自叙伝:斎藤修二の採鉱屋の半生栃洞坑27年間の断想

斎藤修二自叙伝
思い出すことなど
第Ⅰ部
思い出すことなど
第Ⅱ部 行雲之巻
思い出すことなど
第Ⅱ部 流水の巻
栃洞坑27年間の断想

栃洞坑27年間の断想
斎藤 修二

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はじめに 第2章
栃洞坑の概要
第3章
東 尚七 坑長
(昭和40年~昭和45)
第4章
高田 久明 坑長
(昭和45年~昭和49年)
はじめに 1 1.昭和初期の生産量と粗鉱品位 21 1.組織 35 1.組織 55
2.昭和40年以降の生産量と粗鉱品位 23 2.出鉱量 36 2.出鉱量 55
第1章
神岡鉱山の沿革
3.選鉱場の増強 25 3.採鉱法 38 3.採鉱法 56
4.採鉱法 26 4.機械化 41 4.機械化 58
5.労働生産性 29 5.技術革新 44 5.技術革新 60
1.養老年間 4 6.人員 30 6.在籍人員 48 6.人員 63
2.江馬時代1221-1582
4 7.災害件数 31 7.災害件数等 49 7.災害件数 64
3.金森時代1585-1692 5 8.経常損益 32 8.経常損益 50 8.経常損益 65
4.江戸時代 6 9.総括 50 9.総括 67
5.明治時代 9 10.東坑長の逸話 51 10.高田さんの逸話 68
6.大正時代 13
7.昭和時代 16
第5章
南光 宣和 坑長
(昭和49年~昭和54年)
第6章
井澤 一郎 坑長
(昭和54年~昭和58年)
第7章
齋藤 修二 坑長
(昭和58年~平成4年)
第8章
山の生活
1.組織 71 1.組織 89 1.組織・インフラ設備 106 1.社宅 129
2.出鉱量 71 2.出鉱量 89 2.出鉱量 107 2.対山寮 129
3.採鉱法 74 3.採鉱法 91 3.採鉱法 108 3.二十五山祭 130
4.機械化 76 4.機械化 94 4.機械化 111 4.鉱山四柱神社の祭 131
5.技術革新 76 5.技術革新 94 5.技術革新 114 5.鉱山救護隊 132
6.人員 81 6.人員 99 6.人員 119 6.非常部 132
7.災害件数 81 7.災害件数 99 7.災害件数 119 7.銀嶺会館 133
8.経常損益 82 8.経常損益 100
8.経常損益 120
8.全山の職場対抗 134
9.総括 85 9.総括 102 9.地下空間利用 121 9.娯楽 136
10.南光さんの逸話 68 10.その他 103
10.総括 123
10.平湯温泉 136
11.井澤さんの逸話 104
11.齋藤坑長の逸話 126
付 録 おわりに
神岡の水力発電の記録 137 おわりに 140

栃洞坑27年間の断想
はじめに
 自分が栃洞で坑長をしていた昭和58年頃,尾本君は神岡の経理課長であった。鉱山経営や全社の会社方針等についてよく教えて貰った。彼は京大経済学部を卒業した後,三井金属に入社した。自分より2年後輩であるが,後に三井金属専務取締役のポストに就いた。退職後何年も経ってから,尾本君が意外と近いところに住んでいることを知り,週に一度,一緒に散歩することにした。
 当初は,スカイツリーまで別々に行き,帰途は一緒に「四つ目通り」を通り,京葉道路と横十間川が交差する所の松代橋で別れた。
 桜の頃,荒川のほとりに「小松川千本桜」の花見をした。勿論その時は酒を飲みながら桜の花を愛でた。それが契機となって以後,桜の花が散っても週に一度,焼酎を持参して千本桜の木陰で歓談をしている。このことを我々二人は「山行き」と称している。「山行き」は世の中で言う登山ではない。神岡では野外で宴会を開くことを「山行き」と言っている。それに習ったのである。同じ大学を卒業し,同じ職場で働いたことから話題には事欠かない。
 歓談しているときに,三井修史論叢の中に掲載されている山口光治郎氏の「大正期の神岡採鉱場」が話題になった。「9番鉱床を発見したときの様子」や「坑夫取り立ての儀」など興味深く書かれている。尾本君が「山口さんに続く昭和期の神岡鉱山について記述してはどうですか。」
と提言してくれた。
 確かに小生は,昭和40年に入社して以来平成12年まで通算で30年間神岡に勤務した。その内,栃洞坑に24年間,茂住坑に3年間,神岡鉱業全般の管理に3年間である。栃洞坑の歴史を語るには十分な経験を有していると自負している。
 先に著述した「思い出すことなど」で栃洞坑のことは記述したことであり,再び書く気にはなれなかった。しかし,「思い出すことなど」のプライベートな部分を取り除けば栃洞坑の歴史となる。そんなに大仕事にはならないと考え直し,重い腰を上げる気になった
 第1章と第2章は「神岡鉱山写真史」を参考に記述したけれど,筋道を立て,解り易くするためには可成り手間取った。それに,尾本君から借りた奥田静平氏の「思い出の小話」を参考にさせてもらった。
 第3章から第7章は坑長の代わる毎に章立てをして記述した。
記憶を思い起こすにはこの方法が,都合が良かったからである。
 東坑長から单光坑長までは,栃洞坑に勤務していたが,井澤坑長時代筆者は茂住坑に勤務していたため,月に一度のコストダウン会議での情報等を頼りに記述した。
 グラフ等は「栃洞坑实績雄」を基に記述した。因みに,「栃洞坑实績雄」は,栃洞坑の事務係に長く勤務された井澤光行氏が纏めてくれたものである。
 最後の第8章の「山の生活」については殆ど記憶に依って記述したので,思い違いなどがあるかもしれない。
 栃洞坑長について職名の歴史を調べると,昭和24年~27年までの5年間は採鉱課長であった。昭和28年に栃洞坑長に変更された。それ以来,昭和45年迄の18年間は栃洞坑長であった。昭和45年に採鉱課長,昭和49年に鉱長となったが,本書では全て歴史の長い「坑長」と記述する。
 この著作を仕上げるに当たり,尾本衛君には奥田静平氏の資料を提供して戴いた上に,4回に亘って誤字誤植の指摘,校正をして戴き,大変お世話になった。ここに厚く感謝を申しあげる次第である。

2012年2月吉日

第1章 神岡鉱山の沿革
 神岡鉱山は三井金属の発祥の地である。鉱山の歴史は古く,鉱山が何時発見されたかは不明である

1.養老年間

 里人の蔵する古文書の中に,「養老年間(717年~723年),斐太国,宝の里より黄金産出し之を天皇に献ず。云々」とある。

2.江馬時代(1221年~1582年)

 江馬氏は小四郎輝経のとき,承久3年(1221年)に始まり,16代輝盛のとき,南飛騨(国府八日町)の三木氏に敗れる天正10年(1582年)までの360年間余,高原郷を統治した。歴史上360年間の治世は希に見る長期政権である。
 江馬時経は平家の残党であるにも拘わらず北条時政の養子となり武州川越城主に任ぜられていた。部下の川越重親が北条義時(時政の子)に「江馬時経に謀反の心あり」と讒言をした。危険を察知した時経は一族を連れ川越城を去り,甲斐を通り,信濃を越え飛騨に向かった。一行は高原川筋を下って,天地の開けた高原郷日向野村であった。現在の「殿」(現在発掘されている江馬館跡の周辺)を館として落ち着いた。この時,名前を「江馬修理太夫輝経」と改め,初代城主となった。時に,1211年であった。
 飛騨における有力な豪族は江馬氏と南飛騨の三木氏であった。戦乱の世にあって,江馬は武田に,三木は上杉に付き戦いに明け暮れたのである。
 16世紀には全国的に金銀鉱山の開発が進められており,神岡地域もまた和佐保・茂住の両銀山の稼行が盛んになった。当時金銀は軍資金として重視されたので江馬氏も鉱山経営に積極的であったと思われる。
 明応年間(1492年~1500年)
    和佐保銀山が開坑される。
 大永年間(1521年~1527年)
    茂住銀山が開坑される。

3.金森時代 (1585年~1692年)
 江馬氏を破った三木氏は飛騨一円を手中に収めた。しかしそれも束の間,越前大野領主金森長近が豊臣秀吉の命により飛騨平定に乗り出し,三木氏は天正13年(1585年)に亡んだ。金森氏は越前から飛騨に移封となったが,以後,100年余の間茂住宗定を得て,飛騨の諸鉱山が相次いで開発され,華やかな盛山期が経過した。
 茂住宗貞は越前の商人で名を糸屋彦次郎という。金森長近(1524年~1608年)が越前大野時代に召し抱えられ長近の飛騨入封に付き添ってきた。茂住宗貞は飛騨の鉱山開発をまかせられて,約10年間鉱山開発にあたった。飛騨の鉱山開発の鼻祖と云われている。
 飛騨の諸鉱山を相次いで開発し,鉱山事業に辣腕を振るった。宗貞は巨万の富を得て,東茂住に屋敷を構えて豪奢な生活を送った。1608年,宗貞は,主君長近が京都で没すると,贅沢な生活から妬みを買うことになり、金森可重の迫害を恐れ,屋敷に火をかけ,百万両を持って茂住銀山より姿を消した。
金森治政の最大の功績は,道路の整備である。即ち越中街道のうち,
    ¶ 西街道の高山・打保・小豆沢・越中境,
    ¶ 東街道の高山・十三墓峠・船津・越中境,
ともに牛馬による背運搬を可能にしたことである。
 元禄5年(1692年)に金森氏が奥州に転封された後は飛弾の鉱山は衰退に向った。

4.江戸時代

 江戸時代に入り,僅かに和佐保鉱山(現在の栃洞鉱)と池の山鉱山(現在の茂住鉱)が細々と稼行していた。鉱種も銀から銅,鉛へと変わっていった。零細鉱山師が入れ替わり立ち替わり,鉱山を経営していた。
 しかし,幕府は元禄5年(1692年)金森氏を奥州に転封し,飛弾を幕府直轄地・天領とした。初代代官に伊奈半十郎が任ぜられた。その頃,飛騨の銀山は衰退の時期にあり,留山(一時休止)にする鉱山も多かった。
 19代大井郡代は天保の頃,古間歩(旧坑)の取明け作業を盛んに行った。
 22代郡代福王三郎兵衛忠篤は山元での銀絞りを禁じ,高山に新たに銀絞吹所を建設した。万延元年(1860年)から文久3年(1863年)に吹所の一大改革が行われた。
 この頃採鉱にあっては,火薬は使わずもっぱら鑿(のみ)と鎚(せっとう)だけの作業であった。良い鉱脈に沿って進み,水が出れば方向を変えるといういわゆる狸堀であった。
 選鉱は粗鉱を石臼で粉砕し,小川の流れを利用して鉱石と土砂を選別する方法であった。又,木製の椀型の容器を水の中で揺り動かしながら土砂を流し捨てる方法で等であった。
 製錬は含銀荒銅鉱に鉛を加えて合床に入れ,吹きたてて合吹銅をつくり,この合吹銅をこし炉に入れて吹立てると,銀を吸い取った鉛が溶けて底部に落ちる。鉛は溶解するとよく金銀を吸収する性質があり,又銅と鉛との溶解度・比重の差を利用して銅に含まれる銀を鉛に移す。この方法を南蛮吹という。

 寛永3年(1626年)
    長棟鉛山を開坑。
 慶安3(1650年)年
    長棟池ヶ原銀山を開坑。
 寛文年間(1661年~1672年)
    金森大学和佐保前平を開坑。
 延宝年間(1673年~1680年)
    越前太田屋風加左衛門が和佐保銅山を開坑。
 元禄5年(1692年)
    幕府は金森氏を奥州山形に転封し,飛弾を幕府直轄地・天領とした。
    豊富な木材と鉱山資源に目を付けた。
 元禄7年(1694年)頃
    和佐保銀山,茂住銀山を零細鉱山師が経営。
 元禄11年(1698年)から正徳4年(1714年)まで
    江戸町人太田屋弥七ほか2人が茂住池の山を経営
 宝永5年(1708年)から正徳2年(1712年)まで
    江戸町人伊勢屋清兵衛らが茂住増谷銀山を経営。
 享保6年(1721年)から9年(1724年)まで
    茂住増谷銀山を紀伊国屋与左衛門ほか1人が経営。
 文化4年(1817年頃)
    和佐保銀山の鉱種は銀から銅に移行していた。
 文化14(1817年)年
    銅山師大西村甚右衛門が和佐保北平銅山を経営。
 文政2年(1819年)に
    幕府は和佐保銅山を直轄経営としたが同9年には休山。
 文政4年(1821年)
    加賀藩は長棟鉛山を直轄経営。
 文政13年(1830年)
    和佐保山内北平から南平まで高山町人押上屋六兵衛が経営。
 天保11年(1840年) 
    菅沢・深洞・栃洞銅鉛山を北沢屋七兵衛が経営。
 弘化3年(1846年)
    和佐保東平鉛山を和佐村が経営。
 安政2年(1855年)
    高山に銀吹所が設けられ飛騨の銅・鉛はここに集荷されることになった。
 安政5年(1858年)
    ズリ谷鉛山を早川屋清吉が稼業
 安政6年(1859年)
    大富銀鉛山を東町村が経営。
 安政6年(1859年)
    和佐保山内各山に荒吹所を建設。
 慶応2年(1866年)
    東漆山銅鉛山を船津町村与左衛門らが稼業
 慶応3年(1867年)
    蛇腹平銅鉛山を伊東集蔵らが稼業
 慶応元年(1865年)~慶応3年(1867年)
    物価の高騰,資財の入手難から稼行困難となり休山が増える。

5.明治時代

 明治初頭までの鉱山は,零細鉱山師が坑口毎に経営をし,露頭あるいは富鉱部を抜き掘りしていた。明治7年に三井が鉱山経営に進出し,明治22年には神岡諸坑を手中に収め全山統一し,急速に西洋技術を導入して,計画的な開発と整備を進めた。
 因みに,三井のルーツは,
 慶長年間(1596年~1614年)
    武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源である
    といわれている。
 延宝元年(1673年)
    三井高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て越後屋三井呉服店(三越)
    を創業した。
 天保11年(1840年)
    江戸に両替店を開いて幕府の為替御用方になり,豪商へと発展した。
 明治元年(1868年)
    鹿間谷源蔵谷銀鉛山を今村幸三郎らが稼業。
 明治4年(1871年)
    日本橋に越後屋三井両替店を開き,為換座三井組を開設。
 明治6年(1873年)
    三井組は高山に出張所を開設。
    名古屋の中西組は三井組から金を借りて,神岡の鉱山稼ぎ人達に資金
    を貸し付けていたが,大半が焦げ付き中西屋は破産した。
 明治7年(1874年)
    三井組は船津に出張所を開設。貸金の返済として,蛇腹平1番坑や
    大富鉱山18番坑を入手した。
    これが三井組の鉱山経営に進出した始まりである。
 明治8年(1875年)
    蛇腹坑,5番坑で始めて稼行を開始した。
 明治19年(1886年)
    工部大学1回生で洋行して地質学を学んだ農商務省の栗本廉を,
    一時休職とし神岡の初代所長(鉱山長)に迎えた。

 三井組が鉱山の近代化に着手したことの一つに,明治19年(1886年),初代所長に栗本廉を迎えたことが上げられる。栗本は工部大学第1期の卒業生で,4年間の海外留学で地質学を専攻して帰国した。
 技術改善として以下のものがある。
  ¶ 従来の採鉱は狸堀で坑夫の自由採掘に任せていたが,秩序のある採鉱法を
    採用することにより,採鉱実績を格段に上昇させた。
    例えば,鉱床の硬軟・規模・鉱脈の状況に応じて,上向き階段法,スライ
    ス堀を導入した。
  ¶ 採掘された鉱石を現場から運び出す運搬方法においても「みかい」で「えぶ」
    に鉱石を入れて背負っていた方法から,坑道の加背(坑道の幅と高さ)を
    大型化して,木製一輪車を使用で運搬する方法に改善した。
  ¶ 更に明治24年に木製の4輪鉱車と板レール,明治41年には大型鉄板製の
    鉱車と12ポンドレールを導入した。
  ¶ 削岩機の出現は未だ無かったので改良型八角鏨を使用していたが,ドイツ製
    ダイナマイトの使用によって探鉱・採鉱の掘進に威力を発揮した。
  ¶ このほか,坑外における自動鉄索,馬車軌道の敷設など,近代化への画期的
    な施策が数多くある。


 坑内夫1人当たりの採掘量(総合能率)は飛躍的に向上した。明治時代の総合能率は表1に示す。


 選鉱は当初鹿間谷の一角に旧式な手工淘汰法によって選鉱していたものを,比重選鉱法に改め,明治21年に鹿間谷の選鉱場を,明治22年に茂住坑の増谷選鉱場を建設した。 鉛製錬も従来の甑(こしき)炉を廃し,鹿間谷に角形溶鉱炉1基を建設して洋式製錬法を初めて導入し,明治23年には鹿間製錬所を創設,増谷に洋式溶鉱炉を設置して,近代化はほぼ完成した。  銀,鉛,銅の鉱石を採掘する際に,亜鉛鉱が副産物として生産された。しかし亜鉛の用途がまだ開発されていないことから,各鉱山とも亜鉛鉱は極力避けて採掘していた。しかし日露戦争後,亜鉛の需要が増大し,銀・銅・鉛の採掘に随伴して亜鉛鉱が回収されるようになった。
 神岡鉱山の亜鉛鉱の輸出は明治39年,ドイツのメタルゲゼルシャフトに販売を開始したことに始まる。これに刺激されて,亜鉛製錬に関する研究が盛んとなり,学者や企業によって実験研究が行われるようになった。  明治21年(1888年)      鹿間谷に比重選鉱場を建設した。設備はすべて新しい西洋の機械が導入された。以後,明治43年まで「鹿間谷時代」と呼ばれる。

  明治21年(1888年)
       鹿間谷に比重選鉱場を建設した。設備はすべて新しい西洋の機械が
      導入された。以後,明治43年まで「鹿間谷時代」と呼ばれる。
  明治22年(1889年)
       三井物産から茂住・亀谷両鉱山を譲り受け,栃洞茂住を合わせた神岡
      鉱山の全山統一を実現した。
  明治23年(1890年)
       鹿間製錬所を創設。
  明治25年(1892年)
       三井鉱山合資会社を設立し,本格的に鉱山経営に進出することになった。  明治43年(1910年)
       三井合名専務理事であった団琢磨は洋行の際,スエーデンを訪れ,
      開始したばかりの電気製錬を調べ,また神岡鉱山の製錬主任であった
      西村小太郎に海外の製錬技術を調査させた。
      結局ドイツから亜鉛蒸溜炉一式を購入して三池製錬所が設立された。
  明治43年頃(1910年頃)
      蛇腹坑の露頭が発見された。新坑口を設け各所で坑道探鉱が進められた。   明治44年(1911年)
      栃洞坑で始めて圧縮空気を動力とする削岩機を使用した。


6.大正時代

 大正時代で特記すべきことは,
    1)9番鉱床の発見。
    2)土発電所の完成。
    3)電動コンプレッサーにより,空気動の削岩機を使用。
    4)三池に「神岡鉱山大牟田亜鉛精錬工場」を建設。等である。
 大正2年(1913年)
     三池に「神岡鉱山大牟田亜鉛製煉工場」を建設した。これより
    昭和18年(1943)に神岡に亜鉛電解工場が建設されるまで
    亜鉛精鉱は三池へ送鉱されていた。
 大正3年(1914年)
     漆山鉱床の下部延長を探鉱するため,吉が原に坑口を設け坑道掘進
    が行われた。しかし,鉱床は発見されず中止された。
    しかし,この坑道の先端からあと50m延長すれば,円山坑5番鉱床
    (5百万~6百万トン)を発見していたのである。現在,漆山の探鉱坑道
    と円山の坑道は連結している。
 大正5年(1917年)
     蛇腹坑は明治43年に露頭が発見され開発が進められたが,鉱況が
    思わしくなく,別名「こまる山」と言われるほどであった。探鉱も不十分
    なまゝ,第1次大戦後の不況期に,蛇腹全坑とも廃坑となった。
 大正6年(1917年)
     栃洞・茂住・下之本で本格的に削岩機の使用が始まった。
 大正8年(1919年)
     土発電所が完成し,電動コンプレッサーが導入されて,削岩機がすこぶる
    威力を発揮した。坑道掘進などは従来の手彫りに比べて約3倍の成績を上げ
    るなど,採鉱能率の上昇はめざましかった。
     当初の削岩機は外国製であったが,昭和10年頃には国産品が現れ,
    型式・規格もほぼ統一されるに至った。
  大正9年(1920年)
     9番鉱床を発見
      官庁報告書には東平鉱床と名付けられているが,現在の南9番鉱床の
      一部を発見した。
 大正13年(1924年)
     120m準で9番鉱床を発見した。


 三井修史論叢代10巻に山口光治郎氏の「大正期の神岡採鉱場」が記載されている。その中に9番鉱床を発見したときの記述があるので,以下に転記する。
 大正9年以降機械堀に移行するに及んで,着々成果を上げ中でも栃洞坑の南9番鉱床の開発は顕著なものがあった。露頭としてはおそらくは社有当時から知られておりその広袤(こうぼう:広さ,面積)は比較的急峻な地形に高距・幅とも50メートルを越える広大なものであった。酸化しにくい杢地質の低品位鉱だったので,僅かに局部的に採掘を試みた旧坑が見られたに過ぎない。坑内においては大富坑口(20メートル坑準)に近い240度目(割れ目)に胚胎する鉱床の一部が手堀時代に既に着鉱しており,露頭下部と目されていたが,矢張り低品位のため放置されてあった。機械堀が始まった際,圧搾空気室が大富坑外の近距離位置だった関係もあって早速着手して,240度目の??押し開始となりこれが予想外に連続して延長20mに及んだ。その間10mから15m間隔に盾入れをして幅を確かめ最大40mの部分もあって大鉱床であることが確認された。
     
押:楕円形の鉱床の場合,長径方向に坑道を入れること。
        なお,長径方向を走行方向と言う。
     盾入れ:鉱床の走行方向に対し直角に坑道を入れること。
 また同時に80m坑準においては以前に通洞7番鉱床の堀場から南向きに約130mを南北目に沿って手彫りで掘進し,貧鉱のため着鉱したまま中止した坑道掘進の引立て(先端)を,機械堀で再開したところ,掘進20mくらいで240度目に達した。
 引き続き??押に移り,240向き及び反対の60度向きに??押及び盾入れ80m坑準における鉱床範囲が,延長200m余,幅最大660mに達し,120m坑準よりやや優勢を示した。
 その後,下部では40m坑準で探鉱を,上部では140m坑準,160m坑準,180m坑準で順次開坑された。180m坑準以上は皮剥ぎ(土砂を除去すること)して,露天掘りとした。0m坑準における探鉱は本格的には中央立坑完成後に立坑位置から南方方向に主要坑道を掘進して400m位で着鉱して以来,活発な探鉱が行われた結果,予想以上に発展して,鉱床範囲は長径250m,短径70mが確認された。
 かくして0m坑準以上の探開坑がおおむね一段落を告げたのは昭和4年頃であり,当時栃洞坑の埋蔵鉱量(概算960万トン)の約70%を南9番鉱床で占めるに至った。


7.昭和時代

 昭和初期から太平洋戦争が終結するまでは急激な増産が行われた。特に戦時中は乱掘によって採掘条件が極めて悪くなった。戦前・戦中は人海戦術で,3,000t/日まで増産されたが,終戦後には1500t/日から再出発をしている。
 昭和39年の貿易自由化により,ベースメタルは国際競争に曝されることになった。輸入品に打ち勝つためには国際競争力を付ける必要があった。これに対し栃洞坑では,9番鉱床,10番鉱床,円山鉱床等の発見で可採粗鉱量が飛躍的に増加し,増産による拡大均衡策が取られた。
 昭和40年以降,急激な増産計画が立案され実行されたが昭和51年には,増産も限界に達した。
 昭和53年には,建値の暴落,円高の進行,景気の減退,需要の低迷等により,未曾有の人員合理化と大幅な減産を余儀なくされた。
 昭和54年には合理化効果と建値の回復により黒字に転換し,以後黒字基調で推移した
昭和61年以降採掘技術において幾多の技術革新がなされ,総合能率50t/工を達成し,黒字基調は揺るぎないものになった。しかし,平成13年には可採粗鉱量が減少し,休山することになった。
 昭和7年(1932年)
     約600箇所のボーリングにより円山坑全体の鉱床分布が確認された。
 昭和13年(1938年)
     0m準から下部に向かい「掘り下り」を開始,
 昭和16年(1941年)
     「堀下り」が-300m準に到達したところで,-370m準の鹿間
    通洞坑道から上部に向けての「切り上」と貫通した。因みに,鹿間通洞
    坑道は栃洞鉱床の下部探鉱を目的として開坑されたものである。
 昭和18年(1943年)
     神岡に亜鉛電解工場を創設した。これにより三池へ送鉱する亜鉛精鉱は
    大幅に減少した。
 昭和25年(1950年)
     企業再建整備法により三井鉱山の金属部門をもって神岡鉱業株式会社を
    創設。
     新会社は創立後間もなく朝鮮戦争により,非鉄金属の需要が世界的に
    急増し,価格も急騰して,好調にすべりだした。
 昭和27年(1952年)
     神岡鉱業(株)から三井金属鉱業(株)へ社名を変更。
     この頃,鹿間・栃洞・茂住地区に2千戸余りの社宅に,社員と家族を含
    め約1万人が暮らしていた。
 昭和31年(1956年)
     -300m準で10番鉱床発見
 昭和42年(1967年)
     明治100年にあたる。この100年間の各鉱山の生産実績を東京大学
    齋藤平吉教授が以下に纏めた。日本鉱業会誌より。


 昭和43年(1968年)
     我が国最初に,円山にトラックレスマイニング法を導入した。
     トラックレスマイニング法とは
      「トラック」とは「軌道」を意味する。直訳すると「無軌道の採鉱
     方式」である。,即ち,軌道設備のない坑内構造で,鉱石や人員・資材
     の運搬を電車や鉱車を使用せず,全てタイヤ方式の機械類を使う坑内構
     造のことを云う。レベル間の移動も緩やかな傾斜の坑道を開削し,それ
     によって行っていた。
      トラックレスマイニング法を採用する以前は,人や資材のレベル間の
     移動は
坑を使っていた。縦坑の内部にはケージ(かご)を昇降させる
     巻き上げ装置が備わっており,「ケージ」の中に人や資材を乗せて移動
     する方式であった。
 昭和53年(1978年)
      建値低迷,需要減退に加え,円高の進行により,未曾有の人員合理化
     を余儀なくされた。栃洞坑の在籍人員は昭和52年末560名であったものが
     53年末には265名となり,295名の減員となった。
 昭和61年(1986年)
      神岡鉱業所は三井金属より独立し神岡鉱業(株)となる。
 平成13年(2001年)
      栃洞鉱の鉱石の採掘を中止した。三井が鉱山経営に乗り出した明治7年
     以来137年間,日本の非鉄金属資源の安定供給に貢献してきた。


第2章 栃洞坑の概要
1.昭和初期の生産量と粗鉱品位

 栃洞坑には昭和4年までは出鉱計画は存在しなかったようである。出鉱計画の立案は昭和4年の500t/日から始まった。
 1)第一次増産計画
    昭和10年:南9番鉱床を対象として950t/日の出鉱を計画。
 2)第二次増産計画
    昭和13年:5番鉱床を主にして1400t/日
 3)第三次増産計画
    昭和14年:円山鉱床の開発を主にして2100t/日
    円山鉱床は昭和7年に確認されたが,通洞坑道の開削の後,昭和14年より
   開坑が開始された。
    これ等の増産は南9番鉱床と円山鉱床の発見にる鉱量増加によって可能に
   なったものである。増産に対しては坑内夫の増員確保のほか,採鉱法の改善
   と機械化により採鉱夫1工当たりの出鉱量が,昭和2年に1.2tであった
   ものが昭和13年には3.1tに飛躍的に向上した。
 4)第四次増産計画
    昭和15年:戦時増産として2800t/日の出鉱計画が立案された。
    昭和16年(1941年)以降は総動員法に基づく勅令として,徴用令
   による勤労報国隊や女子挺身隊の応援で,昭和19年3月末現在には
   6455人(うち出征者812)とふくれあがった。しかし作業未熟の商人
   や老人・女子の作業員が多かったので,労働生産性は極めて低いものであった。
    以下の第五次,第六次の増産計画は何れも十分な成果を上げる前に終戦を迎
   え,実績は伴わなかった。
 5)第五次増産計画
    昭和18年:戦時増産として3100t/日
 6)第六次増産計画
    昭和19年:指定拡充増産計画として3400t/日
 7)終戦後の出鉱計画
    第四次以降の無理な増産計画で,採掘条件が極めて悪化しており,出鉱計画
   を見直す必要があった。そこで戦後の昭和22年に神岡鉱山復興のための生産
   目標が発表された。栃洞1500t/日,茂住180t/日とし,資材の節約と
   能率向上を厳しく求めたものであった新しい生産目標に対する実績は十二分に
   達成し,高く評価された。復興の主眼として採鉱法の改善研究を重ねた結果,
   昭和21年には大型サブレベルストーピング法(37頁の図11,12を参照)
   の開発に成功した。

 ¶用語の説明
  可採鉱量等の説明
   用語を図2で説明をする。長方形で囲まれた範囲を採掘すると仮定する。

      赤い部分   : 鉱床範囲 
      青い部分   : ズリ(鉱石を含まない岩石部分)
      埋蔵鉱量   : 赤色の範囲全部
      可採鉱量   : 長方形の内部の赤色の部分
      可採粗鉱量  : 長方形で囲まれた範囲(ズリを含む)
      獲得鉱量   : 坑道や試錐等で見付つけた鉱量で赤い部分
               即ち,埋蔵鉱量である。
         可採率=可採鉱量/埋蔵鉱量
         ズリ混入率=青の部分/長方形の部分(可採粗鉱量)
  粗鉱と精鉱についての説明
    粗鉱   : 採掘された鉱石で選鉱される前の鉱石。
    精鉱   : 粗鉱を選鉱場で金属含有量を品位60%程度に濃縮された
           もの。
    インゴット: 精鉱を焼結炉で焙焼した焼鉱を硫酸でとかした溶液を電気
           分解し,析出した亜鉛を溶解して鋳型でカイに成形したもの。

2.昭和40年以降の生産量と粗鉱品位

 図3のグラフで生産量の推移を見るに,昭和45年迄は増産と共に粗鉱品位も向上しており,増産は順調に進んでいると思われる。

 しかし,昭和46年以降昭和51年まで更なる増産はしたものゝ,粗鉱品位の低下を招き,昭和50年以降の3年間は粗鉱品位は3.7%程度で推移した。
 本来は4800t/日であったが,時短操業で隔週土曜日が休日となった為,生産量は従来の12日分を11日間で出鉱せざるを得なくなった。即ち,時短操業導入後の出鉱量は:4800t/日×12/11=5280t/日 となったが,実際はその実力は無く,ブロックケービング法が適用されている堀場で,低品位な鉱石を出鉱することになり,栃洞坑全体の出鉱品位を低下させたのである。
 結果として,図4に示すように,昭和50年の場合,粗鉱量は4800t/日以上であるが,鉱山としての最終製品である精鉱量は逆に減少し,増産効果を享受することが出来なかったのである。


 昭和30年代以降の増産基調に歯止めを掛けたのは,昭和53年の合理化計画である。即ち,昭和52年から円高の進行,金属建値の低迷,需要の減退,景気の低迷等で減産を余儀なくされた。昭和54年には3200t/日として操業を立て直した結果,粗鉱品位も4.31%を回復した。因みに可採粗鉱量についても,従来増加傾向にあったものが昭和52年から減少傾向となり保有鉱量的にも増産計画は断念せざるを得なかった。
 昭和55年から平成2年までの11年間は漸次増産傾向で推移しおり,操業面においても経営面においても順調に推移した。この時期が栃洞坑の最盛期であったといっても過言ではない。
 平成2年以降は可採粗鉱量の減少と優良鉱体の減少により,平成8年には3000t/日以上の出鉱が困難となり,粗鉱品位も4%を前後した。折り悪しく建値の暴落で経常損益は大幅赤字(▲1,140百万円)に転落した。その後,経常損益を黒字転換することが出来ず平成13年(2001年)に休山した。
 2001年における可採粗鉱量は約9百万トンで品位は3.7%である。栃洞坑の鉱量計算は亜鉛品位2%以上,鉱床幅2m以上の鉱体は全て鉱量として計上されている。従ってカットオフ(採掘の下限の)品位を3%に切り上げると可採粗鉱量は激減する。2000t/日以上の出鉱量を維持することは困難となると予測される。

3.選鉱場の増強

 1)昭和3年に鹿間選鉱の第一選鉱場を建設した。これは比重選鉱を全廃し,
   全て優先浮選による処理で,能力は500t/日の選鉱場である。
 2)昭和10年に栃洞第一選鉱場が新設され,150t/日処理の操業を開始した。
 3)昭和12年に栃洞第一選鉱場は700t/日に増設。
 4)昭和13年に鹿間選鉱場を700t/日処理に増強。
 5)昭和15年に栃洞第二選鉱場(700t/日処理)が新設された。
   円山坑の出鉱処理が目的であった。
 6)昭和18年に鹿間選鉱場も700t/日の第二選鉱場が増設された。
   これにより栃洞選鉱1400t/日,鹿間選鉱場1400t/日,
   合計2800t/日の処理体制となった。  
 7)昭和28年には金木戸発電所が建設された。
 8)昭和29年鹿間谷堆積場の寿命がつきるため,和佐保谷に大堆積場が建設された。

4.採鉱法

 採鉱法別の出鉱割合の推移を図5に示す。


 昭和25年代以前,主な採鉱法は空洞堀またはシュリンケージ法であったが,南9番鉱床には斜面横払い法も適用された。昭和20年にサブレベルストーピング法が採用され,従来には見られない高能率の成績を上げた。小規模鉱床には小長孔発破法が採用された。
 昭和21年代にサブレベルストーピング法が南9番鉱床に適用され,主力採鉱法はサブレベルストーピングとなり,出鉱量の60%以上がサブレベルストーピング法で出鉱されるようになった。切羽運搬の機械としてスクレ-パやローダが導入され機械化が進められた。スクレ-パは電動の50HPが主流であったが,昭和40年に9番鉱床の24号,25号及び30号の切羽には100HPのスクレ-パが導入された。100?のスラッシャーの容量は2tであった。栃洞坑の模式断面図を図6に示す。
 昭和43年にはトラックレスマイニング法が取り入れられ,LHDがスクレ-パやタイヤローダに取って代わるようになった。
LHDとは Load(積み込む) Haul(運搬する) Dump(覆す)の頭文字を取ったもので,坑内用の運搬機械の略語である。坑外ではショベルローダと命名されている。
 ブロックケービング法が主流の採鉱法になると,鉱石と土砂の選別するため,切羽運搬機はどうしても正面取りのLHDやローダが必須であったが,能率の面からLHDが採用された。
 優良鉱体や大規模鉱体が減少するに伴い,サブレベルストーピング法やブロックケービング法からの出鉱割合は徐々に減少した。
 昭和58年以降,井澤鉱長がメカナイズド・カット・アンド・フィル法(MC&F)を導入されたが,このMC&F法が群小鉱床を高能率に採掘することを可能にし,やがて栃洞坑の主力採鉱法となった。
 メカナイズドカットアンドフィル法とは従来のカットアンドフィル法に穿孔・運搬作業等に大型機械を導入して高能率な採掘を可能にしたものであ。

図6 栃洞坑模式断面図

5.労働生産性

 労働生産性と生産量の推移を図7に示す。

 一口で言って労働生産性は増産によるスケールメリットで向上する度合いより,技術革新によって向上する度合いの方が大きい。平成元年以降,
減産しているにも拘わらず,生産性は著しく向上している。
 大きく分けて,労働生産性の向上は3段階がある。
    第一は昭和40年から昭和53年迄,
    第二は昭和53年から昭和60年迄,
    第三は昭和60年から平成 4年迄,
である。
 第一の段階は昭和40年~昭和53年の時期は急激な増産にも拘わらず生産性の向上は緩やかである。いわゆる夢の「44計画」の時期で昭和44年に総合能率を10t/工以上に上昇させる計画であった。このグラフを見る限り,例えそれが達成されても「夢」とは思えないような気がするが。
総合能率を10t/工を達成したのは昭和47年であった。
 第二の段階は,昭和53年~昭和60年の時期。未曾有の大合理化の時期である。生産量は1/3減らし,人員は1/2減らしたのである。生産量より人員の方を多く減らしたので生産性の向上は第一の時期より急勾配である。
 第三の段階は昭和60年~平成4年の時期。
 神岡分離独立の時期で人員合理化と増産,更に坑内作業の技術革新と機械化により生産性が急激に上昇している。平成元年以降は生産量が漸減しているにも拘わらず生産性は急な勾配で上昇している。

6.人員

 人員の推移を図8に示す。

 昭和52年迄はほぼ横ばい状態で,昭和53年に合理化により半減した。その後,昭和63年までは増産傾向であるが人員は減少している。これは技術革新によるところが大である。

7.災害件数

 災害件数の推移を図9に示す。昭和53年まで増産傾向であるが,災害は減少している昭和53年の合理化で人員が減少したことや,トラックレスマイニング法の進展や機械化の進行により,全災害は激減し,年間災害発生件数は一桁となった。更に,昭和58年以降の年間災害発生件数は1件ないしゼロとなった。昭和58年と平成4年には年間完全無災害(休業災害も不休傷もゼロ)を達成した。
 災害件数の増減は生産量には関係なく,採鉱技術の革新や機械化・省力化によって災害防止が可能であることを物語っている。


8.経常損益

 経常損益及び総コストの推移を図10に示す。
 昭和40年以降,経常損益は黒字で推移していたが,昭和44年から労務費の高騰により総コストが上昇し,経常損益は赤字に転落した。
 昭和44年:25百万円,昭和45年:▲165百万円
 その後の亜鉛建値の高騰にも拘わらず大幅な黒字を維持することが出来ず,昭和51年の亜鉛の国内建値の頂点(233千円/t)に於いても黒字を確保することは出来なかった。この原因は,後ほど説明する労務費単価の急激な上昇によるものである。

 昭和53年の亜鉛建値が暴落時(132千円/t)には,経常損益は19億円の赤字となり,未曾有の人員合理化を余儀なくされた。
 昭和54年以降,平成4年までの13年間は合理化とコストダウンの効果により,亜鉛建値の乱高下にも拘わらず,栃洞坑の経常損益は黒字基調で推移し,その間の黒字額の合計は179億円で年間平均12.7億円である。鉱山経営の面で栃洞坑の最盛期であったといえる。

 為替レートの推移は,
  平成5年:109円/$,平成7年99円/$,
と円高が進行し,亜鉛の国内建値は
  平成5年:103千円/t,平成7年99千円/t,
と暴落する一方,大型の優良鉱床は既に無く,操業面でも苦しい展開になってきた。その結果平成13年には休山を余儀なくされた。
 昭和40年以降,亜鉛建値の変動を見るに,山(暴騰)が3回,谷(暴落)が3回到来した。
 山での経常損益は
     第一の山ではうっすら赤字,
     第二の山では十数億円の黒字
     第三の山では過去最高の黒字を確保
 谷の経常損益は
     第一の谷では未曾有の赤字
     第二の谷では黒字確保
     第三の谷では赤字から休山へ
 鉱山の使命は経済的メリットを享受しながら,自然界から与えられた資源を出来る限り多く回収することである。そのためには,卓越した鉱山経営技術,探査技術,採掘技術等が必要なのである。
 一体,栃洞鉱山はいくら儲けたのであろうか,昭和40年以降の手持ちの資料で見ると,昭和40年から平成10年までの34年間の累計の経常損益は155億円である。年平均で4.6億円儲けたことになる。

第3章 東 尚七 坑長 (昭和40年~昭和45年)

 東尚七氏は昭和39年から栃洞坑長に就任し,昭和41年には技師長に昇格された。昭和44年には,副所長で再び栃洞坑長を兼任された。その間,佐藤一夫氏が栃洞坑長に就任していたが,坑長の権限は東技師長が握っていたようであった。
 東尚七坑長は神岡鉱山発展のために尽力し,神岡鉱山をこよなく愛した人である。彼が指揮して作成した長期計画第四報により,実施された運搬合理化工事が,後の栃洞坑の坑内骨格構造を作り上げた。選鉱場に鉱石を運ぶ方法は-370m準で,トロリー電車に鉱車を連結して運んでいた。これを-430m準で長尺ベルトコンベヤ(1300m)を使用して運搬するよう改善した。
 この坑内骨格構造は栃洞坑の休山まで維持された。運搬合理化工事は,正に栃洞坑百年の計であった。
 東さんの基本的な考え方は鉱山ライフを極力長く保つ観点から,鉱石を完全採掘する事であった。従って,採掘順序は
 「地表に近く,ケージ立坑から遠い鉱床から順次採掘し,鉱石を無駄なく,1トン
  も残さぬように採掘すること。」
と口癖のように言っておられた。又
 「栃洞坑は豊富な可採粗鉱量を保有しており,今後20年間は,採掘を続けること
  が可能である。栃洞坑は未だヤングマインである。」
と自慢しておられた。
 昭和58年に自分が坑長に就任し,操業概況を説明する時にも,
 「今後20年間操業が可能である。」
と説明していた。自分の言葉通りだと閉山は平成15年であるが,実際の休山は2年早い平成13年6月30日であった。

1.組織
 当時の栃洞坑の組織は,採鉱係の3係(上部,下部,円山)のほか地質測量係,機電係,技術係,保安係,それに,坑外の工作係で構成されていた。但し,工作係は鹿間の工作課に所属し,坑外に事務所を置いていた。変電所,コンプレッサー,水道関係等のインフラ設備の保守点検等を担当していた。
 ¶ 地質測量係のうち地質担当は昭和42年には探査課に昇格し栃洞坑の組織から
   外され,測量担当は栃洞坑の技術係に属するよう変更された。
 ¶ 昭和43年には9番鉱床の崩落鉱を早期に回収をるため中部係が新設された。
 ¶ 管理職で活躍した人々は以下の通りである。


2.出鉱量

 円山鉱床の下部延長を探るため,3交代制または4交代制で坑道掘進による探鉱が行われていた。例えば「-200m円山向」,「-370m円山向」等の坑道探鉱である。
 3交代制とは1日3シフト制で働くのことで,働く時間帯は
  1の方は 7:00~15:00,
  2の方は14:30~22:30,
  3の方は22:00~ 6:00
である。各方を30分間重複させて,事務所で引き継ぐ制度である。
 4交代制は
  1の方は 7:00~15:00
  2の方は13:00~21:00,
  3の方は19:00~ 3:00
  4の方は 1:00~ 9:00
である。各方の重複時間を2時間とし,各方1時間の更衣・手洗い・移動に必要な時間を設けて,作業現場で引き継ぐ制度である。
 この探鉱工事には新入社員が投入され,厳しく教育され,優秀な削員として育てられた。
 開削された坑道は後に本坑と円山を連絡する重要な坑道となった。試錐探鉱も坑道探鉱と共に行われ,獲得鉱量は産出鉱量を上回り,可採粗鉱量は年ゝ増加傾向であった。
 当時の出鉱計画に対する考え方は,
  昭和30年に3000t/日
  昭和36年に3600t/日
  昭和40年に4000t/日
  昭和44年に4400t/日
とする計画であった。これをカレンダー増産と揶揄する人もいた。
 自分が入社した昭和40年頃は,
  「一に保安,二に探鉱,三に3600t」
といわれた時代で,標語として各所に掲示がしてあった。しかし,過去の予算を顧みても,出鉱量の予算は3600/t日とか4000t/日の切りの良い数字は見当たらない。唯一,昭和44年迄は4300t/日の予算が組まれている。カレンダー増産は精神基調であったのであろう。
 図11に生産量と粗鉱品位の実績を示す。


 昭和40年から昭和45年まで終始増産傾向である。そして,44年を除き,実績が予算を上回っている。昭和44年は5番鉱床の崩落により,正常な操業ができなかったのである。増産の源は9番鉱床である。9番鉱床がサブレベルストーピング法で勢力的に採掘されたのである。主力切羽は24号,25号,26号等の堀場である。
 栃洞坑は50億円から10億円の黒字で,神岡鉱業所は10億円から20億円の黒字である。この時期何故これほどの増産を9番鉱床からしなければならなかったのであろうか三井金属全体を経営する立場から見ればやむを得ないことではあろうが,鉱山の長期安定操業のためには優良鉱体は極力温存したいのである。
 「地表に近く,ケージ立坑から遠い鉱床から順次採掘し,鉱石を無駄なく,1トン
  も残さぬように採掘すること。」
という精神は大切にしたいものである。

3.採鉱法

1)サブレベルストーピング法

 サブレベルストーピング法の模式図を図12と図13に示す。
 出鉱量の60%以上がサブレベルストーピング法によるもので,主力の切羽は下部係の9番鉱床,24号,26号で,長孔発破が殆ど毎日掛けられていた。夜の10時を過ぎると「ズシン」と柏豆社宅に振動を与え,地震と勘違いをするほどであった。
 長孔発破とは採鉱の発破である。サブレベルストーピング法の中段で口径75mm,長さ15m程度の孔を穿孔する。これを長孔と称している。この長孔に爆薬を装填して一度に20本程度を起爆する。これが長孔発破である。爆薬量は約は700kgで起爆される鉱量は約5千トン程度である。
 サブレベルストーピング法は高能率な採鉱法であるが,問題は採掘により大きな空間を作ることから,崩落の危険性があることである。過去に本坑においても円山坑においても,サブレベルストーピング法の採掘跡の大空洞が崩落を惹起したこともある。
 昭和44年には本坑の5番のサブレベルストーピング法の堀場が崩落し,地表まで影響を及ぼし,二十五山の頂上にあった三角点及び神社及び鬱蒼と茂っていた杉の木が陥没の中に埋没した。
 この頃,9番鉱床のサブレベルストーピング法による採掘跡を廃滓(有用金属をを回収した後の滓)で,急速充填する技術が研究された。


2)CBC法

 CBC法の模式図を図14に示す。
 岩盤の強度が脆弱で大規模な鉱床をサブレベルストーピング法で採掘した場合,発生する空間を維持することは困難である。このような鉱床にはブロックケービング法(BC法 )が適用される。しかし,中硬岩の鉱床は最初の段階からケービングをさせることは困難であり,以下に述べるCBC法が開発された。
 鉱体を途中までサブレベルストーピング法で採移し,空間がある程度大きくなった時,出来上がった空間を自由面として,鉱体全体に発破を掛けケービング(崩落)させ,下部で起爆された鉱石を抽出する。この方法がCBC法なのである。サブレベルストーピング法等,他の採鉱法とケービング法を組み合わせる意味でCombined Blok Caving と言い,その頭文字を取ってCBCと名付けられた。CBC法の代表的な堀場は円山坑5番鉱床の崩落の回収である。
 CBC法は後にInduced Blok Caving と命名された。
Induced とは鉱体を強制的にケービングさせる意味である。頭文字を取って
IBC法と呼ばれた。


 円山坑でサブレベルストーピングをしていた時,崩落した鉱量は約2百万トンであったこの崩落鉱の回収に先立ち,調査坑道により崩落鉱の状態が確認された。大塊破砕用の坑道開削が行われ,長孔採鉱により地山や大塊が起爆された。時には坑道全てに爆薬を充填する坑道発破まで仕掛けられた。その時に使用された爆薬は数十トンと言われている。
 それらの作業が終了したとき,40m準で抽出を開始する計画であるが,それに先立ち,40m準では抽出不能の鉱石を40m準以上の中段で抽出が行われた。これを中段抽出という。昭和44年からの40m準で本格的に抽出が開始された。これを40mメイン抽出という。
 40mメイン抽出は,ズリ混入が少なく品位が高く,そして量的にも大量出鉱が可能で栃洞坑では超一流の堀場であった。
 円山の40m準における崩落鉱の抽出は順調に進み栃洞鉱の増産に大きく貢献した。昭和44年に本坑5番鉱床が大崩落した時,本坑の出鉱量の減少分を40m準のメインの抽出で肩代わりをした。
 昭和47年頃には一次抽出がほぼ終わり,ズリ混入も増加し品位が低下してきたことから,その代替堀場が望まれたが,適切な堀場は見当たらず,二次抽出に頼らざるを得なかった。
 栃洞の採鉱法は円山5番鉱床の崩落鉱抽出の成功に鑑み,栃洞鉱全体が「円山に右へ習え」をしたかのようにCBC法の採用が多くなった。この頃。本坑の崩落鉱回収が模索されていた。

4.機械化
1)坑道掘進用機械:ジャンボ
 ジャンボはジーゼル駆動または空気動の台車に削岩機を取り付けたブームを搭載したものである。運転台で居ながらにして遠隔操作で穿孔作業が可能な坑道掘進用の機械である
 昭和44年にはアメリカのガードナ-デンバー社製のモービルジャンボが,円山に2ブーム1台,下部係に3ブームが1台導入された。
 古河削岩機社製の空気駆動のドリルトラックが上部,中部,円山にそれぞれ1台ずつ導入された。

2)採鉱用機械
 これまでは採鉱用の削岩機は大成削岩機のKH-80で,この削岩機をH型スタンドに搭載して穿孔する方式であった。その後9番鉱床のサブレベルストーピン法の堀場にロックマスターが導入され,扇形の穿孔に威力を発揮した。その後,クローラドリルが導入されるようになった。

3)オートローダ
 従来,ローダは軌条式であったが,カットアンドフィル等の堀場ではタイヤ式のローダが要求された。当初,海外製品「T4G」を輸入していた。その後,国産機が開発・導入され「TL4」という呼称であったと記憶する。

4)100馬力スクレ-パ
 当時の切羽運搬機は電動スクレ-パが主流であった。昭和40年頃,下部係では9番鉱床の24号,26号に100馬スクレ-パを据え付けることが焦眉の課題であった。
 現場では係長が陣頭指揮を執って,狭い設置箇所に十数人が番割りされ,右往左往していた。実習生の頃で実習ノートに「ムダ,ムリ,ムラ」は無くした方が良いと書いてT係長に叱られたことを記憶している。

5)9車積ベルトコンベイヤ-
 長距離の坑道掘進である。本体はホッパー部とコンベイヤーから構成されている。4Tバッテリー電車に鉱車を9車連結し,後押しでコンベイヤーの下部に鉱車を挿入しする。ローダですくい取られた土砂は,ホッパー部に投入される。ホッパーに投入された土砂はコンベイヤーで最先端の(バッテリー電車に近い)鉱車に運ばれる。鉱車がが満杯になると,1車分を引き抜き,次の鉱車に積み込む。これを繰り返して,入れ替えすることなく9車分のズリが積み込み得る機械である。従って,1発破で起爆されるズリの量も3トン鉱車9車に納まるように制御する必要がある。
 このコンベイヤーは-200m漆山向,-370m円山向等の探鉱坑道の開削で使用され昭和39年(1964年)に我が国における坑道掘進の驚異的記録である月間356.3mを樹立した。

6)アリマッククライマ
 150m~200mの長距離立坑を掘削するため,アリマッククライマが導入された。これにより本坑の新2番立坑や円山5番の鉱石立坑が掘削され,上部や円山の0m準以上の鉱石が-370m準に落下させることが可能となった。

7)レーズボーラ
 100mクラスの立坑掘削機である。火薬を使用することなく,全て機械の力で掘削する全断面掘削機である。最初,250mmの口径でパイロットホールを下部の坑道に貫通させる。その後,リーミング用のカッターベース(1780mm)を取り付け,回転させながら上部に引き上げ,立坑を掘削する方法である。
 メーカは鉱研試錐であった。当初,開削中にロッドが折れる事故が発生し,立坑掘削機としては敬遠された。パイロットホールのみ掘削し,排水孔に利用されることが多かった 
 昭和55年代にロッド強度を上げ,カッターベースの口径を1780mmから1450mmに変更し,立坑掘削機として使用されるようになった。
 但し,直径1450mmでは立坑としては断面が小さいため,長孔により,断面を拡幅する必要があった。

5.技術革新

1)廃滓充填

 サブレベルストーピング法ので採掘跡の急速充填法として,廃滓充填が行われるようになった。の方法を採用するに当たっては,昭和40年以前に実証試験が行われたようである。
 当初は廃滓をサンドとスライムに分離し,サンドを空洞に充填し,スライムは堆積場に返す方法であった。この方法では坑内にも堆積場側にも問題があった。
 坑内では急速充填と言いながらサンドトスライムに分離していたのでは充填能率が低く大空洞を充填するには時間が掛かり過ぎる。
 坑外では堆積場の方では,ポンドに入るスライムの量は従来通りで,バンキング材が減少するので操業が困難となる。従って,9番鉱床の採掘跡の充填にはサンドとスライムを分離しない直投方式が採用された。

2)圧縮空気の高圧化
 鉱山機械の殆どが圧縮空気で作動するものであった。この圧縮空気のゲージ圧は7kg/?であった。長期計画第4報でこのゲージ圧を8kg/?に昇圧するよう計画された。空気動の機械を使う作業の能率は圧縮空気圧の3/2乗(1.5乗)に比例するといわれる。即ち,7kg/?の圧縮空気を8kg/?の圧縮空気にすると,圧縮空気を使う作業の能率は(8/7)1.5乗倍に向上する。
 高圧化に際し,使用する鉱山機械がゲージ圧8kg/?に耐え得るものにしなければならなかった。とりわけビット・ロッドのライフは重要な問題であるので,技術係でビット・ロッドの耐久試験が行われていた。

3)坑道レシーバ
 坑道レシーバを図15に示す。

 坑道レシーバとは鉱山の空気動機械の動力源となっている圧縮空気を貯蔵する設備である。即ち,坑道に圧縮空気を貯蔵し,圧縮空気の消費量が製造量を上回る場合,圧力低下を防止するため,レシーバに貯蔵していた圧縮空気を放出するのである。水槽坑道とは,エアーレシーバの圧縮空気の圧力降下を防止する設備である。圧縮空気圧が7kgの場合坑道レシーバのレベルより70m高い位置に坑道を設けて水を貯め,レシーバと直径1mのパイプで連結されている。その水圧で圧縮空気の圧力低下を防止するものである。
 坑道レシーバは0m準に,水槽坑道は70m準に設けてあった。高圧化に伴い水槽坑道は,これまでより約10m高い80m準に建設する必要があった。
 鉱山の操業時間中で圧縮空気の使用量の多い時間は,供給量が使用量に追随出来ず,空気圧が下ることになる。このような時に坑道レシーバから圧縮空気を供給することによって圧縮空気の圧力低下を防ぐのである。坑道レシーバには,深夜電力を使用して圧縮空気を坑道に貯蔵される。この設備は後に,圧縮空気貯蔵(CAES)を利用した発電設備で世の中から注目をあびた。

4)運搬合理化
¶ 貯鉱舎と破砕室
 -370m準と-430m準の間に,粗鉱が約3千トン入る貯鉱舎が建設された。坑内各所の立坑から集鉱された鉱石を貯鉱する空間である。貯鉱舎はオアービンとも呼ばれた。貯鉱舎の下部には東洋一大きいといわれるブレーカが据え付けられている。
¶ 長尺ベルトコンベヤ
 貯鉱舎から抜き出された鉱石はブレーカによって破砕された後,選鉱場まで長尺コンベヤで1300mの距離を運ばれる。
 従来-370m準でトロリー電車と鉱車で選鉱場に運搬されていた。これを-430m準に貯鉱舎と選鉱場を連絡する坑道が開削されて,ベルトコンベヤで坑外の選鉱場に運搬するよう改善された。
¶ 鉱車の大型化と7トン漏斗
 切羽で採掘された鉱石は立坑に投入される。立坑に投入された鉱石を抜き出し,鉱車に移す設備を漏戸と称する。 従来使用されてきた鉱車は3トン積みで,これを7トン積みの鉱車に大型化された。それに従い,3トン鉱車用の漏斗が7トン鉱車用の漏斗に取り替えられた。軌条は 22Kg/m から 30Kg/mに敷設替えがなされた。

5)ANFO爆薬の採用
 硝酸アンモニウムのプリルに数パーセントの軽油を混合するだけでANFO爆薬となる従来のダイナマイトに比べ爆速は遅いものゝ,取扱上安全で安価に得られる。
 コストの観点から,昭和40年頃,従来のダイナマイトに代わる爆薬として脚光を浴び鉱山業界でもトンネル業界でも導入が試みられていた。
 海外鉱山では坑道の一角で,ANFO爆薬が製造されていた。国内鉱山でも海外鉱山同様に,坑内で製造することが試行された。
 昭和30年代の後半に,栃洞鉱の保安技術係でANFO爆薬を製造する試験研究が行われていた。
 しかし,日本では鉱山会社単独で爆薬類を製造することは,多くの法的規制をクリアーしなければならないので極めて困難なことであり,栃洞坑で自家製造することは実現に至らなかった。

6)長距離立坑
 栃洞坑は栃洞選鉱場と鹿間選鉱場の2箇所に選鉱場を所有していた。鹿間選鉱場は処理能力3200t/日で,本坑0m準以下の鉱石を処理し,栃洞選鉱場は処理能力1600t/日で,本坑と円山の0m準以上の鉱石を処理していた。
 円山坑が1600t/日以上の出鉱量になったことから,栃洞選鉱場は円山坑の鉱石のみを処理するようになった。円山坑の1600tを越える鉱石は-370m準に落とし,本坑0m準以上の鉱石は0m準で集鉱し-370m準に落とすことになった。
 この計画を実現するためには本坑も円山も,0m準と-370m準を結ぶ立坑の開削が必要となった。昭和40年頃,本坑には新2番坑井が,円山には円山5番立坑がアリマッククライマを使用し開削された。

6.在籍 人員

 在籍人員の推移を図16に示す
 在籍人員は昭和40年に665名いたものが昭和44年末には529名となった。出鉱量は増産指向であったが人員は減耗不補充であった。しかし,昭和45年に高多坑長就任以降増産に伴い人員も増加している。


 栃洞坑の人員が増加したのは昭和44年から46年までと,茂住鉱と統合した平成6年の2回のみである。

7.災害件数等

 災害件数を図17に示す。
 生産量の増加に伴い全災害も休業災害も増加している。
 保安に関して,素晴らしい標語があった。
  一に保安は計画から
  二に保安は機先を制し
  三に保安は「皆んなの目」から
 一は管理者に対して,二は監督者に対して,三は作業者に対しての忠告する言葉である
 この時代,労使双方災害防止に努めたが,災害発生件数は横ばい状態で,全災害は年間60件以上,休業災害が13~23件発生していたのである。


8.経常損益

 昭和40年から昭和45年の損益等の経営指標を図18に示す。
 昭和40年から昭和43年までの4年間は総コスト亜鉛建値も安定しており,経常損益は11億円から6億円を確保していた。昭和44年には労務費単価が前年対比で160%,45年は前年対比120%上昇した。それにより,労務費総額では44年度は2億4千万円,45年度は1億円の増加となった。結局,46年度の労務費単価は43年対比で2倍となった。これにより昭和45年の経常損益は赤字に転落した。


9.総括

 運搬合理化工事として長距離立坑,坑内破砕室,-430mの主要運搬坑道等が開削され,ベルトコンベヤで鉱石を選鉱場へ運搬することが可能になった。これは将来に向けての栃洞坑の基盤となった。
 可採粗鉱量が年々増加していたことから,「ヤングマイン」の意識が強く増産指向が根強くあった。そして増産のために,昭和30年代後半から和40年代に,9番鉱床が勢力的に採掘された。このことは必ずしも是とはし得ない。
 採鉱屋の責任ではないがこの時期,労務費単価が約2倍となった。
 昭和43年に3185円/工であったものが,昭和45年に6308円/工となったことは,将来鉱山経営にとって大きな負担となった。

10.東坑長の逸話
1)神岡に帰ろうよ!
 東さんが亡くなられ,徳永さんが葬式に行った時,奥さんが話してくれた。東さんの臨終が近いとき,夢うつつの状態で
 「陽子!神岡に帰ろうよ!」
と魘(うな)されながら,繰り返されていた。
 東さんは余程,神岡が懐かしかったのであろう。陽子さんは東さんの娘さんである。

2)ゴルフ
 東さんが神岡鉱業の社長で赴任された頃は,ゴルフなど「亡国の遊びだ!」と軽蔑をされていた。周囲の人に勧められて,東さんも渋々,ゴルフを始められた。東雲の練習場にも通われた。
 予算説明の席上,東さんが
 「ウフフ!」
と一人笑いをされた。皆が不思議がって何事かと訊ねた。東さんがおもむろに説明される。
 「昨日,東雲の練習場に行った。満身の力を込めて振り抜き,玉の行方を追った。
  何処にも見えない。やむなく下を見た。ゴルフボ-ルはティ-の上に鎮座してい
  た。」
それを思い出され一人笑いをされたのだった。又,東さんは講釈好きで,パートナーに
 「君ね!球はこのように打たなければ!」
と教えられる。東さんよりはるかに上手な人に対しても教えられる。皆がゴルフ場で東さんのことを「教え魔」と渾名を付けていたそうだ。

3)越冬燃料
 東坑長は若き日には労組委員長として活躍された。
越冬燃料は昭和26年に4日間のストライキの後,初代神岡鉱業(現三井金属)社長の佐藤久喜社長と東尚七神鉱連委員長・荻野正男神岡労組委員長で交渉が持たれた結果,勝ち獲た賜物と聞く。因みに
 労働組合は昭和25年に労働組合の名称を三金連から神鉱連(神岡鉱業労働組合連合会)と改称された。
 発足当時の各単組の勢力は神岡4,316名,三池2,377名,彦島767名,日比697,竹原379名,串木野209,合計8,749名であった。越冬燃料については各単粗から,中々理解が得られなかったようである。各単組の代表が神岡に行き,冬期間の生活の実態を調査することになった。各単組の代表が雪の降る神岡にやっと到着し,「やれやれ」と思っていると,栃洞は山の上で,「これから車で40分」という。渋々,栃洞に向かった。和佐保の堆積場に来た時,猛烈な吹雪となり,一寸先も見えず,車は前に進めない状態となった。単組の代表達は
 「もう解った!解った!」
と栃洞に登るのを諦めて下山してしまったとか。
 因みに,三金連,神鉱連,三井金属労連とまぎわらしい名称を説明しておく。
 ¶ 昭和21年8月21日
    三池,日比,竹原,彦島製錬所と目黒砥石の5従業員組合が三井鉱山
    金属労働組合連合会(旧三金連)を結成。
 ¶ 昭和21年10月13日
    金属部門の職員組合と神岡で三井鉱山社員労働組合連合会(三社連)を
    結成。
 ¶ 昭和21年11月30日
    三社連に加入していた三井野職員組合が三井鉱山金属職員労働組合連合
    協議会(三金職連)を結成。
 ¶ 昭和21年11月30日
    更に,旧三金連と三社連,三金職連が大同団結して三井金属労働組合連合
    協議会(三金協議会)を結成。
 ¶ 昭和22年7月15日
    本店労組,神岡労組,三池労組,竹原労組,日々労組,彦島労組,串木野
    労組,の7単組で三井金属労働組合連合会(三金連)を結成。
 ¶ 昭和25年12月
    金石分離で神岡鉱業労働組合連合会と改称。
 ¶ 昭和50年
    社名変更で三金連に復帰。
    三井金属鉱業労働組合連合会(三井金属労連)を結成。

第4章 高多久明 坑長 (昭和45年~昭和49年)
 高多坑長代理は一時期下部係長を兼務されていた。昭和44年10月に佐藤坑長が転勤され,坑長は東技師長が兼務されていたが,実質は高多坑長代理が坑長を引き継がれた。
 翌年の昭和45年に鉱山長制となり,栃洞鉱山長に石須章氏,茂住鉱山長に佐藤一夫氏が任命された。栃洞坑長は採鉱課長と変更され初代の採鉱課長には高多久明氏が就任された。(以下採鉱課長は坑長と記す)
 高多坑長は厳しい面もあったが人情味溢れる好い人であった。部下が元気を出して働くような環境や雰囲気を作ってくれた人であった。
 操業面では引き続き増産の方針で,4800T/日,露天掘りの増産,採鉱法においてはCBC法への切り替え,及びトラックレスマイニング法の拡大等が進められた。4800T/日への増産,露天掘りの増産,採鉱法においてはサブレベルストーピング法からCBC法への切り替えが実施されたが,粗鉱品位の低下を招き裏目に出たようである。
 経営面ではこれまで経常損益が6億円以上であったものが,昭和44年には25百万円に落ち込み,更に,昭和45年から昭和47年まで経常損益は赤字に転落した。経常損益を回復するため,粗鉱生産量を4800T/日への増産,坑内人員を採用する一方,請負での探鉱工事や修繕工事等が行われた。
 環境問題ではイ病裁判の結審後,坑内では清水と濁水を厳しく管理することが要求され,色々な清濁分離工事が行われた。
一方,日本経済は昭和47年からの列島改造ブームによる地価急騰とオイルショックにより相次いだ便乗値上げなどにより急激なインフレーションが発生しており,国内の消費者物価指数は昭和49年に23%上昇し「狂乱物価」という造語まで生まれた。昭和49年の経済成長率はマイナス1.2%で戦後初めてのマイナス成長を経験し,高度経済成長の終焉を迎えた。

1.組織

 昭和45年以降以下の組織の改編が行われた。
 ¶ 上部係で管理していた露天掘りを切り離し,新たに露天掘り係を新設。
 ¶ 48年に坑外工作係が坑内の機電係に統合され新工作係が誕生。
 ¶ 人事課に所属していた補助管理部門を栃洞坑で管理することとして,事務係
   を新設。
 ¶ 管理職で活躍した人々は以下の通りである。

 

2.出鉱量
 出鉱量の推移を図19に示す。
 前坑長に続き増産指向であったが昭和44年に0m準以下の5番鉱床の大崩落により,4400T/日は2年遅れて46年に実現された。当面の課題は体制の立て直しと次なる増産計画である4800T/日に取り組むことになった。
 この時期,隔週土曜日を休日とする時短操業を導入することが労使双方の喫緊の課題となっていた。
 時短操業が導入されると,4800T/日の出鉱量は採鉱課の操業日に換算すると,5200T/日を出鉱しなければならない状況であった。出鉱体制が整わず,図19に示す如く,無理な増産が災いして,品位の低下を招き,49年以降の3年間は出鉱品位が3%台で推移し,増産のメリットを享受することは出来なかった。


3.採鉱法

 この時期の特徴はサブレベルストーピング法の割合が減少し,露天掘りとCBC法の割合が増加したことである。結果として粗鉱品位の低下の原因となった。

1)露天掘り
 露天掘りの対象は,地表に近い鉱床:3甲,5甲,5乙等が対象であったが,後に2甲,2乙,前平鉱床等が追加され,最終的には百万トン以上の鉱石が採掘された。
 4800T/日に向けて,露天掘りが急激に増産されたが栃洞坑全体の粗鉱品位は図20に示す如く,露天掘りの増産と共に低下した。露天掘りは請負工事で実施されていたので坑内人員に関係なく増産が可能であった。53年の合理化の時一次中断し55年には再開されたが,再開後は100~150T/日程度の出鉱量で休山まで継続された。


2)サブレベルストーピング法
 サブレベルストーピング法は大規模で岩盤が強固である鉱体に適用される。代表例としては,9番鉱床の30号がトラックレスマイニング法を適用したサブレベルストーピング法で採掘が進められていた。しかし,この時代に,サブレベルストーピング法を適用し得る鉱床は少なく,主力の採鉱法は次第にCBC法に移行していった。

3)CBC法
 円山の崩落鉱は40m準メインの抽出坑道で回収された。抽出の初期段階ではズリ混入も少なく,髙品位で回収された。図21で43年から45年までCBC法による出鉱割合が増加すると品位が向上している。しかし後半はズリ混入が増加し, CBC法による出鉱割合が増加すると品位が低下している。CBC法が他の群小鉱床にも適用されるようになり,それによる出鉱割合が増加し,46年からはCBC法による出鉱割合が増加すると品位が低下し,49年にはCBC法のによる出鉱割合が50%に達した。出鉱品位は遂には4%台を割り,3.7%に転落した。


4.機械化

1)手持ち削岩機

 職業病である振動障害が大きく取り上げられる時代となり,手持ち削岩機のジャンボ化が急務であったが,穿孔作業は手持ち削岩機が主流であった。取りあえず手持ち削岩機に対する振動軽減対策として防振ハンドルの開発がが行われた。手持ち削岩機であるASD317は軽くて使い易い削岩機であったが,振動を軽減する観点から防振ハンドルを取り付けたF-7式削岩機に切り替えられた。重くて使い難い削岩機であったので現場で多くの苦情を聞いた。

2)坑道掘進用機械:ジャンボ
 振動障害の防止対策を進めるためには,更なるジャンボの購入が必要であったが,新規のジャンボ購入は何故か認められなかった。
 そこで苦肉の策として開発されたのが中段ジャンボである。「中段」とはサブレベルストーピング法の中段で,サブレベルの中断を開削するときに使用するという意味である。
 中段ジャンボはサブレベルの中段へ運搬する場合も分解・組立て等大変な手数が掛かり,現場では殆ど使われなかった。それにも拘わらず中段ジャンボが大量に購入された。現場では殆ど見向きもされなかった。
 何故,トラックレスマイニングの進展を視野に入れ,タイヤジャンボやモービルジャンボが購入されなかったのか七不思議の一つである。
 振動障害防止対策の観点から,ジャンボ化率という指標が設けられた。即ち,穿孔作業を手持ち削岩機とジャンボで行う作業に分け,ジャンボで行う割合をジャンボ化率で称していた。この頃のジャンボ化率は45%~50%であった。

3)採鉱用機械
 採鉱機械としてはH型スタンド方式からクローラドリルへの更新が順調に進められていた。9番鉱床の30号を開発する時,ファンドリルが導入され,上向き穿孔機として使用された。この機械は大型の鉱床で採鉱する場合に威力を発揮したが,群小鉱床では本体が大きすぎて,殆ど使用されなかった。採鉱の主力機械はクローラドリルであった。

4)LHD 
 昭和43年,円山にLHDとして,アメリカのワーグナー社のST-1/2が導入され,円山の崩落鉱回収の切羽運搬機として使用された。その後,大型化したST-2Bが導入された。
 トラックレスマイニングを発展させるためには現有のLHDより遙かに多くの台数が必要であった。この当時の為替レートは1ドル360円時代であったので,価格的に次々に購入できるものでは無かった。そこで国産化を進め,ST-2Bクラスを国産化したKLD-M5が開発され多く使われるようになった。


5.技術革新
1)請負工事管理
 従来,起業費や修繕費で所外に発注する工事は全て鹿間の工作課が管理していた。工事を鹿間工作課に発注して,施工するまで多くの時間を要していた。高多坑長はこの制度を坑内の管理者が直接業者に発注し見積り,査定,施工管理を行うよう改善された。この改善は請負工事を迅速に行うこと,適正な単価を設定する上で大いに貢献した。

2)トラックレスマイニングの拡大
 トラックレスマイニングは昭和43年,円山にLHD:ST-1/2が導入されたことにより始まった。当初のLHDは崩落鉱回収の切羽運搬機として使用された。その後,LHDはレベルの異なる坑道を連絡する大斜向の開削にも利用されるようになった。大斜坑の開削が進むに伴い,各切羽が連絡され坑内に有機的な結びつきが生まれて,トラックレスマイニングへと発展したのである。円山に続き本坑に於いてもトラックレスマイニングを採用した。下部係では9番鉱床30号をトラックレスマイニングによって開坑し,上部では4丙鉱床の採掘に際し,80m準以上をケービング法で,それ以下をMC&F法 で採掘することとしLHDが導入された。

3)清濁水分離
 栃洞鉱では清水は-370m準で鉄管により,濁水は-430m準の側溝により排出していた。坑外と直結している下部は清濁水管理に関して,最終的な責任を負わせられていた。
 昭和47年に「イタイイタイ病裁判」が結審し,原告側の勝訴に終わった。従来も清水と濁水に分離して排出してきたが,結審以降は坑内における排水基準が一段と厳しくなった。
 「濁水」とはカドミウム濃度が2ppb以上の水であると定義された。坑内から排出される水を更に厳しく管理することが要求された。
 ppbとは濃度を示す単位で,パーセントはppcのことで、正確には parts
 per cent のことで、100分の1を表す。
 ppbも同じことで、parts per billion の略で,10億分の1を示す。これをパーセントで表すと0.0000001%で小数点以下6個のゼロが並ぶ極微少な割合である。
 分析機器が発達したことによりこの微少単位の濃度をを測定することが可能となったものである。以前は分析上「traceless」(認識不能)として処理されていた値である。

4)時短操業
 昭和49年度より,毎月隔週の土曜日を休日とする,即ち年間休日を26日間増加し,年間の操業日数を274日とする時短操業が労使双方での検討が始まった。時短操業に関し
 会社の3原則は
  ¶ 生産減にならない
  ¶ 人員増にならない
  ¶ コスト増とならない
 組合側の2原則は
  ¶ 賃金減にならない
  ¶ 労働強化にならない
であった。会社は生産性維持の施策として,
  ¶ 拘束時間を坑口~坑口とし人車乗り場と坑口間は時間外とする
  ¶ 電車,人車の改造によるスピードアップ
  ¶ 事務所,火薬庫,ビット置き場等のレイアウト改善
  ¶ 保安講話の短縮
等諸対策を実施した後,昭和49年度より時短操業が開始された。
 粗鉱生産量を4400T/日から4800T/日への増産時期と時短操業実施時期が重なり,出鉱量は採鉱操業日で5200T/日の操業に突入した。

5)町道付け替え工事
 南平から前平に至る道は「山の村」に通じる県道から分岐して町道となっていた。この部分が以下の理由で付け替え工事が行われた。
 「この町道の直下に9番鉱床の30号,32号の堀場が位置し,採掘終了時には300千m3以上の空間が2カ所に連立することになる。この大空洞が崩落した場合,地表に影響が及び,町道が陥没する恐れがあるので,あらかじめ町道を切り替えておく必要がある。」
 某町会議員の話によるとこの町道切替えには県の土木予算に負うところが多いようであるが,それには,県の土木課長に対する接待麻雀を余儀なくされたそうである。

6.人員
 在籍人員の推移を図22に示す
 4800T/日の出鉱を維持するには坑内の人員が不足している状況であったので昭和45年と昭和46年に,高多課長は人事課に採用を依頼した。依頼を受けた人事課では閉山になった炭鉱の労働者を大量に採用したが,大半は低能率者か災害多発者であった。神岡鉱山の労働者は,従来,近隣の俊秀を集めた鉱山高校の卒業生,または地元で採用されていた。 
 皆,真面目で優秀な社員であった。それに比べ炭鉱労働者は可成り見劣りがした。


7.災害件数等

 災害件数の推移を図23に示す。生産量は増加傾向にあるが全災害は減少している。但し,休業災害は微増している。
 休業災害は昭和45年以降,横ばい状態であったが,全災害については昭和47年以降半減した。
 この頃から「災害多発者」と云う言葉が生まれた。災害多発者の殆どは炭鉱労働者出身者であった。高多坑長は苦肉の策で災害多発者を集めて,「コンクリート班」を編成し,安全な仕事,例えばコンクリート打設のような仕事をさせる案を組合に提案した。しかし組合の反対で実現には至らなかった。この時代はトラックレスマイニング・機械化へ移行の過渡期であり,手作業が多く残っており災害多発時代であった。
 特に,火薬,浮き石,運搬,墜落災害は発生件数も多く重大事故に繋がるケースが多かったので,これをを四大  災害 (よんだい まるき さいがい)と称し注意を喚起していた。


8.経常損益

 経常損益等の経営指標を図24に示す。
 昭和45年から47年までの3年間は総コストが上昇傾向で,建値が低迷していたので経常損益は赤字で推移した。48年からは建値の暴騰に伴い経常損益は黒字に転換した。

 総コストと労務費の関係を図25に示す。
 総コストの上昇は労務費と諸物価の値上がりである。労務費は人員が増加したのではなく,労務費単価が上昇したのである。昭和49年の労務費単価は昭和44年対比で2.5倍強,同様に総コストも2.5倍強に増加した。図25に示す如く,坑内工数は横ばいで推移しているにも拘わらず労務費が上昇している。
 もう一つの原因は47年の列島改造論やオイルショックの影響で諸物価が高騰したためである。
 労務費単価の決定は三井金属本社の人事部と組合の間で行われる賃金交渉で決定される


 人事部が鉱山経営を視野に入れて交渉しているのであろうか。
 鉱山部は鉱山経営の実態を人事課に説明しているのであろうか。
 人事部と鉱山部との意見交換など行われているのであろうか。
 賃金交渉は人事部が行うが,その結果で鉱山が赤字になれば鉱山技術者の責任である。大いに疑問の残るところである。将来,この労務費単価の高止まりの体質が鉱山経営に禍根を残すことになる。即ち,
 昭和50年には非鉄金属類の建値が下落し,経常損益は忽ち赤字に転落し,昭和53年には年間20億円もの赤字を計上することになり,人員合理化を余儀なくされた。社員の給与を上げたことが遠因となり,人員整理を余儀なくされたことは皮肉なことである。

9.総括

 増産指向に歯止めがかけられなかった。
 そして,増産の手段に露天掘りやブロックケービング法によったことは,次の南光坑長時代に粗鉱品位の低下を招くに至った。
 粗鉱品位を下げた「三悪人」は
  1)増産
  2)露天掘り
  3)CBC法
であった。
 労務費単価が2倍になった時期に人員,しかも質の悪い炭鉱労働者を採用したことも髙コスト体質を招くことになった。後に人事課長に
 「どうして質の悪い探鉱労働者を採用したのか」
とを詰問したところ,
 「栃洞坑長が大量に採用せよ。ということだからあれしか方法はなかった。」
と涼しい顔をしていた。まるで「子供の使い」のような仕事ぶりである。
 一方,組織や請負業務管理に関し,人事課に所属していた補助管理部門を栃洞坑に帰属させ事務係を新設したことや外注工事を工作管理から栃洞坑自身で管理する方式に改正された事は,鉱山経営にとって,大変良いことであった。

10.高多さんの逸話

1)滑り込みセーフ!

 栃洞地区の職場対抗のソフトボール大会であった。坑外共通チームは選手に事欠いて高多坑長まで駆り出していた。高多坑長が偶々出塁した。その後のバッターの打撃が外野に飛んだ。2塁に進んでいた高多坑長は一目散に走った。3塁に到達した時は,既に足がもたついていた。それでもコーチの指示通り本塁に向かった高多坑長は倒れるように本塁ベースに頭から滑り込んだ。送球を待っていたキャッチャーは球を受け取り高多坑長にタッチ!タイミングは明らかに「アウト」であった。しかし,主審は考え込んだあげく
 「セーフ!」
と大声で叫んだ。相手チームは何かと五月蠅い「坑内共通チーム」である。当然,観衆は「坑内共通チーム」からクレームが出ることを予測していたが,あたりは「シーン」と静まりかえっていた。高多坑長の「涙ぐましいプレー」に感激したものか,
 「坑長ともあろう偉い人が,たかが草野球において頭から滑り込む,ひたむきな姿」
に感激したものか,判定にクレームをつけるものは誰も言わなかったのである。
 因みに,高多坑長はスポーツが全く苦手であった。一方,東坑長は野球が好きで,管理職実習生等を集めて草野球を楽しんでおられた 。

2)卵焼き!
 資源素材学科で平松教授にお会いした。先生が
  「高多坑長さんはどんな人?」
と質問された。小生は
  「頭の切れる,素晴らしい坑長ですよ!」
と答えた。平松教授は怪訝そうな顔つきであった。宴たけなわとなった時平松先生がドイツで高多坑長と一緒であったと話された。朝食の時に卵焼きを注文するのに,高多さんが鶏の羽ばたく所作をされたと言って笑っておられた。それを聞いて次の話を思い出した。
高多さんの奥さんが帰省されている間,対山寮で夕食を食べておられた。晩酌をしていて「つまみが」ないものだから,賄い婦に
  「卵焼き!」
と大声で注文されていたことを思い出した。
 これは本当に卵焼きが好きであるから,注文されたのか,どうせ,賄い婦が急遽,調理できるのは卵焼きくらいであろうと慮って,卵焼きを注文されたのか不明である。

3)品位向上対策
 高多坑長の末期即ち,昭和49年度は粗鉱品位が3.7%に低下してしまったが,高多さんは副所長に昇格され,南光坑長が就任された。
 50年度の操業においても粗鉱品位は3%台を低迷していた。高多副所長は憤慨をして
「何!未だ3%台だと!組織図を持って来い!」
と言われたとか。
 品位向上対策が「人事にあり」とは全く穿った見方であると感心した。

第5章 南光宣和 坑長 (昭和49年~昭和54年)

 昭和49年10月に高多坑長が副所長に昇格され,坑長は本店におられた南光さんが高多坑長から引き継がれた。この時,職名が「課長」から「鉱長」に改正された。初代鉱長は,南光さんが着任された。「坑長」でなく「鉱長」となった理由は不明である。連綿と受け継がれてきた坑長の名前を「課長」とか「鉱長」に変えるのは宜しくない。(以下鉱長は坑長と記す)
 就任早々,たて続けに3件(内1件は請負)の死亡災害が発生した。その内2件(内1件は請負)は,坑道掘進の穿孔作業中に,削岩機の鑿先が残留火薬にくり当て暴発するという火薬事故であった。もう1件はサブレベルストーピング法の採掘堀場が崩落し,その圧風で作業者1人が立坑へ墜落した事故であった。職場の環境は暗いムードで,組合は厳しい眼差しで会社を見つめていた。
 一方,操業成績は4800T/日の出鉱量は荷が重く,目標達成には時間が掛かった。しかも昭和49年~昭和51年の3年間は,粗鉱品位が栃洞坑開闢以来の低品位となり36%~3.8%で推移し,増産メリットは享受できなかった。
 かてて加えて鉱山経営においては,建値の暴落,円高の進行,景気の減退,需要の低迷等の四重苦に悩まされた。鉱山を経営するにあたりこれほど悪い環境は空前絶後であった
 南光さんは昭和和60年に神岡鉱業所の所長で就任された。その翌年,円高の進行で神岡鉱業の経常損益が10億円の赤字になり,三井金属から分離独立することになった。この時,本社とのやりとりにおいても苦労された。
 南光さんは採鉱屋とは思えないほど謹厳実直で大人しい人柄であったが,芯の強い人であった。経営環境が最悪の時に,坑長や所長に就任されたのは気の毒なことであった。


1.組織
 合理化に伴い,露天掘り,中部係は廃止,保安と技術係を統合され組織は簡素化され組織は,採鉱係3係(上部,下部,円山),保安技術,工作係の5係となった。
 ¶ 管理職で活躍した人々は以下の通りである。

   

2.出鉱量

 出鉱量と粗鉱品位の推移は図26に示す。
 予算は選鉱ベースで4800T/日であったが,時短操業により,坑内の操業日数では1日当たりの出鉱量は5200T/日となった。
 しかし,9番鉱床の32号は採掘が終了し,円山の崩落鉱回収のメイン抽出もほぼ終了しており主力切羽は本坑にも円山にもなかった。最後の「虎の子」といえば9番鉱床は30号切羽の上盤側と10番鉱床であった。それでも南光さんは「虎の子」の堀場から出鉱せず,群小鉱床の切羽からかき集めて4600t/日の出鉱量を賄っていた。その結果,出鉱量の実績はほぼ計画通りであったが,粗鉱品位は図26に示す如く,49年3.7%50年3.8%,51年3.6%で推移した。この品位は栃洞坑開闢以来の低品位であった。


 粗鉱品位が昭和49年に続き昭和50年,昭和51と3年間も3.7%程度であったことから,当時の石須副所長(元選鉱課長)は
 「栃洞坑の出鉱品位が4%以上を回復することはないと思っていた。」
と回顧された。
 しかし,53年の合理化で,出鉱量を4800T/日から3200T/日に減産したことにより粗鉱品位は見事に回復した。
 出鉱体制としては4800T/日であるにも拘わらず,実際は3200T/日しか出鉱しない訳だから,堀場的には余裕があり,不良な堀場からの出鉱を制御すれば品位は向上するのである。 その逆の場合,即ち出鉱能力以上の増産を計画すると品位は低下する。 49年から51年がそうである。
 この頃,査定率という言葉がよく使われた。査定率とは選鉱場に手渡された粗鉱の鉱量計算上の品位と粗鉱の分析品位の比である。即ち
  査定率=選鉱における分析品位/鉱量計算上の品位×100
である。図27に採鉱法と査定率の推移を示す。
 昭和40年から昭和49年迄CBC法による出鉱割合が増加するに伴い,査定率は低下し,昭和49年以降3年間の査定率は85%程度になってしまった。昭和50年以降,CBC法による出鉱割合が減少するに伴い,査定率は急激に回復し,95%以上を維持して推移するようになった。
 49年~51年は4800T/日の過大な出鉱計画であり,CBC法による出鉱割合も30%~40%を占めている。その時,査定率は85%以下である。CBC法のズリ混入が多かったことを示している。52年はCBC法が20%台に低下し,粗鉱品位は向上した。53年以降は出鉱計画が3200T/日に減産されており,切羽に余裕があるので,CBC法を適用している堀場でも基本に忠実に仕事を進めているので,粗鉱品位は下がらない。その結果,査定率は95%以上となっている。


 査定率が低いということは採掘の段階でズリ混入多いことを意味し,査定率が高いということは,逆に採掘の段階でズリ混入少ないことを意味する。ズリ混入率は採鉱法と採鉱技術の問題であり,ズリ混入率が高くなる理由は
 ¶ 採鉱法の選択が適切でない。
 ¶ 採掘時に鉱石と土砂の境界線の管理が厳格でない。
 ¶ サブレベルストーピングで採掘中に上盤が崩壊する。
 ¶ CBC法の採鉱で起爆不良となっている。
 ¶ CBC法の堀場で抽出時に鉱石とズリの選別が疎かとなる。
等である。実力に比べ出鉱量の計画が過大であるときは,CBCの堀場で鉱石とズリの選別が疎かになるケースが多い。
 岩盤が脆弱な鉱体には止むを得ずCBC法を適用せざるを得ないが,ズリ混入率の高いことを覚悟せねばならない。実力以上の過大な出鉱計画の場合,CBC法を適用している切羽では,抽出の末期にはズリ混入率が増大し低品位となる。このような切羽でのズリ選別が疎かになり,栃洞坑全体の出鉱品位が低下することが多い。

3.採鉱法

1)露天掘りの増産

 露天掘りと粗鉱品位の関係は56頁の図20に示した。
高多坑長の方針を引き継ぎ増産基調であった昭和49年~昭和52年の4年間は露天掘りによる出鉱割合が増加し,全産出鉱量の10%以上となった。
 露天掘りの急激な増産は品位を下げる原因の一つであった。小規模な鉱体を露天掘りの対象にしているので,積み込み時には鉱石と土砂の選別が必須であるが増産に追われて,疎かになったと思われる。 昭和52年頃は鉱石と土砂の選別が厳しく行われるようになり品位は向上した。
 増産に伴い請負業者はダンプトラックやブルドーザ等の重機械類を大型機械に更新したしかし,昭和53年の構造不況では,鉱山は減産をせざるを得ず,雇用の面から露天掘りの出鉱量をゼロとした。請負業者は重機械類に対する投資が無駄となりかねない状況に陥り,会社にクレームを付ける事態が発生した。合理化は昭和54年に決着し,昭和55年には露天掘りを再開した。

2)CBC法の改善
 元来,CBC法は円山坑の崩落鉱回収において,苦肉の策として開発された採鉱法である。巨大な地山のような?石を破砕する場合,自由面の少ない状態で長孔発破を余儀なくされていた。場合によっては坑道発破さえも余儀なくされた。当時,ソビエトの学会誌に自由面の少ない発破でも十分起砕が可能であるという論文が発表された。このことから栃洞では自由面の少ない発破を「ソ連式発破」と称し多用化された。しかし,栃洞坑の岩盤では,このような発破では鉱体の起爆状態が悪く,起砕した鉱石を抽出する時点で,上部のズリを引き込み,多大なるズリ混入の原因となった。従って,CBC法においては,サブレベルストーピング法を極限まで進め,自由面となる空間が十分大きくなった後に,ブロックケービング法に移行するよう採鉱法を改善した。

4.機械化

1)LHDの大型化

 トラックレスマイニングの進捗に伴い,LHDは更なる大型化が必要となり,昭和49年にはバケット容量3.8?のST-5Bが導入された。それを国産化したKLDM-9が開発され多く使われた。更に大型化が進み最終的にはKLD-M12が開発・導入された。
 KLD-M12のバケット容量は6.8?で,鉱石重量に換算すると13トンである。機械化以前,一人の坑夫が1日働いて鉱車に,積み込む量が約10トンであった。KLD-M12の場合,13tを積み込むに要する時間は30秒以内である。即ち鉱夫1日分の仕事を数十秒で完了することになる。
2)国産モービルジャンボ
 LHDと同様のコストの面から国産化が進められた。削岩機メーカにジャンボの台車としてLHDの中古品を提供し,それを足回りとしたモービルジャンボを開発した。この国産ジャンボは栃洞坑の主要穿孔機となったが,平成元年(1989年)から徐々に空気駆動の削岩機を油圧削岩機に更新していった。

5.技術革新

1)スラリー爆薬の開発

 削岩機の鑿先が残留火薬にくり当てた場合でも爆発しないスラリー爆薬をメーカと共同で開発した。この爆薬を採用するようになってからは,「残留のくり当て」事故は皆無となった。このスラリー爆薬は火薬メーカも余り乗り気で無かったようだが,南光坑長の情熱で日本油脂を「その気」にさせて開発した。後に日本では鉱山業界のみならずトンネル業界でもスラリー爆薬が主流となった。
2)クルーシステム
 昭和50年頃円山係で開発された作業方法である。従来の坑道掘進は,LHDとジャンボが与えられ親方と手子の二人で行っていた。坑道掘進の切羽にLHDとジャンボがそれぞれ1台必要であった。
 この作業方法の場合,ジャンボを使って穿孔作業をしている時はLHDが遊休,LHDを使ってズリ取りをしている時はジャンボが遊休していると云った具合に,重機類の稼働率が極めて悪い状態であった。新規にLHDやジャンボは購入してもらえないにも拘わらず,重機械類は上記の如く稼働率の悪い状況であった。
 坑道掘進は穿孔作業,発破作業,ズリ取り作業から構成されている。これを作業毎に分解し,ジャンボを使う作業,LHDを使う作業,発破専用車を使う作業,を別々の人間が行う。例えば,坑道掘進のA,B,Cの切羽がある場合,
 ¶ A切羽 :穿孔作業,
 ¶ B切羽 :発破作業,
 ¶ C切羽 :ズリ取り作業
にそれぞれ別人が従事する。次の段階では
 ¶ A切羽の穿孔作業員はズリ取りの終わったC切羽に移動,
 ¶ B切羽の発破作業員は穿孔が終わったA切羽に移動
 ¶ C切羽の運搬員は発破作業の終わったB切羽に移動,
という具合に各所の坑道掘進を巡回するシステムとした。坑道掘進を分業によって行う作業方法を「クルーシステム」と称した。
 これによってジャンボやLHDの稼働率および坑道掘進の能率が飛躍的に向上し,開坑作業が順調に進むようになった。
 土砂取り作業に従事していたLHDのオペレータが,このクルーシステムで最も活躍した。特に,LHDを運転する5名の優秀なオペレータがいた。これを「円山5人衆」と称した。彼等は運搬員であったにも拘わらず,坑道掘進の土砂取り作業に関しては,進削員以上の実力を有していた。
3)スムースブラスティング法
 坑道掘進は支保を施すか否かで,浮き石の発生,掘削の能率,コスト等に多大なる影響を及ぼす。
 円山では坑道掘進の20%~30%を何等かの支保を施さなければならなかった。
この支保を極力少なくするため,昭和52年頃からスムースブラスティング法を採用し,支保の減少や浮き石の防止に効果を上げている。
 ¶ 地山に損傷が少ない。
 ¶ 仕上がり面が円滑で余堀が少ない。
 ¶ 浮き石の発生を防止する。
等のメリットのある発破方法である。この場合,使用する爆薬径は穿孔径より小さい爆薬径が使用される。穿孔径と爆薬径の比をの「デカップリング係数」という。
  デカップリング係数=爆薬径/穿孔径 である。
 栃洞坑ではANFO爆薬を使用しているので爆薬径=穿孔径となるので,ANFO爆薬の装填率を6割程度にする方法を採用した。
 この場合は,「体積デカップリング係数」を用いる。
  体積デカップリング係数=装薬された爆薬の体積/装薬孔の体積
4)全自動穿孔機
 ジーゼル駆動の1ブームジャンボで,穿孔準備を整えてやれば,オペレータが居なくても穿孔する自動穿孔機である。昭和50年から昭和53年に栃洞坑で操業試験を行った。完全なる無人では,トラブルが発生した場合の対応が困難であることから導入には至らなかった。
5)レイオフ
 需要が低迷していた非鉄金属業は特定不況業種に指定された。鉱山では生産調整のため昭和53年2月,昭和53年8月にレイオフを実施した。
 レイオフの日数は,
   昭和53年2月(賃金補償95%) 
      坑内    2月1日~18日
      亜鉛製錬  2月21日~28日
      補助管理  2月7日~28日
      鉛製錬   1月4日~2月20日 定期修理
   昭和53年8月(賃金補償95%) 
      栃洞    8月14日~31日
      茂住    8月 1日~18日
      補助管理  8月 1日~31日
巷では
 「鉱山で働いている人は会社に出勤せず,遊んでいて給料がもらえるそうだ。」
と噂された。
6)未曾有の合理化
 この頃の非鉄金属を取り巻く情勢は,円高の進行,金属建値の低迷,需要の減退,景気の低迷等の四重苦に苦しめられ,まさに「鉱山冬の時代」に入った。
  鉱山の鉱石代金 =
     海外建値(PP:$/t) × 為替レート(円/$) × 鉱石品位
           × 条件採収率 - 製錬費 - 輸入諸掛
である。上記の式中,海外建値($/t)×為替レート(円/$)を亜鉛PPフラットと称している。
 昭和51年には亜鉛のPPフラットは232千円/Tであったものが,昭和53年の上期には116千円/Tと半額に暴落したのである。
 これにより栃洞鉱山の収入が昭和51年には79億円あったものが,昭和53年のそれは39億7千万円に減少してしまったのである。その結果,経常収支が年間20億円の赤字に転落した。この状況下では通常のコストダウンでは間に合わず,未曾有の人員合理化を余儀なくされた。
 南光坑長は栃洞鉱のサバイバル策として以下の計画を立案された。
  ¶ 生産量を1/3を減産(4800T/D ⇒ 3200T/D)
      栃洞選鉱場を廃止し,鹿間選鉱のみの操業とする。即ち,
      栃洞選鉱場の最大処理分1600T/日を減産して,鹿間選鉱場の最大
      処理量である3200T/日とする。
  ¶ 人員を1/2を減らす(560人 ⇒ 265人)
      人員の削減方法は53歳以上の勇退と希望退職の募集であった。
      2人に1人の割合で退職をして貰わなければならないのであるから,
      栃洞坑の管理職にとっては頭の痛い問題であった。
 希望退職条件で多額の退職金が提示されたため入社後間もない若手社員が多数辞めたこともあり,人員合理化は大きなトラブルもなく所期の目的を達成した。しかし,やっとで育て上げた優秀な若手社員が多数退職したことは操業上,痛手ではあった。

6.人員

 在籍人員の推移は図28に示す。

 在籍人員は昭和49年から昭和52年まで殆ど変化はない。前述した未曾有の合理化で昭和51年に在籍人員は580人であったが,昭和54年には1/2以下の264人に減少した。

7.災害件数

 災害件数の推移は図29に示す。
 人員や出鉱量が激減したことにより,災害件数は全災害,休業災害ともに減少している
 昭和49年には従業員が600名近く働いており,トラックレスマイニングも機械化もそれほど進んでいない時期で,災害が多く発生していた。
 年間災害発生件数は合理化以前,30~35件であったが,合理化後,災害件数は半減し10件程度となった。
 主な理由は合理化に依り
  ¶ 人員の絶対数が減少した
  ¶ 機械化やトラックレスマイニング法が拡大した
  ¶ 若年の未熟練な労働者が希望退職した
ことにより,熟練したトラックレスマイニング法に適する労働者のみが残り,災害を惹起する作業者が激減したことである。

8.経常損益

 経常損益等の経営指標を図30に示す。
 昭和50年,昭和51年は亜鉛の建値が上昇しているにも拘わらず経常損益が赤字になっている。


 その一つの理由は買鉱条件の製錬費T/Cが引き上げられたためである。図31に示す如く,昭和49年~51年にかけて,亜鉛の建値は高騰しているにも拘わらず,生産金額(鉱山の収入)は横ばいとなっている。
 因みに,T/CとはTreeatmennt Chargeの頭文字を取った略字で製錬費(製錬側の取り分)のことであり,鉱山と製錬の交渉によって決められる。神岡の場合は海外5鉱種の平均を採用している。鉱山の売り上げである精鉱価格は,精鉱の含有する金属価値からからT/Cを差し引いて決められている。
 もう一つの理由は増産したにも拘わらず,粗鉱品位が低下したので,増産メリットが無く,コストのみ掛かってしまったからである。
 亜鉛の建値は昭和51年を頂点として昭和53年迄下落が続いた。それに伴い,経常損益は昭和50年から昭和53年までは赤字基調で推移し,昭和53年のそれは約20億円の赤字計上となった。
 鉱山が生き残るためには,総コストの30%を占めて居る労務費の削減をすることであった。人員削減に関しては,管理職を始め従業員数を半減する大合理化を余儀なくされた。在籍人員を昭和52年末の560名を昭和53年末に265名に減員した。
非鉄金属商品の建値に関しては,合理化後の昭和54年には亜鉛建値のみならず,銀や鉛の建値も高騰した。
 とりわけ銀は歴史的な高値となった。即ち,
 昭和53年に527¢/tozであったものが昭和54年には2519¢/tozを記録した。大合理化の効果も相まって,この年の経常損益は11億円の黒字を計上した。南光坑長は有終の美を飾られたのである。
  注 : tozは トロイオンスと読み, 1toz = 31.1g


9.総括

 
先ずは,鉱山経営の最も環境の悪いときに坑長をされ,御苦労様でしたと御礼を申しあげたい。
 就任当初の鉱山を取り巻く情勢は,オイルショックによる景気の減退,建値の低迷,円高の進行,需要の減退等により「鉱山冬の時代」であった。
 高多坑長の操業方針をそのまゝ引き継がれたが,好い方向には進まなかった。即ち,   ¶ 操業では粗鉱品位が3年間3%台を低迷した。
  ¶ 保安成績では死亡災害が3件発生した。
  ¶ 亜鉛建値の暴落で経常損益が20億円の赤字となった。
 この難局を切り抜けるため未曾有の合理化を余儀なくされたが,昭和54年には建値の回復もあり,経常損益は黒字に転換した。 そして,次の井澤坑長に引き継ぎをされた時点では,保安・操業・経営面で好成績をあげる状況になっていた。又,東坑長以来受け継がれてきた拡大均衡を縮小均衡へと転換された。 残留火薬の事故により死亡災害が発生したが,これを契機としてスラリー爆薬の開発・導入をしたことは特質すべきことである。以後火薬に関する災害は皆無となった。

10.南光さんの逸話
1)陸上競技
 南光さんは大阪大学の工学部に入学された。ところが陸上競技をやるためにはどうしても京都大学でなければならないと考え,大阪大学を中退し,京都大学に入学された。この辺りは小生のような凡人には理解の出来ぬところである。京大工学部のころ,平松教授は何時も
 「南光君!実験は好い加減にして練習に行きなさい。」
と励ましてくれたとか。それくらい南光さんの陸上競技における活躍は目覚ましかったのであろう。
 南光さんが坑長の頃,
  「京大には未だ破られていない記録がある。」
と言っておられた。「京都大学陸上競技部歴代75傑」に今も以下の記録が残っている。
   ¶ 棒高飛び   歴代21位   3.81m(竹) 
   ¶ やり投げ   歴代48位  51.04m    
   ¶ 三段跳び   歴代59位  13.48m  
 因みに,棒高跳びで1950年以前は竹ポールが使用されていたが,1960年代に「グラスファイバーポール」が登場し,棒高跳びの記録は1m以上も飛躍的に記録が伸びた。 南光さんの3.81mの記録はグラスファイバーポールだと,4.81の記録に匹敵する。そして,その記録は今でも京大・東大の対抗戦では優勝記録である。因みに,
2011年の京大・東大の対抗戦での棒高跳びの優勝記録は京大選手の4.50mであった。
2)鉱山四柱神社
 栃洞地区には鉱山四柱神社があった。鉱山四柱神社は格式の高い神社であった。往時は通産大臣岸信介等のお歴々が鉱山四柱神社を参拝している。
 毎年の春祭は盛大に執り行われていたほか,1月に鎮火祭,6月に安全祈願,年末には安全祈願・大祓祭・元旦祭が神社で執り行われた。
年末年始の休暇には,大祓祭・元旦祭が神社で執り行われ,栃洞坑長には招待状が出される。
 南光坑長は災害防止に全力を尽くす一方,神岡鉱業で催される「東大寺への安全祈願」には毎年参加された。神岡鉱業の安全祈願のない時は個人的に祈願に行かれたようである
  「人事を尽くして天命を待つ」心境であった。
 従って鉱山四柱神社の年末年始の大祓祭には必ず参加された。坑長在任の期間は5年間であったが,一度も欠かさず出席された。決して代理を出されることはなかった。
 大祓祭・元旦祭が終了するには午前2時頃であるが最後まで付き合われた。従って,家族の居る東京に帰るのは,年が明けて元旦の午後であった。
 因みに,南光さんが就任された年度の災害件数は44件であったものが,任期の終わった昭和54年度のそれは12件に激減していた。

第6章 井澤一郎 坑長 (昭和54年~昭和58年)

 昭和54年年6月に南光坑長が副所長に昇格され,後任は坑長代理の齋藤が努めていたその年の12月に正式に井澤さんが栃洞坑長として就任された。ペルーのワンサラ鉱山の3年間の勤務を終え帰って来られたのである。引き継ぎは実務を担当していた坑長代理の齋藤が行った。南光さんの赴任した時の環境とは全く逆で,非常に環境のよい時期であった。即ち,操業は産出鉱量・粗鉱品位も順調であり,経営においても図32に示す如く非鉄金属の建値も高値水準で推移していた。


 しかるに,「いざ鎌倉!」でもないのに,栃洞坑の「虎の子」である円山の髙品位塊状鉱床である4番鉱床から多量に出鉱し,選鉱場における粗鉱品位を4.5%にまで上げたことは若干やり過ぎた嫌いがあった。巷では「抜き掘り」をしているのではないかと噂された。
 しかし,井澤さんは次に述べるメカナイズド・カット・アンド・フィル法(MC&F法)への変換を実現するためには,4番鉱床を採掘してバックアップする必要があると判断されたのであろう。そしてMC&法が栃洞坑の主力採鉱法となった時,従来,高能率での採鉱は不可能と考えられていた鉱床でも,MC&Fによって高能率に採掘が可能となったのである。
 メカナイズド・カット・アンド・フィル法とは,従来のカットアンドフィル法を改善し,トラックレスマイニング法で大型機械を使用して採掘する採鉱法であり,「MC&F法」と表記する。従来のカットアンドフィルは単に「C&F」と表記する。


1.組織
 合理化で組織が簡素化されていたので,組織は従来通りの組織を踏襲された。即ち,採鉱係は上部,下部,円山,の3係,それに保安技術係,工作係の5係となった。
 ¶ 管理職で活躍した人々は以下の通りである。

    

2.出鉱量

 出鉱量と粗鉱品位の推移は図33に示す。
 昭和56年に粗鉱品位が4.5%を記録した。粗鉱品位の4.5%の成績は栃洞坑開闢以来の好成績である。その理由の一つは減産により出鉱体制において余裕が生まれ,低品位堀場の出鉱を止めることが可能となったことである。もう一つの理由は髙品位鉱床である円山の4番鉱床から,大量に出鉱したからである。
 昭和56年における可採粗鉱量の平均品位は4.1%であるにも拘わらず,出鉱された鉱石の品位が4.5%であるということは,集中的に高鉱品位鉱床から出鉱されたことを意味する。
 昭和48年~昭和51年は無理な増産の結果,粗鉱品位は3.7%程度に低下してしまった。ズリ混入の高い鉱石が出鉱されてしまったのである。出鉱量が最大であったが,粗鉱品位は最低であった。
 逆に昭和56年は従来の2/3の出鉱量に減産した結果,粗鉱品位は最も高くなっている。出鉱品位を向上させるために如何に適正出鉱量が大切であるかが解る。


3.採鉱法

 採鉱法別出鉱割合を図34に,昭和54年の採鉱法別の出鉱割合は表3に示す。

であった。本番鉱とは開坑作業によって発生する出鉱量である。


 従来,栃洞坑では,保有する可採粗鉱量の品位が低いことから,高能率な採鉱法を選択してきた。従って,採鉱法はブロックケービング法かサブレベルストーピング法のいずれかである,そしてカットアンドフィル法は高品位で小規模な鉱床に適用すると考えられていた。
 しかしながら,井澤坑長はMC&F法を下部係の大規模な5乙鉱体に適用されたのである。
 図34に示すように井澤坑長の就任(1980年)以来,C&F法による出鉱割合が年々増加し彼の在任中に,その割合は36%程度にまで上昇した。爾来この傾向が加速し,将来栃洞坑の主力採鉱法となる。
1)カットアンドフィル法の採用
 井澤坑長が栃洞の採鉱法にMC&F法を採用されたことには,正直に言って驚きであった。下部係の5乙堀場のMC&F法の現場を巡視してみると,それはさながら「ルームアンドピラー(Room and Pillar)」の堀場のようであった。
 ルームアンドピラー(Room and Pillar)とは扁平な鉱床を採掘する場合の採鉱法である。扁平とは高さ15m~30m程度で面積は数千㎡の鉱床である。カナダ・アメリカの鉱山見学でミズーリ-州ブラッシークリーク鉱山がこの採鉱法を採用していた。
 従って,何の違和感もなかった。むしろ当然であるとさえ思えた。
従来,カットアンドフィル法は品位が高く,小規模で,岩盤の脆弱な鉱床に適用されるが,採鉱能率は低い採鉱法であり,栃洞坑のように低品位で岩盤強固な鉱床にはカットアンドフィル法は不向きであると考えていた。
 ところが,3年も経過しないうちにMC&F法が40%を占めるようになった。もうこれ以上無理であろうと思っていたら,あれよあれよという間に60%,70%を占めるようになったのである。考えてみれば,栃洞坑において,一つの採鉱法が産出鉱量の70%を占めたことは,後にも先にもこの時が最初にして最後であろう。
 かくして,栃洞坑の主力採鉱法は,生産性が下がることもなく,コスト増になることもなくMC&F法となったのである。
 従来の考え方を捨て,栃洞坑に再びC&F法を採用されたことは偉大なる改革であった。以前にも栃洞坑でC&F法が試みられたが良い結果は得られなかった。
 更に言及すれば,従来の採鉱法に対する考え方は,
 ¶ サブレベルストーピング法は高能率採鉱法で大規模で岩盤の強固な鉱床に
   適用する。
 ¶ C&F法は低能率採鉱法で小規模で岩盤の脆弱な鉱床に適用する。
 ¶ 栃洞鉱は亜鉛品位が4.2%程度の低品位鉱床であるため高能率に採掘する
   必要がある。
ということから,栃洞坑の主力採鉱法はサブレベルストーピング法ないしブロックケービング法とし,C&F法は低能率な採鉱法であると忌み嫌っていた。しかし,以下のことを勘案すれば,C&F法の採用は当を得た変更であった。
 ¶ 保有鉱量のうちサブレベルストーピング法を適用する程の大規模な鉱床は残り
   少なくなっており,大半は群小鉱床であったこと。
 ¶ トラックレスマイニング法と機械化の進展により,従来のC&F法からMC
   &F法に進化していたので,意外と生産性が高い採鉱法となっていた。
   総合的に(開坑から充填まで考慮する)判断すればサブレベルストーピング]
   法に勝るとも劣らない採鉱法であった可能性がある。
 ¶ ケービング法の適用を極力避け,MC&F法を採用することは出鉱品位の向上
   に多大なる貢献をする。

4.機械化

 この時期は新しい機械の導入は殆ど行われなかった。コストダウンの面から,現有する機械類の整理統合がなされた。複数のメーカのLHDやジャンボが使用されていたが,部品管理の面から,また「Simple is Best」の考え方に従って機械類のメーカを1社に絞った。例えばLHDは川崎重工業,ジャンボは東洋削岩機,削岩機は大成削岩機,という風に。ビット・ロッド等も数社のメーカから購入していたものを1社に絞った。
1)自家製モービルジャンボ製作
 モービルジャンボはメーカで制作したものを購入していたが,自社の技術で製作可能と判断し,中古のLHDを利用し,ジャンボの部品を購入して新しいジャンボを組み立て,自家製ジャンボの1号機が誕生した

5.技術革新

1)予算編成

 小遣いでも家計でも収入を把握した後,使うべき金,即ち予算を考える。しかし栃洞鉱の予算は従来,必要人員と必要物品等,支出のみを積算して立案していた。従って,坑長は予算会議では,前年対比で増加しないように,各係長が提出した予算を削減することに懸命であった。
 井澤坑長は鉱山側で精鉱量,精鉱単価から,鉱山の収入(生産金額)を計算し,それに対応した予算を立案し,生産金額から総コストを差し引き,経常損益を算出された。従って,例え支出が前年度の予算より増加していても,経常損益が増えていれば,予算会議で文句を言われる筋合いはないのである。従って,坑長代理ないし技術係長は予算時には何をさておいても生産金額を計算するようになった。そしてその生産金額に対応した予算を積算するようになった。
 従って,予算会議では経常損益を把握していたので殆ど審議時間が掛からなかった。
 所長に対する説明は栃洞坑と茂住坑と合同で行われる。井澤坑長の説明は経常損益を説明した後,支出を説明されたので,クレームがつくことはなかった。茂住坑にとっても良いお手本であった。 
2)保安環境
 この時期の技術革新は生産性の向上というよりむしろ,保安衛生に関する技術の改善が多くあった。
 ¶ 立坑にベルトカーテンの設置
   LHDで立坑に鉱石を覆した後の粉塵防止のため,各立坑にベルトカーテン
   を取り付けた。吹き上げる粉じんを自動的にベルトで遮断する設備である。
   カーテンの素材は430m準の長尺ベルトコンベヤのベルトが更新済みで
   不要となっていたベルトが転用された。このベルトはゴルフ場のホール間を
   移動する通路にも敷かれていた。巾が広く厚つ手のベルトであったので重宝
   であった。
 ¶ エアーラインマスク
   酸素ボンベ用の容器に圧縮空気を封入して,LHDに搭載する。このボンベ
   とオペレータのマスクをチューブで連結し,オペレータが新鮮な空気を吸入
   しながら作業をすることが可能である。このボンベは連続使用で7時間使用
   することができた。これによってオペレータはLHDの排気に暴露されなく
   なった。これまで金属鉱山規則では,内燃機関,1KW当たり3m3の通気
   量を確保する必要があった。ところが名古屋監督部の調査では1KW当たり
   3mの通気量を確保されている現場は少ない。ほとほと弱った名古屋監督
   部は京都大学の平松教授を神岡鉱山に派遣して如何にすべきか相談した。
   その時,鉱山側ではエアーラインマスクを説明した。平松教授は
    「技術が進歩しているのだから規則もそれに対応していくべきある。」
   と指導された。
   以後監督部は「1KW当たり3mの通気量を確保」についてやかましく言わ
   なくなった。金属鉱山保安法が改正されたか否かは不明である。
 ¶ スクラバ-タンク
   水の入ったタンクをLHDに取り付け,LHDから廃棄される排ガスをタンク
   に通して排気する設備である。この設備は排ガスを綺麗にするばかりでなく,
   作業現場の環境温度を下げる効果がありオペレータに好評であった。
 ¶ ウオータカーテンの設置
   各所の坑道の側壁にスプレー取り付け,坑道の中央に向かって水を噴射し,
   浮遊粉塵を抑制する設備である。坑内の各所に取り付け粉塵の抑制に効果を上
   げた。
 ¶ 土砂取り前の散水
   土砂とり中に舞い上がる粉塵を抑制するため,LHDで土砂または鉱石を取る
   作業をする前に,パイルの上から水を散水した。各種のノズルを購入し,適正
   なノズルを選択した。
 ¶ 保護具の着用
   防塵眼鏡,マスク等を完全に着用することは義務づけられていたが守らない
   作業者がいた。これに対し,係員,保安監督員,全山保安委員等は巡視中に
   着用していない作業を見付けたら,その場で本人に指摘すると同時に,保安
   委員会等で公表した。
4)省エネ
 若干行き過ぎの省エネ対策はあったものゝ,効果は歴然と現れた。昭和50年以降の使用電力量の推移を図33に示す。
 ¶ 廊下灯の廃止
   坑内に働く作業者は何らかの照明を所持している。即ちLHD,ジャンボ,
   ジープ,車両系鉱山機械のオペレータは機械に照明装置がついている。それ
   以外の人はキャップランプを付けているか,サンヨーのカドニカのライトを
   携帯している。従って,廊下灯は必要無しと判断して取り外した。非常事態
   のために坑内で働く全員に小型懐中電灯を貸与した。
 ¶ コンプレッサーの適正運転
   坑道レシーバには深夜電力で作った圧縮空気が貯蔵されている。昼間コンプ
   レッサーを運転し続けると,折角,深夜電力で作った圧縮空気が使用されな
   いで,昼間電力で作った圧縮空気のみが使われることになる。そこで,水槽
   坑道の水位がさがるとコンプレッサーを運転するプログラムで,運転するこ
   とにした。しかし,このプログラムの場合,圧縮空気の製造量が使用量に追
   随出来ず,圧力が下がることがあった。作業者から穿孔時間が掛かりすぎる
   と苦情がたびたびあった。工作係の電気係員が自分の作ったコンプレッサー
   の適正運転プログラムに自信が持てず,事務所に設置してある,圧力計を屡々
   点検に来ていた。
 ¶ 省エネ効果
   図35に消費電力量の推移を示す


4)ケージ廃止
 全山的にトラックレスマイニング法が完成したことから円山下部ケージ,本坑下部ケージを廃止した。又,スキップ立て坑は18号20号のサブレベルストーピング法で採掘された跡の空洞充填に活躍した設備であった。東所長の自慢の設備であった。彼の在任中は長年遊休となっていた。井澤坑長は勇断をもってこの「無用の長物」であるスキップ立坑を廃止された。

6.人員

 人員の推移を図36に示す。人員は合理化直後のことであり減耗不補充で推移した。その結果,在籍人員は昭和54年末に271名であったものが昭和58年には,36名が減少し235名体制となった。


7.災害件数

 災害件数の推移を図37に示す。
 昭和57年は災害が多く発生した年であった。休業災害6件で,内訳は死亡1,重傷3件,軽傷2件である。栃洞坑では昭和50年以来6年間,死亡災害は発生していなかったが,残念ながらこの年に発生した。
 しかし,昭和54年~昭和58年の5年間で年間休業災害ゼロという快挙を1回,年間完全無災害を1回,成し遂げたのは実に立派な成績である。

8.経常損益

 経常損益と亜鉛建値の推移を図38に示す。

 亜鉛建値は高値水準を維持,操業は順調,収支は黒字基調で,鉱山経営は調順風満帆の時代である。
未曾有の合理化が昭和54年に完了し,鉱山の体質はスリムになった。即ち,偉大なるコストダウンが実施されたのである。その直後の昭和54年には非鉄金属の建値は亜鉛のみならず,銀や鉛の建値も高騰した。とりわけ銀は歴史的な高値で移した。昭和56年から昭和58年まで経常損益は15億円から20億円で推移した。

 ¶ 自己否認坑道
 昭和46年度よりコストの中に「自己否認坑道」が新設された。これは長期間に亘って使用する坑道の開削費用は,その期に常費のコストには計上せず,資産として計上し,生産高比例方式で償却する。
 起業費で鉱山機械を購入した場合に,減価償却費でコスト計上する考え方である。
 従って,自己否認坑道を掘削した費用はコストに計上されないため,見かけ上のコストが削減され,経常損益が増加する。
 この自己否認坑道は新設当初は50百万程度であったが,昭和49年には2億円,昭和50年には6億円と加速度的に増加し,昭和52年には最高額の9億円を計上するに至った。井澤坑長時代になると,トラックレスマイニング用の大斜向の開削が終了しており,長期に亘って使用する坑道の開削が少なくなった。即ち,自己否認坑道の計上が極めて少なくなったのである。
 図39は実コストと見かけの総コストの推移を表している。自己否認坑道がなければ実コストで推移する。昭和56年から実コストと見かけコストがほぼ一致する


9.総括

 従来の採鉱屋は安定操業にのみ尽力してきたが,井澤坑長が管理職に鉱山経営の意識を芽生えさせた。例えば,鉱山機械等も起業費を申請して,買って戴くのではなく自分で儲けて購入すると考えるようになった。
 予算の立案においても先ず,精鉱単価・売上額の算出から始められた。この作業は従来経理課で行っていた。栃洞坑では労務費,物品費,修繕費等を積算して,最後に,栃洞坑自身で経常損益をはじき出した。この予算の立案の方法は画期的なことであった。
 幸い,この時期,亜鉛建値は高止まりしており操業も順調で,足かけ5年黒字基調を確立した。
 井澤坑長の最大の功績は,採鉱法にトラックレスマイニング法によるMC&F法を導入されたことである。群小鉱床の採掘に当たり,ズリ混入を少なく,高能率に採掘する方法を確立し,安定操業のためには大鉱床に全面的に依存する体質を改善した。

10.その他
1)豪雪
 昭和56年飛騨地方,北陸地方は豪雪に見舞われた。栃洞茂住を結ぶ国道41号線は閉鎖された。茂住鉱への通勤は神岡鉄道を利用した。
 鹿間地区と栃洞を結ぶ県道は雪に閉ざされ交通不能となり,神岡町から栃洞への通路は坑内のケージを利用する以外になかった。従って,円山への通勤は-370m準坑口より入坑し,0m準で円山に通勤した。
 栃洞地区の生活物資である,米・味噌・醤油等も不足する事態となった。止むを得ず,-370m準坑口より入坑し,下部ケージにより0m準へ,0m準から坑口を出て社宅に運搬することになった。
 会社は開店休業状態。即ち,仕事は午前中で,午後は事務所,倉庫,電車廊下等の屋根の雪下ろしであった。会社にはスコップが多量に無いので各自がスコップを持って通勤した。
 自宅の雪下ろしの場合,屋根の雪は下ろすのではなく屋根以外の場所に積み上げる状態であった。社宅は雪の下に埋まっている状態で玄関に入るためには階段を作って下りて行かなければならなかった。因みに,この冬の累積の積雪は8m以上となり,神岡から栃洞への通勤路が除雪された直後は,乗鞍の山開きの時の登山路のように,堆積した積雪の壁が高く聳えていた。

11.井澤さんの逸話

1)東大水泳部のキャップテン
 小生は学生時代,栃洞坑に地震計を運んだことがある。栃洞坑で長孔発破が周辺岩盤に如何なる影響を与えるかを計測するため,京都大学の傾斜計を三浦君と栃洞坑に運んだのである。その時,坑内見学の案内をして戴いたのが井澤さんである。
 「今晩我が家に飲みに来い。」
と誘って戴いた。我々の宿泊は栃洞坑のクラブであった。井澤さんはクラブのすぐ下の社宅であった。クラブで夕食を済ませ,井澤さん宅を訪問した。三浦君は水泳部で,我々友達仲間で何時も京大水泳部の自慢していた。ところが井澤さんも東大の水泳部であった。彼のお父さんも,弟さんも東大の水泳部のキャップテンであった。素晴らしい家族である
 三浦君は井澤さんの前では全く形無しであった。井澤さんは
 「京大の水泳部は弱かったな!」
と三浦君に同情する。挙げ句の果てに,三浦君のために京大の寮歌「月見草の歌」を謳って慰めて戴いた。
2)三日三晩,飲み続け
 井澤さんが未だ新婚で,上部の係員をしていた頃の話し。
 作業者の扇田孝君が井澤さん宅にストームを掛けた。その夜,彼は井澤さん宅で,したたか飲んで酔っぱらって寝込んでしまった。
 次の朝,井澤さんは出勤した。扇田君は遅く起きて,朝御飯を御馳走になってどこかに消えた。その夜,扇田君は再び訪れ夜を徹して飲んだ。次の日は日曜日であった。朝になっても帰らないから,井澤さんは彼が家に帰るのを促すために,
 「大留にスキーに行く。」
と出かけた。
 大留は現在の採石場と南平坑口の間に位置し」,旧社宅跡で,なだらかな斜面である。
 扇田孝君は
 「じゃ,俺もそのスキーを見物に行く。」
と言って,ついて来た。
 井澤さんは
 「その内,諦めて帰るだろう。」
と思っていたが,彼は井澤さんのスキーを最後までじっと座ってみてい
た。
 スキーが終わると,井澤さん宅までトコトコついてきて酒を飲む。結局彼と3日3晩,飲み続けたのである。
 碁打ちの藤沢秀行さんも正月には後輩が後から,後から押しかけて,寝ずに3日3晩飲み続けたそうである。世の中には豪傑がいるものである。

第7章 齋藤修二 坑長 (昭和58年~平成4年)

 58年に井澤坑長が中龍鉱山に転勤され,その後任として,茂住坑長であった小生が栃洞坑長に就任した。井澤坑長が徹底したコストダウンや諸々の改善を実行されたので,その後任者は何もなすべき事はないという雰囲気であった。
 栃洞坑長を4年勤めた昭和62年に本社に転勤となり,後継者は城後君であった。ところが,1年も立たない翌年の4月に城後坑長が本社の事業構想チームに引き抜かれたのでがその後任として,再び神岡に舞い戻って栃洞坑長に就任した。本店の配慮で再び坑長では可愛そうだということで鉱山部長を拝命し,栃洞坑長も兼務した。実際は栃洞坑長の仕事に専念した。爾来平成4年まで9年間,坑長職に座り続けたのである。

1.組織・インフラ設備

 組織及びインフラ設備の移転等は以下の通りである。
 ¶ 昭和61年保安係と技術係を統合し保安技術係とする。
 ¶ 昭和62年に坑内事務所を坑外に移転
   トラックレスマイニングの進展に伴い,本坑や円山の通洞坑道が拡幅され,
   坑口と坑内切羽間がジープで容易に,しかも短時間で往復ができるように
   なった。これにより,坑内の事務所を廃止し,坑口付近に事務所を移転した。
   事務所を坑口付近に設けることにより,人車に乗る時間,朝の15分,と退
   業時の15分,合わせて1日30分が節約できたのである。
 ¶ 昭和62年に保安技術,工作係,事務係及び坑長室を栃洞から六郎地区に移転
   した。
   以前,跡津川上流にトラックレスによる精密探鉱坑道の掘削が開始され,鹿間
   地区六郎に跡津精密探鉱坑道の機械類を修理する機械修理工場が建設された。
   昭和61年にはこの修理工場は遊休となっていたので,この機械修理工場に
   2階を設け,1回に保安技術探査課,2回に坑長室,生産管理室,会議室等
   を設けた。
 ¶ 昭和63年には栃洞地区の社宅を全面的に廃止し,夕陽丘,旭が丘社宅に移
   転した。
 ¶ 平成元年に茂住坑と栃洞坑を統合し採鉱課とした。
 ¶ 平成2年六郎の事務所を改築し,1階に保安技術係,工作係,探査課,2階
   に鉱長室と本部生産管理室,大会議室,小会議室を設けた。  
 ¶ 平成2年に地下利用室を新設。
 ¶ 平成4年には,栃洞地区に在住していた数戸の私宅も全て鹿間地区に移転した。
   これに伴い栃洞地区の上水道設備は廃止した。栃洞には会社の設備は通洞の
   変電所のみとなった。
 ¶ 管理職で活躍した人々は以下の通りである。
    

2.出鉱量

 東坑長の完全採掘の意志を引き継ぎ,全可採粗鉱量をA,B,C鉱量に分類した。A鉱量は優良鉱床,B鉱量は中程度の鉱量,C鉱量は経済的に採掘困難な鉱量。少なくともB鉱量以上を完全採掘するよう長期計画第9報を立案した。

 出鉱量は基本的には3200T/日であったが,実力は3300T/日以上の能力があった。昭和58年以降の産出鉱量と品位を図38に示す。
 品位は4.1%前後で推移した。昭和58年の品位が異常に高いのは円山の4番鉱床から大量の出鉱をしていたからである。次年度からこれを止め通常の出鉱体制に戻した。その後の出鉱量は僅かながら増産気味に,品位も下振れせずに推移している。 これはカットアンドフィル法採用の効果である。即ち,カットアンドフィル法はサブレベルストーピング法やブロックケービング法のように開坑をしなくとも出鉱が可能なのである。要するに手間暇を掛けないで出鉱することが可能なのである。

3.採鉱法

 井澤坑長が昭和55年にMC&F法を導入された。当初,MC&F法は鉱床の規模や形状,それに岩盤の状況に合わせ,4種類のMC&F法が採用されていた。これらの方式を「4mスライスのMC&F法」に統一し規格化した。更に適用範囲を拡大した。MC&F法による出鉱割合は,井澤坑長が就任した昭和55年は3%であったものが昭和58年に36%,平成元年には73%に増加した。その推移を図41に示す。

1)4mスライスのMC&F法

 先ず,鉱床の最下底に押坑道を入れ,鉱床範囲に合わせて坑道を広げる(土平返し)この時,地面(踏前)から天井(天盤)までの高さは3.0mである。
 次に,この天盤を更に2m分水平に採掘する(天盤落とし)。鉱床範囲の天落としが終了すると高さ5.0mの空間になる。そのままの状態では採掘は不能である。
 更に採掘を進めるために,空間部分にに鉱石の入っていない土砂を充填する。充填は踏前から4.0mの高さまで行う。その結果,充填面と天盤の空間は1.0mとなる。
この状態から天落4.0m分を採掘する。この採掘の厚みをスライスと云う。採掘が終われば,充填し,更に上部を採掘する。これを繰す方法がカットアンドフィル法である。機械化された方法がメカナイズドカットアンドフィル法である。理解を深めるため穿孔作業から順次図入りで説明する。
 ¶ 穿孔作業                
  充填面からジャンボを用いて水平に穿孔する。1回当たりのスライス(採掘の
  厚さ)は4mで,穿孔長は3mである。


 ¶ 発破作業
  ANFOトラック先端に取り付けられた籠に乗り,位置を上下,左右,前後に
  移動しながら,ジャンボで穿孔された孔に爆薬を装填する。


 ¶ 運搬作業
   発破により起砕された鉱石をLHDで立坑に運搬する。
   使用するLHDはKLD-M12で,バケット容量6.8m3,鉱石換算で
   13トンである。

 ¶ 充填作業
   採掘が終了すると,天盤は踏前から5mの高さとなる。更に上部の採掘を続
   けるため,天盤から約1mの空間を残して充填する。
   この空間は次に採掘する時,発破の自由面となる。
   充填用の土砂は,鉱石の抽出が終了したブロックケービング法の堀場から抽
   出する。

4.機械化

1)穿孔機械

 油圧削岩機は以前に開発されていたが,トラブルの多い機械であった。昭和55年代後半にタムロック社が開発した油圧ジャンボは鉱山でも使用に耐えるものであった。栃洞坑では平成元年を油圧元年として削岩機の油圧化を進めた。
 ¶ 油圧クローラドリル導入
   ANFO爆薬はビットゲージ75mm以上で爆速が急激に上昇し,ダイナマイ
   トと同等の爆速が得られる。油圧削岩機を採用し,ビットゲージを75mm
   とすれば,穿孔速度,爆破威力の両面で満足な効果が得られると判断し,古河
   機械金属製の油圧削岩機を搭載したクローラドリルを導入することにした。
 ¶ 油圧ジャンボ導入
   油圧削岩機を搭載した穿孔機械を油圧ジャンボと称する。1989年に油圧
   削岩機を搭載したジャンボを2台導入した。。その後の2年間でフィンラン
   ドのタムロック社製を5~6台購入した。
2)運搬機械
 KLDM-12は鉱石の積載重量は13トンである。因みに,機械化のされていない時代,鉱石を鉱車に積み込む量は鉱夫が一日(5時間=18000秒)で,3トン鉱車に3車分,即ち約9トン程度であった。
 KLDM-12は,約10秒間で13トンの鉱石をすくい上げることが可能である。能率向上は26000倍のである。坑道の加背は4m×2.8mであるからバケット容量が大型化しても車体は現状の坑道加背に納まるように設計してある。KLDM-12が主流となり,運搬能力が飛躍的に向上した。
3)発破作業用機械
 ¶ANFOトラック
  支柱作業を除く坑内作業は,殆ど一人作業になっていた。しかし,発破作業は
  爆薬の装填,雷管の装着,発破警戒等の作業量が多いことから,どうしても二
  人作業が必要であった。
  坑外で使用している高所作業用車にヒントを得て,図41に示すANFOトラッ
  クを開発した。これはバスケットに搭乗して上下,左右,前後を自由に移動して
  作業することが可能である。これにより発破作業は2人作業から1人作業にする
  ことが可能となった。
 ¶ANFO自動計量器
  ジャンボで穿孔された孔にANFO爆薬を装填する作業は,圧縮空気を利用し
  て装填される。
  圧縮空気を使って計量しながら装填するANFO計量器を開発した。これによ
  り各装薬孔に適正な爆薬量が装薬され,爆薬原単位の削減にも貢献した。
4)支保機械
 支保作業は機械化が難しく,機械化が遅れ,手作業にたよる事が多く残っていた。
1990年代に入って,支保作業の機械が開発されるようになった。
 ¶ ロックボルトジャンボ
   ロックボルトを施工中の災害は多く,浮石災害防止の観点からも,作業能率
   上もロックボルトを施工する作業を機械化することが重要な課題であった。
   フィンランドのタムロック社が開発したロックボルトジャンボは全て遠隔操
   作でロックボルトを施工し得る機械である。安全である上に,従来の方法に
   比べ5~6倍の施工能率である。このロックボルトジャンボを本坑と円山に
   各1台ずつ導入した。
 ¶ スケーラ
   平成2年頃,ヨーロッパの鉱山機械メーカであるノルメット社によって2種
   類の浮き石払い機「スケーラ」が開発された。栃洞鉱に導入したスケーラは
   小型ブレーカを取り付けたシンプルなタイプを導入した。
 ¶ タイヤハンドラー
   LHDのタイヤは数百キロの重量があり,人力で交換するには,困難でもあ
   り,保安上,危険な作業でもあった。
   機械の力で安全に,しかも効率よく交換するため,フォークリフトにタイヤ
   を挟む構造のアタッチメントを取り付けて,タイヤ交換機を導入した。海外
   の露天掘り鉱山では,一般的に使用されている機械である。

5.技術革新

1)発破システム

 ¶ 定時集中発破
   発破は昼休,又は,退業時とし,作業者全員が事務所にいることを確認後に,
   坑外の事務所で遠隔操作により発破を掛けるシステムを導入した。
 ¶ 定時集中発破用雷管
   定時集中発破のシステムで唯一危惧されることは,装薬完了の後,ロープを
   張って「立ち入り禁止」の札をかけた状態にしている時,迷走電流で暴発す
   ることである。迷走電流は坑内では計測されていないが。
 ¶ MBS雷管
   そこでMBS雷管を採用し,迷走電流による事故を未然に防ぐことにした。
   MBSは「Electro Magnetic induction Blasting System」の略称である。
   MBS雷管はトランスの原理を応用して電気雷管を起爆するものである。
   発破器から発破母線側に電流を流すと磁性トランスのコアを介して電気雷管
   側に電流を発生させて電気雷管を起爆させるものである。
 ¶ NONEL雷管(非電気式雷管)
   欧米で使用されている非電気式雷管(NONEL雷管)は,非電気式の雷管
   であるため,親ダイ(雷管を装着したダイナマイト)を装薬した後にANFO
   爆薬を装薬することが可能であり迷走電流,静電気,雷,電波などに対して
   安全である。
   NONEL雷管は国内では製造されておらず海外製品を輸入している。
2)NATM工法   
 栃洞鉱においてもこの工法を採用することにした。
 昭和25年頃,オーストリアのラビセビッツ博士等が考え出した工法である。
 「NATM工法」は 「New Austrian Tunneling Method 」の頭文字を取ったもので,「ナトム」と読む。
 NATM工法は一般的に吹き付けコンクリートとロックボルト等を主な支保部材として,地山が持つ固有の強度を積極的に活用し,地山によってトンネルを支持しようという工法である。工法の手順は
  ① 発破によって飛散した土砂を片付ける。全ての土砂取りでなく廊下掃除程度の
   片付けをする。
  ② 坑道周辺にコンクリートを吹きつける。
  ③ トンネルの中心部から側壁と天井に向けて,放射状にロックボルトを打ち込む
  ④ 発破によって起爆された土砂を全て取る。
 このロックボルトと吹き付けたコンクリートによって,トンネル壁面と地山が一体となって強度を得る工法である。


 ¶ 吹きつけロボット
  上部係の坑口近くの坑道で,コンクリートを吹き付ける作業を手作業で実施し
  た。効果的には十分満足できるが,吹き付け作業中の環境は極めて劣悪である
  との報告であった。このため,技術資源(株)が開発した吹き付け用ロボット
  を購入し遠隔操作で吹き付け作業を行うことにした。
 ¶ 生コンプラント
  当初の吹き付けは,生コン車で坑口まで運んで貰い,坑口から切羽まではLHD
  で運搬していた。この方式に代え南平の坑口に生コンプラントを建設した。此の
  プラントは吹き付け用のコンクリートのみならず,坑道の路面を舗装するコンク
  リートも製造した。従来,路面舗装は生コン業者から生コンを購入して行ってい
  たが,自家製のコンクリートを使用するようになり多大なるコストダウンになっ
  た。1日当たりの作業量も倍増した。
 ¶ トランシットミキサー
  従来生コンを坑内に搬入する場合はLHDのバケットで運搬していた。坑内用の
  トランシットミキサーを購入し,生コンを運搬することにした。アメリカのゲッ
  トマン社製のトランシットミキサーである。

3)坑内通信システム
 定時集中発破システムのケーブルは稼働範囲の全域に敷設されている。このケーブルの予備芯を通信システムに利用し,穿孔中のけたたましい騒音の中でも,通話が可能な設備を開発した。
 これには骨伝導マイクが使用されており,骨を伝わってくる声帯の振動を,高感度のセンサー素子で集め音声信号に変換するのである。警察ではパトカーで走行中,オートバイの手を離すことなく本署と通話が可能なシステムを採用している事にヒントを得て開発した。
4)重機類リース
 平成元年の下期より重機械類を購入するに当たり,買い取りでなく,リース制を利用することにした。買い取って減価償却するよりリースの方が早く償却が可能であることが理由であった。
4)坑内賃金見直し
 以下の理由で坑内賃金の見直しを行った。
  ① 従来坑内賃金は坑外成人男子の1.5倍であったものが実績では,1.78
   にもなっている。
  ② トラックレスシステムの進展より,坑内作業は機械化,シンプル化し,従来
   の坑内作業に比べ極めて安全な作業となった。
  ③ 坑内環境も改善されている。
ことから,以下の見直しを実施した。
 採鉱群は1.5を1.3に,技能群は1.2を1.12に比率を下げることとし,特別一時金を支給することで組合の了解を得た。(平成2年3月)

5)第2次時短操業:(274日⇒262日)
 毎週土曜日を休日とし,年間の休日を12日間増加する要求が組合から提出された。これに対し坑内は1日当たり30分延長することで組合と合意した。30分延長の根拠は以下の通り。
 ¶ 現状の坑内の実労働時間:274×5=1370時間
 ¶ 30分延長により:
   (274―12)×5.5=1441時間
  となり,年間休日を12日増加」しても,一日当たり30分の労働時間の延長を
  すれば実労働時間は逆に増加する。
6)技術革新による生産性の向上
 昭和40年以降幾多の技術革新がなされてきた。労働生産性と技術革新を図47に示す。

6.人員

 人員の推移を図48に示す。

 昭和58年には235名であった社員数は平成4年には90名となり,ほぼ1/3の社員数となった。尚,昭和61年に神岡鉱業所が分離独立の際の合理化では56名が退職している。
 昭和58年以降は減耗不補充で推移した。その昔,東坑長時代は在籍人員650人で3700t/日の生産量であったものが,平成に入って100人そこそこで3800t/日が生産されるようになった訳である。

7.災害件数

 災害件数の推移は図49に示す。災害件数は昭和60年をピークに,増減産に拘わらず,減少している。
 完全無災害は昭和58年と平成4年の2回記録し,休業災害ゼロは昭和58年から平成4年の10年間でを5回記録している。人員の減少と機械化の進行の賜である。

8.経常損益

 経常損益総コスト等の推移を図50に示す。
 昭和58年以降,亜鉛建値の変動や円高の進行があったものゝ,経常損益は図50に示す通り黒字基調で推移した。
 昭和63年から平成2年の3年間の合計経常損益は79億円で過去最高を記録した。平成3年と平成4年は,非鉄金属建値が下落し,円高が急激に進行したにも拘わらず,経常損益は4~5億円の黒字を確保した。


9.地下空間利用

 地下岩盤は強度,剛性,耐震性,恒温性,遮音性,隔離性等で優れており,これらの特質を利用すれば,
 「地下でなければならない,地下の方が有利である。」
という施設が存在するはずである。その考えの基に,地下空間利用を模索した。
 ¶ カミオカンデ
  カミオカンデは陽子崩壊の検証を目的に,昭和57年に茂住坑内に建設された。
  地下空間の規模は,高さ20m,直径23mの円筒形で上部は半球状である。
  この空間は地表から1000m下に建設された。その1000mの「被り」が,
  宇宙船からのフィルターの役目を果たすそうである。同様の機能をもつ設備を
  地表に作るとすれば経済的に不可能であるとのことであった。神岡鉱山におけ
  る地下利用の第1号である。
 ¶ 火薬試験場,
  ある火薬メーカから,ロケットを打ち上げる推進薬の研究のための試験場を坑内
  に設けたいと申し入れがあった。坑外では爆音と振動で近隣のから苦情でて建設
  不能であるとのことであった。第一期として50m級の射場が建設された。後年,
  第二期として400m級の射場が建設された。
 ¶ スーパカミオカンデ
  平成7年には,陽子崩壊をより早く検証するためにスーパカミオカンデが建設さ
  れた。地下空間の規模は高さ40m,直径56mの円筒形で上部が半球状である。
  この研究施設では東京大学の小柴教授がニュートリノの研究でノーベル賞を受賞
  した。


 ¶ 岩盤掘削試験場等
  あるゼネコンがトンネル掘削の技術・ノウハウを会得するため,鉱山の一画を
  使用して岩盤掘削試験場とした。巨大空間の安全性を検証する場合,岩盤の強
  度を知る必要がある。その場合,岩石の試験ピースによって,圧縮強度や引っ
  張り強度を測定する。この場合,正確な予測は困難である。何故かというと,
  岩目のない試験ピースからの情報では,実際の岩盤の強度を測ることは不可能
  であるからである。少しでも現実に近づけるためには,数メートル大の試験ピ
  ースが必要となる。この試験ピースの圧縮強度を得るためには,数百トンの圧
  力で試験ピースを押さえる必要がある。そしてその反力を受ける装置は巨大な
  装置となり現実には実現しない。このような場合,地下の岩盤に試験装置を設
  ければ可能となる。そのような観点からゼネコンが地下実験室を必要としてい
  た。

10.総括

 昭和58年に井澤鉱長から引き継いだ当時の労働生産性は20t/工であった。その後の技術革新により労働生産性が飛躍的に向上し,平成4年(1992年)には50t/工を達成した。
 昭和55年(1980年)にカナダ・アメリカの鉱山見学に出かけたがその時,見学した鉱山の労働生産性は50t/工以上であった。
 北米の鉱山にに比べると,遙かに小規模な鉱体で採掘条件の悪い鉱山において,彼等と肩を並べる労働生産性に達したのである。
 又,これにより,従来の生産性では経済的に採掘不能な鉱石も採掘し得るようになり,東坑長の仰るような完全採掘とまでは行かないまでも,鉱量計算の断面図を見ると
 「よくもマア,ここまで採掘したな!」
と思うのである。
 参考までに栃洞坑の代表的な鉱床である,9番鉱床の断面図を図52に示す。赤く着色した部分が残存鉱量である。
 11号ピラーは未だ採掘の余地がありそうであるが,早い時期に亀裂が入っていたので永久ピラーとされ,以後,採掘されなかったのである。
 鉱石は採掘すれば無くなるが,齋藤坑長の時にその時が見えてきた。その後,平成13年に栃洞鉱は休山し,閉山の準備に入った。
 経常損益においては昭和53年の合理化以降,14年間は黒字基調で推移し,1度も赤字を出すことはなかった。
 最近,TPP(Trans Pacific Partnership)が自由貿易の枠組みとして注目されている。農業団体や地方自治体等は「農産物の関税が撤廃されると国内の農業が壊滅する。」と強く反対している。非鉄金属業業界においても,国内鉱山の規模が海外鉱山のそれと比較して,極めて小さい(約10分の1)ことから,昭和39年に貿易自由化される時,国内鉱山は壊滅状態になると喧伝された。しかし,神岡鉱山にあっては技術革新やコストダウンにより,国際コスト競争力を高めることにより,保有鉱量がほぼ尽きるまで採掘を続け,その後,47年間操業を続けてきたのである。日本の農業も戸別単価補償などしていてはいつまで経っても国際競争力を涵養することはできない。大規模化や技術革新に取り組むべきではなかろうか。


11.齋藤坑長の逸話

1)カラオケ

 昭和50年代の話。
 宴たけなわになると,その場で歌うか,カラオケ酒場に行く。小生は生来の音痴で一人では歌えない。それを知っていて周囲の者は
 「齋藤さん,どうぞ,どうぞ」
と強要する。
 ある宴会で南光坑長が
 「齋藤君!歌いなさいよ,そしたらこの1万円あげから。」
と言ってテーブルの上に1万円札を置いた。それでも頑固に断り続けた。時間がたって席が乱れた。誰かが
 「この1万円は何だ!」
と大声で言う。南光坑長が
 「それは齋藤君が歌えば,あげるといっておいてあるのだ!」
と答える。皆,面白がって
 「齋藤さんどうぞ!どうぞ!」
と囃したてる。カラオケの無い国に引っ越したいと思った。
2)若気の至り
 下部係で実習をしている時,現場監督者の懇親会が催された。東坑長も参加され,我々実習生三人も仲間に入れてもらった。塚本係長以下,現監督者がマイクロバスで富山にツグミの焼き鳥を食べに行った。ツグミは北陸や中部地方では霞網によって年間数百万羽も捕らえられ、雀という名で焼き鳥にされていた。1947年にツグミは禁猟になり,霞網も禁止になったが,まだ密猟が後を絶たなかったのである。宴たけなわの頃,実習生のなかで
 「東さんに巻き寿司を投げつける勇気があるか?」
と言う者がいた。誰も投げつける勇気のある者はいなかった。
しかし,後年,誰かが
 「齋藤は東さんに巻き寿司を投げつけた。」
と言いふらす者がいて,有名な話になってしまった。
 帰途,東坑長が霞網で捕獲したツグミをポケットに入れ得意そうにしておられた。それを見つけて
 「禁猟であるツグミを持ち帰るとは何事か!」
といって東坑長のポケットに手を入れて,持ち帰ろうとしていたツグミを逃がしてしまった。このいたずらのため,東さんの自分に対する印象を極めて悪くしてしまった。
 係長の昇格辞令を東所長から受けた。その時,東所長は笑いながら
 「齋藤君!僕はね,君をいつ首にしようかと思っていたのだよ!
  アッハッハ!」
と冗談とも真面目とも受け取れる発言があった。
 これは,若かりし頃,東さんがポケットに入れていたたツグミを逃がした時の仕返しだと思った。

第8章 山の生活

 栃洞地区は二十五山(1219m)の山腹に位置し,標高はおおよそ850m準であるこの斜面を約400m下れば神岡町の市街があり高原川が流れている。神岡町の市街は谷底に位置するが,栃洞は山腹なので神岡町の市街に比べ日当たりが良い。
 鉱山に働く人の殆どがこの栃洞地区に居住している。鉱山の最盛期には,昭和30年頃であろうか,約800人の従業員が鉱山に勤務し,家族を含めると3000人余が居住していた。
 栃洞地区は通洞,泉平,前平,南平の4つの地区から構成されている。南北に町道が通る。これが坑内では前平断層となっている。北の端に通洞社宅群,中央に前平社宅群,南に南平社宅群,西側の斜面に泉平社宅群が位置している。前平地区の南西の奥まった一画に,柏豆社宅がある。その地区には主に管理職の家族が居住している。前平地区と南平地区には数戸の私宅が存在するが,通洞と泉平地区は全て社宅群である。
 通洞から前平へ行く途中の西側の坂をだらだらと下って行くと泉平社宅群がある。前平を通り抜けて南に下って行くと南平社宅群がある。更に行くと和佐保の私宅がある。その先端に和佐保堆積場がある。この堆積場を通り抜けて更に下に行くと神岡町の市街に至る。
 鉱山のインフラとして,社宅群,小学校,中学校,病院,郵便局,警察,信用金庫,書店,魚屋等の店が並ぶ商店街等があり,それに飲み屋も1,2軒はあった。この商店街を「前平銀座」と称し,常にほろ酔い加減の人がちらほらしていた。
 「前平銀座」を通り抜けて,鉱山の事務所に至る路は薄ら寒い景色であるが,毎月,給料日には,旦那の給料を貰うために,奥さん方が笑顔を浮かべて通った。経理課の窓口に列を成して給料を貰っていた。この路は正に,金のなる路であった。往時は,給料は坑内事務所で支給されていたが,給料袋を盗難された事件があり,その後
坑外事務所で支給されるようになった。

1.社宅

 社宅は北から通洞社宅,泉平社宅,前平社宅,柏豆社宅,南平社宅と5地区に分散していた。昭和30年代の前半は社員数が多く,結婚しても社宅が貸与されない人もいたという。その人達は民家を間借りしたそうである。

2.対山寮

 学卒社員の寮は前平に対山寮,一般社員の寮は南平に聳南寮があった。高原川を挟んで東側に二十五山が,西側に大洞山が聳えている。対山寮は二十五山の西側の中腹に建っている。
 入社直後,栃洞坑に赴任したのは7月であったにも拘わらず,対山寮には,未だストーブが備え付けてあった。対山寮は鉄筋コンクリートの2階建てで,娯楽室には,囲碁,将棋,麻雀等の道具が備え付けてあった。別の部屋に撞球台や卓球台等の設備も備え付けてあった。
 寮の住人は寿賀,藤江,丹,前園,北島,上山さんの6人であった。
 そのうち3人は交替制勤務に入っていたので夕方に顔を合わせるのは,寿賀さん,藤江さん上山さんくらいであった。そのほかに学校の先生がいたが社員との交流は殆ど無かった。
 賄いの女の人は浅田のおばちゃんがリーダでその他に,若い未婚の女性が3,4人いた。
 新入社員は採鉱関係の中谷,山口,自分,地質関係の中井で合計4人であった。
 寮生が一挙に倍増したのである。一番喜んだのは上山さんである。前年は新入生が居なかったので,2年間,先輩に「こき使われ」てきたが,今後は上山さんが「こき使う」身分になったのである。
 坑内勤務は,朝7時から3時までの時間帯である。未だ陽が高い内に寮に帰ってくる。世の中の人々にとってはこの時間帯は仕事のかき入れ時である。そんな時間帯に風呂に入る。風呂の窓を開けると対面に大洞山が迫っている。眼下に雲海が棚引いている。まるで仙人にでもなったような気がした。

3.二十五祭

 二十五山(1219m)は昔,峰記山といい,霧の深い山であった。村人の多くが此の山に入って迷子になった。源蔵もその一人であった。源蔵は峰記山に入り,行方知れずとなった。夜遅く伊西の人に送られてくたくたになって帰ってきた。
 以後,村人は誰も峰記山には入らなくなった。元禄1,2年の頃,飛騨を行脚していた円空がその話を聞いた。仏に助を願うため山に入った。円空は晴れた日に,山々を見渡し,数え,数えること二十五,その眺めに見惚れているうちに,俄に霧に包まれた。円空は老杉の根のかたわらに御堂を建て,二十五体の菩薩像を鉈(なた)一丁で彫り込んだ。精魂込めた御仏を御堂に納め,経を読むと峰記の山は鎮まった。
 いつしか村人はこの山を二十五山と呼び,7月25日の縁日には,近郊からも多くの人が詣でるようになり,年々,賑わった。
 自分が入社した頃,7月25日の縁日には夕方,多勢の人が,明かりを掲げ,行列を作って北盛の谷路を二十五山に登って行く光景を,夢か現(うつつ)か分からぬ程の幽かな記憶として残っている。駆け出しの頃,鉱山で一緒に働いた黒川修三君が,次のことを教えてくれた。
 彼等が中学生の頃までは,二十五山の縁日は,会社が2日間休日となり,二十五山祭りに加え,運動会や芝居が催された。休日の第一日目が運動会で,各地区対抗戦が執り行われた。応援団は園児から高校生まで,総勢1000人以上が駆り出された。今から思えば壮観な運動会であった。
 二日目が芝居であった。芝居は旅芸人一行が毎年訪れたのである。大勢の観客が近郊からも訪れた。
 子供達にとって,二十五山の縁日は,盆と正月が一度にやってきたかのような,楽しい祭りだったのである。
鉱山四柱神社と二十五山を結ぶ参道には菩薩が置かれており,縁日に参る時はその仏像を拝みながら登った。
 頂上では焼きそば・おでんなどの夜店や野師の露天商等で賑やかであった。二十五山の頂上には稲荷神社と観音菩薩があった。 しかし,豪雪で菩薩堂が壊れ,阿弥陀二十五菩薩は南平の光円寺本堂に安置され,堂の絵天井などの貴重品全て当寺に保管されている。
この地は坑内採掘の影響,即ち,7丙の崩落に続き,5番甲の崩落により,社や杉の木は埋没した。その後,露天掘りの採掘現場となり鬱蒼とした杉の木の森は消えた。

4.鉱山四柱神社の祭

 4月の終わり頃が栃洞の鉱山四柱神社の祭りである。行列に獅子や鶏頭に雅楽,笛太鼓が繰り出される盛大なお祭りである。通りには野師の店が立ち並ぶ。要所々々で獅子舞が披露される。
 鉱山の安全を祈るために,栃洞坑の管理職が夜の神輿を担ぐことになった。通洞の広場を出発して神社まで僅かな距離であるが,2時間くらい掛かる。道々御神酒を御馳走になる。特に前平銀座では,あちこちの商店の旦那が酒を振る舞うので時間が掛かる。飲み過ぎた管理職は足下がふらついてくる。非常部員が神輿を担ぎ管理職はぶらさがっているような恰好になる。神社の石段を登る頃は担ぎ役の管理職はふらふらである。最後の石段を登り切ったところから社まで全速力で駆け込む。
 これが,又,きつい!

5.鉱山救護隊

 救護隊は鉱山、炭鉱において、酸素呼吸器を着装し有害ガス中または酸素欠損の空気中で、人命救助、災害の拡大防止、復旧などの作業をするために設けられる組織である。爆発性ガスの発生の多い甲種炭鉱では、鉱山保安法規の規定によって甲種鉱山救護隊を設けなければならない。甲種炭鉱以外の炭鉱、鉱山で監督官庁から指定された場合、または自ら希望する場合は、前記に準じた編成で乙種鉱山救護隊を設ける。
 鉱山救護隊の活動は高度の技術、体力および責任感を必要とするので、隊員は年齢20歳以上40歳未満で身体強健、技術優秀な者で、北海道または九州の鉱山保安センターで行われる36時間以上の有資格者講習を受け,所定の試験に合格しなければならない。
 神岡鉱山の場合,自ら希望して編成された救護隊で,坑長が隊長となり耐寒訓練,耐熱訓練等が定期的に行われた。

6.非常部

 地区消防団のことである。大げさに言えば,「暴れん坊将軍」の「め組」のような存在
消防団の役目以外に,年末年始の警備,春祭りの警備も非常部の役目であった。坑長が団長を務めており,新年早々,雪の降り積もる中,「出初め式」が挙行され,団長が訓辞を述べることになっていた。

7.銀嶺会館
 山間僻地で娯楽の少ないことから,定期的に銀嶺会館で映画が上映された。東京で封切りされると,1週間も経たないうちに銀嶺会館で上映された。昭和30年代の雪が数メートル積もった時でも,銀嶺会館は観客で満員になった。
 坑内で働いている労働者に「小回り」という制度があった。ある一定の作業を片付けると時間かまわず帰宅してもよい制度である。銀嶺会館で映画が上映される日は「小回り」の人は通常1日掛かる仕事を半日で仕上げて銀嶺会館に走ったそうだ。又,
 毎年のように,有名歌手が招かれた。美空ひばり以外,大抵の歌手は銀嶺会館に招かれたと云われている。最後は1977年頃で,千昌夫ショウが催された。彼は神岡に来る道すがら
 「こんな山奥に公演に来るなんて冗談じゃないヨ!」
と不平不満をぶちまけていたとか。しかし,舞台に立てば別人,
 「銀嶺会館は素晴らしいね,真夏と言うのに,クーラーも扇風機も要らない,
  涼しい風でぐっすり昼寝が出来た。自分は三井金属の専属歌手になりたい。」
とお世辞を振りまきながら「北国の春」を熱唱してくれた。
 銀嶺会館の思い出について栃洞に在住であった巣之内武氏の文章を紹介する。
 栃洞の銀嶺会館には戦後の二十年代に有名な芸人がその技を競った。演劇では関西歌舞伎の大御所・中村雁治郎一座。辰巳柳太郎,島田正吾の新国劇。杉村春子,長岡輝子の文学座。花柳章太郎の新生新派。エノケン一座等。
 浪曲では寿々木米若,広沢虎造,木村若衛,春日井梅鴬等々。変わった所では三波春夫が南条文若の芸名で口演,翌日下之本まで荷馬車で運んで一曲うならせた思い出がある。
 歌手では藤山一郎,霧島昇,田端義夫,楠木繁夫等々有名人を網羅したが,美空ひばりだけはワンステージ80万円(煙草のピースが二十円の時代)で手が出なかった。
 文学座の[女の一生]を公演後,楽屋で一席を設けたとき,正面の上座に照明係の兄(あん)ちゃん達が座り,御大の杉村春子や芥川比呂志が中程に座って,飯を食っていたのが印象的であった。栃洞の銀嶺会館には戦後の二十年代に有名な芸人がその技を競った。その会館もいまは訪れる人もなく,ひっそりと眠っている。

8.鉱山の職場対抗

¶ 卓球大会
 会社の行事で全山卓球大会も催された。自分は中学時代に卓球部員で,群大会で個人優勝したことがあり,全山の卓球大会には駆り出された。 
 大会の10日程前から銀嶺会館で夜に練習をした。山田虎さんと小島利吉さんがいた。両者共50歳を超していた。二人でダブルスを組むことがあった。その時,皆は100歳コンビと言ってひやかしたものである。
 彼等は40歳を過ぎてから卓球を始めたそうである。盆や正月の休暇に平湯寮に宿泊し,戯れに卓球を楽しんでいた。実力がめきめきとつき,全山の卓球大会の選手にまで育ったのである。実力は可成りのものであった。特に,小島利吉さんは小柄な人であったが,粘り強くレシーブするタイプで,小生は勝てなかった。
¶ ソフトボール大会
当初は野球大会であったが,皆が参加し易いソフトボールに切り替えられた。ソフトボールは流石に人気のスポーツであったので,全山の職場大会開会式には所長が挨拶をされた
 井澤さんは若い頃から,坑長になっても,常に選手で出場されていた。守備はピッチャー専門であったが,名ピッチャーであった。
 坑内のチームは雨が降ると強いが快晴の日は弱いという人もいた。坑内のチームが優勝したことは無く,栃洞のチームでは探査課が優勝したことがあると記憶する。
 各チームに一人は「カッカ」と頭に来る選手がいた。例えば,味方の選手が「エラー」をすると,地面にグローブを叩きつけて怒っていた。観衆はゲームもさることながらこの「カッカ」とくる選手に注目していた。

¶ 駅伝大会
 全山大会で最も人気のあった大会は駅伝大会である。栃洞のチームは1ヶ月くらい前から練習をする。選手が練習に必要な費用は各職場で奉加帳が回覧され寄付を募る。大会では坑内チームが優勝することが多かった。円山係は昭和50年から3連覇を達成した。選手は横丁,山口,尾形等がいた。特に尾形君は駅伝4区の男として有名であった。4区は距離も長く,坂道もあり,選手にとって最も難関であった。尾形君は,例え4位,5位で「襷(たすき)」を受けても,先に走るランナーを「ごぼう抜き」にして次のランナーにトップで「襷(たすき)」を渡した。しかし鉱山は合理化で人員が減少し選手も辞めていき,下位に甘んじるようになった。そして坑外のチームが頭角を現してきた。特に,経理課を始めとする「坑外共通チーム」である。経理課の管理職が率先して選手として走っていた。例えば,藤吉課長,尾本課長,亀野係長,等である。因みに尾本君は京大陸上部で長距離を走っていたそうだ。
 大会が終了した後は,各チーム,それぞれの会場に分かれて宴会を開く。瀧華所長が各チームの会場を巡回した。各会場で大歓迎され所長に「一気飲み」を迫った。その夜,所長は如何になったか知る由もない。

9.娯楽

¶ 囲碁・将棋・麻 雀
 会社の昼休みは囲碁・将棋を楽しむ人が多かった。時間が短いこともあって,将棋を楽しむ人の方が多かった。社宅に帰ると麻雀が流行していた。春闘でストライキがあった頃は,朝の集会が終わると社宅に帰って,雀卓を囲んだものである。一方,囲碁同好会も結成されが囲碁人口が少ないせいか長続きはしなかった。

¶ ゴルフ
 栃洞でのゴルフの黎明期は,昭和52年頃である。最初は管理職の少数が富山方面の練習場に通っていた。昭和53年の合理化の時期はメンバーも増えなかったし盛んにもならなかった。合理化が終了した昭和54年頃少しずつメンバーも増え,盛んになってきた。そのうち神岡町の東雲に練習場や数河のゴルフ場が開設された。
 神岡鉱業所でもゴルフコンペが開かれるようになってきた。栃洞坑でも井澤坑長時代に「GG会」が結成された。会社のゴルフコンペは「数河カントリークラブ」であったが,プライベートでは富山北陸のゴルフ場の殆どのゴルフ場でプレーをした。

10.平湯温泉
 平湯温泉には福利厚生施設として平湯寮があった。盆休みには競って平湯寮の宿泊を希望した。希望者が多いのでくじ引きであった。
 くじ運が良かったのか人事課で栃洞坑の枠を多くしていたのか解らないが,毎年のように盆休みには家族で平湯寮に保養に出かけたものである。その頃は神岡と栃尾間の路は単線の隘路であった。バスがすれ違う場合は,いずれかのバスが待避所までバックしてすれ違ったのである。今は国道471号線に昇格し複線となっている。

付録  神岡の水力発電の歴史

 神岡を顧みる時どうしても書いておかなければならないのは,元三井金属社長尾本信平氏の「起業回想」に掲載されている「ホワイトコール」のことである。尾本信平氏は昭和8年に三井鉱山に入社された。
 以下彼の「起業回想」より
 「当時三井鉱山は石炭の生産では日本一であり,「ブラックコール」は分からない言葉ではなかったが,「ホワイトコール」という言葉については全く理解することができなかった。そこで私は
 「ホワイトコールとはなんですか」
と質問したところ,
 「それは日本アルプスの水力資源のことだよ」
といって次のような説明をしてくれたことをいまだに感激をもって思い出すのである。
 いま,三井鉱山は石炭では日本一の生産会社であり,その資源もかなり豊富に持っている。これはだんだんと採掘条件が悪化し,コストが漸増してくることは間違いないし,採掘すれば遂には掘り尽くしてしまうということも当然考えなければならないことである。石炭は人間のエネルギー源として,また化学工業原料として極めて重要な地下資源であり,われわれ鉱山企業の重要な事業対象物であることは間違いないが,残念ながらそれは前述のように有限であり,しかもコストの漸増する性格を持っている。
 一方,水力資源は無限のエネルギー源であり,しかもその生産原価は金利償却の進展と共に漸減する性格を持っているのである。すなわちこの宇宙間に太陽が照り,地球の引力はなくならないとすれば,太陽エネルギーは海面より水蒸気を吸い上げ,これを雨雲として山にぶっつけ川や瀧となって再び海にそそぐ,太陽が吸い上げてくれたエネルギーと地球の引力が海までおろしてくるエネルギーを活用するのが水力発電であるので永遠のエネルギーであるといっても差し支えない。
 神岡の鉱石は掘ればなくなる。いずれは千数百年の歴史に終止符を打つ訳である。もしこの時に神岡鉱山が自由に使い得る何十万kwの電気エネルギーを持っているとすれば,この電力をエネルギー原料とし各種の産業を起こすことが出来るであろう。これらの事業は電力と共に永遠の生命を享受することができるはずである。あの山深い飛騨山中において1000年以上にわたって鉱山を守り続けてきた人々に対しての,この永遠の事業を残すことは恐らくは三井人の使命ともいえるであろう。
 ¶ 明治27年  鹿間谷に水車発電設備を竣工。県下で初。
 ¶ 明治43年  船津電灯(株)より26kwを受電。
 ¶ 大正6年  割石発電所建設,240kw
 ¶ 大正8年  土第一発電所竣工,800kw
 ¶ 大正9年  神岡水電建設事務所設立
 ¶ 大正11年  神岡水電(株)創立
 ¶ 大正13年  神岡水電建設事務所設置
 ¶ 大正13年 跡津発電所竣工  6850kw
 ¶ 昭和元年  中山発電所竣工  1000kw
 ¶ 昭和4年  猪谷発電所竣工  22300kw
 ¶ 昭和10年  土第二発電所竣工 1100kw
 ¶ 昭和14年  日発の委託を受けて東町発電所建設に着手
 ¶ 昭和17年  東町発電所竣工31300kw
 ¶ 昭和17年 神岡水電(株)解散
 ¶ 昭和28年  金木戸発電所竣工, 出力17000kw
 ¶ 昭和56年 跡津発電所6850kwから11850kwへ増強

2)現在の発電所の設備能力は以下の通り



おわりに

 昭和40年から平成4年まで,栃洞坑の約30年間の歴史を,坑長の交代を節目として書き綴った。各坑長の特色を一口言でいうと次のようになる。
 東 坑長  : 基盤作り
 高多坑長  : 拡大均衡
 南光坑長  : 縮小均衡
 井澤坑長  : 鉱山経営
 齋藤坑長  : 技術革新
社会の潮流と非鉄金属建値の変動に翻弄された27年間であった。
 昭和40年頃までは採掘量を上回る鉱石を獲得し,可採粗鉱量も増加するヤングマインであった。それに基づき増産基調で進んできたが,昭和53年は需要の低迷,金属建値の暴落,円高の進行,景気の低迷の四重苦で4800t/日から3200t/日への減産を余儀なくされた。
昭和54年以降,操業成績も良く,景気も回復し,金属建値にも恵まれ平成4年までの14年間は黒字基調で推移した。
 しかし,平成5年以降は円高の進行,建値の低迷,加えて可採粗鉱量の減少に伴い採掘条件が悪化し,経常損益は赤字に転落し平成13年には休山となった。
 東坑長が1965年に
  「この鉱山の山命は20年以上である。」
と,言われてから36年で休山したことになる。
 鉱山における管理者の任務は「保安と生産と労務管理」と言われた。その観点から,図53と表5を観ながら,小生が栃洞坑に勤めた27年間を振り返る。


 先ず,保安については昭和40年には全災害107件,休業災害20件が発生していたそれが1992年には全災害がゼロ,いわゆる「完全無災害」を達成する時代となった。生産性が向上し,作業員数が減少したこと,技術革新・機械化が進行したからである。
 次に生産は高能率にズリ混入の少ない鉱石が安全に出鉱されるようになった。特に生産性は,1965年は7t/工であったものが2001年のそれは7.5倍の51t/工に上昇した。
 労務管理では数次のの合理化を余儀なくされたのは痛恨の極みである。一方,労務費単価は昭和40年以降上昇傾向で,平成4年には昭和40年の14倍に上昇し,鉱山労働者に豊かな生活を与えて続けた。。
 最後に,経営面では,総コストについては,昭和40年以降労務費単価は上昇しつづけ,平成4年には14倍に跳ね上がっているが,昭和52年以降減少傾向である。
 経常損益は54年以降,亜鉛の建値が如何に変動しても黒字基調を維持してきた。特に昭和62年の亜鉛の建値のPPフラットは118千円で,53年に合理化をした時点の131千円よりも暴落したが経常損益は4.2億円の黒字を確保した。


 しかし,掘れば何時かは無くなる減耗性資産を対象とする産業の宿命で,栃洞鉱山は2001年に,休山を迎えた。
 より多くの利益を得んが為に拡大均衡が取られてきたが,適正出鉱量で延命を計るべきでなかったか。しかし,近年の超円高を考えると,栃洞坑のような低品位の鉱石は円安の時代に掘尽くすべきである。等々を考えると,幸か不幸か栃洞坑の平成13年の休山は正解であったとも考えられる。



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