分が節約できたのである。

7-2.管理部門六郎へ移転
 以前,跡津川上流にトラックレスによる精密探鉱坑道が開始され,鹿間地区六郎に跡津精密探鉱坑道の機械類を修理する機械修理工場が建設された。1986年にはこの修理工場は遊休となっていた。
 第一期として,1987年に機械修理工場に2階を設け,保安技術・工作係及び鉱長室を移転した。
 第二期として,1990年に修理工場を全面的に改修し,1階に保安技術係,工作係それに探査課の部屋を設け,2階に鉱長室,本部生産管理室及び会議室を設けた。
 栃洞地区に在住していた数戸の私宅も全て鹿間地区に移転した。これに伴い栃洞地区の上水道設備は廃止した。栃洞には会社の設備は変電所以外全くなくなった。

8.時短操業:(274日⇒262日)

 年間の休日を12日間増加する要求が組合から提出された。就いては,休日の12日増加によっても生産性が下がらないよう対策を考えることになった。

8-1.提案
 年間操業日数は274日を262日とし,拘束時間を15分延長することを提案した。

8-2.提案根拠
 坑内の拘束時間は8時間であるが,実労働時間は5時間である。何故なら朝のラジオ体操,更衣,番割。退業時の手洗い,更衣,申し送り等で1時間を消費。
 事務所と切羽の往復時間が1回当たり30分を要し,1日に2回で1時間を消費(朝昼休み退業時)。 
 昼休に1時間消費。
 従って,実労働時間は,拘束時間8時間から3時間を差し引くと,5時間である。
 ¶ 現状の坑内の実労働時間:274×5=1370時間
 ¶ 15分延長により:
   (274―12)×5.25=1375.5時間となり,
   年間休日を12日増加」しても,一日当たり15分の労働時間の延長をすれば
   実労働時間は逆に増加する。

9.坑内賃金改定

 
従来坑内賃金は坑外成人男子の1.5倍であった。トラックレスシステムの成熟により,坑内作業は機械化,シンプル化し,従来の坑内作業に比べ極めて安全な作業となった。また,坑内環境も改善ことされたとことから,この比率を1.5から1.3に下げることを組合に提案した。比率を下げるにあたっては,一時金を支給することで組合の了解を得た。(1990年3月)

10.間接部門
 採鉱係には鉱石を採掘する業務とは直接的には関係のない業務,例えば,保安,技術,工作,事務等の補助管理部門の業務がある。これらの業務も坑内人員の減少に伴い減少し,これに携わる人員も減少した。
 一方,神岡鉱業所の一般管理費は採鉱直接費按分で配賦されるので,採鉱係のコストが減少すれば,一般管理費の配賦額も少なくなる。鉱山部門に対する配賦額の減少は,製錬部門に対する配布額の増加になっている。
 以上の一連の技術革新について「渡辺賞」を受賞すべく,吉田社長の名前で鉱業協会に提出し,目出度く受賞が決まった。

第3章 技術革新が齎したもの

1.生産性の向上

 第2章で述べた技術革新によって栃洞鉱山の労働生産性の向上と,大幅なコストダウンを達成し,亜鉛建値に若干の変動があろうとも,鉱山の経常損益は黒字基調を確保することが可能となった。
 地下資源は減耗資産で,保有鉱量は採掘によって次第に減少し,採掘条件は年々悪化していくものである。従って,何も技術的改善がなされなければ,採掘条件の悪化に伴い,労働生産性は低下するのが必然である。しかし,栃洞鉱では,前章で概要を説明した技術革新の結果,採掘条件が悪化するにも拘わらず労働生産性は大幅に上昇したのである。
 図16は栃洞鉱山の労働生産性の推移を示している。労働生産性とは,年間の粗鉱産出鉱量を年間総工数で除した値である。労働者1人工当たりの粗鉱生産量を表しており,これを労働生産性の指標にしている。
 図16で1978年までは緩やかな勾配である。1978年に未曾有の合理化を実施した結果,以後1985年までは,従来に比べ,労働生産性の勾配は急上昇になっている。更に,1985年以降,1992年までの7年間は次元の異なる上昇勾配を描いている。先に述べた技術革新の賜である。
 1983年に鉱長に就任した時,労働生産性は,20T/工であったものが,1992年に退任する時のそれは51T/工と実に,生産性は9年間で,2倍以上に跳ね上がったことになる。


 坑内作業の主なものは穿孔,発破,運搬及び支保等の作業である。労働生産性を倍増するためには,それらの作業の能率が少なくとも2倍,乃至3倍向上する必要があるが,実際は各作業の能率を向上させるばかりでなく,作業のやり方・システムを改善することにより労働生産性を2倍に向上させたのである。
 技術革新はある一つの技術を改善したのでなく,先に述べた通り30項目以上の技術改善の積み重ねなのである。
 鉱石が出ない,建値が暴落し赤字で苦しむ,「困った。困った。」と呻吟する中から生まれた改善なのである。大方は1983年から1992年の7年間,「倦まず弛まず」努力してきた結果なのである。
 1980年にカナダ・アメリカの鉱山を視察・見学したとき,労働生産性が,50t/工~100t/工の鉱山を見学した。その当時の栃洞鉱山の生産性は17t/工であったから,カナダ・アメリカの大規模鉱山の労働生産性は夢のような数字であった。
 神岡鉱山はカナダやアメリカの鉱山に比べ,遥かに小規模な鉱体を対象としながら,技術革新の結果,カナダ・アメリカの大規模鉱山並みの労働生産性を達成したのである。

2.総コストの削減

 図17は総コスト,労務費単価及び総コストを,1965年を基準として,その後の推移を示したものである。

 この30年間に労務費単価は15倍にも上昇しているに拘わらず,総コストは2.4倍に留まっている。
 それは,労働生産性が7.5倍に上昇したことに伴い,労務費をはじめとする諸物品のコスタダウンを達成したからである。
 更にこの図17を観察すると,1974年までは労務費単価の上昇に伴い総コストも上昇している。しかし,1975年以降は労務費単価が上昇しているにも拘わらず,総コストは横這い状態から逆に,減少傾向を示している。これは労働生産性が飛躍的に上昇した結果である。
 生産量が同一の条件で,技術革新が行われれば余剰人が生まれる。余剰人員をそのまま抱えていてはコスト削減にはならない。余剰人員を増産に使う,新規事業に転向させる,または,合理化する等,何れかが必要であり,そのまま抱えていたのでは例え,技術革新が行われても,コスト削減にはならない。
 栃洞鉱山の余剰人員は,増産,人員合理化,新規事業の創設等で処理されたのである。
総コストを削減することは,単に儲けが増えるばかりでなく,より低品位の鉱床が採掘可能になることであり,鉱山ライフの延命に繋がるのである。

3.黒字基調

 図18は経常損益,総コスト伸び率,亜鉛建値伸び率等の推移を示したものである。このグラフは栃洞鉱山の体質改善を示している。
 1975年までは亜鉛の建値が上昇しているにも拘わらず経常損益が低下している。これは労務費や諸物品の上昇が亜鉛建値を上回る伸び率をしたからである。
 1977年以降,亜鉛建値は激しく変動している。総コストは減少傾向である。経常損益は,建値にほぼ連動しており,しかも亜鉛建値が暴落した場合でも若干の黒字基調を確保している。
 しかし,如何に技術革新を達成しても,鉱量の枯渇による採掘条件の悪化や急激な建値の変動を克服することは,残念ながら不能なのである。嘗て,亜鉛の建値はトン当たり200千円以上していたものが,1993年以降は,その半分以下の100千円程度に暴落し,鉱山の黒字が維持出来なくなったのである。かくして栃洞鉱は2001年に採掘を中止した。

 
4.災害の減少業

 鉱山の技術革新は災害件数の減少にも寄与した。図19は栃洞鉱の災害発生件数である災害件数は休業災害と不休業災害の合計である。
 1970年代にトラックレスマイニング法を導入により,災害件数は急激に減少傾向を辿る。
 1981年以降の災害件数は年間1~2件程度になるまで減少した。年間災害ゼロの達成は,栃洞鉱の歴史長しといえど,1983年と1992年の2回のみである。 偶然ではあるが,1983年は自分が鉱長に就任した年で,1992年は鉱山部長(鉱長兼務)を辞任した年である。



5.鉱山業

鉱山業は
 「一に建値,二になおり,三・四が無くて五に技術」
と言われる。「なおり」とは鉱石の品位のことである。
 「鉱山経営に影響を及ぼす要素は,先ず建値で次に品位である。技術はせいぜい
  5番目くらいである。」
というのである。鉱山技術者が自虐的に言った言葉のように思える。建値が暴落した時は技術的改善やコストダウンでは,とても黒字にはならない。
 例えば,1978年には栃洞鉱山は20億円の赤字に陥ったが,この時,技術的な改善で生産性を2倍にする。即ち,坑内に働く社員の給料を1/2にしても,12億円の削減しかならず,黒字には浮上しない。
 一方,亜鉛等の品位が2倍あったとすると,生産金額は2倍の80億円となり,総コストが59億円だから,悠々黒字に浮上するのである。
このように考えるとやはり,鉱山業は
 「一に建値,二になおり,三・四が無くて五に技術」
と言いたくなるのである。
 栃洞鉱山の亜鉛品位は4.1%程度であるが,世界の中には10%以上の鉱山はざらに存在するのである。むしろ,亜鉛の粗鉱品位が10%以上である方が普通なのである。栃洞鉱山のような低品位鉱山が生き残っている事が不思議なくらいである。恵まれた自然条件と高度の技術革新の賜である。
 年々の収支は黒字にもなり,赤字にもなるが,長い目で見れば黒字であることに満足しなければならない。赤字の時に持ちこたえる資金力があるか否かが問題である。持ちこたえられなければ鉱山業を止めることになる。持ちこたえれば,次に金属建値が高騰したときに儲けが得られるのである。
 例えば,図20は栃洞鉱の年々の経常損益と累計の経常損益の推移を表している。



 毎年の経常損益はプラスの時もマイナスの時もある。1977年と1978年には14億円~20億の赤字が出ている。
 毎年の経常損益を合計した累計経常損益は30年間で150億円の黒字となっている。年間5億円ずつ稼いだことになる。
 金属建値は荒波の如く暴騰や暴落を繰り返すのは常である。暴落したときはじっと我慢し,次の建値の暴騰を待つのである。要するに赤字の期間を耐え抜くことの出来る資本力を持っている会社が生き延びて儲けるのである。鉱山は金持ちでなければやれないと言うがその通りである。



 鉱山が生き延びるか否かを左右するのはコストや技術の問題より,経営姿勢や資本力の問題の方が遙かに大きいのである。
 為替レートが円高のトレンドの場合,日本の鉱山は海外の鉱山に比べ不利な条件に立たされるのである。図21参照
 為替レ-トはスミソニアン協定以来変動相場制となり,1ドル308円から1ドル100円まで進行した。日本の亜鉛の値段が1/3に暴落したことになる。他の産業なら生き残ることはできないであろう。

第4章 学会誌に投稿した小論文
海外鉱山の開発
はじめに
 
 日本はベースメタルの大消費国である。その消費量はアメリカに次いで世界第2位で,世界の消費量の1割を越えている。その原料である鉱石の殆どを,海外に依存しており,ベースメタルの鉱石自給率は年々減少している。

 
自給率の最も高い亜鉛の場合でも,1965年には自給率が61%であったものが,1994年には16%に減少している。
 我が国の非鉄製錬業は原料である鉱石を海外に依存するカスタムスメルターとなっている。
 我が国に非鉄金属資源を安定的に供給するためには,どうしても海外鉱山の開発が必要不可欠である。

1.海外鉱山の開発
 一方,国内鉱山を取り巻く経営環境は1970年台の後半から,為替レートが変動相場制へ移行され,円高が進行し,厳しい状況に置かれていた。更に,1986年にはプラサ合意以降,数次に亘る円高の進行,人件費やエネルギーコストの高騰,金属建値の低迷,需要の停滞等により,壊滅的な打撃を受けた。その結果,国内の金属鉱山は閉山を余儀なくされ,従業員300人以上の大規模鉱山は,1965年に60鉱山が稼働していたものが,1994年には僅かに1鉱山に減少した。
 日本企業は1980年代から海外に進出を始めたが,自主開発の鉱山開発で成功した例は少ない。三井金属と三井物産によるワンサラ鉱山,及び同和鉱業とペニョーレス社によるチサバ鉱山が特筆される。その他はメジャーが開発する鉱山にマイナーシェアで参加する投資型の鉱山開発である。
 一方,欧米の非鉄大手企業(メジャー)は,企業の合併や買収により,ますます肥大化し,莫大な資金力を背景として既存鉱山の買収や優良案件を獲得している。最近の銅鉱山開発のプロジェクトは,低品位・大規模化の傾向があり,開発費も増大している。メジャー以外の鉱山会社には参入の機会は少なく,中小の鉱山会社には高嶺の花となっている。
 最近開発された鉱山及び近い将来開発される鉱山には,何れにもメジャーが関わっており,鉱山の経営・操業等の権益の拡大を進めている。世界の非鉄金属の鉱石市場は次第にボーダレス化,寡占化が進行している。



1-1 鉱山開発のタイプ

 海外鉱山の開発はグラスルーツの探鉱から始めるケースとフィージビリティ・スタディが終了した開発段階へ参入するケースがある。 前者は資金的には後者に比べて有利であるが,探鉱開始から操業に至るまでのリードタイムは長く探鉱リスクを伴う。後者は探鉱リスクを避け,開発へのリードタイムは短いものの,権益取得に莫大な資金が必要である
 当社の場合,開発までのリードタイムが長く,探鉱リスクがあるものの,オペレータシップや経営権の取得を目指し,探鉱段階から始めている。しかし,原料の安定的確保の観点から欧米のメジャーと共同の投資により鉱山開発の優良案件に参入することも視野に入れている。

1-2 鉱山開発の対象国
世界で資源国と言われている国は,先進国ではカナダ,アメリカ,オーストラリア等で,発展途上国では南米,東南アジア,中国,中央アジア,アフリカ等である。
海外鉱山開発にあたって,何処の国にターゲットを絞るかは,対象となる国の鉱業法,治安,税制,カントリーリスク等の投資環境によって異なる。我が社は南米特にペルーを海外鉱山開発の最重点地域としている。何故なら
 ¶ サンタルイサ社が開発の拠点となる。
 ¶ 資源ポテンシャルが高い。
 ¶ ペルーにおいて30年間以上の探鉱活動の実績がある。
 ¶ ペルー国に10万Ha以上の鉱区を所有している。
 ¶ スペイン語に堪能な人材が育っている。
 ¶ いろいろな分野に人脈が形成されている。
等ペルーには有形・無形の財産を所有している,いわゆる「土地勘」を持っているからである。
 ペルーにおける治安は,フジモリ大統領の出現により,急速に,しかも画期的に改善されてきた。
 しかし,昨年末の,MRTAによる日本大使公邸襲撃事件は,世界を震撼させ,ペルー治安の極悪さを暴露したかの様に思われた。しかし,ペルー在住の人,または,最近2~3年住んだ人は異口同音にペルーの治安は確実に良くなってきたと言っている。
 あれは例外的に,単独に起きた事件であり全体の治安は確実に向上していると言う。センデロルミノソの頭領であるアビマエル・グスマンが1992年に捕らえられて以来,センデロルミノソもMRTAの幹部も殆ど捕らえられ,組織は壊滅している。基本的な治安対策を施せば,各地域での探鉱活動は十分に行うことが可能であると判断している。

2.ペルーにおける鉱山開発
 鉱山事業は採鉱リスクや市況や為替変動による経済的リスク,加えて,資源の賦存する地域によってはカントリーリスクを伴い,他の事業に比べて企業の負うリスクは大きい。経営体質が脆弱な我が国の非鉄金属企業が,欧米のメジャーに伍して鉱山開発の優良案件を獲得する事は極めて困難である。
 当社はワンサラ鉱山の買収を皮切りに南米における鉱山開発を推進する計画であった。しかし,国内鉱山の経営安定化への対応に追われ,又ペルーの治安の悪化により鉱山開発や探鉱活動を一時中止せざるを得なかった。最近やっと,海外で探鉱を行う環境が整い,現在南米で取り組んでいる。この探鉱プロジェクトを足かかりに鉱山開発に弾みをつける所存である。
 1950年代は海外鉱山開発の黎明期である。当社はいち早く,チリ・ペルー・コロンビア等,南米諸国に地質屋を派遣し探鉱活動を開始した。1960年代はワンサラ鉱山を始めチヤピー,ケナマリ,カタンガ鉱山等を買収し積極的に海外展開を始めた。ワンサラ鉱山は1968年にチヤピー鉱山は1969年に操業を開始した。
 1970年代前半はワンサラ鉱山を増産し,カタンガ鉱山の操業を開始した。探鉱活動ではケチュア,コロコワイコの探鉱及びミチキジヤイの探鉱を積極的に進めた。
 しかし,後半から国内の非鉄産業は,円高や金属建値の低迷・需要の減退等で厳しい経営環境に置かれ,非鉄産業は冬の時代を迎え,海外鉱山開発の意欲は減退した。
1980年前半は政府の労働者に迎合的施策から鉱山の労働組合は過激化し100日ストライキ等に及んだ。
 日本人技術者も山元から撤退した。後半からペルー国の治安はテロ活動の跋扈により著しく悪化した。1989年にはJICAの派遣する専門家3人が殺害される事件が勃発し,多くの日本企業はペルーから撤退した。当社も社長以下3人の日本人管理者を残すのみとなった。この状況の中ではペルーにおける新規鉱山の開発は断念せざるを得なかった。亜鉛の高品位鉱床イスカイクルスの開発も断念した。
 1990年,フジモリ大統領の出現により,ペルーの政治・経済・治安は1993年迄に大幅に改善された。即ち政治面では制憲議会の樹立,新憲法の制定等により民主近代国家に生れ変わった。経済面では国際金融機関への復帰,ハイパーインフレの鎮静化等を実現し,外国資本がペルーに向けられるようになった。
 治安面ではアビマエル・グスマンを始め,センテロルミノソ及びMRTAの幹部を逮捕し,その組織を壊滅状態としリマ市内は平和を取り戻し治安は確実に向上した。
 鉱業関係では国営鉱山の民営化が進められるようになり,また外国企業の鉱区取得が可能となった事及び治安が向上したことにより外国企業の探鉱活動が開始さるようになった。 当社は1994年からパルカ,ケチュアの探鉱活動を再開した。自主探鉱に加え,金属鉱業事業団の海外地質構造調査等の制度を利用している。
 現在ペルーで亜鉛鉱床の探鉱をワンサラ鉱山南部のモヤ地域,パルカ地域で行っており銅鉱床の探鉱を,ケチュア地域,カタンガ地域で行っておりそれぞれ良い結果を得ている

2-1 ワンサラ鉱山
 三井金属と三井物産は共同出資(出資比率は7:3)により,1968年にワンサラ鉱山を所有するサンタルイサ社の全株式を買収した。ワンサラ鉱山は亜鉛・鉛・銀を産出する鉱山で,粗鉱500T/日で操業を開始した後,逐次増産し現在1500T/日を産出している。
 以後労働争議による100日間のストライキやテロリズムによる治安の悪化から山元からの日本人技術者の撤退を余儀なくされた時期があったものの,順調な操業を続けている現在は,日本人技術者が山元に常駐している。
サンタルイサ社はワンサラ鉱山の操業・管理のみならず,ペルー各地の探鉱基地として多大なる貢献をしてきた。

2-2 パルカ鉱山(鉛・亜鉛)
 パルカの鉱区はワンサラ鉱山の南40Km,標高4600mに位置する。この地域のサンタ層の分布する地域にはスカルンの露頭,高品位な鉱体を採掘した旧坑が知られている。
 当社は1994年に当該鉱区所有者とオプション探鉱の契約を結び,地質調査,電気探査及び試維探鉱を実施してきた。その結果,延長3Km,幅200mの鉱化ソーンに,北部では層状・塊状のスカルン鉱を,南部では石灰岩中の割れ目に脈状・塊状の白地鉱石を確認した。
 更に,パルカの西約1Km標高4800mのクレプラミナ地域にスカルンからなる大露頭を発見した。パルカ,クレプラミナの間には花崗岩・石英班岩が分布し鉱化作用が火成活動に起因する広域的なものであると判断し,これらの地域の鉱化ポテンシャルが大きいものと推定し得る根拠を得た。この地域は極めて急峻な地形であり,地表からの試維探鉱は制限される。まだ鉱量計算をするに至っていないが,坑道探鉱を実施した後,坑内試錐により埋蔵鉱量を明らかにする計画である。

2-3 ケチュア鉱山(銅)
 当社が所有するケチュア鉱区は,BHP社のティンタヤ鉱山に隣接し,海抜4200mに位置している。地質は白亜紀のモンゾナイトを貫入岩とする斑岩銅鉱(ポーフィリーカッパー)である。1970年代に地化学探査・物理探査を実施の後,錐維探鉱を,約15千m行った結果,約1億tの埋蔵鉱畳を獲得した。しかし,鉱量不足,インフラ未整備,銅価格の低迷等の理由から開発には至らなかった。
 その後のペルー治安・政治・経済等の環境及びケチュア周辺のインフラの変化を捉え,1995年に探鉱を再開した。新しい物理探査の方法であるTEMにより発見したアノマリーソーンに基づき試錐探鉱を行っている。1996年までの結果では,採掘対象鉱星1.6億T,銅品位0.6%を確認しているが,今年度更に2万mのボーリングを行うことにしており,採掘対象鉱畳の大幅な増加を期待している。
 最近,このケチュアの開発について,他社と共同出資で会社を作り,その会社がプロジェクトチームを編成し,開発を検討することになったらしい。喜ばしいことではあるが,時期が少し遅い。ケチュアの土地を買って以来10年が経過している。銅の建値はピークを過ぎた段階である。操業が始まる頃は銅の値段が低迷しているかも知れない。結果論ではるが,10年前に開発を始めておけば銅の建値がピークになった5年前には操業を始めており,濡れ手に泡のぼろ儲けであった。

2-4 カタンガ鉱山 (銅)
 カタンガ鉱山は1974年から1983年まで酸化銅鉱の採掘をした。当該鉱業権は売却したが,その東部地域にはまだ鉱区を所有している。当時この地域で斑岩銅鉱(ポーフィリーカッパー)鉱床の探鉱を行い,埋蔵鉱畳11百万t,鋼品位1.1%,金品位0.26g/Tを確認している。96年度には鉱区内の未調査の地域について地質調査・地化学探査を行い,有望な地域を発見した。カタンガ地域はケチュアと同時代の酸性岩に関係した含金鉱床であり,小粒であるが高品位で金を含んでいることから,フィジビリティの高い鉱床が期待し得る。周辺の鉱業権等を整備した後,本格的な試錐探鉱を計画している。

3.ボリビア
 ボリビアは日本の国土の2.5倍で,ペルーやチリ同様にアンデス山脈が走り潜在的資源国である。しかし,地質技術者は50名,資源探査の大型試錐機は全国で,7台程度であり,この48年間は新規地域での探鉱は殆ど行われていない。これまでのボリビアの鉱業は錫・銀が主体であったが,長い間の政治的不安定と探鉱不足により,衰退の一途をたどってきた。
 5年前現在のサンチェス大統領が登場し,政治的安定と経済の回復を実現した。更に,鉱業関係では,国営鉱山のリストラ・民営化,新鉱業法の制定,外資導入の優遇措置等,積極的な施策を打ち出し着実に実行してきた。
 当社は1977年4月からラパスに支社を設立し,日本人地質技術者1名を派遣,現地の地質技術者1名を採用し,金探鉱のプロジェクトを模索している。西のアンデス地帯では第三紀,第四紀の酸性岩活動に関連した金鉱床が,東のアマゾン地域ではプレカンブリアン紀のグリーンストン中の金鉱床が期待できる。

おわりに

 鉱山事業は探鉱リスクや市況や為替変動による経済的リスクに加えて,資源賦存地域によっては,カントリーリスクを伴う。他の事業に比べて企業が負うリスクは大きい。経営体質が脆弱な我が国の非鉄金属企業が,欧米のメジャーに伍して鉱山開発の優良案件を獲得することは極めて困難である。
 当社はワンサラ鉱山の買収を皮切りに,南米における鉱山開発を推進してきた。しかし,国内鉱山の経営安定への対応に追われ,又,ペルーの治安悪化により鉱山開発や探鉱活動を一時中止せざるを得なかった。
 最近,海外で探鉱を行う環境が整い,南米とりわけペルーで取り組んできた案件を足がかりに鉱山開発に弾みを付ける所存である。

ワンサラ鉱山の近代化

1.緒言


 開山当初の採鉱法はCut & Fill 法であった。主要な機械はTY-16型レッグ削岩機10馬力の空動スクレーパ,TL-2型タイヤローダ,2Tバッテリーロコ+1.0m3グランビー鉱車等であった。
 1970年代にトラックレスマイニングの手法を導入し,逐次機械化を進めてきた。更に,1990年からは,神岡鉱山の最新鋭の採鉱技術を全面的に移植するよう計画し,油圧ジャンボ,ANFOトラック,LHD,20Tダンプトラック,12T電車等を導入した。
 1992年に自分が赴任した当時は,亜鉛の建値が暴落していた。ペルーでは「鉱山危機(Crisis de Mina)」と云う言葉が流行していた。
 1991年は高品位のワンサラ鉱山でさえ経常損益が赤字となっていたので,民族資本の鉱山は「推して知るべし」であった。 
 ワンサラ鉱山に神岡鉱山の技術を移転すれば,経営改善は可能であると考えていた。
 先ず部長であるトゥリンを栃洞鉱山に出張させて,諸技術を習得する先達にした。次に鉱山長のIng.Varerを栃洞鉱山に出張させた。トラックレスマイニング法や採鉱法,スムースブラスティング法等を勉強して貰った。1992年から2年間掛けて,栃洞の採鉱技術を導入すること,経営体質の改善を実行した。ワンサラ鉱山で200人,リマ本社で30人の人員合理化を実行した。余剰人員の合理化は鉱山部門についてはバレル鉱山長が断行してくれた。リマ本社の合理化はトウリン部長が行った。その結果,生産量は増加し,人員は減少したので,生産性は飛躍的に向上し,黒字経営となった。

2.ワンサラ鉱山の概要

2-1 位置
 ワンサラ鉱山は南米ペルー共和国のワヌコ県,ドスデマーヨ郡ワジャンカ村に属し,海抜3900mから4500mの高地にある。
 首都リマ市から北へ直線距離で250Km,道路沿いで440Km離れたアンデス山脈の中に位置する。
 この山脈には,北にワスカラン(海抜:6768m),南にエルパハが聳えている。リマからワンサラ鉱山に登る途中,その何れの高峰も臨むことが可能である。この山脈は常に氷河で覆われており,太平洋と大西洋(アマゾン側)の分水嶺である。ワンサラ鉱山はアマゾン側に属し,付近の川はアマゾン川に流れ込み,遠く太平洋に誘いでいる。
 海岸地方の気候は乾期と雨期に別れ乾期は12月~5月で,昼夜の寒暖の差が激しい。雨期は6月~11月で昼夜の温度差は少ない。雨は殆ど降らない。年間降雨量は20mm程度である。
 山岳地方,例えばワンサラ鉱山(標高3800m)では日本と同様に四季がある。但し時期は日本と全く逆で,春は9月~11月,夏は12月~2月,秋は3月~5月,冬は6月~8月である。昼間の気温は25℃にも達するが,夜間はマイナス10℃まで下がることがある。年間の平均気温は14℃程度,年間降雨量は約1,700mmであるが,雨期に集中して降雨する


2-2 鉱山の沿革

 ワジャンカ村は古くから鉱山町として知られ,部落には銀製錬の炉の跡がある。ワンサラ鉱山は1930年代には含銀鉱物が採掘されたが,その後は休山となった。
 ワンサラ鉱山はペルー民族資本のサンタルイサ社が所有していた。三井金属は1964年にサンタルイサ鉱業株式会社の全株式を買収するオプション契約を結んだ。翌年から坑道の取り明け・坑道探鉱・坑内試錐を実施した結果,埋蔵鉱畳は約2百万t,鉛・亜鉛合計の品位は20%以上を獲得し得る見通しを得た。
 三井金属は1966年に三井物産と共に(70:30)オプションを行使してワンサラ鉱山を買収し,開発を決意した。
 開発工事は1966年10月より開始され,自然環境の悪さにも拘わらず,1年半という短期間に開発工事を終了させた。
 1868年6月には500T/日の出鉱規横で操業を開始した。開山式にはベラウンデ大統領がヘリコプターで駆けつけたそうである。
その後,逐次増産を進め,現在1,500T/日の生産を行っている。

2-3 地質
 ワンサラ鉱山の地質はジュラ紀~白亜紀の石灰岩,貢岩及び砂岩等の堆積岩から成りサンタ層と呼ばれている。
鉱床は石灰岩層中の石灰岩,石灰質頁岩を交代した熱水性交代鉱床で,レンズ状,層状または不規則な塊状を呈している。鉱物は方鉛鉱・閃亜鉛鉱などの鉛・亜鉛鉱物のほか黄銅鉱,黄鉄鉱を伴う。鉱床帯は数層に分かれており,上盤側より1号??から5号??まで命名されている。
 ワンサラ鉱山には4個の鉱床群がある。北から,3番目に見つかったカルロスアルベルト,2番目に見つかったレクエルド,開山当初のワンサラプリンシパル,それにトーレス川の対岸のワンサラスールでこれは現在も探鉱中である。

2-4 生産量
 開山当初に500T/日で操業を開始以来,逐次増産を行い,現在,1500T/日の出鉱規模である。粗鉱品位は亜鉛9.3%鉛4.4%,銀113g/Tである。栃洞鉱山の3倍以上の品位である。開山以来の産出鉱畳は8700千tに達している。精鉱の年間生産量は亜鉛精鉱75千t,鉛精鉱27千tを生産しており,亜鉛精鉱全量と鉛精鉱の55%はカジヤオ港より日本に輸出している。


3.坑内骨格構造

 主要運搬坑道の海抜は4010m準で,このレベルで鉱石を集め選鉱に鉱石を渡している。開発当初はこのレベルを基準に,30m~40m間隔で,地表から水平坑道が開削された。従って,水平坑道は何れも坑口に通じており,それぞれの坑口は坑外自動車道路で連絡されている。
 切羽への人員・資機材はこの坑外道路により輸送されている。ワンサラ鉱山にはケージ立坑は無く,坑外道路がトラックレスマングの斜坑の役割を果たしている。
 開山当初に採掘したワンサラプリンシパルは坑道加背が小さく隘路が多い。採掘がほぼ終了しているので現在のトラックレスマイニングの対象からは外している。
 その北部に賦存するレクエルドと最北部に位置するカルロスアルベルトはトラックレス斜坑及び水平坑道坑で連絡されている。現在出鉱している主な切羽はこのゾーンに存在する。
 ワンサラスールはトーレス川を挟んで対岸に位置している。最近,基幹斜坑や立坑開削を着手し,同時に探鉱も行っており今後の獲得鉱量が期待される。

4.採鉱法
 開山当初の採鉱法は高品位鉱床交渉であった事からスクエアセット法も一部取り入れられたようであるが,主力採鉱法はカットアンドフィル法を採用している。
 カットアンドフィル法は鉱床の膨縮に対応が可能で,可採率が高く,ズリ混入が低い採鉱法である。しかし,労働生産性が低く,切羽内での浮石災害が多い欠点を有していた。
 従来のカットアンドフィル法にトラックレスマイニングの手法を適用することにより,切羽内に大型機械を導入することが可能になった。例えば,大型LHD,油圧ジャンボ,ANFOトラック、ロックボルトジャンボ等である。


 このような機械類を取り入れたカットアンドフィル法をメカナイズドカットアンドフィル法と称している。これらの技術改善により,カットアンドフィル法の労働生産性は飛躍的に上昇した。又,浮石災害については,スムースブラスティング法,ロックボルト施工,NATM工法等の導入により減少した。
 ワンサラ鉱山では鉱床の規模岩盤の特性等を勘案して,全ての切羽にメカナイズドカットアンドフィルを適用している。

5.鉱山機械

5-1穿孔機械

 ワンサラ鉱山の穿孔機械は,1970年代までは空気動の手持ち削岩機が主流であった。1980年代前半に走行はジーゼル駆動で圧縮空気動のジャンボを,1980年代後半に油圧ジャンボを導入し,逐次大型機械化を進めてきた。しかし,導入したジャンボの台数は少ないうえに,削岩機の穿孔速度は十分とはいえなかった。従って,穿孔作業の大半はレッグ削岩機やストーパに頼らざるを得なかった。
 一方,神岡鉱山では,油圧削岩機が1980年代末までに,穿孔速度や機械の信頼性に関して著しく進歩してきたことから,平成元年(1989)を油圧元年とし,タムロック社製の2ブームの油圧ジャンボを導入した。その後,数年間で全ての穿孔作業を油圧ジャンボで行う体制を確立した。その結果,穿孔作業に従事する作業者は約半数に減少し,労働生産性の向上に寄与した。
 ワンサラ鉱山においても1993年から,神岡鉱山の実績を活かしタムロック製の1ブームの油圧ジャンボの導入を開始した。その後,逐次ジャンボ化を進め現在8台で,穿孔作業の95%以上を消化している。これにより穿孔作業の能率向上のみならず,穿孔機械台数の減少で機械類の修理費用も削減された。但し,4000m以上の高地であること及びオペレータの未熟練等により,神岡に比べ故障等のトラブルは多いようである。
 ワンサラ鉱山の穿孔機械は1990年代初期までは,坑道掘進と採鉱作業で異なる機械を使用していた。これはカットアンドフィル法適用切羽の穿孔配置が上向きで,坑道掘進用のジャンボを使用することが出来なかったからである。
 1993年頃からカットアンドフィル法を改善し穿孔配置を上向きから水平穿孔に変更した。これにより,坑道掘進の穿孔機械とカットアンドフィルの穿孔機械を共用する事が可能となり、穿孔機械の稼働率が向上した。第1表にジャンボ台数を示しているが,レッグ削岩機は,1997年次点では使用していないが,1992年時点では多数のレッグ削岩機を使用している状況であった。

第1表 穿孔用機械

摘 要 1992年 1997年
油圧J Tamrock 5
油圧J A・Copco 4 3
空動J 3
レッグ削岩機 0
合計 7 8


5-2 発破作業

 発破作業はこれまで1クルー2~3人で行っていたが、神岡鉱山で開発したANFOトラックを導入し,現在は1人作業としている。2台のANFOトラックで75%の発破作業を消化している。残る25%は従来式のジープを改善した装填車で行っている。
 岩盤を保護し,浮石を制御する為,仕上がり面には,スムースブラスティング法を採用している。効果的にスムースブラスティング法を実施するためには,火薬量の制御と平行穿孔が重要である。1ブームジャンボであること,穿孔作業,装填作業の未熟練であることから,その効果は十分には得られていない。神岡の監督者を定期的にワンサラ鉱山に派遣して穿孔技術や発破技術を指導している。
 ANFO爆薬は旭化成の子会社「キミカソル」から製造設備,製造技術の指導を受け,1994年から使用量の全てを自家製としている。

5-3 運搬機械
 坑道掘進やカットアンドフィルの切羽で使用するLHDの運搬能力は,運搬距離が一定であれば,バケット容量に比例する。従って,運搬能率を向上させるためには,バケット容量の大きいLHDを導入する事が望ましい。
 ワンサラ鉱山では坑道の加背や曲率半径等を勘案し,1993年から,従来のバケット容量2.7m3から5.2m3の大型のLHDに更新中である。
 主要運搬坑道の運鉱作業には,従来8t電車を使用していたが,1995年に神岡鉱山の12t電車と2.7m3の鉱車を導入した。12t電車+2.7m3鉱車×10車のトレーンを組み,運鉱作業の大型化を実施した。今後,12t電車のタンデム運転で1トレーン当たりの連結鉱車を増加する計画である。
 主要運搬坑道のレベル以下の鉱石やトーレス川を挟んで対岸に位置するワンサラスールの鉱石は,坑内用の20Tダンプトラックに積み込み,直接選鉱場まで運んでいる。

第2表 運搬用機械

摘  要 1992年 1997年
 ST-1000 7
 ST-3.5 7 3
 ST-2D 5
 合計 12 10


5-4 支保作業

 ワンサラ鉱山の主な支保は古くからロックボルトを施工してきた。現在稼働している切羽は脆弱な岩盤部が多く,出鉱を安定させるためには,支保システムの確立が必要である一部の脆弱な岩盤には三枠留付を施工してきた。
 1990年代に入って,発破にはスムースブラスティング法を採用した。更に,ロックボルトの施工能率の向上のために,油圧ロックボルトジャンボを導入した。
ロックボルトはスプリットセットやスウェレックスを使用していたが,異型棒鋼+セメント型のボルトに改善し,コストダウンに寄与している。
 1996年から坑道掘進の現場では,2ブームジャンボのうち1ブームをロックボルト施工専用のブームに取り替えている。これにより,全ての切羽で機械によるロックボルト孔の穿孔が可能となった。穿孔された孔に異形棒鋼に+セメントを込める専用代車を開発した。これにより,グラウトボルトの施工能率は大幅に向上した。

第3表 ロックボルト使用状況

摘  要 1992年 1997年
ボルトの型式 楔型ボルト グラウトボルト
 施工本数 本/年 1,000 20,000
 施工能率 本/工 8 27
 
 一方,岩盤条件が悪くロックボルトのみでは不十分な切羽では,三枠留付工法からNATM工法に切り替えている。NATM工法に必要な材料は,坑口近くに生コンプラントを建設し,必要な量を都度製造している。

6.労働生産性
 ワンサラ鉱山の労働生産性は労働者1人当たりの粗鉱生産トン数を指標にしている。従来,ワンサラ鉱山は神岡鉱山の採鉱技術を逐次移転することにより,労働生産性は順調に向上してきた。
 しかし,1980年代後半は鉱山の治安が悪くなってきたことから,日本人技術者が鉱山で直接指導することが不可能となり,ワンサラ鉱山の技術進歩は停滞した。
 最近,ペルーの治安が回復したことから再び,神岡鉱山の採鉱技術?をワンサラ鉱山へ派遣する事が可能となったことから,ワンサラ鉱山の労働生産性は急速に向上しつつある


7. 経営指標

 図5はワンサラ鉱山の開闢以来の経常損益の推移である。
過去に赤字を計上したのは,開山した年の1968年と100日ストのあった1981年それに鉱山危機の1991年の3回のみである。
 総コストは開山以来,増加傾向であったが1989年をピークに減少傾向となり,経常損益は黒字基調を確立した。


8.水力発電所

 ワンサラ鉱山は水力発電と火力(ジーゼル)発電の両方を所有している。雨期は全て水力発電でまかなっているが,乾期には火力発電を併用している。
 ダムの取水口はプエントアレキーパにある。発電所を巡視するときは,必ずワジャンカ村のメインストリートを通る。このメインストリートが何とも懐かしい。集落のルーツを垣間見るような気がする。日干し煉瓦で作った家が建ち並び。通りには2、3の店がある。夕方には住民が外に出て隣人と語らっている。店には蜜柑箱の上に板を並べ,その上に商品が陳列されている。江戸時代の我が故郷もこのような風景であったであろうと想像する。

9.結び
現在,ワンサラ鉱山は神岡鉱山のトラックレスマイニングの技術を導入中で,治安が良好になったことから,1997年から日本人技術者が山元に常駐する事が復活した。ハード面の機械設備の近代化が完了しつつある。今後はそれを生かすソフト面の移植が必要で,そのKnow-Howを所有している日本人技術者の役割が重要となっている。

ワンサラ鉱山:選鉱の近代化
はじめに

 粗鉱生産量は年間459千トンで、粗鉱品位は
   鉛4.0%、 亜鉛10.0%、 銀167g/T
である。
 選鉱は鉛・亜鉛の直接優先浮選を採用しており,精鉱の生産量は鉛精鉱が24千トン、亜鉛精鉱が79千トンである。(1993年) それらの精鉱は鉱山から40トントラックで430Km離れたカジャオ港に運搬し、日本に輸出している。
 粗鉱生産量は年々増処理を果たしてきているが、粗鉱の亜鉛品位は低下しており、亜鉛精鉱の生産量は1993年をピークに漸減傾向である。
 手持ち鉱量の品位が下がっており、将来とも品位の低下傾向は変わらない。従って、粗鉱の亜鉛品位の低下を粗鉱生産量でカバ-する方針である。そのためには選鉱設備の増強が必要である。
 ワンサラ鉱山の選鉱は,1990年代に入り選鉱設備の老朽化のため、また、採鉱の増産計画に合わせた選鉱設備の更新が必要である。そのコンセプトは,
 ¶ 1700t/日操業体制の確立
 ¶ 生産性向上とメンテナンス・コストの改善
 ¶ 採収率、精鉱品位の改善
等である。

1.破砕(1977年)
 破砕工程は1次破砕にジョークラッシャー、2次・3次にコーンクラッシャーを使用する3段破砕工程であり、3次クラッシャーの破砕産物の一部を前段のスクリーンへ戻すセミクローズドの粉砕回路を採用している。3次のコーンクラッシャーが老朽化したため,1995年に更新し、5フィートのノードパーク社製のオムニコーンを採用した。この5フィートコーンクラッシャーのコミッションにより3次破砕産物の細粒化が促進し、閉回路粉砕量の増量が可能となった。破砕産物の粒度は+1/2”が31.4%から11.8%に減少し、ボールミル給鉱サイズの細粒化が可能となり、ボールミルでの磨鉱度も改善されている。
 浮選給鉱粒度が-200mesh58.3%から69.0%と細粒化され,その結果単体分離度が改善されたことにより浮選採収率の向上の効果が得られたと考察している。

2.磨鉱(1997年)
磨鉱工程では、ボールミル,スパイラル分級機による1段磨鉱で,8’×11’ミル1台,
8’×3’ミル4台の計5台を使用し1500t/日の処理を行ってきた。1700t/日の増産に対応した磨鉱設備とて1996年に8‘×3’ミル2台を廃棄し9‘6“×14’シリンドリカルボールミル―サイクロン分級機を導入した。
 この起業工事により、磨鉱処理能力は1500t/日から2000t/日まで増強され、将来の増産にも対応できる設備となった。
 現在は9‘6“×14’ミル1台, 8’×11’ミル1台、8’×3’ミル1台、合計3台のミルを運転し、1700t/日の処理を行っている。1台の8’×3’ミルは予備機である。
 この結果,ボールミル,分級機などの設備台数が減少し,ライナー取り替えコストが従来の0.20$/Tから0.10$/Tと半減している。
 またボールミルの設備稼働率=運転時間 /(運転時間+故障修理時間)も従来の95.49%から99.40%と4ポイント改善され磨鉱操業の安定化が促進された。

3.浮選(1996年)
 当選鉱場はスタンダードな鉛-亜鉛の直接優先浮選を採用している。鉛、亜鉛浮選とも粗選区、スカベンジャー浮選区ではアジテア#60浮選機(AG #60 容量60ft3)を使用してきたが老朽化により更新が必要となっていた。
 増産計画の実施に従って順次し、浮選機の数量の減と浮選能力の増大をはかってきた。
 浮選機の更新は大型浮選機(容量500ft3)を導入することとし,1994年から1997年にかけて段階的に実施した。その結果,従来78槽あった浮選槽(AG #60)が,17槽(500ft3大型浮選機)となり浮選槽は大幅に減少した。
 これらの増強工事により、鉛、亜鉛とも廃滓品位が改善され、採収率が向上している。

4.脱水(1994年
 精鉱は鉱山から40トントラックで430Km離れたカジャオ港に運搬した後,日本に輸出している。
 脱水工程では、10’ディスクフィルターを鉛、亜鉛各精鉱の脱水に使用していたが,4000mという高地での脱水効率は極めて悪く、亜鉛精鉱水分は15%,鉛精鉱中の水分は12%であった。そのため精鉱運搬コストを圧迫し,ハンドリング上の種々のトラブルを惹起していた。精鉱の水分率を改善するために,世界で使用されている代表的な脱水機を集め,1993年にワンサラ鉱山で脱水が試験を実施した。その結果,オートクンプ社製のセラミックフィルターが最も優れた脱水機であった。
 1994年に亜鉛精鉱用,1996年に鉛精鉱用セラミックフィルターを導入した。
 従来のディスクフィルターでの消耗物品52千$/年に比較し、セラミックフィルターの場合のそれは初期トラブルも含め65千$/年と割高になるが、これらのセラミックフィルターの採用により,精鉱中の水分率は
  亜鉛精鉱 :15% ⇒ 11.5%
  鉛精鉱 :12% ⇒ 8.0%
に減少した。この結果精鉱トン当たり0.95$,年間105千$の精鉱の運搬費が削減されることになった。

5.廃滓(1997年)
 現在、廃滓は選鉱場からチュスピの堆積場にマルスポンプで流送している。1500 t/日の体制の時はマルスポンプ2台を保有し,1台を常時運転し1台を予備機としていた。
 1700t/日への増産に対応して、1997年に中竜鉱山で遊休品となっていたマルスポンプ1台を増設した。
 安定操業のため常時2台運転とし1台を予備機配置とし、合計3台のマルスポンプを配置した。

おわりに

 ワンサラ鉱山の選鉱設備は開山当初から日本の中古品を使用してきた。その後の増産過程においても日本の中古の設備を利用してきた。
 1994年の浮選槽の大型化を皮切りに選鉱設備の更新と近代化工事がほぼ完了した。
 ワンサラ鉱山の選鉱場は破砕設備から脱水設備に至るまで、全く新しい選鉱場に生まれ変わった。ハ-ド面での改善はほぼ完了したので,今後はソフト面での近代化を行い保全・修繕費等の削減に努力し、さらに競争力のある鉱山に育てていく所存である。

神岡鉱業の現状
はじめに

 神岡鉱山は岐阜県の北端に位置する。鉛・亜鉛を産出する鉱山と,付属製錬所として鉛製錬,亜鉛製錬所を有し,鉱山から製錬まで一貫して鉱業を営む鉱山である。
 最近では粉末冶金材料や電子材料用の金属粉を生産する工場も稼働している。
1985年プラサ合意以降の円高の進行,労務費の高騰,建値の低迷等により,鉱山や製錬の操業は大幅に変革してきた。
 今回は神岡鉱山の現状について報告する。

1.沿革
 鉱山の歴史は古い。里人の蔵する古文書に奈良時代の養老年間に神岡地域で銅山が開坑されたと記されている。
 安土桃山時代には飛騨金山奉行の茂住宗貞が茂住銀山・和佐保銅山を経営した。
 1874年(明治7年)に三井組が蛇腹谷・前平鉱床等を取得し,近代的鉱山経営を開始した。
 1950年には企業再建整備法により三井鉱山の金属部門をもって神岡鉱業(株)を設立した。
 1952年には商号を三井金属鉱業(株)に変更した。 更に,1986年には三井金属から分離独立し,神岡鉱業株式会社を設立し,現在に至っている。

2.鉱山部門
 北から茂住坑,円山坑,栃洞坑と3つの鉱床群があり,円山坑と栃洞坑を併せて栃洞鉱山,茂住坑は単独で茂住鉱山と称している。茂住鉱山は上平選鉱場を栃洞鉱山は栃洞選鉱と鹿間選鉱を有している。1975年までは増産基調であった。最盛期の出鉱量は茂住鉱山が1800T/日,栃洞鉱山が4800T/日であった。1976年には亜鉛のPPフラットは232千円/Tであったものが,1978年上期には116千円/Tの半額に暴落し鉱山部門は1974年に,未曾有の大合理化を断行した。即ち,栃洞鉱山は1979年に栃洞選鉱を閉鎖し,鹿間選鉱のみの操業とし3200T/日の操業とした。しかし,1995年までは金属建値の変動に対応し,3200~4000T/日の操業を行ってきた現在は,手持ち鉱量の減少から2500T/日の操業を行っている。


 一方,茂住鉱は1974年に1800T/日から1300T/日に減産を余儀なくされたその後も,逐次減産し,1989年以降は450T/日の操業であったが,鉱量の枯渇により1994年に休山した。1996年には亜鉛の建値が回復したことから,茂住鉱を再開し現在,200 T/Dを出鉱している。ただし,茂住選鉱場は再開せず,粗鉱のまま栃洞鉱の立坑に運搬し,鹿間選鉱場で栃洞鉱の鉱石と一緒に処理している。

2-1.採鉱
 1968年にトラックレスマイニングの手法が導入されて以来,鉱山の労働生産性は徐々に向上してきた。採掘条件の悪化に伴い,主力採鉱法はサブレベルストーピング法やブロックケービング法等の大型採鉱法からメカナイズド・カットアンドフィル法に変換してきた。
 最近の20年間は鉱山を取り巻く厳しい経営環境を克服するため,大型機械化や採鉱技術の変革により長足の進歩を遂げてきた。特に,支保技術の機械化により労働生産性は飛躍的に上昇し,災害防止にも多大なる貢献をした。機械化・大型化の主な項目は以下の通りである。
 1)穿孔関係
    油圧ジャンボの導入
 2)発破関係
    ANFOトラックの開発
    定時集中発破システム
    NONER雷管の採用
 3)運搬関係
    超大型LHDの導入
 4)支保関係
    ロックボルトジャンボの導入
    NATM工法の採用
    スケーラ(浮石払い機)の導入


2-2.地下利用

 世の中には「地下でなければならない,地下の方が有利である。」施設が存在する。
 地下岩盤は強度,剛性,耐震性,恒温性,遮音性,隔離性等の性質を有するからである。それらの性質を利用した地下利用の第1号が,1982年に茂住坑内に建設したカミオカンデである。同様の機能を有する設備を地表に作るとすれば経済的に不能であるとのことである。カミオカンデに次いで1995年には,要し崩壊の検証やニュートリノの研究施設としてスーパカミオカンデが建設された。
 この他,火薬試験場,岩盤掘削試験場,等が栃洞坑内に設置されている。今後,重力波の研究施設が予定されており,地下利用は更に拡大していく可能性がある。

2-3.選鉱
 神岡鉱山の選鉱場は鹿間,栃洞,茂住の3選鉱場を保有し,それぞれの選鉱場で3200T/日,1600T/日,1800T/日の処理を行っていた。1978年に栃洞選鉱場を,1994年には茂住選鉱場を閉鎖し,現在は鹿間選鉱場のみで操業している。
 1980年当時の鹿間選鉱場は3200T/日の粗鉱を処理し,労働生産性は72T/工であった。1988年から1991年までの4年間は4000T/日を達成し,労働生産性は1980年対比で約2倍の152T/工に向上した。これはコーンクラッシャの更新やバルククリーナ浮選機の大型化の大型化を実施したものの,それ以外の大規模な企業投資をすることもなく,日常の諸改善や操業形態の改善によって達成したものである。その項目を以下に列挙する。
 1)自動化の推進
 2)監視業務の集中化・コンプータ化
 3)異常発見のセンサー・警報の取り付け
 4)耐摩耗性対策による修繕作業の削減
 5)自主保全の強化


3.製錬部門

 鉛製錬は16世紀頃から行われていると考えられる画,近代的な製錬所の導入は明治時代に三井が鉱山経営を手がけてからである。
 亜鉛製錬工場は鉱山の豊富な埋蔵鉱量を背景に1943年に建設された。1993年から新電解工場により操業を労働生産性が向上した。

3-1.鉛製錬
 鉛製錬は従来,鉛精鉱から鉛を製造していたが,1995年2月からは,廃バッテリ-のリサイクルにより鉛を製造する方法に変換した。鉛精鉱による鉛の生産量は年間28千Tであったが,バッテリ-リサイクルでは年間30千Tを生産している。


 神岡鉱山の粗鉱の鉛品位は0.2%程度で極めて低く,年間の鉛精鉱の生産量は約6千Tであった。従って,製錬原料である鉛精鉱は,自山鉱に加え輸入する精鉱,約39千Tに依存していた。小規模な内陸製錬所で採算が取れないことや,リサイクルの機運が高まってきたことから,1995年より原料を精鉱から廃バッテリ-に切り替えた。
 精鉱処理からバッテリ-処理に変換することにより製錬工程は簡潔になった。即ち,従来使用していた焼結工程,硫酸処理工程,カドミ処理工程が省略され,バッテリ-の破砕工程が加わることになった。当初のBF粗鉛生産量は60T/D 程度であったが,破砕工程や溶鉱炉の改善,特に,溶鉱炉への原料の装入方式をベル方式に改善した効果により,現在は110T/Dを生産している。廃バッテリ-のプラスチックについても回収しリサイクルを行っている。基板材に含まれる金・銀のリサイクルは精鉱処理時代から引き続き継続している。

3-2.亜鉛製錬
 亜鉛製錬工場は1943年に建設された。三井金属として製錬所を建設するにあたり,臨海製錬所案と神岡案が議論された。
 神岡に賦存する亜鉛鉱床は豊富ではあるが品位は低い。この低品位な鉱石を臨海製錬所に運搬していたのでは採算性が取れず,神岡の亜鉛鉱床は日の目を見ることはない。
 この亜鉛鉱床が日の目を見るためには,どうしても神岡に亜鉛製錬所が必要であったことから,神岡の亜鉛製錬所が建設された。
 1990年までは神岡鉱山から産出される亜鉛精鉱を処理し,海外の精鉱は殆ど処理していなかった。茂住鉱の休山,栃洞鉱の減産に伴い,海外の鉱石を処理するようになった。
 亜鉛精錬は自山鉱が減少したことから,海外鉱の処理を余儀なくされた。富山港からの精鉱運賃,不純物の多い海外鉱の処理技術等が問題となった。
 神岡の亜鉛精鉱は海外の精鉱に比べ,不純物が少なく鉄分も少ないので,製錬によって発生する残渣が少ない精鉱であった。例え,残渣が発生しても,それは鉛製錬で処理が可能であった。
 しかし,1995年から茂住鉱の休止等により自山鉱が減少し,海外鉱の処理が増加したこと,鉛製錬が精鉱処理からバッテリーリサイクルに移行したこと等により,赤渣処理や海外鉱処技術の確立が急務の課題となった。特に,採収率や電力源単位は収益に大きな影響を与えることから,1995年から取り組み,1998年には所期の成果を上げることが出来た。


4.加工部門

 加工部門としては金属粉工場,化成品工場,EL工場の3工場がある。金属粉工場は1981年に操業を開始した。
 当初は亜鉛のフレ-ク,粒,銅粉等粉末冶金用の原料を製造していた。最近では粉末冶金材料や半田粉,銀粉等の電子材料用の金属粉も製造している。化成品工場は電解アルミコンデンサの中間材料を製造している。アルミ箔を電気分解により表面加工を日立AIC社と協同で,1997年より操業を始めている。
 EL工場は1999年から発光体の材料となるペレットを製造する予定である。ELとはエレクトロルミネッセンスの略語で電界発光の意味である。ELはガラス基板の表面に蒸着させて製造する。これに電圧をかけると発光する機能を有している。各種のディスプレイ(表示装置)に使用されている。


4-1 発電設備

 神岡鉱業は8つの水力発電所を保有している。
いずれも小規模で,流込み式の水力発電所である。季節により自家発率の割合は変動する自家発電の割合は年間平均75%である。


おわりに

 神岡鉱業はこれまで鉱山,亜鉛製錬,鉛製錬の三者が三位一体となって操業を行ってきた。即ち,鉱山で採掘した精鉱を亜鉛製錬で精製し,亜鉛製錬で発生した残渣中の有用金属を鉛製錬で回収し,最終的残渣を坑内に処分してきた。
 鉱山は採掘すれば何時かは無くなる減耗性の資産を対象としている限り,いつかは三者がそれぞれ別の道を歩む時期が来る。そして,それぞれにコスト競争力を身に着けることが生き延びる必須条件である。コスト競争力の根幹は技術力である。神岡の強みを十分認識した上技術改善を加えていく。


我が国の地熱発電の現状
はじめに

「我々は何処から来たのであるか,そして,何処に行くのであるか。これがつねに人生の根本的な謎である。(中略)何処へ行くかという問いは,翻って,何処から来たかと問わせるであろう。」
三木清の「人生論ノート」の一文である。
地熱発電に従事している者は皆
「今後,地熱発電は如何なっていくであろうか。」
という不安を抱いている。地熱発電は純国産で,セキュリティ-が高く,温室効果ガス等の発生が少ない,再生可能なエネルギ-である等多くの利点を有している。
加えて,我が国は世界有数の火山国の1つであり,世界で最も多く地熱資源が賦存しているといわれている。エネルギ-資源を殆ど海外に依存している我が国が,地熱資源を開発することは我が国の使命であるといっても過言ではない。
しかるに,地熱発電は石油代替のエネルギ-,エネルギ-のベストミックス,新エネルギ-,自然エネルギ-,再生可能エネルギ-等を喧伝されながら,何故,開発促進されないのであろうか。
地熱発電の原点に立ち帰って,我が国の地熱発電の現状を見つめ,地熱発電の可能性を模索することとする。

1.地熱発電とは
水力発電の歴史は古く国民に良く理解されている。海水が太

陽の熱によって蒸発し,雲となり雨となって地上に降る。山岳に降った雨は,山から海に移動する過程で,落差を利用して発電される。発電に利用された水は再び海に帰って行く。これが水力発電である。太陽がある限り,水が海と山を循環して作られる再生可能エネルギ-である。
一方,地熱発電は1990年代前半に開発されたものが多く歴史はまだ浅い。従って,一般国民は地熱発電の素晴らしさや多くのメリットを理解していない。簡単に説明すると以下の如くである。

 地熱発電は水力発電を地下に移したものといえる。即ち,天水が地下に浸透し,マグマの熱によって温められ蒸気や熱水となる。地熱井によって採取された蒸気はタ-ビンを回転させ発電する。発電に使用された後の蒸気は大気に放散され,天水となり地下に浸透する。地熱発電はさながら地下の水力発電なのである。

1-1 地熱発電の歴史
地熱発電の概略の歴史を表5に示す。



 地熱発電は1913年にイタリアのラルデレロを皮切りに,1958年にニュージーランドのワイラケイで,1960年にアメリカのガイザ-スで地熱発電が開発された。
 我が国では1966年に松川で,1967年に大岳でそれぞれ地熱発電を誕生させている。
 地熱発電は比較的新しい電源であるが,現在,世界の20カ国以上で地熱発電が操業されており,世界の地熱発電の設備容量の合計は8,710千kWとなっている。第1表に地熱発電の概略の歴史を,第2表に国別の地熱発電の設備容量を示す。



1-2 我が国の地熱発電の原点
 1996年にディベロッパ-の座談会が開催され,その記事がNEF(新エネルギー財団)で発行している「地熱エネルギ-」の74号に掲載されている。その中で,地熱発電を始めた動機が話し合われている。
我が国の地熱発電の草分けは1960年代に松川と大岳で始まっている。この2箇所の地熱発電所の動機はいずれも,イタリアやニュージーランドの地熱発電所を見学し
 「地熱発電は買電より安い」
ということが動機であった。
 操業開始当時の電力単価は3円/kWh~6円/kWhであったようである。
 安い電気を求めて地熱発電を始めたにも拘らず,今は高い電気となってしまっていることは皮肉な結果である。
 現在,地熱発電は環境に優しいとかセキュリティ-が高い等のメリットを主張しているけれど,地熱発電の原点は
 「地熱発電は買電より安い」
であることを忘れてはならない。
 但し,本当に地熱発電のコストが高いという事に関しては,コストを算出し前提条件を吟味しなければならない例えば,設備の耐用年数,揺り籠から墓場までの全てのコストが網羅されているか否か等を検討して判断する必要がある。

1-3 地熱発電のメリット
エネルギ-が純国産である意義を理解するには,逆に原料を海外に依存している弊害を考えることである。我が国の一次エネ

ギ-の大半は石油・石炭で占められており,殆どを海外に依存している。
1970年代の石油危機でその脆弱さを露呈した。第45図に示す通り1970年代の石油価格は1キロリットル当り約5千円であったものが,1980年代には1キロリットル当り50千円と10倍に高騰した。1980年代の我が国の電源別出力の割合は火力発電が65%であったことを勘案すれば,電力危機でもあったことは間違いない。


 我が国では,1980年に「石油代替エネルギ-の開発及び導入の促進に関する法律」が制定された。地熱発電を石油代替エネルギ-の大黒柱として,地熱開発に関する諸団体が結成され,地熱開発の促進調査が急速に進められた。
 1990年代には現在の地熱発電所の大半が運転を開始している。地熱発電の設備容量は547千kWで,我が国の総発電設備容量の0.2%を占め,世界第6位に位置している。地熱資源王国である我が国が地熱発電設備容量においては,世界の中で6位に甘んずることなく,金銀銅メダルの内何れかを獲得しても当然のことである。サッカ-で国威を競い合うばかりが,国民の願いではあるまい。

1-4 豊富に賦存している
 我が国は世界有数の活火山国で,世界の活火山のうち約1割が日本に存在するといわれている。
 我が国には地熱エネルギ-資源が極めて豊富に賦存しているのである。資源の乏しい我が国にとってまさに天与の恵みというべきである。地熱資源の可採資源量は,工業技術院地質調査所の試算によると21百万kW,NEFによる地熱開発可能調査によると19百万kWの発電が可能であるといわれている。この出力は原子力発電26基分に相当し,我が国の有する原子力発電52基の半分である。原子力発電26基分の天与の恵みを開発するロマンを抱きたいものである。

1-5 クリ-ンエネルギ-
 近年,地球環境問題が世界的に議論されており,1997年には温室効果ガスによる地球温暖化問題が深刻化し関心を集めている。1997年に地球温暖化防止京都会議(COP3)が開催され,温室効果ガスの削減を定めた京都議定書が合意された。温室効果ガスの削減目標として,2010年までに1990年に比べて,日本は6%,米国7%,欧州共同体は8%を削減する目標が合意された。化石燃料の依存度の高い我が国は目標を達成するアクションプログラムを提示する必要がある。
 地熱エネルギ-はマグマによって地下水が熱せられることにより,蒸気が生産されているので,温室効果ガスや煤煙・煤塵を殆ど発生させない地球環境に優しいクリ-ンエネルギ-である。地熱発電は各種電源の中で二酸化炭素ガスの排出量が水力と並んで最も少なく,他の風力や太陽光などの自然エネルギ-と比較しても炭酸ガス排出量が少ないクリ-ンエネルギ-なのである。
 第46図に電源別の二酸化炭素の排出量を示す。


 産業廃棄物処分場が乏しい我が国がわざわざ海外から化石燃料を輸入し,その燃焼によって発生する廃棄物の処分に困っている。自国に廃棄物の発生しないク-リンな資源が豊富に賦存するにもかかわらず,その貴重な資源を開発することを怠り,処分場が必要な化石燃料に依存してよいものであろうか。

1-6 再生可能エネルギ-
 水力発電は海水が太陽によって熱せられ,雲となり,雨となり,再び海水となる過程で発電される。地熱発電もまた地下水がマグマによって熱せられ蒸気になり,天水となり,再び地下水となる,天水が輪廻の如く循環する過程で発電される。地熱発電はマグマが存在する限り発電可能な再生可能エネルギ-なのである。因みに,マグマの寿命は,数十万年から数百万年といわれており,人類の歴史に比べるとほぼ永久的なものである。地熱発電では太陽に相当するものがマグマであり,河川に相当するものが地下水を通す多孔質層や裂罅群である。水に相当するものが蒸気である。
 この様に地熱発電は,天水が止まることなく恒久的に循環することによって発電されているので,再生可能エネルギ-といわれる。世界で最初に地熱発電を実現したイタリアのラルデレロは,既に90年の永きに亘って発電を続けている。

1-7 コスト競争力のあるエネルギ-
 地熱発電の唯一の欠点は現時点で,発電コストが高いことである。第8表(162頁)は電源別の発電単価である。この単価を算出するのに設定された利用率も同時に示されている。設定利

用率と第47図に示した実績の利用率との間にはかなりの乖離がある。例えば,水力発電の実際の利用率は25%程度であるにも拘らず,設定利用率は80%に設定されている。この設定利用率を実績ベースに引き直せば,発電単価は2倍以上となる。これは原価の魔術である。
 地熱発電の蒸気コストは資本費,操業費,事業報酬等で構成されている。総コストの内,資本費が85%を占め,操業費は僅か15%に過ぎない。従って,地熱井や地上設備の償却が完了した後は,低廉なエネルギ-となる。燃料価格の変動に左右されない安定したエネルギ-で,化石燃料による火力発電に優るとも劣らないエネルギ-となる。

1-8 設備利用率の高いエネルギ-
 電源別の設備利用率を図4に示す。


 地熱発電の設備利用率は原子力発電に次いで高い。地熱発電は太陽光や風力に比べて圧倒的に設備利用率が高く,自然エネルギ-の中で最も安定したエネルギ-である。

2.我が国の地熱発電の現状
 我が国の地熱発電は石油代替エネルギ-として位置づけられ,2010年度には地熱発電の設備容量を3,500千kWにする目標が掲げられた。1990年代に雨後の竹の子の如く開発された結果,現在発電設備容量は547千kWとなっている。その後は,地熱促進調査は進められているが,新規の地熱発電所は開発されていないのが現状である。
 我が国の電源を地球環境やセキュリティ-の面から見ると,温室効果ガス排出量の多い化石燃料への依存度が高く,燃料価格に変動されやすい電源構成になっている。石油危機,石油価格高騰,東西冷戦等のキーワードに代表される時代を想起し,現在の中東和平,地球温暖化問題を見つめたとき,地熱を石油代替エネルギ-と位置づけたことは,蓋し正鵠を得た国策であったと判断する。しかるに,地熱発電開発の所期の志は忘れられ,徐々に風化,衰退しつつあるのは何故であろうか。
 第一の理由は,米ソ冷戦の終結により国際政治が安定し,各国の石油代替エネルギ-の開発・石油備蓄等が進み,石油の供給が安定し,当面エネルギ-の安定供給に大きな不安が生ずる恐れが少ないことである。しかし,長期的に見ると,発展途上国が経済成長を遂げればエネルギ-供給は逼迫し,石油が高騰することは避けられない見通しである。
 第二は,地熱発電では生産蒸気量の減衰のため出力が低下し,当初の計画出力と実績との間で大きな乖離を生じたことである。地熱発電における蒸気量の減衰は,人間がハシカに罹る如く,地熱発電にとってはごく普通のことであるが,電力会社や株主にとっては期待を裏切られた結果となり,彼等は地熱発電に対し,全くネガティブな姿勢に変わってしまったことである。
 第三は,地熱発電は多くのメリットを齎すエネルギ-であるが,コストについては化石燃料による火力発電に比べ割高となっている。加えて,電力単価が総括原価主義からコスト主義に移行しつつある現状においては,火力発電設備を休止し,割高の地熱発電を稼動することになり,コストダウンと逆行する操業形態になっている。
 第四は,国は総発電量のうち一定割合を新エネルギの電源とするよう義務つけが,地熱発電はこの新エネルギ-に定義されていないのである。
 以上のことから地熱発電は電力会社にとって何の魅力も無い電源になってしまったのである。

2-1 地熱発電所
 日本の地熱発電は全国19地点で約547千kWの設備容量である。
 この内,事業用が14地点で自家用が5地点である。発電規模から見れば10千kW以上のものが15地点でそれ以下のものが4地点である。関東以北で9地点,九州地域で10地点である。


 電力会社が一貫体制で経営しているものが5地点あり,蒸気側,発電側と別々に経営しているものが9地点である。電力会社以外の地熱発電は全て,蒸気側と発電側が分離した形態を取っている。第8表に我が国の主な地熱発電所を示す。

2-2 地熱発電所の利用率
 現在稼動している殆どの地熱発電所は運転を開始して以来,蒸気生産量の減衰により,発電出力が逐次低下している。
 図6は30千kW以上の主な発電所10箇所をピックアップし,運転開始以来,5年間の利用率の推移を平均したものである。

 いずれの発電所も運転開始以来,出力が低下しており,その原因は蒸気量が経年毎に減衰していることである。
 地熱発電は蒸気でタ-ビンを廻すことによって発電する形式であるため,電力会社では火力部に所属している。設計通りに操業する事業文化を持つ火力部の技術者にとっては,蒸気の減衰による出力低下は認め難いのである。地熱発電は当てにならないと烙印を押されてしまったのである。水力発電において雨が多ければ発電量が増加し,渇水になれば出力が低下する。地熱発電の出力もまた,他の自然エネルギ-である水力,風力,太陽光発電と同様に,自然現象に依存しているのである。
 既存の地熱発電所の殆どが計画の段階で,高い利用率を設定したため,実績では乖離を生じ,操業上も,経営上も苦しい状況にある。当初,地熱発電をフィ-ジブルなプロジェクトにする為には,高い利用率を設定せざるを得なかったと推定する。

2-3 地熱発電事業の経営
 地熱発電は多くのメリットのある石油代替エネルギ-電源であると喧伝されて,民間企業が地熱発電事業に進出してきた。現在,それらの企業の経営状況は芳しくないのが現状である。その理由は,計画に比べ利用率が低下し蒸気生産量が減少しているからである。
 調査・計画段階で人知の及ばぬ複雑な地下構造を相手に,将来の蒸気生産量を正確に決定することは極めて困難な作業である。地熱発電はまだ,未完成の技術の上に立脚している。不確実な生産量や利用率に基づいて発電単価やディベロッパ-の収入が決まる条件では,地熱発電のリスクが高過ぎて,新規プロジェクトに手を出す勇気は湧かないのである。1990年代以降,新規の地熱発電が誕生しない原因の1つになっている。
 事業形態についても,蒸気側と発電側の会社が分離しているがために生ずる不合理がある。今後の望ましい事業形態としては蒸気から発電に至るまで一貫体制で経営することが望ましいと考える。
 現在,電力会社とディベロッパ-と共同で地熱発電の発電単価引き下げについての機運が高まり,将来の事業構想,コスト競争力強化等についての検討が進められている。

3.地熱発電の課題
 第50図に示すS曲線とは,技術を改良する為に投じた費用とその投資によって得られるメリットの関係を示すグラフのことである。


 新しい技術は当初は遅々として成果が上がらず低迷しているが,試行錯誤の後急速に進歩と成長を成し遂げる。最後は技術の進歩が停滞する。
 地熱発電が本格的に始まって約10年が経過した。技術的に見ると,地熱発電は現在,S曲線の左の方に位置している。今後,中央部の急速に進歩する段階に高揚する為に,我々は何をすべきかを考える必要がある。

3-1 貯留層評価
 地熱発電は未完成の技術の上に立脚している。永久に未完成な技術なのかもしれない。地下資源であるが故に,発電出力の設定が予測困難であるからである。調査結果を基に理論的に正しく設定したつもりでも,現実に操業を始めれば下方修正を余儀なくされ,事業性を問われるケ-スがある。安全サイドに考えれば投資効率の面でプロジェクトは棄却される。その匙加減が難しいところである。
 最近,物理学の分野で現代物理学をささえる「相対性理論」や「量子力学」以外に「複雑系」と呼ばれる分野が21世紀の新たな研究分野として喧伝されている。「天災は忘れたころにやってくる」という名言を残した寺田寅彦は,100年前に,金平糖の角のでき方を調べたこと,都電が団子になって停車場にやってくるのを路上で観察した「複雑系の」物理学者であった。
 地下の地熱流体の動向や貯留層評価は正に「複雑系の物理学」である。資源量を推定するいろいろな方法が試みられているが,いずれも多くの未知数を仮定して算出するものであるから,凡その見当は付くものゝ,確定的な答えが得られるものではない。我々はこの貯留層評価に対して「つかず,離れず」の関係を保たざるを得ない。
 現段階では操業や試行錯誤から得られた結果や情報によって仮説の精度を高める以外に無いと考える。
 貯留層に意図的に注水することにより,地熱流体の減衰を補完することが可能で,発電出力をより安定させるという試験結果や操業成績が報告されている。
 これは蒸気生産量を自然の成り行きに全て委ねるのではなく,部分的に人為的技術によって補完する方法である。この技術を確立することによって,当初設定した発電出力と実績の乖離を,操業段階で注水により補うことが可能である。
 従って,貯留層評価の技術革新の為にヒト・モノ・カネを費やすよりは,注水涵養技術の確立や安全サイドの発電出力でもプロジェクトがフィ-ジブルとなるよう,投資コストの削減努力をすることが現実的であると考える。

3-2 地熱井掘削のリスク
 補充井を掘削する場合,何処を掘るかが問題となる。地下の温度,岩目群,その他の情報,例えば,貯留層の重力変化等の情報に基づいて掘削位置を決めることになるが,決定的な判断材料を得ることは難しい。何故なら地下の無限の情報を完全かつ正確に把握することは不可能であるからである。従って,掘削のリスクを軽減する方法は,掘削位置を決定する時の仮説と掘削後の結果を照らし合わせ,仮説に間違いが無かったか検証することや,他地点の理論も持ち寄ってディスカッションする等を繰り返し,より現実的な理論を構築していくことが現状では最良の方法と考える。
 近い将来に,地下の情報をより簡便に,低コストで得る技術革新として,最近,長足に進歩しているリモ-トセンシング等の新技術の応用が必要である。

3-3 地熱発電成功の鍵
 電源別の発電単価を第8表に示す。通常,発電単価を表す場合,前提条件を省略して,第8表の左端の列に示している発電単価のみが一人歩きする。地熱発電のコスト競争力強化のため原価の魔術を使いながら2,3の方法を考えてみる。


 第一に,設備耐用年数の延長である。地熱発電の設備の耐用年数が15年で他は40年となっているが,地熱発電の設備と他の電源の設備を比較して, 物理的には15年と40年という大きな差は無いと考える。仮に,地熱発電の設備耐用年数を2倍の30年に延ばせば発電単価は半分の8円程度に下がる。これは地熱発電のコストの85%が資本費である所為である。即ち,地熱発電の設備耐用年数を延長することは,投下資本の回収は遅れるものゝ,発電単価を下げる有力な方法である。
 第二に,蒸気側と発電側と一貫体制の事業運営である。地熱発電において蒸気側と発電側が別々に分かれていることがコストアップになっている面が数多くある。事業形態を蒸気生産から発電までの一貫体制の事業運営とすることは発電単価ダウンの有力な方法である。しかも,一貫体制への移行は新たな投資を伴うこともなく,当事者がその気になればすぐにでも実現可能なことである。
 第三に,ディベロッパ-同志のアライアンスである。規模の小さいディベロッパ-が分散独立していることがコストアップ要因となっており,アライアンス等が検討されるべきである。
 第四に,地熱井の掘削コストを技術革新により,画期的に下げることである。
 資本費は地熱井や地上設備の償却費,金利等である。資本費の90%は地熱井戸の掘削費である。地熱井戸の掘削費は少なくとも諸外国の数倍,ないし10倍と言われている。
その理由は
 1)電力料の総括原価的意識
 2)掘削の競争原理の欠如
 3)政府の諸々の規制
 4)掘削機械の近代化の遅れ
等である。大半の理由は意識の問題や制度等であり解決可能な問題である。物理的な原因は掘削技術の改革である。諸外国で掘削費が低廉であるのは,労働事情と国土の広さに起因することもあり,我が国が諸外国の模倣をすれば低廉になるというわけではない。
 掘削コストを下げるためには掘削に関する技術革新を実現する必要がある。
 現在の作業方法は,櫓を組みあげその上で多勢の労働者が作業する形態である。この技術は100年も前から行なわれている技術であり,S曲線でいえば,左端下方に位置し技術革新がなされていない状態である。
 鉱山機械の場合,1980年代に,目覚しい技術革新を達成し,従来に比べれば隔世の感を抱く。地熱井の掘削機械の場合も鉱山機械同様の技術革新が実現可能である。
 櫓の上の作業は廃止して,ワンマン・オ-トマチックで掘削作業が可能となる機械を開発する必要がある。この機械はメ-カ1社で開発することは困難であり国の支援が必要である。実現すれば,掘削関係の補助金は不要となる可能性がある

3-4 開発上の法律的整備
 石油・石炭の探鉱・採掘は鉱山法、温泉掘削は温泉法で守られている。地熱は石油代替といいながら,地熱資源である蒸気を探鉱・採取する地下掘削に対しては.何等法的担保が設けられていないのは如何なる理由か解らない。地熱発電で地下を掘削する場合は温泉法や地上権に抵触しないよう諸手続きが必要である。井戸掘削の前に,温泉組合,温泉審議会,地権者,経済産業省,電力会社等5つのハ-ドルをクリア-しなければならない。
 直径215mmの孔が地権者の地下2000m下に掘削されるからといって,地権者の同意が必要なのである。石油の井戸は孔径の如何に拘わらず地権者の同意は必要としない。金属鉱山に到っては地権者の土地の直下に如何様な空洞を作ろうが御構い無しである。物理的には同じ現象であるにも拘らず,法律によって差別するのは不合理である。
 温泉法ばかりでなく国立公園法にも又,地熱発電を行うに当たって不合理な規制がある
 行政当局はこれ等の事実を放置しておくつもりであろうか。法律を作るのも人間,修正するのも人間,唯ひたすらに既存の法律を遵守するのが行政の努めではあるまい。
 諸外国や他の資源産業に比べて,地熱発電は過剰な規制や不合理な法律のために,横一線のス-タトラインに着けず,コストダウンの阻害要因になっている。
 エネルギ-の観点からは,地熱資源は石油・石炭,温泉等と何等違いはない。資源の観点からは,金属も地熱も同じ地下資源である。
 石油・石炭・金属や温泉・蒸気等皆,地下資源である。これらの資源を開発するにあたり如何に合理的な法律を設けるか大局的な見地が必要である。即ち,「地下資源法」なる法律を制定し,総合的に律せられるべきである。

3-5 地熱推進の諸団体
 地熱発電は我が国にとって相応しいエネルギ-であり国策として推進され,NEDO,NEF,日本地熱調査会,地熱学会,地熱開発協議会等,多くの団体が結成され,多額の予算と勢力が費やされてきた。「その割に成果が上がっていない。」が素直な評価であるこれは,「日本人の多くが,英語を10年間,一生懸命勉強しても喋れない」のに似ている。
その理由は一口で言って
 「地熱発電開発の急所・つぼを外して進めてきた。」
のではなかろうか。確かに,地熱発電を促進する為には調査・研究は重要な要素である。調査・研究そのものが目的になって,事業に育てる観点が不足していたのではなかろうか。
 例えば,地熱資源開発を促進・規制する法律の制定,事業リスクの軽減対策,地熱資源を開発するにあたって,温泉業者,地権者,地域住民等に対する法制上の不安を解消する努力等である。根本問題を捉え,適切な方策に従い活動すれば,国の出費を現在の半分にしても,数倍の効果が上がるのではなかろうか。

おわりに

 地熱発電の動機は「地熱発電は買電より安い」ことであったが,現在,皮肉にも地熱発電の唯一の欠点はコスト競争力が弱いことであるが,このことを理由に,以前の地熱フィーバーは徐々に風化しつつあるのは残念なことである。
 地球環境問題が惹起しており,地熱発電の新しい道が開けて来たと考える。
 スウェ-デンでは「化石燃料ゼロ」を目標に掲げた地区があり,市議会,市当局,地域の企業,学校,そして地域住民が参加し,目標を達成する為に活動しているそうである。
 我が国では,新エネルギ-,自然エネルギ-,再生可能エネルギ-,ベストミックス等,の言葉ばかりがもてはやされている。やる気はあると考えるが,問題が発生すると,やる気が萎んでしまうか方針が易きに流れる,終には匙を投げる癖があるのは残念なことである。
 「志を果たす」,「情熱を注ぐ」,「ロマンを求めて」等の言葉は死語になっているのであろうか。伊能忠敬は50歳を超えてから日本地図作成の旅に出た。
 「ヒト,モノ,カネ」を備えている我が国であれば,今からでも,その気になれば,地熱発電のコストを下げることくらい容易に可能であると信ずる。


付録
神岡鉱業の歴史

 神岡鉱山は三井金属の発祥の地である。鉱山の歴史は古く,鉱山が何時発見されたかは不明である。

1.三井以前

1-1 養老年間(717年~723年)

 ある資料に「里人の蔵する書類中に,斐太国,宝の里より黄金産出し之を天皇に献ず。云々」とある。

1-2.室町時代
 明応年間(1492年~1500年)に和佐保銀山が開坑される。
 大永年間(1521年~1527年)に茂住銀山が開坑される。

1-3 安土桃山時代
 天正13年(1586年)金森長近が,越前大野から飛騨に転封となった。鉱山師の茂住宗貞が茂住和佐保銀山を統轄する。
 金森氏は茂住宗定を得て,1692年奥州に転封になる迄,鉱山は盛況であった。

1-4 茂住宗貞
 茂住宗貞(1559年~1643年)は越前の商人で名を糸屋彦次郎という。金森長近(1524年~1608年)が越前大野時代に召し抱えられ長近の飛騨入封に付き添ってきた。飛騨の鉱山開発をまかせられて,約10年間鉱山開発にあたった。飛騨の鉱山開発の鼻祖と云われている。
 飛騨の諸鉱山を相次いで開発し,鉱山事業に辣腕を振るった。飛騨は宗貞以後100年間,華やかな盛運期が経過した。
 宗貞は東茂住に屋敷を構えて豪奢な生活を送った。巨万の富を得た宗貞は,1608年長近が京都で没した後,直ぐに金森可重との確執を察知し,又命を狙われると思ったか,屋敷に火をかけ,百万両を持って茂住銀山より姿を消した。

1-5 江戸時代の初期(1600年~1675年)
 幕府は1692年金森氏を奥州山形に転封し,飛弾を幕府直轄地・天領とした。金森氏が転封された後は飛弾の鉱山は衰退に向った。

1-6 江戸時代の中期(1675年~1775年) 
 僅かに和佐保鉱山(現在の栃洞鉱)と池の山鉱山(現在の茂住鉱)が細々と稼行していた。
 銅,鉛も採掘対象とされるようになった。零細鉱山師が入れ替わり立ち替わり,鉱山を経営していた。

1-7 江戸時代の後期(1775年~1867年)
 1817年頃,和佐保銀山の鉱種は銀から銅に移行していた。

2.明治時代
 1874年,明治7年に三井組が大留・前平・蛇腹・鹿間の各坑を買収し,鉱山経営に進出した。鉱山師が坑口毎に採掘していたがこれを統一し,近代経営に乗り出した。
 ¶ 1889年(明治22年)には三井物産から茂住・亀谷両鉱山を譲り受け,
   神岡地域の全山を統一した。
 ¶ 1892年(明治25年)に三井鉱山合資会社を設立した。
 ¶ 1920年(大正9年)南9番鉱床発見

3.昭和時代
 ¶ 1941年第二次大戦の増産体制の下で,約6千人の従業員を抱えていた。
 ¶ 1950年企業再建整備法により三井鉱山の金属部門の神岡鉱業所を分離し,
  神岡鉱業(株)を設立。
 ¶ 1952年神岡鉱業(株)から三井金属鉱業(株)へ変更。鹿間,栃洞,茂住社宅の
  3カ所に2千戸余りの社宅に家族を含め,約1万人が暮らしていた。
 ¶ 1970年代にトラックレスマイニング法を我が国で最初に導入し,栃洞坑
  日産4800t計画を達成した。
 ¶ 1978年建値は低迷,需要は減退に加え,円高は進行により,未曾有の合理
  化で748名の人員整理を余儀なくされた。
 ¶ 1986年三井金属より独立し神岡鉱業(株)を設立した。
 ¶ 2001年栃洞鉱の鉱石の採掘を中止した。
 開闢以来1200年以上,三井が鉱山経営するようになった明治7年以来,実に137年間,亜鉛・鉛資源の安定供給に貢献してきた栃洞鉱山の終焉を迎えた。

神岡町の歴史
1.概要
 神岡町は北に漆山岳(1393m),東に二十五山(1219m),西に大洞山(1349m)が聳え,その間に挟まれたすり鉢状の地形をなしている。高原川に沿って国道41号線が高山から富山へと走っている。国道41号線の多くの部分はトンネルとスノーシェードに覆われている。明治以降鉱山と盛衰を共にしてきた。神岡鉱業所に働く人々の殆どが神岡町に在住している。 
 図1の写真で,左の山手側を41号線が走り,中央に高原川が流れている写真中央部の橋が西里橋で,その右側に見える建物が神岡町の庁舎である。


2.江馬時代(1221年~1582年)

 江馬氏は平家の末裔でありながら,北条氏の養子となり,川越の城主をしていた。
 1221年,家臣の川越重親に「謀反の心あり」と讒言され,川越城を後にし,飛弾の国に逃れて来た。飛弾は太古の昔から人が住み,争いはなく,鎌倉からは遙か遠いので追手の来る心配はないと考えた。
 甲斐を通り,信濃を通り,中尾峠を越えて飛弾の里にたどり着き,高原郷を治めはじめた。その勢力は,荒城郷八日町から,遠く越中の中地山あたりにまで及んだこともあった。高原郷の里人は江馬氏の住む居城を「殿様のいる村」,即ち,「殿村」と呼ぶようになった。現在も殿村の地名が残っている。
 江馬氏は1221年の承久の乱から,1582年の「本能寺の変」の間,神岡で治世に励んだ。江馬氏は初代輝経に始まり,16代輝盛迄の361年間に亘って神岡の地で治世に励んだ。
 1582年に江馬氏16代当主輝盛が,荒城郷八日町で三木(みつぎ)氏との決戦に敗れて江馬氏は滅亡した。

2-1.哀れ貞盛
 輝盛の弟江馬貞盛は父とも兄とも不和で,身の危険を察知し,能登に逃れるため三十五人の家来と愛犬を連れて屋敷を出た。
 一行は雪の中を氏かまだにより山道を登り笈破(おいわれ)を目指した。貞盛は途中吹雪に遭遇し命からがら,笈破にたどり着いた。ひどく疲れている上に,風邪気味ですごい熱であった。
 彼は助かる見込みは無いと悟り,切腹して果てた。この時,主人を失った唐犬はどんなに食物を与えても一切食さず,遂に餓死して石に化した。この辺りを犬石村(いぬいしむら)と呼ぶようになった。現在の「伊西村」は「犬石村」が訛った物であると言われる。

2-2.十三墓峠
 三木(みつぎ)氏との戦いで16代江馬輝盛が破れたあと,その家臣,川上,和仁,神代氏等十三名が峠で自決した。村人は十三名の冥福を祈るため十三ヵ所に墓を作った。
峠はこの墓印とした十三本の木にちなんで「十三本木峠」と呼ばれ,地元の人は「じゅうさんぼうぎ」と発音していた。
 明治になって地図を作ったときに,この峠の「じゅうさんぼうぎ」の発音から十三墓岐の字を当てた。その後,墓を一カ所に集めて供養し,十三墓峠と呼ばれるようになった。
 現在,県道の見座~国府線の東側にあり,こんもり繁った林に囲まれた中に大きな自然石に「十三士之墓」と刻まれている。
八日町の住民は今でも往時を偲び,輝盛と13人の家臣を毎年,懇ろに弔っているという

3.三木(みつぎ)氏(1582年~1585年)
 三木氏は江馬氏と対峙する南飛騨の豪族であった。戦国争乱に当たって江馬は武田に,三木は上杉に付き,飛騨も戦いに明け暮れていたのである。
 1582年,信長が本能寺の変で死去すると,かねてから敵対関係にあった江馬輝盛や小島氏,さらに実弟の鍋山顯綱を討って,三木は飛弾一円を手中に納めた。しかし,それも束の間,越前大野領主の金森長近が秀吉の命を受け,飛騨平定の兵を進め,1585年に三木氏を亡ぼした。三木氏の神岡の治世は僅か3年であった。

3.金森長近
 秀吉の命を受け,金森長近が1585年,三木(みつぎ)氏を広瀬城で滅ぼし,翌1586年,越前大野から飛騨に転封となった。以後,1692年に奥州に転封されるまでの106年の間,高山を中心に飛弾地方に君臨した。

4.江戸時代
 1692年,幕府(綱吉)は飛弾の地下資源や森林に目を付け,6代藩主金森頼時を出羽国(山梨県)の上山(かみのやま)藩に移封し,飛弾を幕府の直轄領・天領とした。天領時代の177年間は25人の代官・郡代が入れ代わり,立ち替わり治世を行った。

5.明治時代
 町村名が幾たびか変遷している。明治8年神岡村となった。明治22年に市町村制の施行に当たり,船津町となった。

6.昭和時代
 1950年(昭和25年)6月10日に 船津町、阿曽布村、袖川村が合併し神岡町となる。
 神岡町は鉱山と共に盛衰を共にしてきた。1960年頃,神岡町の人口約27千人のうち鉱山社員は4千人を数えていた。家族を含めると神岡町の人口の50%以上が三井金属の家族で占めていた。神岡町の人口の最も多い時期であった。
 1978年,神岡鉱業は金属建値の低迷,需要の減退,円高の進行,景気の低迷等の四重苦により,未曾有得の大規模な人員整理を断行した。これ以降町の人口も衰退の一途を辿り,現在では約11千人まで落込んだ。
 ¶ 神岡町の人口
  1961年以来減少傾向をたどり,2004年2月1日に古川町,神岡町,河合
  村,宮川村の2町2村が合併し,飛騨市が誕生した。神岡町と神岡鉱業は車の両
  輪と例えられてきた構図も崩れ,新しい時代に入った。


ペルーという国
 青木大使がペルーの国を紹介する冒頭に,次のようなことを言っていた。(坂根博氏の受け売りということである。)
 歴史に「If もし」は禁物であるが,もし,ペルーという国が無かりせば,ロシアのピーター大帝もプロシャのフリードリッヒ大王も生まれなかったであろう。
 何故なら15世紀末にジャガイモがヨーロッパに広がったおかげで小麦の北限に位置する,貧しい辺境国家であったロシアとドイツが多くの人口を養えるようになり,天才的な指導者が生まれたのである。又
 もし,ペルーを中心とするアンデス文明が無かりせば,現代人はスパゲッティンのトマトソースもコロッケも賞味し得ないであろう。
 何故なら,トマトもジャガイモもペルーが原産だから。とくに,トマトはペルー人が,毒性を持った野生のトマトを食用野菜に改良したからである。

1-1.国土
 ペルーの国土は1,290千Km2で,日本のそれは378千Km2でる。即ち,日本の国土の約3.4倍である。エクアドル,コロンビア,ブラジル,ボリビア,チリ等に国境を接している。ペルーの国土の約60%がアマゾンの熱帯雨林地域である。流域面積世界一を誇るアマゾン河は,ペルーのアンデスを源流としてブラジルを貫流し,大西洋に注いでいる。
 首都リマは南緯12度に位置し,年間を通じてほとんど雨が降らない。雨が降ると大騒ぎとなる。彼方此方が洪水状態になる。
 ペルーの国土を三つに分けると以下の通りである。 

 ¶ セルバ: アンデス山脈の東側に位置するジャングル地帯で,国土の約60%を
  占めており,人口の約10%が居住するのみで,殆ど無人の地である。
 ¶ シエラ: 中央アンデスの山脈地帯で,国土の30%を占めている。人口の約
  40%が居住している。
 ¶ コスタ: 西側の海岸地帯で国土の10%を占める狭隘な地に人口の50%が
  居住している。


1-2.人口
 人口は約28百万人で,首都リマには約9百万人が居住している。元来首都リマの人口は50万人程度であったが,1950年代以降,山岳地方では生活が困難となった原住民が首都リマ市周辺に移住し,プエブロホーベン(若い町)を形成した。これはいわゆるスラム街である。上水道も下水道もない待ちである。杭を打ち段ボールで囲った家もある。兎に角雨が降らないから屋根もなくてもよい。

1)人種の構成
 インディオ(原住民)47%,メステイソ(混血)40%,白人12%,その他1%である。

2)公用語
 スペイン語である。地方ではケチュア語が使われている。宗教は殆どがカトリック教である。

1-3.気候
 リマでは日本のような四季はなく,乾期と雨期の2シーズンである。
 雨期は5月~10月で気温は13~19℃である。
 乾期は11月~4月で気温は6~13℃である。
 3000m以上の山岳,例えばワンサラ鉱山(標高3800m)では日本と同様に四季がある。但し,時期は日本と全く逆で,春は9月~11月,夏は12月~2月,秋は3月~5月,冬は6月~8月である。

1-4.歴史

1) 創世記
 B.C18千年頃,ベーリング海峡は地続きであった。アジア人が狩猟生活をしながらきた米国大陸を経て南米国大陸にたどり着いたと云われる。
 B.C12千年頃に描かれた壁画が,ペルー最南端のタクナ県,トケパラの洞窟にあるその壁画はスペインのアルタミラの壁画と同様に狩猟生活を対象とした動物が描かれている。
 B.C5千年頃,初歩的な農耕が始まり,人々は定住するようになった。その集落の跡にはサボテンの実,野生トマト,ジャガイモ等の食べ滓が発見されている。

2) 文明の黎明期
 B.C2千年頃,の初期にはワヌコ県のイゲラス川流域に,コトシュの「交叉した手」の神殿,カハマルカ県の「クンツ-ルワシ」の遺跡等がある。この頃リャマの家畜化が始まっている。

3) プレインカ時代
 BC900年頃,から以下のような数多くの文化が興亡した。チャビン文化,パラカス文化,ティアワナコ文化,ナスカ文化,ヴィール文化,モチ-カ文化,シカン文化,チム-文化,ワリ文化,チャンカイ文化等である。

4)インカ帝国
 インカ帝国は1100年頃から興り,1553年に13代の皇帝アタワルタがスペイン人フランシスコ・ピサロに殺害されるまで約400年間続いた。
 インカ帝国は基本的に原始共産的共同体社会である。インカ族の支配者は人民に労働を義務づけ,その対価として衣服・土器・コカ,及びその他生活に必要な物資を与えた。互恵と再配分で多くの部族を短期間に征服していった。後のスペイン人がインディオに対して行った,一方的な収奪とは異なった性格を有していた。領土については,北はエクアドルから南はチリに至る広範囲であった。言語はケチュア語で,文字は使用していなかった

5)植民地時代
 インカ帝国が1553年にスペイン人のフランシスコ・ピサロによって滅ぼされた後,スペインによる植民地支配となった。リマ市にはスペインの副王庁が設置された。
 その後,300年間に渡り植民地支配を受け,原住民は徹底的に搾取された。しかし,リマ市は南米全体のスペイン植民地支配の中心として栄えた。

6)独立国時代
 1821年7月21日,サンマルテイン将軍が王党派を駆逐し,リマで独立宣言を宣告した。
 独立以来,前半の45年間は植民地奪回を目論むスペインとの戦争に明け暮れした時代である。
 その後の125年間は,いろいろな大統領が交代したものの,結局,僅か12%の白人が
 「白人の白人による白人のための政治」
を行った時代である。
 最近の10年間は,1990年にフジモリ大統領が出現して以来,貧しい原住民のために水道・電気・学校等のインフラの整備が行われ,庶民の為の政治が行われるようになった。しかし,植民地以来,450年の政治体制や為政者の考え方はそう簡単には改善されるものではい。
 現在,貧困対策を模索している段階であるが,待ちきれない極貧者が物取り・強盗・テロ活動等の暴挙の徒と化している。

1-5.治安
 自分が1992年にペルーに赴任した当時は,ペルー市内ではCocha-Bomba「自動車爆弾」と呼ばれる時限爆弾が到る所に仕掛けられ,毎日のように彼方此方で爆発していた。ペトロペルーの高層ビルの窓ガラスが爆風で破壊されガラスの代わりにベニヤ板がはめ込んであった。
 ペルーには次の2つの左翼組織がある。

 ¶ MRTA (トウバク・アマル革命運動)
   Movimiento Revolucionario Tupac
   Amaru。
 ¶ Sendero Luminoso (輝ける道)

である。前者はペルーの左翼武装組織で,1983年にキューバ革命のチェ・ゲバラを範としビクトル・ポライ・カンポスによって結成された。現地および日系の実業家を誘拐し,身代金を稼いでいたグループである。後者はペルーの極左武装組織で,1970年に毛沢東思想を標榜するアビマエル・グスマンによって結成された。リマ市内ではCocha-Bomba「自動車爆弾」を仕掛け,地方では部落を攻撃し全員を殺害する破壊的な活動を行ってきた。
 これらのグループによるテロ活動は,1992年に頭領カンポスやグスマンが捕えられて以来,組織は弱体化していった。1996年ではテロに関する新聞のニュースにもなく現地駐在員からの報告も皆無となっている。


海外出張あちこち

 海外出張は1980年のカナダ・アメリカの鉱山見学を皮切りに,2002年のイタリアの地熱発電視察まで世界十数カ国を訪問した。たび重なる引っ越しで旅の資料は全く消失してしまった。以下は記憶頼りに記述した。

1.カナダ・アメリカの鉱山見学(1980年)

 1980年初めての海外出張で,カナダ,アメリカの鉱山見学する約2週間の出張であった。
 未曾有の合理化に尽力した御褒美に,カナダ・アメリカの鉱山見学をさせて戴くことになった。南光副所長直々に見学の鉱山やスケジュール等の計画を立案して戴いた。同期の選鉱技術者の山口君,一年後輩の採鉱技術?の中沢君,それに自分の3人であった。ニューヨークの支店に勤務している新島さんに通訳として随行して戴いた。
 バンク-バで新島さんと合流することになっていた。「成田発バンクーバ行」の飛行機に搭乗した。ところが,飛行機はバンクーバでなくシアトルに到着した。荷物も受け取ったから,飛行機の旅は終わったのである。
 バンク-バへは如何にして行くのか解らない。ほとほと弱っているとき日本語を喋る女性の検査官がいた。彼女に道案内をお願いした。彼女は早口で説明してその場を立ち去った。
 十分理解が出来なかったが指定された地下鉄に乗った。機械音で車内放送がされたので,只でも解らない英語が益々解らなかった。バンクーバで下車し,タクシーでホテルに向かった。途中の住宅街が中学時代の英語のテキスト「ジャックアンドベティ」に出てきた光景にそっくりであった。芝生の庭で家の周りが囲まれていた。「ジャックアンドベティ」で芝生を刈っている光景が描かれている頁を思い出した。
 ホテルに着いたときはぐったりしてベッドの寝込んでしまった。ニューヨークから来た新島さんがロビーから電話を掛けてくれた。そのベルの音で目が覚めた。疲れ切った三人と,元気のよい新島さんで会食をした。
 翌日からレンタカーで鉱山見学の旅をすることになった。カナダでは露天掘りのローネックス鉱山,アンダーグランドの鉱山ではサリバン鉱山やキッドクリーク鉱山等であった
 レンタカーでバンクーバを出発した。メリッテ,カムループス,バンフ国立公園,カルガリー等を走って,ローネックス鉱山,クレイグモント鉱山,サリバン鉱山等を見学した

1-1.サリバン鉱山を見学。
 コミンコ社所有の古い鉱山である。コミンコ社はアラスカにレッド・ドッグ鉱山,北極圏にポラリス鉱山を所有する。製錬所ではペルーにカハマルキージャ製錬所を所有している。新規に開発すべき鉱床は少なくなっており,ピラー採鉱をしている段階であった。あたかも神岡鉱山のような雰囲気であった。亜鉛品位6.6%,鉛3.2%である。奇しくも神岡と同時期の2001年第4四半期に鉱量枯渇で閉山した。昭和43年頃神岡で係員をしていた早川氏もこの鉱山を見学したと言っていた。

1-2.クレイグモント鉱山を見学。
 採鉱法に典型的なサブレベルケービング法を採用する鉱山であった。南光さんも10年ほど前に見学され,往時は見学者が多く来たそうだ。
 見学者に鉱山の概況などを説明する専用の部屋が設けてあった。鉱山の模型も設置してあった。我々の訪れた時は,閉山する時期が間近に迫っており,見学者は我々のみであったので寂しい気がした。

1-3.ローネックス鉱山
 日本の非鉄6社が参加する融資買鉱の銅鉱山である。露天掘りにより銅鉱床を採掘する鉱山である。精鉱は三井金属の銅製錬所に輸出されていた。海外の露天掘り鉱山見学の第1号であった。規模の巨大さに驚いた。

1-4.キッドクリーク鉱山
 トロントから北へ飛びティミンズの町へ。キッドクリーク鉱山を見学。キドクリーク鉱山は天が二物も三物を与えた鉱山である。
 品位は良好,鉱床規模は大きく,岩盤は強固と三拍子揃った鉱山である。A鉱体1億トン,B鉱体1億トンで含有金属は亜鉛,鉛,金,銀等である。亜鉛換算品位で20%はあったと記憶する。鉱山技術者は
 「採算性のことは考えたことはない,鉱石を完全採掘することのみを考えている。」
と誇らしげに語っていた。
 A鉱体を区画に区切って採掘されていたが,採掘を終了した跡には,廃滓に数パーセントのセメントを混合して充填されていた。隣接する区画の採掘を容易にするためであり,完全採掘のためでもある
 キッドクリークの正面玄関に
  「文句があれば社長に言え!」
の張り紙が印象的であった。儲かる鉱山は言うことが違うね。

1-5.ナイヤガラ瀑布を観光
 水量は春から初夏のピークシーズンでおよそ毎秒5,720 m3になる。夏は毎秒2,832 m3で,90%はカナダ滝に流れ込むが、水力発電施設に一部利用されている。アメリカ側からの眺望は殆ど滝の背後に位置し,滝の正面や全体を眺望できるのはカナダ側である。
 ナイヤガラの滝は以下の三つで構成されている。
   カナダ滝(落差:53m.滝壺の深さ56m)
   アメリカ滝(落差21m~43m,幅260m)
   ブライダルベール滝(落差55m,幅15m)


1-6.ヤングマイン鉱山
 テネシー州の鉱山で採鉱法はサブレベルストーピング法であった。亜鉛品位3%の低品位鉱山であった。世の中広い,神岡鉱山より低品位の鉱山が存在するとは驚きであった。この鉱山の土砂にあたる部分は肥料の製造に供されるので,採掘したものはすべて金になる。捨てるものはない。従って,莫大な費用のかかる堆積場も必要ない。実に無駄のない鉱山であった。採掘跡の充填は地表の土砂を露天掘りすることに依っていた。

1-7.クライマックス鉱山
 コロラド州の世界最大のモリブデン鉱山で採鉱法露天掘り終了後はブロックケービング法であった。
 南光副所長の土産にトルコ石のタイピンを買い求めた。売り子と英会話を楽しみながら勘定を終えた。エスカレータに乗って階上に向かっているとき,下から
 「修ちゃん!修ちゃん!」
と叫ぶ声が聞こえる。振り返って下を見ると。先ほどの女の子が手を振っている。引き返すと金だけ支払って「土産に買ったタイピン」を置き忘れていたのだ。

1-8.ブラッシークリーク鉱山
 ミズリー州を中心とする鉛の富鉱床が発見され、トリ・ステート(Tri-State)と呼ばれるミズリー・オクラホマ・カンザス3 州に跨る鉱床群が続いて発見されて,後にLead Belt と名付けられた
 世界でも有数の鉛産地へと発展した。この辺りには鉱山が多くあり,鉱山名も「クリーク」という名前が多かった。例えばブラッシークリーク」,「インデアンクリーク」等である。
 採鉱法はルームアンドピラー法で油圧ジャンボやLHD機等,大型機械が使われていたブラッシークリーク鉱山の技術者が
 「我々はタムロックの機械には満足している。」
と,言った言葉が今でも忘れられない。
 栃洞鉱山でタムロックの機械を導入するのは,この後10年後の1990年である。
 採鉱法としてルーム&ピラー法を採用している鉱山を初めて見学した。この鉱床は高さ15m~20m,幅50m程度である。長さはいくらあるか解らない。機械化に適した鉱山である。タムロック社の機械を多く採用していた。

1-9.ブルーバード鉱山,
 アリゾナ州の露天掘り鉱山。アメリカ大陸,東から西へ
 カナダでもそうであったが,アメリカ大陸を飛行機で横断すると,4~5時間要する。北海道から九州へ飛んでも2時間程度である。アメリカは“どでかい国”であると実感した。
 低品位酸化鉱等浮遊選鉱が困難な鉱石にはSX-EW法やヒープリーチングが適用されていた。SX-EW法はSolvent Extraction Electrowinning の略語で日本語では「溶媒抽出電解精錬」と訳されている。この方法の依る銅鉱石の回収は1968年にアリゾナ州のブルーバード鉱山から始まった。その後Cyprus 社のBagdad鉱山でSX-EWプラントが完成。1973年にはザンビアのNcchanga Consolidated Copper 鉱山でもプラントが完成した。1980年代に入ると,Phelps Dodge 社がSX-EW法の導入に依って再生した。
 最近ではチリのEl Abra (CODELCO/Cyprus Amax)、Escondida (BHP)などSX-EW法の導入が顕著である。

1-10.ゴルフ
 テネシー州ノックスヴィルに到着した時,新島さんが所用で,ニューヨークに帰った。その間の日曜日に,中沢君とゴルフに出掛けた。ホテルでゴルフ場が何処にあるか訊ねた
 「国道を走れば,直ぐ近くにある。」
と教えてくれた。
 中沢君と二人で出かけたが,中々見つからない。ガソリンスタンドで訊ねた。
 「この国道を走れば,直ぐ近くにある。」
と教えてくれた。車で走っても中々見つからない。1時間位走ってやっと見つかった。
 彼等の「すぐ近く」の間隔は,日本人にとっては「遠い」という感覚であることが分かった。ゴルフ場は日本と違い,老人や中学生の子供達が楽しんでいた。中沢君と二人の日本人を見ると,老人達は
 「どうぞ先に」
と譲ってくれた。彼等慌てない。ゆっくりと楽しんでいるのである。

1-11.会食
 セントルイスのでの会食。レストランレストランはビルの最上階に在り,ゆっくり回転する。食事をしながら,周囲の夜景を眺望する構造になっている。ゲートウェイア-チを直ぐ近くに眺めながら食事を取った。一回転すると約1時間,巨大なビフテキを丁度食べ終わる頃である。
 このアーチの高さは192m、最大幅は192mである。セントルイスでは最も高い建築物で、ミズーリ州全体でもカンザスシティのワン・カンザスシティ・プレイス(One Kansas City Place、高さ192.6m)に次いで2番目の高さである。断面は正三角形になっている。1辺の長さは地表で16.5m、アーチの頂点で5.2mである。3面の側壁は鉄筋コンクリート造りで,高さ91m地点まではステンレス鋼板で、それより上では炭素鋼板で覆われている。内部は中空になっており,展望台へのトラムと非常階段が備えられている。


1-12.ラスベガス
 ネバタ州ではラスベガスの観光を楽しんだ。金の有り余った人が行くところで,決して貧乏人の行くところではない。
 ラスベガス(Las Vegas)は1820年代後半,ソルトレイクシティからモルモン教徒によって発見された。ネバタ砂漠の中にある。この付近は窪んだ地形で,オアシスとなっていた。
 「ベガ(Vega)」とはスペイン語の「肥沃な草原」の意で,「ベガス(Vegas)」はその複数形。これに女性形の定冠詞(複数形)のLasを付けて「ラスベガス(Las Vegas)」となった。因みに,ロスアンゼルスの名前も同様に,
 「ロスアンゼルス(Los Angels)」とはスペイン語の「天使達」の意で,「アンゼル(Angels)」はその複数形。これに男性形の定冠詞のLosを付けてロスアンゼルス(Los Angels)となった。

1-13.ディズニーランドを見物
 ディズニーランドはカリフォルニア州,ロスアンゼルス近郊,アナハイム市の南西部に位置し,1955年にオープンした。駐車上に車を止めて,入口までバスに乗って行くほどの距離があったように感じた。

1-14.感想
 この見学旅行を通じて感じたことはアメリカという国は大きい,東海岸から西海岸まで,飛行機で4~5時間を要する。実にでっかいと言うことであった。
 「何事につけ大きいと言うことである。ビフテキやハンバーガーも大きい。鉱床の
  規模も大きい。」
 田舎に行くと日本のような集落がない,向こう三軒両隣もない。ハイウェイを走っているとポツンと民家がある,またしばらく走っていると,ポツンと民家がある。隣の家に行くには自動車で1時間かかる。これでは隣近所が助け合える訳がない。生きていくためには,隣近所が助け合うより,自分のことは自分でやることが先決である。個人主義,独立自尊の精神が重んじられる。
 鉱山について言うと,規模の大きい鉱山で機械化の進んだ鉱山であった。
 鉱山経営については,探鉱段階で徹底的にボーリングを行って,鉱床範囲を明らかにする。採掘計画もそれに基づいて立案し,途中で変更することはない。計画する人と実施する人は別人である。いわゆるライン・スタッフ制が徹底している。出世するのはスタッフの部門である。
 鉱石を採掘する考え方は日本とはまるで異なっている。日本では,少なくとも神岡では採掘しながら探鉱し,計画を立案する人も実施する人も同じ人物である。計画も現状の鉱床範囲によって屡々変える。
 女性が鉱山で働いていた。朝訪問したとき,シャワーを浴びた女性が帰宅する光景に出会った。坑内の作業で女性に一番適している作業は何かと質問したら,「フォアマンである」と云った。「フォアマン」とは日本の鉱山では現場監督者である。日本は未だ男女平等と言っているが,実質が伴っていないように思う。
 鉱山では黒人が働いる場面に殆ど遭遇しなかった。理由を聞くと黒人が働くことを制限している訳ではない。彼らが鉱山では働きたがらないのである。彼らはニューヨークのように仲間が沢山いる処で働くが,田舎の仲間のいない処では働きたがらないという説明であった。


2.インド:マイニングコングレス(1984年)

 第12回マイニングコングレスがインドで開かれた。この会議は社会主義国からが多く出席する会議のようであった。日本からは東京大学の山口梅太郎教授,同和鉱業の津村和廣氏それに三井金属から自分が出席した。同和の津村さんはコングレスで津村和廣氏は発表テーマを抱えていたが,自分は何も発表しないので気楽な旅であった。
 インドに深夜に到着した。翌朝起きて20階から外を眺めて驚いた。ホテルの裏庭に当たる場所に,筵の家屋が建ち並んでいて数百人の人が居住している。いわゆるスラム街である。彼等はビル建設に従事している労働者であることが解った。
 そして,ビル建設の工事はコンクリートを小さなミキサーで混合し,バケツに入れて運んでいる。鉄筋を人力,「玄翁をふるって」切断している。まさに人海戦術である。
 朝,マイニングコングレスの会場に出かけた。タクシーの運転手に地図を見せて行き先を教えた。いくら走っても会場に到着しない。
 「如何したのだ」
と訊ねると
 「行く先が解らない。」
と答える。車を止めて道行く人に訊ねる。彼等も地図を示して「行く先」を訊ねる。彼等も一生懸命地図を見入る。しかし,はっきりした答えは返ってこない。要するに地図に書いてある文字が読めないのである。数人の人に訊ねてやっと解った。会場に到着した時は,首相が開会の挨拶をしていた。流石に資源国である。鉱業会に一国の首相が出席するのである。日本の鉱業会では大臣すら顔を出さない。


 夜はホテルの中庭でレセプションが開催された。やはり首相が出席した。入り口には象が2頭でお出迎えをしてくれた。宴会は豊富な料理に,色々な曲芸師の技を見学しながら酒を戴いた。鉱業会鋼管鉱業社の営業マンに鉄鉱石の話を聞いた。
 津村氏はこの時が初めての海外出張であったそうだ。大層はしゃいでいた。夜町を探索してくると言って出掛けていった。深夜に帰って来て自分の部屋に入ってきた。タクシーに乗ってさるところに出かけて行った。運転者は途中車を止めてウイスキ-を勧めた。それを飲んでお土産に何を買って帰るか相談していた。言葉は通じないが,ただならぬ雰囲気になってきたので帰って来たと言う。これは運転手から買わされたウイスキ-だと言って,ボトルをテーブルの上に置いた。二人で飲んだところ,チョット癖のあるウイスキ-であったが,お国柄だから止むを得ないかと思っていた。
 その夜,寝入った後に異様な夢を幾つも見た。多分麻薬のようなものが入っていたに違いない。
 インドのお土産品は乳白色のムーンストーンを数個買った。
 宝石商が夜ノックして売りに来る。その時は知らなかったけれど6月の誕生石で,丁度妻が6月生まれであった。山口先生の話によれば,石の値段より日本での加工費の方が高いそうである。

2-1.コラール金鉱山
 世界で最も深い地下を掘削している鉱山はインドのコラール金山と南アフリカのタウトナ鉱山である。地下3500m~4000mの震度であると記憶する。地下最深部に行くためには,ケージは2段階になっており,1500m地点で乗り換える構造になっている。1基のケージで3000mを巻き上げることは困難なのである。
 コラール金鉱山の坑内は熱い。案内者連れられてケージに搭乗した。その時,環境測定の作業員が乗り込んできた。彼は裸足であった。

2-2.石炭の露天掘
 坑内掘りの石炭鉱山はガス爆発等危険が伴うが,露天掘りはその心配はない。大型の露天掘り用の重機類で効率よく採掘がおこなわれていた。


3.アメリカ:ウェストマネージメント(1987年)

 資源開発部に勤務する内示受けたとき,本社で原子力廃棄物に関する仕事に従事すると聞いていた。転勤する前に,アメリカで開催されたウェストマネージメントに参加した。原子力環境整備センターが企画されたツアーである。
 この後原子力環境整備センターから原子力廃棄物に関する仕事が発注されることになっていた。
 このツアーには,仕事を受注するためにゼネコンやコンサルタント会社等の数十社が参加した。
 アメリカのウイップの廃棄物処分場のパイロットプラン建設現場を見学した。串木野地区の地下備蓄の建設現場で,施工管理会社の社員として,2~3カ月働いたことがある。日本の地下備蓄の設計はこのウイップの廃棄物処分場の設計を見本に設計されたようだ。ツアーでは中央開発(株)の茂木氏と一緒であった。彼は元三井金属に勤務していた地質屋であった。
 見渡す限り砂漠,どちらを向いても砂漠(土漠)。目的地に着く迄にバスの運転手が何度か迷子になった挙げ句にやっとたどり着いた。
 西部劇によく登場するツーソン(Tucson)の町を訪れた。ここには西部劇が撮影された。撮影に使われた舞台がそのまま,町に寄付された。我々が訪れた時に撮影が行われていた。日本の太秦の映画村のようであ,一つの観光地であった。

4.ブラジル・チリ鉱山視察(1989年)

 神岡鉱業所の社長は東海北陸鉱業界の会長を就任する慣例になっていた。当時の神岡鉱業の社長は吉田さんで,会員に呼びかけて南米旅行を企てた。1989年は鉱山の景気の好い時期であった。東海北陸の鉱山は石灰石鉱山が殆どであった。彼等は今なら社費で南米旅行が出来ると考え,一も二もなく賛成した。
 旅行会社は2月のリオのカ-ニバルを目当てにツアーを企てた。旅程は
 日本 ⇒ サンパウロ ⇒ チリ⇒ リオデジャネイロ ⇒ 日本
 吉田社長はこの旅行の言い出しっぺであったが,関係会社「ユアソフト」の会社創設の記念式典と日程が重なり参加できなかった。酷く残念がっていた。ユアソフトの総務課長であった古島憲一氏(元神岡労組の委員長)に,日程の設定に関してくどくど文句を言っていた。彼が労組の委員長時代には,面と向かって文句を言ったことがなかったが,この時ぞとばかり小言を言っていた。

4-1.El Teniente(エルテニエンテ)鉱山
 チリの首都Santiago(サンチャゴ)の南80km,海抜2500mに位置する
 坑内掘の鉱山としては世界最大級の生産量を誇る。国営企業CODELCO(コデルコ)が所有している。
 採鉱法はブロックケービング法である。日産10,000Tである栃洞鉱の約3倍の生産量である。
 構内事務所まで10kmを人車に乗って坑内に入る。人車は神岡鉄道の客車と同じくらい大きい。神岡鉄道で神岡から茂住に行くようなものである。坑内を巡視する時は,背広の上に作業服を着て,靴は革靴を履いたままで,巨大な長靴はいた。鉱山が大規模である所為か,何事もダイナミックである。
 坑内は抽出坑道準においても,抽出の影響を受け,側壁や天?にクラックが入っていた。地表までケービングしているので,上部坑道は殆ど見るべき個所はない。

4-2 鉄鉱石の露天掘り鉱山を見学
 ブラジルのミナスジェライス州のベロオリゾンテ経由で鉱山に入った。
 ベンチの長さ3がkm程あった。重機械類を駆使する技術があれば,採鉱法など全く知らなくても採掘可能な鉱山である。
 ゴルフ場も所有している。
 テキーラ:サボテンから造られると云われるが誤りで,竜舌蘭という植物からつくられる。アルコール分の高い酒である。メキシコの酒であるが,この旅行中によく飲んだ。
 グラスの縁をレモンで湿らせ,そこに食塩が付着したカクテルグラスで飲む。
 ミナスジェライス州は宝石が沢山獲れる州である。ブラジルのお土産として,紺青の光沢を放つアクアマリンを沢山買い込んだ。高級なものではないが。
 産地がブラジルであることから,種類も豊富で,割安に手に入る魅力がある。この石はエメラルドの仲間で,エメラルドの緑を青に変えたようなものであった。

4-3 カーニバル
 日本の高校野球のように,地方戦を勝ち抜いたチ-ムがリオの本会場で競演する。バスで移動中,各所でカーニバルが催されていた。
 本会場はとてつもなく大きい。広さは85千m2,全長650m,収容人員88千人。マルケス・デ・サプカイア通りに常設されている。
 天が裂けんばかりの大音響でサンバが響く。行列を成して行進しながら,会場の中央でサンバに合わせて大勢のダンサーが踊る。夜9時から翌朝7時まで続く。勿論,ダンサーは裸同然のグラマーが派手な服装で踊る。


 ブラジルの国民はこのカーニバルのために1年間を過ごす。カーニバルに出場する彼女達の大半は,リオの町を取り巻く一大スラム街に住んでいる。掘立小屋のようなお粗末な家に住み,手内職で生計を立てている。1年間働いて貯めたお金で衣装を仕立て,一代スターを夢見て出場する。たとえその夢が儚く消え去ろうと,悲しむことはない。カーニバルを楽しむことが生きがいなのである。ホテルは1年前から予約で満杯である。

4-4 イグアスの滝
 大小約275もの滝があり,なかには高さ70mの滝もある。水量は毎秒65千トンにものぼる。スケールが大きいので全体を眺望するためヘリコプターで見学するコースがある。

 世界三大瀑布は一般的にイグアスの滝(幅2.7km,高さ100m),ヴィクトリア滝(幅1.7km,高さ105m),ナイヤガラ滝(幅670m,高さ54m)の3つの滝を指す。何れの滝も2~3国間にまたがっている特徴がある。イグアスの滝はブラジルとアルゼンチンとパラグアイに,ヴィクトリア滝はジンバブエとザンビアに,ナイヤガラ滝はアメリカ合衆国とカナダにまたがっている。

 広大な土地の中にイグアスの滝がある。
 日系の女性案内人に
 「この辺りの土地価格はどんなものか?」
と訊ねたら
 「齋藤さん!この辺りの土地,欲しいだけ全部売ってあげますよ!」
という返事が返ってきた。馬鹿なこと訊かなければ良かった。

5.アメリカ地下利用視察(1990年)
 神岡の資源開発部長で地下利用事業室を立ち上げた時,清水建設の高崎氏の誘いがあり
 ¶ アメリカの地下利用の状況
 ¶ フロリダのディズニ-シ-
 ¶ ナイヤガラ瀑布
等の視察旅行をした。


6.フィンランドタムロック社訪問(1992年)

 人口とGDPが日本の北海道とほぼ同じフィンランドは、1980年代以降、農業と林業中心の経済体制から、携帯電話の生産量が世界1位になるなどのハイテク産業を基幹とする工業先進国へと著しい変化を遂げることに成功した。
高い教育水準なども影響した結果、ヨーロッパ内でも有数の経済大国となった。世界経済フォーラム(WEF)が毎年発表する国際経済競争力の順位では、2001年から2004年までと4年連続首位となった。
1992年タムロック社が招待によりタムロック社を訪問。この頃ゼネコンもトンネル掘削で油圧ジャンボの導入を検討していた。タムロック社はゼネコンに油圧ジャンボを売り込むためにフィンランドに招待したのである。タムロック社の案内人が川の流れている公園に連れて行ってくれた。川の向こうは林で,此方は川の水を引き込んで鱒の養殖をしていた。彼が言う
「川の向こうに兎を取るか,此方で鱒を釣るかで楽しんで下さい。」
「如何にして兎を取るのか?」
「石を投げて!」
「まさか?」
兎を取りに行った者は誰もいなかった。
途中フランスに立ち寄りルーブル美術館を見学した。シャンゼリゼ通りのホテルと美術館を何回か往復した所為かこの日は万歩計が45,000歩を示していた。これが万歩計の生涯における最高記録である。

7.ペルー勤務(1992~1994)

 1992年,自分が51歳のときであった。海外勤務はこれが初めての最後僅か2年間であっが,生涯の思い出となった。治安が悪い時代で,家族同伴の勤務は禁じられていた
 観光には殆ど出掛けなかった。見物したのはリマ市内の博物館くらいである。

-1.国立博物館 (Museo de la Nacion)
 1988年に設立。ペルーで最も重要な博物館の一つである。この博物館にはペルーにおける人類の数千ものミイラが展示されている。特にモチーカ,ナスカ,ワリ文化の土器が際立っている。

-2.黄金博物館・武器博物館
      (Museo Oro del Peru y Armas del Mundo)
 1960年代に建てられた博物館。
 金の展示品としては、金製のマスク、装飾品、器など多くの収集品が展示されている。また武器の展示場では様々な剣類から銃まで歴史的な武器が展示されている。日本の武具も少数ながら展示してある。

-3.天野博物館 (Museo Amano)
 実業家の天野芳太郎が私財を投じ設立。1964年に開設。
天野氏は特にチャンカイ川谷の文化、チャンカイ文化研究の第一人者として有名。展示物としては主にチャンカイ文化の遺品として、壺、器、人形などの土器類やデザイン的にも色彩的にもバリエーション豊かな織物の数々を見ることができる。


8.中央アジア鉱山調査(1994年~1997年)
 1992年ソ連邦が崩壊し,中央アジア諸国が独立した。中央アジア諸国は国営鉱山の民営化案件を沢山抱えていた。鉱山開発のため,カザフスタン,ウズベキスタン,キルギスタン等の国々を訪問した。
 中央アジアにはフランクフルト経由とモスクワ経由と2通りのコースがあった。利用したコースは圧倒的に,フランクフルト経由が多かった。
 カザフスタンは資源に恵まれた鉱業国である。キルギスタンとウズベキスタンはシルクロードの町であった。
 キルギスと中国の国境には天山山脈が東西に走っている。元来農業と牧畜の国であったが,近年資源開発が脚光を浴びるようになった。
 カザフスタンではベースメタル案件,キルギスタン,ウズベキスタンでは金鉱床案件であった。

9.ペルー出張(1994年~1997年)
 本店資源開発部長は関係会社の取締約を兼務していた。ペルーのワンサラ鉱山を経営するサンタルイサ社も,資源開発部の関係会社の一つであった。サンタルイサ社の取締役会は3,69,12月に開催された。その都度ペルーニ出張した。資源開発部長を4年間務めたから,おおよそ16回日本とペルーを往復したことになる。往復航空券はペルーで買うと日本の約半額で購入することが出来る。従って,航空券はペルーで往復券を買う事にしていた。社長室と経理部それに資源開発部で,ケチア鉱山の視察に言った。リマの飛行場から小型飛行機でクスコに飛んだ。海抜0mからいきなり3000mの校地に飛び立つのでクスコに着いたときに高山病に罹る人がいる。クスコで迎えてくれたのは日系二世の女性案内人であった。ケチュアに入る前にクスコ観光をした。途中日系二世の女性案内人は自宅に連れて行って,コカ茶を御馳走してくれた。コカ茶を飲むことによって高山病の症状を緩和する効果があるらしい。体のでかい弘中君がこれは好いと言ってコカ茶を何杯も飲んでいた。
 ボリビアの鉱山労働者はコカの葉を噛みながら仕事をする習慣があるらしい。ポトシの銀鉱山の坑内にはコカの葉を噛んだ滓が沢山落ちているそうである。ペルーでも
コカ茶は「マテ・デ・コカ」(mate de coca)と呼ばれ,市販されている。

10. ロンドン:ETZ社訪問(1996年)
 ペルー国営のセントロミン鉱山会社の民営化案件で,イギリスの鉱山会社RTZと共同入札に関する打ち合わせ。
 セントロミンはイロの製錬所や亜鉛の鉱山を所有していた。自分は鉱山に興味思っていた。RTZはイロの製錬所と露天掘鉱山セロデパスコ以外には興味が無いようであった。
 自分は背丈に合った鉱山であるセントクリストバル鉱山に興味を持っていた。この鉱山は坑内掘の中規模鉱山である。品位は亜鉛が6%程度であった。鉱量が増加する可能性を秘めていた。 岩盤も強固であった。この案件は検討するだけで終わってしまった。近年セントクリストバルが素晴らしい鉱山に成長した噂を聞いた。思い切って手を挙げれば良かったと後悔する。
 観光で大英博物館を見学したが,世界の国々から集めた略奪品を展示しているようで,極めて不愉快であった。フランスのルーブル美術館が許される限界である。

11.カナダ・オーストラリア事務所(1996年)
 1996年,資源開発部はオ-ストラリアとカナダに事務所を設けていた。鉱山関係の情報収集のためである。オ-ストラリア事務所には坂井治文君,カナダ事務所には大坪泰典君がいた。二人の陣中見舞いと自分の見聞を広めるために両事務所を訪れた。オーストラリアでは西海岸のスーパピットという露天掘り金鉱山を見学した。金品位は1g/T程度で,低品位であるが大規模な露天掘りにより採算を得ている。

12.イタリア・オーストリア地熱調査(2002年)

 2002年,地熱開発協議会で地熱発電発祥の地であるイタリアのラルレデロやオーストリアの地熱利用を見学した。自分は地熱開発協議会の会長として,奥会津社からは佐伯和宏君が参加した。奥会津社これが在職中最後の海外出張であった。しかし,この時の旅行中の写真は1枚も見当たらない。家中,探しても見つからない。紛失したのである。

11-1.旅程
 2002年11月24日~12月3日
 東京 ⇒ ローマ ⇒ ラルデレロ ⇒ ポマランセ ⇒ ラディコンドリ
 ⇒ ピサ ⇒ フェラーラ ⇒ ベニス ⇒ ウイーン ⇒ リンツ  ⇒
 ゲインベルグ ⇒ アルセイム ⇒ ウイーン⇒ パリ ⇒ 東京

11-2.ラルデレロ
 イタリアのトスカーナ州の地域はホウ酸を回収していた。 1904年に地熱蒸気を用いた発電が世界で最初に試みられた。発電設備容量は1942年までに128千kWeに達している。
 ラルデレロの実験の成功が引き金になり,他の国でも発電に対する動きが始まった。
 1919年に日本の別府において最初の地熱井が掘削され,1925年には 1.12 kWe の発電が行われました。また,アメリカ,カリフォルニア州のガイザースでは1921年に最初の地熱井の掘削が,1958年にはニュージーランドで小規模な地熱発電が行われています。これに引き続き,1959年にメキシコで,発電が開始された。
 地熱のデモンストレーションセンタを訪問。
 イタリアの地熱公的機関の目標は新規の地熱発電所を立ち上げることであった。日本のNEDOやNEF,金属事業団等は探鉱や調査を目標としている。新規の鉱山や地熱発電所が開発されなくとも調査をして茶を濁しておれば飯のタネになるのである。

11-3.バチカン市国
 イタリアのローマ市内にある世界最小の主権国家である。面積は約0.44km2である。国際的な承認を受ける独立国としては世界で最も小さな国最小で,東京ディズニーランド (約0.52km2) よりも小さい。
 バチカン市国はローマの北西部に位置するバチカンの丘の上,テベレ川の右岸にある。かつて教皇を外部の攻撃から守るために築かれた城壁で囲まれている。
 その狭い領土の中にサン・ピエトロ大聖堂、バチカン宮殿、バチカン美術館、サン・ピエトロ広場などが存在する。
 バチカンの人口は826人(2009年7月推定値)であり、彼らはバチカンの城壁内で生活している。バチカン市民のほとんどはカトリックの修道者であり,枢機卿・司祭などの聖職者と,叙階されていない修道士・修道女がいる。教皇庁で働く修道者以外の  一般職員は3000人にものぼるが、彼らのほとんどは市国外に居住し,そこから通勤している。
 バチカン市国を散策したが,狭い煉瓦が敷き詰められた式通りの彼方此方に車が駐車していて,16世紀と20世紀が同居しているようで誠にバランスが悪い。

11-4.嘆きの橋
 ドカーレ宮殿(写真左手)の尋問室と古い牢獄(写真右手)を結んでいる。囚人は尋問が終わるとこの橋を渡って牢獄に追い立てられる。
 彼等にとって,この橋から眺める景色が,投獄される前に見る最後のヴェネチアの景色であった。囚人はこの美しい景色を眺め,嘆きい悲しむことから「嘆きの橋」と命名された。


11-5.ピサの斜塔
 高さは地上55m,階段は297段あり,重量は14,453t,地盤にかかる平均応力は50.7tf/m2と見積もられている。


 ある時期,傾斜の増大と倒壊の危惧があったがその後の処置により,当分問題ないと判断されている。現在の傾斜角は約5.5度で、傾斜の進行は止まっているそうである。
 傾斜の原因は,1990年に行われた地質調査によれば,地盤の土質が極めて不均質であったことである。南側の土質が相対的にやわらかく年月を経るうちに傾き始め,それにより回転モーメントが増大してますます地盤に対する負担が大きくなり.結果的には塔の南側が大きく沈下するという事態に陥ったのである。
工期は1173年に始まり,完成は1372年で約200年間掛かっている。

11-6.ヴェネツイア(Venezia) 
 アドリア海の最深部のヴィチア湾にできた潟(Laguna )に築かれた水の都市である。イタリア語でヴェネツイア,英語でヴェニス(Venice)と呼ばれている。


 町には狭く,迷路のような路地が張り巡らされている。満潮時には冠水する。自分たちが訪れた時も路地には蜜柑箱の上に板を並べてありその上を歩行した。こんな水没した町の何処に魅力があるのだろう。

おわりに

 振り返れば,自分の人生は鉱山での労務管理,鉱山技術の改革,鉱山経営に終始した人生であった。
 以下は渋江抽斎(1805年~1852年)が36歳の時に心境を述べた漢詩(述志)である。
  三十七年如一瞬      三十七年,一瞬の如し
  学医伝業薄才伸      医を学び,業を伝て,薄才伸ぶ
  栄枯窮達任天命      栄枯窮達は,天命に任し
  安楽換銭不患貧      安楽を銭に換え,貧をうれへず
 この述志で「三十七」を「六十三」に「医」を「鉱」に換えれば,自分の退職時(63歳)の述志となる。
 「薄才伸ぶ」と「安楽を銭に換え貧を憂えず」の解釈如何で,述志は「陰」にも「陽」にも解釈しうる。
 森鴎外は「陰」に解釈しているけれども,少なくとも我が述志は「陽」に解釈したい。

 昨年(2009年)の3月に自叙伝を思い立った。我が人生航路のお土産として一文を孫達に残しておきたいと考えたのである。
 今年の4月まで約1年間,殆どこの仕事にかかりっきりであった。日ごろ文章を綴ることをしていない自分が,自叙伝を書くことは根気のいる仕事であり,時間のかかる仕事であった。
 一応出来上がった文章を読み直すと,誤字誤植が多いことに驚いた。原因は文章能力が欠如していることもあるが,大部分はパソコン入力に起因するものであった。パソコンはペルー勤務時代に,単身赴任の徒然に,五十云歳で始めたので,技術が未熟なのである。
 これらの誤字誤植をチェックして,ほぼ完璧であると思われる文章を女房と遊びに来る娘達に添削を依頼した。その結果,50カ所以上に及ぶ誤字誤植が発見された。加えて,記述の不適切とか技術的事項は理解し難い。等々の苦情があった。
 出版に当たり,書籍一万冊を所有する読書家の兄に添削を依頼した。更に,云十箇所の指摘があった。その度に,書き直しや分類のやり直し作業を余儀なくされた。我が人生同様に「落丁の多い」出来映えだったが,なんとか出来上がった。
 手持ちに資料で間に合わない部分を,神岡鉱山の渋江社長,三井金属資源開発部の五味部長,奥会津社の安達社長に提供して戴いた。書面を借りて御礼する。


著者略歴
1941年2月3日兵庫県養父市八鹿町に生まれる。
1965年 京都大学工学部資源工学科卒
1983年 三井金属神岡鉱業栃洞坑鉱長
1987年 技術士資格取得
1992年 三井金属ペルー支社長
1997年 三井金属取締役兼神岡鉱業社長
2000年 奥会津地熱社長
2003年 退職


「思い出すことなど」 第Ⅱ部 流水之巻
2010年5月15日 第1刷
2010年1月20日 第2刷
著者    齋藤修二
製本    株式会社オーエム
印刷     さいとう書房
発行所   さいとう書房


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