自叙伝:齋藤修二の採鉱屋の半生思い出すことなど 第Ⅰ部

斎藤修二さんの自叙伝
思い出すことなど
第Ⅰ部
思い出すことなど
第Ⅱ部 行雲之巻
思い出すことなど
第Ⅱ部 流水の巻
栃洞坑27年間の断想


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目   次  (数字は、印刷用PDFのページ番号)
はじめに 1 故郷 6 遙かなる家 7
朝寝坊 8 ランドセル 9 決闘 9
鉄道便 10 幸ちゃん 11 通信簿 13
餓鬼大将形無し/相撲 14 九思の松 15 百日かつら 17
唐臼(からうす) 19 苺 (いちご) 20 馬力引き 21
円山川 22 上小田橋 23 岩上先生 25
日本地図 27 本田増武なり 28 いざ鎌倉 29
演技派の先生 31 満員電車 31 日本一 32
学芸会 33 祖母死す 35 村民運動会 36
舟山に逃れる 37 日和山の遠足 38 円山川の水泳 40
不埒な先生 41 学校の帰り途 42 兄の友達 43
兄の朝寝坊 43 兄病床に伏す 44 平野先生 45
森羅万象 46 ソフトボール大会 47 水上スキー 49
ガラス拭き 49 ポーニャン 51 “つかさどる” 53
俳句 54 散切り頭 57 跳び箱と鉄棒 58
予習合戦 59 国会解散 60 志を果たして 63
悪戦苦闘 64 水戸黄門漫遊記 66 中学校の先生達 67
策を弄す 70 囲碁よもや話 71 野球部 74
工作の宿題 75 卓球部 76 陸上競技部 79
遠泳競争 81 下級生の謀反(餓鬼大将) 82 近所の秀才 85
大学受験 87 文通 88 浪人 89
村上鬼城 91 藤記先生 93 父の死 94
父の思い出 95 合格発表 97 再び浪人 98
母の昔話 99 背水の陣 103 大工の孫 105
読書 108 「やっちゃん」 109 母の御馳走 111
最後の受験 112 合格発表の日 114 京都大学入学 116
下宿生活 119 京都見物 119 やりくり算段 125
放浪 127 狭い世の中 129 ロシア文学 130
夏休み 131 政治学の講義 134 第二外国語 136
実験と料理 138 別子鉱山 139 四国旅行 142
大学とは 145 就職 147 おわりに 148

思い出す事など 第Ⅰ部
はじめに
 退職してから,朝の散歩と晩酌が日課になっている。散歩は夏は荒川の河川敷,冬は京葉道路を錦糸町辺りまで行く。晩酌は焼酎の「烏龍茶割り」に決まっている。散歩をするにつけ,晩酌をするにつけ,遠く過ぎ去った日々の思い出が,沸々と脳裏に湧いてくる。
最近は近くに住む孫達が代わる代わる遊びに来て,
 「爺ちゃん!爺ちゃん!」
と言って遊んでくれる。自分の人生の大半は終わってしまったが,この孫達はどんな人生を歩むであろうと思いやる。
 隠居暮らしの徒然に,沸々と浮かぶ「我が思い出」を綴り,孫達に読ませようと考えた。
 毎朝,血糖値を測っている。値が高い時,昨日は何を食したかを思い出そうとするが,思い出せないことが多い。ところが,50年,60年前のことが昨日の如く,事細かに思い起こされる。自分は悲しいときも,絶望の時も,冗談を飛ばして,前向きに進んできたつもりだ。孫たちが大きくなって,
 「お爺ちゃんは長い人生を辛抱強く歩いて来たのだね。」
と溜息をつくかもしれない。
 
大学卒業までを第Ⅰ部,入社から退職まで,第Ⅱ部とし一般的記述を「行雲之巻」とし,技術的な記述を「流水之巻」とした。
退職後からあの世に行くまで,第Ⅲ部と予定している。
第三部が完成するか否か心許ない。何故かというと,単調なせいか,記述に値することが極めて少ないからである。


故郷
 自分の故郷は兵庫県養父郡伊佐村である。今は兵庫県養父市八鹿町となった。伊佐村が八鹿町となり,八鹿町が養父市となった。旧伊佐村には7つの部落があった。七つの部落とは上小田,下小田,伊佐,坂本,浅間,岩崎,大江である。伊佐小学校校歌にこの七か村が歌われている。

図1 旧伊佐村地図     北↑
   平和の峰に,護られて
  清き流に,影うつし
  恵み豊たけき,伊佐村に
  輝き建てる,学舎よ
  須留岐の山を 仰ぎ見て
  共にむつめる 七部落
  朝な夕なに,呼び交わし
  我等楽しく,遊ぶなり

  円山川の,末永く
  栄えて進む,佳き里に
  至誠の訓え,胸に持ち
  我等仲良く,学ぶな


図11 故郷鳥瞰

遙かなる家路
 学校に上がる前の冬,年末のことだったと記憶する。親父が自分を自転車の後部の荷物台に乗せて,伊佐の床屋に連れていってくれた。何時もは床屋に行くまでもなく,近くの人が刈ってくれた。正月が来るので親父が伊佐の床屋に連れて行くことになったのであろう。
 道には溶けかけた雪が散乱していたせいか,荷台は酷く揺れた。床屋に着くと,順番待ちの人が2~3人居た。自分達もストーブに温まりながら順番を待っていた。そのうち親父は居なくなったが,すぐに帰って来るだろうと思っていた。自分の順番が来て散髪が終わった。しかし,親父の姿は見当たらなかった。床屋の小父さんが
 「お父さんは,安来屋に行ったようだから,先に帰って好いと思うよ。」
と言ってくれた。床屋の近くに「安来屋」という料亭があった。親父は偶々,そこで碁を打つことになったのであろう。
 こんなに遠い処まで来たことはなかった。それに,辺りは薄暗くなっているのに,一人で帰らなければならない。途端に涙ぐんだ。しかし,泣いている場合ではない。暗くなる前に我が家にたどり着かなければならない。溶けかけの雪が凍り,足もとが悪い。転びそうになりながら,我が家の方に向かった。小走りして息切れすると歩いた。伊佐橋を渡ってもまだ我が家は遠い。脇目も振らず一心不乱に歩いた。家に着いたら母が
 「修ちゃん!如何したの!お父ちゃんは?」
と声をかけてくれたが,答えようとすると口元がひん曲がって泣きそうになる。泣きじゃくりながら,炬燵の中にもぐって横になった。そのうち寝入ってしまった。
 後年,芥川龍之介の「トロッコ」を読んだ。自分の体験と同様のことが「良平」の思い出として描かれている。流石に作家の創作力と文章力は素人の及ぶところではないと悟った。

朝寝坊
 幼稚園に正式に入学したことも,卒園式があったことも覚えていない。その当時,幼稚園なるものがチャントあったかどうかも疑わしいけれど,小学生に上がる前だったと記憶している。
 その日は朝寝坊してしまって,準備を整えて外に出た頃は,隣近所の子供は皆,学校に行ってしまって,辺りは静まり返っていた。母が
 「今日は休んで,明日から行けばよい。」
と言ってなだめるのを,自分は振り切って一人で行くと頑張っていた。其処に役場に勤務通勤している人が,自転車で通りかかった。母親と子供が通りで争っているのを見て
 「何事かあったのですか?」
と心配して尋ねた。その人は事情を聞いて
 「それなら私が自転車に乗せて,幼稚園に送りましょう。」
と言って,自分を幼稚園まで送ってくれた。
 自転車に乗せて貰って幼稚園に行く道中のことも,幼稚園についてからのことも記憶にない。唯,母親と玄関先で争った事だけが鮮明に記憶に残っているのである。


ランドセル
 小学一年生の担任は,浅間の佐々木先生で,女の先生であった。小学一年生になった時,新しいランドセルを買って貰った。どんなランドセルか記憶にない。学校から帰って,玄関先に投げ捨て,遊びに出た。それが習慣であった。投げ捨てたランドセルを何者かに盗まれた。それ以降,学校にどんな鞄を持っていったのかも記憶にない。兄妹がこの事件をよく覚えていて,大きくなっても噂した。この頃は,田舎ではあるが,各家庭に泥棒が入る事件が度々あった。終戦直後で国民全てが貧乏に喘いでいたのである。

決闘
 一年生に上がって間もなくのことである。学校の帰り,浅間地区から通っている同級生の馬場崎君が,農協の前で大八車の上に座って居た。彼は浅間地区から通っていたので,農協は浅間へ帰る方向とは逆の位置にあった。
 「君は何してこん場所にいるか?」
と質問したことから,大喧嘩となった。上級生が
 「やれ! やれ!」
とはやし立てる。自分は馬場崎君の耳を引っぱった。
 「修ちゃん!耳は引っ張ったら駄目だ!」
と上級生が忠告した。それで自分はどうしたのか記憶にない。馬場崎君は自分の顔面を掻きむしった。顔面傷だらけで家に帰った。親爺に
 「喧嘩をしてもそんな無様な格好で帰ってくるな!」
と叱られた。

鉄道便
 学校から帰ってきたら「本多の奥さん」が待ち構えていて
 「修ちゃん!下小田の郵便局に手紙を出してきておくれ!」
と言い付ける。学校から帰ったら,すぐ遊びに出かけるつもりであったのに
 「面倒だな!」
と思った。断るわけにもいかず手紙を受け取って,しぶしぶ郵便局に向かった。我が家と郵便局の中間地点に山陰線の踏切があった。遮断機の傍らに小さな家があった。その家には遮断機を操作する人が住んでいた。此処まで来て
 「下小田の郵便局まで行くのは面倒だ。」
と思った。遮断機の足下に草むらがあった。面倒だから持ってきた手紙をこの草むらに隠しておこうと考えた。手紙が見えないように,草むらの奥深い根っこの辺りに隠した。家に帰った時,本多の奥さんはまだ自分の家で世間話をしていた。
 「修ちゃん!ずいぶん早かったね!ほんとに郵便局に出してきたの?」
と疑う。いろいろ質問されたが自分は黙っていた。それじゃ何処に出したか見に行こうと云うことになった。踏切のところまでやって来た。止むを得ず
 「ここ!」
と白状した。本多の奥さんは
 「修ちゃん!汽車が持って行ってくれると思ったの!」
と大笑いした。
 本多の奥さんは尼さんのような存在で,彼方此方の家を訪問して「仏前で御経」をあげることを「なりわい(生業)」にしていた。各家庭を訪問する度に,この話をするものだから,有名になってしまった。盆や正月に故郷に帰って,親戚,兄妹が集まると,いまだにこのことが話題になることがある。
自分は
 「汽車が手紙を運んでくれる。」
とは思っていなかったのだが。

幸ちゃん
 幸ちゃんは我が家の3軒下隣の家に住んでいた。自分より五つか六つ歳上で,よく面倒を見てくれた。幸ちゃんの家とは遠い親戚に当たり,幸ちゃんのお父さんは我が家の小作人でもあった。幸ちゃんは新聞配達をしていた。朝早く村中に新聞を配達する姿を見ると,自分も大きくなったら新聞配達になりたいと思った。
 ある時,幸ちゃんに頼んで,幸ちゃんの作ってくれた「竹馬」に乗って,新聞配達に連れて行ってもらった。幸ちゃんは自分を要所,要所で待たせておいて,要領よく新聞を配達した。足手まといになったと思うが,快く連れて行ってくれた。
 朝早く起きたこと,自分の住んでいる上小田地区,全てを回ったことに満足感を覚えた。
 小学一年生のある日,国語の教科書をノートに書き写す宿題を忘れていた。運動会の玉入れの場面の文章であった。
朝早く学校に着いたのでその宿題をやっていると,幸ちゃんが教室に入ってきて
 「修ちゃん何をしておる!手伝ってやろうか?」
と言って,国語の本を途中まで書き写してくれた。始業のベルが鳴って,幸ちゃんは慌てて,自分の教室に戻ってしまった。その後を書き続けようと試みたが,彼がどこまで書いてくれたのか解らず大変弱ったことがある。担任の佐々木先生にどのように言い訳したのかも忘れてしまった。
 幸ちゃんは器用な人でラジオ,グライダー,竹馬,野球のバット等いろいろな物を作る技術を持っていた。自分には竹馬や野球のバットを作って可愛がってくれた。野球のバットは,隣近所の友達と河原で草野球をする時使った。バットは唯一幸ちゃんの作ってくれたバットとしか無かったのである。
 秋の収穫の頃,田圃の稲が刈り取られ,稲を乾燥させるため,稲木にかけられていた。幸ちゃんの作ったグライダーを飛ばした。立ち並ぶ稲木の上を次から次に飛び越して,遠くまで飛んで行くグライダーを追いかけて走り回った。

図2 稲木
 その頃,「常会(じょうかい)」と云って地区の小中学生が集まって,地区の行事や夜警の事などを決める集会があった。
 夏の常会に小中学生が集まった。「肝試し」をすることが話題になった。上級生は
 「やろう!やろう!」
と意気込んだ。我々下級生は反対した。「それじゃ」と,幸ちゃんが怖い話をすることになった。何故か自分は幸ちゃんの膝に抱かれていた。幸ちゃんが話を始めて暫くした時,自分は幸ちゃんが話を続けられないように,幸ちゃんの口を塞いだ。皆が大笑いして,怖い話はおしまいになった。


通信簿
 終業式の時,学校から通信簿をも貰って帰る。「さとや」の前を通りかかると。「さとや」の旦那店先に立っていた。
 「修ちゃん!通信簿を貰ってきたか?」
と聞く
 「うん!」
と答えた。
 「見せてごらん」
と手を出す。
 「ハイ」
といって通信簿を差し出した。旦那はチェックをした後
 「さすがに“たっちゃん”の息子だけあるな!」
と感心した。親父の名前は「正(ただし)」であるから,人は親父のことを“たっちゃん”と呼んでいた。
 家に帰って“さとや”の小父さんに褒められたと自慢した。
姉たちは事情を聞いて自分に
 「修ちゃんは何も分かっていないからな!」
と小言を言った。実際,自分の通信簿が良かったのか,悪かったのか分からない。姉たちがと嘆いていたことを勘案すると余り良くなかったのだろう。だけど「さとや」の旦那は偉い感心していたのは事実なのだ。
 兄が言うに
 「“さとや”の旦那は店の会計を締める時,算盤が合わない。旦那は定期的に
  帳簿を我が家に持ってきた。親父が“さとや”の会計業務を応援していた。
  それでお前にお世辞を言ったのだろう」と。
 その通信簿が「良かった」のか「悪かった」,のかチェックしたことは無い。

相撲
 小学二年生の担任は齋藤先生で女の先生であった。隣村の宿南から通っていた。
 同級生に大谷佐和子という女の子がいた。彼女の姉さんかあるいは,親戚の人か何れかが先生をしていた。学芸会の練習をするため,放課後教室で遊んでいた。彼女も姉さんが,未だ学校に残っているからといって廊下で遊んでいた。
 自分は腕白坊主でクラスの女性からは恐れられていたのであるが,彼女は自分を恐れている様子は無かった。彼女と如何なる話をしていたか不明であるが,成り行き上,相撲を取ろうということになった。自分は小柄であった。彼女は自分より背が高かった。何回やっても負けて,勝つことは無かった。
 この相撲の件は噂にもならず,その場限りで終わった。大きくなっても噂にはならなかった。
 自分は相撲が弱かった訳ではない。毎年,秋祭りには神社で相撲大会が開かれる。その大会では同年輩のクラスと相撲を取ったが,負けた覚えは無い。彼女が余程強かったのか,その後,自分が長足の進歩をしたのか何れかである。
 彼女にこのことを覚えているであろうか聞いてみたいような気がする。


九思の松
 その昔,小出病院の院長は伊佐村,七つの地区を巡回して,診療を行っていた。院長は馬に乗って往診に回った。院長は地主で,広大な土地所有者であった。診療代は取らず患者が盆・暮れに,ささやかな御礼をする程度であった。貧しい人は盆暮れの謝礼も出さなかった。それでも院長は分け隔てなく診察し,悠々と往診に回っていた。医療制度が変わって全ての患者から医療費を徴収することになった。医療費を集金する人が雇われたが,その集金人は皆から嫌われ,評判が悪かったとか。集金人を憎むより制度を変えた人を憎むべきである。
 院長の時代か息子の時代か解らない。盆に村人が盆踊りに興じていた。正に,盆踊り酣(たけなわ)の頃,院長が車で帰ってきた。盆踊りに興じていた村人は邪魔をされた腹いせに自動車に石を投げた。翌日,盆踊りの主催者や地区長等が呼ばれた。
 「昨夜のようなことが今後もなされるなら,我が家の土地に住んでいる人は全員
  出て行ってもらわなければならない。」
と言い渡された。学校の建っている土地さえ小出病院の所有であったから,民家などは殆ど小出病院の土地の上に建っていたに違いない。関係者は平身低頭して謝って事なきを得たとか。
 前述した馬に乗って往診した院長の孫息子に恬(てん)ちゃんという同級生がいた。自分より小柄であったが腕白ぶりは自分といい勝負であった。
 恬(てん)ちゃんとはよく卓球をした。正式な卓球台は使用させてもらえなかったので,廊下に白墨で卓球台を描いてゲームをした。兎に角,彼とはよく遊び,よく喧嘩した。喧嘩?
 彼は自分の提案に従わず女の子の提案を受け入れることが多かった。それが原因で口論になったのである。
 小出病院の庭に植えてあった松は素晴らしい松の木であった。この松の枝は四方に伸び,多くの支木で支えられていた。松の枝の先端をぐるりと回ると優に50m以上はあったと思う。学校の帰りに小出病院の松の枝の周囲を走って遊んだ。彼は我が家にも遊びに来た。兄の話
 「修二は居ないのに,子供が蔵から出てきた。何処の子供が我が家に入り込んできた
  のかと不思議に思った。」とか。
 蔵から出てきたのは,遊びに来ていた恬ちゃんであった。
彼は暫くして横浜に転校してしまった。
 大学を出て会社に入った盆の頃,伊佐橋の袂の「安木屋」でクラス会があった。その時,恬ちゃんが偶々,里帰りをしており,クラス会にも出席していた。云十年振りで恬ちゃんに会った。彼も二年浪人して東大に入った。農学部を卒業し,化学工業の会社に就職し,大阪の池田にいると聞いた。
 彼と個人的に昔話をすることは出来なくて残念であった。彼とは腕白さ加減もいい勝負であったが,横浜に帰らず伊佐にいたら,勉強もいい勝負であったと想像する。
甘棠亭(かんとうてい)
 1976年3月3日に,出石藩主小出英安が新田開発の視察にお成り際,「甘棠亭(かんとうてい)」を営み「松」を植樹して迎えた。甘棠亭は病院と本宅の間にある。松は「九思の松」と名付けられている。何れも兵庫県の重要文化財に指定されている。
 「九思の松」は1977年(昭和52年)頃消滅し,現在は石碑のみが残っている。この時,松の木の樹齢は300年であった。

図3 小出病院


百日かつら
 正月三ガ日は,夕食の済んだ後7時頃から11時頃迄,近所の子供が集まって遊んだ。子供の遊びの宿をした母親は蜜柑やお菓子を沢山出してくれた。
メンバーは上隣の春男ちゃん,妹の幸子ちゃん,前隣の一男ちゃん,弟の貴志雄ちゃん,妹の範子ちゃん,自分の家では英子姉,すなを姉と自分の合計8人であったと思う。妹の瑞子は未だ,幼いので仲間に入っていなかった。今夜はAさん宅,次の夜はBさん宅という具合に,宿は回り持ちであった。
 ある年,自分の家が宿であった。小学2年生の頃,兄は病床に臥していた。兄の病床は離れの二階であった。トランプは何故か兄が持って居た。自分と2~3人で取りに行った。
 「兄ちゃん,トランプ貸して!」
と声を掛けた。
 兄は病床に伏していたので散髪などしていなかった。丸刈りのはずであった頭の髪は伸び放題で,百日かつらのようになっていた。その百日かつらの頭で,青白い顔の男が
 「何んだ!」
と言って,むっくり起きてきた。それを見た子供は皆,驚いて
 「キャー!」
と悲鳴を上げて,我先に慌てて逃げ出した。その夜のトランプの遊びはどうなったことやら。
 上隣の春男ちゃんのお父さんは不二男さんと云う名で,憲兵であった。そのためか復員も相当遅れた。奥さんの愛ちゃんが春男ちゃんと,妹の幸子ちゃんを育てていた。その奥さんも春男ちゃんが小学生の時亡くなった。その後,お爺さんが二人を育てていた。お父さんの不二男さんが復員した後,正月に中国大陸の話をして貰って興味深く聞いた。

唐臼(からうす)
 昔あって今はない子供の家事・手伝いに,「米つき」がある。玄米を精米にする作業である。作業は体を支える横棒を両手に握り,踏み台に片足で立ち,他方の足で杵に体重を移すと杵先が上がる。足を外すと、杵先は地中に埋めた臼の中に落下する。これを繰り返して玄米を白米にするのである。
 この設備が我が家の物置の一角にあった。この作業は子供でも十分可能であったので,母親から度々言いつけられた。
隣近所小母さん達は
 「キミ子さん!からうす貸して!」
と我が家にずかずかと入って来て,勝手に「米つき」をしていた。因みに,母の名前は「齋藤キミ」であるが,皆,「キミ子さん」と呼んでいた。旧姓は長岡である。自分もこの長岡を名乗ったことがある。ペルーに赴任したときである。正式に自分の名前を名乗るときは母方の姓を付けるのである。即ち,
 「修二齋藤長岡」
である。此の母方の姓を付けることで,同姓同名は殆ど無くなるのである。

図4 米つきの風景
 30kgの玄米は杵で2,000回つくと精米になった。2000回はおおよそ40分である。石臼の内径は49cmで御影石,杵先の長さ83cm,柄の長さ227cmである。
 因みに,米つきバッタとは人に頭をペコペコ下げる人を嘲うときに使う言葉で,「媚び諂(へつる)う」様子が米つきの杵がバッタ,バッタと上下に運動をすることに似ていることからきた言葉のようである。又,
 一説に,米つきバッタとはショウリョウバッタの所作にていることから来ているという。ショウリョウバッタの後ろ足を押さえると,米をついているように頭を上下に振ることから,こう呼ばれるようになったとか。

苺 (いちご)
 小学三年生は大江の本田先生で,女の先生であった。
この頃,自分は体が弱く学校を休むことが多かった。
 学校を休んでいる時であったと思う。円山川の向こうに,我が家の畑があった。その畑の一画に苺が栽培してあった。
自分は病気が回復したつもりで上小田橋を渡って,苺を取りに行った。その帰り途で本田先生に出会った。本田先生は八鹿駅方面から大江に帰る途中であったと思う。向こうから先生が来る,
 「自分は学校を休んでいるのに不味いことになったな。」
とおもいながら,下を向いて歩いていた。何と挨拶すべきか解らず,黙って礼をした。先生は
 「大丈夫?病気は治ったの?」
 「未だ顔色が悪いわね!」
と言われた。自分は
 「はい!」
とだけ答え,小走りで家に帰った。学校を休んでいるにもかかわらず,苺を採りに出掛けたことを大層気にしながら。


馬力引き
 自分と同じ上小田地区に「馬義(うまよし)さん」と云われる人がいた。多分,名前が「義雄」で「馬力引き」をしていたので,皆が「馬義さん」と呼んでいたのであろう。学校の帰りに「馬義さん」の馬車に乗せてもらった。
 それで馬義さんのことを大層褒めた。自分も大きくなったら「馬力引き」になりたいくらいのことは言ったかもしれない。此のことが大反響を呼んだ。外で遊んでいると,道行く人が
 「修ちゃん!大きくなったら馬力引きに成るそうだね!」
と声をかける。恥ずかしくて孔があったら入りたい気持ちであった。自分は本気で「馬力引き」になると考えたわけではなく.学校の帰りに,馬車に乗せてもらったから,感謝の気持ちで「馬義さん」を褒めただけなのに,
 「こんなに評判になってしまって!」
と,地団駄を踏んだ。悪事千里を走るという程ではないにしても,噂は村中に広まった。公衆は醜聞を愛するものである。
 「自分は馬力引きのようなものには憧れない。可哀相にあなたはそんなものに憧れ
  ているのだね。」
と優越感を抱いているのである。

円山川
 円山川は我が故郷を滔々と貫流している。円山川に架かる伊佐橋を渡って学校に通った。伊座橋から左手に須留岐山と進美寺山を,すぐ右手に舟山と学校を,そして舟山に衝突し蛇行して流れる円山川を眺めながら学校に通った。
 大人達は円山川の水を導入し農耕を,あるいは円山川で猟師を生業とする。子供は円山川で泳ぎや釣り等を楽しむ。正に円山川は母なる川であった。
 円山川水(流域面積:1,300km2、幹川流路延長:68km)は,源を兵庫県朝来市生野町円山(標高640m)に発し,大屋(おおや)川,八木川,稲葉川等の支川を合わせて豊岡盆地において出石川、奈佐川等を合わせ日本海に注いでいる。
 流域は兵庫県の豊岡市、養父市、朝来市の3市からなり,城崎温泉、神鍋高原の他,出石城下町などの観光資源に恵まれ,京阪神を中心に数多くの観光客を集めている。
 また,下流部では地域を挙げて、国指定特別天然記念物のコウノトリを野生に戻す取り組みが進められている。
 遠い昔,但馬の円山川は河口まで土砂が堆積し,一帯が泥海で毎年のように大水の被害に苦しめられていた。 同時に,日本海を通じて大陸との交流が盛んに行われていた。
 その頃,朝鮮半島の新羅(しらぎ)の王子アメノヒボコが但馬に渡って来て,瀬戸と津居山(ついやま)の間の岩山を切り開き、泥流を日本海に流して肥沃な但馬平野を現出させ,繁栄の基礎を築いたとされている。アメノヒボコは出石神社に祭神として祭られている。

¶ 治水の歴史
 円山川の歴史は川と人間との戦いの歴史であった。流れが緩やかなうえに曲がりくねった円山川は、年に2~3度も流域一帯に氾濫を起こし,農作物の被害は元より,住民の生活や生命をも脅かすものであった。
 室町時代には領主新田史郎義直(にったしろうよしなお)が悪習をなくすよう遺言を残し、自ら「人柱」になったという悲話も残っている。
 治水の歴史を刻む円山川で、本格的な河川改修が行われるようになったのは明治時代である。国の管轄のもと,治水組合が結成され,発達した治水技術を基に1920年から1937年に円山川の大改修が行われた。
 その後,一時は兵庫県の管理となったが,水害が続いたため,1956年(昭和31年)からは再び国の直轄管理となり,赤木正雄博士,沖野忠雄博士などの土木技術者により築堤や河床の掘削,川幅の拡幅といった治水事業が実施され現在に至っている。

上小田橋
 自分たちが子供の頃,円山川のことを,「大川」と言っていた。隅田川も昔は「大川」と言われていたそうだ。台風シーズンに大川が増水した時は増水の程度を観察に来たものだった。
 上小田橋はたびたび流された。その度に,部落の土建屋が建て替えた。工法は杭打ち機を用いて橋脚となる材木を打ち込む。橋脚を橋桁で連結する。桁の上に横木を並べその上に土を盛る。
 不思議なことは,打ち込まれた橋脚は垂直でなく,橋脚毎に乱雑な傾きを持って立っていたにも拘わらず,出来上がった橋の橋脚はある一定の勾配に矯正されていた。その矯正方法は不明である。
 「流れ橋」と呼ばれる橋は,川が増水した時に流れをせき止めないように,浮力で橋が橋脚から浮き上がり,下流に流される構造に作るそうである。
 上小田橋はこの「流れ橋」ではなかった。橋は堤防より高い位置であったから浮力の働く前に流れたと思われる。兎に角,昔は技術がなかったからよく洪水で橋が流された。橋の建て替えはかなり長い期間を要した。橋の建て替えの期間は「渡し船」が設けられて運航されていた。村の人はこの渡し船に乗って畑や田圃に行った。この渡し船の船頭は竿を使わず,対岸まで張られたロープを伝って対岸までを往復した。
 小学六年生の頃、平野先生が
 「教師は生徒を対岸に渡す船頭のようである。」
と言われたことがある,各所に「渡し船」があったのである。
 「渡し船」でなく,簡単な「仮橋」が架けられたこともある。川の向こうに畑や田圃があり,どうしても川を渡る必要があったのである。畑には一面に桑の木は植えてある。いわゆる桑畑である。その頃は,多くの農家で養蚕を営んでいた。
 大川と堤防の間には竹藪があった。竹藪の中をだらだらと下る細い路を降りた処が渡し場となっていた。
 初夏の頃,大人達は「渡し船」に乗って桑の葉を取りに行ったのである。子供達は桑の木に実る苺が目当てに渡し船に乗ったのである。円山川の向こう岸の畑に植えてある桑の木に,沢山の桑苺は実ったのである。
 沢山食べて口のまわりを紫色にした。一度に食べきれないので桑苺を籠に一杯入れて,この仮橋を渡って家に持ち帰った。家では伶子姉が桑苺と寒天で羊羹を作ってくれた。

  山の畑の,桑の実を
  小籠に摘んだは,まぼろしか

図5 仮橋


岩上先生
 小学四年生になった初めて男の先生が担任になった。岩上先生で自分の家の2軒上隣に住んでいた。
 算数の時間。最初に,除数が一桁で非除数が三桁の割り算を教えてくれた。次に除数が二桁で非除数が4桁の割り算を黒板に書いて教えてくれた。先生は4~5問題を出し,早く出来た者はグランドに出て遊んでよろしいと言った。自分は10分も経たないうちに,一番先に解答を先生のところに持って行った。先生は答案用紙をチェックした後,
 「よし!グランドに出て遊んでよろしい!」
と許可を出してくれた。机の上を片付けて,今まさに教室を出ようとした時,岩上先生に
 「修二!チョット来い!」
と呼びつられた。そして
 「すまんけどな,自転車を貸してやるから,俺の家に行って弁当を持ってきて
  くれ。」
 自分が乗っていた自転車は婦人用の自転車である。母が産婆をしていたので,婦人乗りの自転車は母の商売道具であった。それを借用して自転車に乗れるようになった。先生の自転車はいわゆる「男乗りの自転車」であった。この自転車は自分には苦手で,あまりうまく乗れなかった。先生の自転車を借りてきたのは良いが,どうもうまく乗れない。もたもたしていると昼休みになってしまう。伊佐橋を渡ったところで「先生に借りた自転車」を橋のたもとに隠し,駈け出して先生の家に向かった。先生の家は小生の2軒上隣りであった。この時間帯に家の周りをうろついていて,母親に見つかったらどうしよう。
 「いたずらをした罰で弁当を取りに帰らされている。」
と思うに違いない。心配しながら先生の家にたどり着いた。幸い母親には見つからなかった。岩上先生のお母さんが
 「修ちゃん!すまんな!今,弁当を包むから待って!」
と言ってしばらくして,弁当を渡してくれた。弁当はまだ熱々であった。先生が弁当を忘れたのでなく,お母さんの弁当作りが間にあわなかったに違いない。受け取って,一目散に伊佐橋迄走った。そこからまた「乗り難い自転車」を引きずって学校に帰った。先生が弁当を忘れたときは何時もこのパターンが繰り返された。
 ある時,伊佐橋を超え「さとや」方面に向かっている時,後ろから荒木茂君が自転車に乗って来た。
 「何処に行くのだ?」
 「下小田まで」
 「何しに?」
 「鶏のえさをやりに行く。乗せてやるよ。」
 途中の「さとや」まで乗せて貰った。彼は親戚の鶏の世話をするため,毎日昼休みに下小田まで行っていたのであろうか。

日本地図
 教室の天井一杯位の都道府県別地図を,6~7人で作るよう命じられた。毎日,放課後,この宿題に取り組んだ。時たま,中学生の幸ちゃんが手伝いに来てくれた。先生が依頼したのか,幸ちゃんが自発的に来てくれたのか不明である。
 兎に角,幸ちゃんが来てくれるようになって,作業は大いに進捗するようになった。どれくらいの期間を要したか分からないが出来上がった。都道府県地図を天井に張った。
 岩上先生は
 「毎日上を向いて日本の都道府県を覚えるよう努力せよ。」
と言われた。近畿地方,関東地方等如何なる県で構成されているかを勉強していたのである。
 この天井一杯の地図は可成り精確に出来上がっていたと記憶する。日本地図の縮尺を如何成る方法で,拡大したか思い出せない。地図を拡大する方法は,小学四年生には難しいように思うが。

本田増武なり
 社会科の時間に昔の合戦について教えてもらった。
織田信長が出現する以前,即ち,鉄砲が出現する以前の合戦は個人戦で戦っていた。例えば
 「やあやあ,我こそは、本田増武なり!我に勝負を挑まんものは、尋常に勝負しろ!」
と名乗った後,華々しく,悠長に一騎討で戦っていた。
 しかし織田信長が登場し,戦いに鉄炮という新兵器を使用する様になってからは,鉄砲で「ズドン」とやられたらお仕舞いなので,そんな悠長な戦い方をしなくなった。
 自分は「本田増武」という武将を知らなかった。
間もなく村会議員の選挙があった。親父は上小田地区から立候補した。各所に立候補者のビラが貼られた。勿論,親父のビラもあったが,驚いたことに「本田増武」という武将のビラがあった。姉たちに
 「本田増武という人は何者か?」
と尋ねた。姉が
 「大江地区の立候補者である。」
と教えてくれた。加えるに
 「本田増武さんの子供は修ちゃんと同級生ではないか?」
確かに,同級生に本田君がいる。
 「本田増武」は彼のお父さんであることが判明した。そして
 「やあ!やあ!我こそは本田増武なり!」
は岩上先生の冗談であることが判明した。

いざ鎌倉
 岩上先生は「いざ鎌倉」という言葉が大変好きであった。大袈裟に言えば一日に一回は使わないと気が済まぬといった具合であった。
 「男子たるもの“いざ鎌倉”の時に備えて云々」
である。その時は
 「また鎌倉か」と
思って聞いていた。
 語源を調べてみると由緒ある言葉であることが分かった。謡曲「鉢の木」に登場する一節に由来する。
 鎌倉時代,既に執権職を辞した北条時頼が僧に身をやつして諸国を行脚していた時,佐野の庄で大雪に遭い,武士のみすぼらしいあばら家に一夜の宿を乞うた。
 家の主は佐野源左衛門尉(げんざえもんのじょう)常世(つねよ)という。
 彼は見ず知らずの旅人に,貧しい生活ながらも,粟飯を炊き,宝物として大切にしていた松と桜それに梅の三本の鉢木(盆栽)を惜しまず焚いて,暖をとるなど,心づくしのもてなしに忙しかった。この時,宿の主人は問われるままに身の上を語り始める。自分は付近の佐野庄三十余郷を支配する領主だったが,一族たちに所領を押領され、このような姿にまで落ちぶれてしまった。
 しかし,もし幕府に一大事がおこれば、落ちぶりたりといえどもこの源左衛門,鎌倉武士の子である,ただちに痩せ馬にまたがり,ちぎれた鎧具足をつけ,錆びた長刀を持って鎌倉に馳せ参じ,合戦ではめざましい武功をたてようものを,と決意を語るのであった。これが 「いざ,鎌倉」の語源である。
 この話をじっと聞いていた旅の僧は,御覧のような者でたいしたことはできないが,もしも訴訟などで鎌倉に来られたら,何かのお力になろう。幕府に裁判所のあることをお忘れあるな,となぐさめ翌朝には旅立った。
 やがて幕府から,鎌倉に一大事がおこったと,緊急の動員令が下される。まさに「いざ鎌倉」と関東八か国の御家人たちが先を争ってかけつける。そのなかには当然,かの常世の姿があった。幕府首脳部の前に召し出された常世は、雪の日の旅の僧こそ,じつは前執権(しっけん)で最高実力者北条時頼その人であることを知って大いに驚く。
 時頼は
 「あの時の言葉通りよく駆けつけてくれた。」と
常世を褒め称え,ただちに佐野庄三十余郷を常世に返し,薪にされた盆栽の梅,松,桜にちなんで加賀国梅田庄,上野国松井田庄,越中国桜井庄,の三つの庄園を新たに恩賞として与えた。まことに過分の待遇であったといってよく,常世は大喜びで故郷に錦を飾ることになった。
 又,先生の好きな言葉に
 「豈(あに)図(はか)らんや」
があった。この言葉もしばしば使われた。

演技派の先生
 岩上先生は一方的に教えるだけでなく,自分の教えたことを生徒がどの程度理解しているか試された。例えば
 「兵庫県の県庁所在地は?」
と質問する。ある生徒を名指して解答を求める。
 「姫路!」
などの答えが返ってくると,手に持っていた教科書を力なく床に落とし,極めて情けない表情をして,膝を曲げてよたつく
 「わしゃあ,もうあかん!何とかしてくれ!」
と今にも倒れそうな姿をして嘆かれた。
 解答した生徒は,先生以上に,情けなそうな顔をしていた。
間違えた答えをすると先生は何時も
 「わしゃあ,もうあかん!何とかしてくれ!」
と手に持っていた教科書を力なく床に落とし,倒れそうになり,よたって近くの生徒の机に凭れかかってしまわれたのである。

満員電車
 何の授業かはっきりとは覚えていないが,多分,社会の授業だったと記憶している。小学生の兄妹が二人だけで,親戚に遊びに行く場面が綴ってあった。
 満員電車に乗った。すし詰め状態で身動きがとれない。車内がだんだん剣呑な雰囲気になってくる。姉と弟は離ればなれになって不安になる。そんな時,誰かが
 「足は東京!顔は大阪!」
と大きな声で叫んだ。
 乗客がどっと笑った。車内の雰囲気が急に和らいできた。楽しそうに話す会話や,他人を思いやる会話も聞かれるようになってきた。
 岩上先生はどんな苦しいときでも「笑う」と言うことが如何に大切かを教えて下った。

日本一
 岩上先生は何時も口癖のように
 「何でもいいから,日本一になれ。大工でも左官屋でも。兎に角,日本一になるよう
  努力しろ!」
と言われた。
 自分には特別な技能も,これといった才能は見当たらなかった。それで,自分は日本一になるなら世の中で一番,賢い人になりたいと考えた。賢い人!それは一番勉強が出来る人!それは大学の校長先生だと考えた。「馬力引き」の噂の名誉挽回のため,
 「大きくなったら大学の校長先生になる。」
と広言した。しかし,この話は「馬力引きになる」噂ほど有名にもならなかったし,反響を呼ばなかった。やはり
 「公衆は醜聞を愛するものである。」

学芸会
 毎年学芸会が催された。小学四年生の時は「太田道灌」であった。川瀬紀元君が太田道灌,少女「紅皿(べにざら)」は一級下の田村多都子さん,自分は小柄であったから,小姓役であった。演劇の練習をした記憶はないが,川瀬紀元君の家が学校の直ぐ側であったので,彼の家で「チャンバラごっこ」をして遊んだ記憶ばかりが残っている。物語は
 道灌が鷹狩に出た時,突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。蓑を求められた家の少女は無言のまま山吹の花を一枝折って差し出したのである。道灌は蓑を借りようとしたのに花を出され大いに怒った。後で道灌は家臣から次のことを教わった。
 「後拾遺和歌集」
  “七重八重花は咲けども山吹の,
          実の一つだに,なきぞ 悲しき”
の兼明親王の歌に掛けて,貧しいが故に蓑ひとつ持ち合わせがないことを古歌に託したというのだ。
 この少女は「紅皿(べにざら)」といい,道灌は後に江戸城に呼んで和歌の友としたという。又,一説に道灌が亡くなった後,「紅皿」は新宿区大久保に庵を建てて尼となった。その「紅皿」の碑 も残っているそうである。
 太田道灌は室町時代中期の武将で幼名「鶴千代」という。彼は鎌倉五山で学問を修め,また足利学校(関東における最高学府)でも学び、幼少ながらその英才ぶりが世に知られた。にもかかわらず,百姓娘が五百年も前に著された「後拾遺和歌集」の,道灌さえ知らなかった古歌を知っていたとは信じ難いのであるが。
 小学六年生は「ヨハーンの靴店」であった。物語は
貧乏で子沢山の靴屋の物語。靴屋の亭主は稼ぎが少なく沢山子供がいる。自分の家の二階に下宿している金持ちの紳士が居た。彼が靴屋の子供を一人引き取ってやろうと申し出る。日頃から,一人でも少なくなると大助かりだと思っていたから。正に「渡りに船」であった。子供達を集め,紳士に渡す子供は誰にしようかと考える。長男の名前を呼ぶ,「イヤイヤ,これは跡継ぎだ」,長女を呼ぶ,「イヤイヤ,これは可哀相だ。」一通り子供を呼び出したが他人の家に出すとなると,どの子も可愛くて手放す気にはならない。結局,貧しくとも皆が一緒に暮らすのが一番幸せであると悟る。そして紳士の申し出を断る。
 左近健君が紳士の役を演じたがその他,誰がどんな役を演じたか記憶にない。記念写真だけは残っている。
 四年生と六年生は演劇をしたことを覚えているが,五年生は皆で合唱したのみであった。五年生の担任は後述する不埒な先生である。彼は「能」が無かったのであろう。

祖母死す
 春休みのことである。「すなを」姉と瑞子妹三人で祖母に
 「春休みだから何処かに遊びに連れて行ってくれ」と
強請っていた。祖母は
 「それじゃ,明子(祖母の娘)の家に遊びに行くか!」と
その気になってくれた。
 「洗濯物をかたづけて,それから行くことにする」と
裏庭に行って洗濯物を一抱え家の中に入ってきた。
 「ああ,しんどい!」と
言って炬燵のしてあるそばにしゃがみ込んでしまった。医者に往診に来て貰ったが,薬石効無く他界した。脳溢血であった。
 享年72歳であった。祖母は背が高く,腰なども曲がっていなかった。元気な祖母であった。元髪結いを生業にしていたそうだ。学校長,警察署長等も顎で使うほどの兵(つはもの)であった。
 終戦直後の物資のない頃,学校の先生が家の前を通りかかると,
 「米がないから,弁当に,竹の筒にお粥でも入れて行くかね!」
と冷やかしたそうだ。
 暫くして49日法事が営まれた。妹の瑞子が「修ちゃん!仏壇に黄色い胡瓜が供えてあるよ!」と驚いたように訴えた。
 仏壇に言って確かめると,沢山の果物が入った果物籠の中にバナナが入っていた。その当時,田舎にはバナナなど入って来なかったのである。


村民運動会
 娯楽も楽しみの少ない時代,秋には学校の運動会と村民運動会があった。小学校の高学年になるまでは,どちらかと言えば村民運動会が楽しかった。何故かというと学校の運動会は
 「あれは駄目,これは駄目。」
 「ああしなさい,こうしなさい。」
と規制が多すぎるのである。自分の出場するときは決められた集合場所に集まることは当然であるが,それ以外の時は家族と一緒に楽しみたかったのである。その点,村民運動会は家族と一緒に,自由に鑑賞や応援が出来た。
 運動会は子供のいる家庭はほぼ全員が運動場の会場に集まった。運動場は観覧席と競技場の間にロープが張られ,観覧席側は7地区に区画される。その前日に,ロープ際の特等席を確保するため,筵を持って運動場に出掛けたのである。しかし,ロープ際の最前席を確保することは困難であった。学校の運動会と異なり,開会式にも参加する必要は無かった。
 各地区対抗で,得点種目と得点の入らない娯楽種目があった。娯楽種目は和やかな雰囲気のうちに進行する。ところが,得点種目になると,「揉める」のである。
 「どこそこの地区は反則を犯した。」
 「そんなことはない。」
と揉めるのである。これがまた一つの娯楽なのである。揉めるのは人口の多い,優勝を争う伊佐地区と上小田地区である。昼は持参したお弁当を戴く。祭りの時のような御馳走を持参するのである。これがまた楽しみなのである。不思議と酒を飲んでいる人は見あたらなかった。
 「何だの,かんだの」
言いながらプログラムの最後がやってくる。最後は決まって地区対抗年齢別リレーである。興奮した人が「むしろ旗」で応援する。アンカーが走るとき場内の雰囲気は最高潮に達する。
 先頭ランナーがゴールに入ると「今年も終わった。」と感ずる。ところが,終わらないのである。揉める。大体,上小田と伊佐地区が審判席に駆け込む。
 「走者の妨害をした。」
 「いやそんなことはない。」
 いい加減待ちくたびれた頃,クレーム付けた方はしょぼしょぼと席に戻り。クレーム付けられた方は意気揚々と応援団席に戻る。
 最後にラジオ体操をして帰途につく。伊佐橋を渡って道の両側に田圃が広がっている処で,稲木の立ち並ぶ風景を見ながら帰るのである。

舟山に逃れる
 小学五年生は男の玉川先生が担任になった。昼休みの終った直後の20分程度,珠算の時間が設けられた。珠算の出来具合で1級から5~6級に分けられた。自分は4級のクラスであった。4級は岩上先生が担当していた。定期的に試験があり合格点に達したら上のクラスに進級するシステムであった。
 ある日,岩上先生が
 「修二!お前は試験に合格したので,明日から3級のクラスに行ってよい。」
と言ってくれた。次の日,3級のクラスに顔を出した。担当は玉川先生であった。
 「君はまだ3級になってないから,4級のクラスに戻りなさい。」
といった。自分は4級のクラスにも行けず,3級のクラスにも行けず悩んだ。
 「忠ならんと欲すれば考ならず,考ならんと欲すれば忠ならず。」
 次の日から珠算の時間は学校のすぐ側の「船山」に上って時間を過ごした。珠算の時間の終わる頃,何食わぬ顔をして次の授業を受けることになってしまった。
珠算は嫌いでも好きでもなかったが,こんな事件があって,嫌いな科目になってしまった。

日和山の遠足
 春の遠足で日和山海岸に行った。竹野浜は海水浴場なので夏休みには母親に連れられて行ったことがある。日和山海岸は風光明媚名な岩場であるが,小学生にとっては何の変哲もない岩場に過ぎなかった。先生方は「風光明媚」を子供達に強要する。思い出した!何という先生か忘れた。
 「四季のうちでどの季節が一番好きか」
と聞かれた
 「夏」
と答えた生徒が圧倒的に多かった。理由は
 「夏休みがある。水泳が出来る。」
等であった。先生は家に帰ってもう一度考えてきなさいと言われた。次の日,同じ質問をされた。今度は
 「春」
と答えた生徒が最も多かった。理由は
 「雪が溶け暖かくなる。花が咲く。小鳥が囀る。」
等々であった。自分の好みを親と相談するとは情けないと思った。自分は今,春が一年の内で最も好い季節だと思っている。
 「子供は子供なりに,大人は大人なりの好みがある。」
 昼のお弁当が終わった。
弁当が終われば遠足の楽しみの大半が終わったようなものである。誰かが
 「蛸がいるぞ!」
と叫んだ。2~3人が集まった。
 「何処にいる!」
 「あそこにピンク色の蛸がいる!」
と騒いでいるうちに黒山の人だかりになった。といっても七,八人程度か?写真屋さんンが竹竿の先に矢尻の付いた道具を持って来た。

図6 日和山海岸
 「何処だ!何処だ!」
といいながら蛸を追う。しばらくの間,格闘した後,ついに蛸を突き刺した。
 「逃げる!逃げる!」
といいながら,蛸と戦った。皆は固唾をのんで見守っていた。ついに蛸を岩場に挙げた。皆は打ち上げられた蛸の周りに集まった。驚くなかれ「蛸」であるべきものが使い古しの「水枕」であった。みんな笑う元気もなくうなだれていた。
 苦労した写真屋さんが一番がっかりしていた。仕事を投げだし,20分以上,水枕と戯れていたのだから。

円山川の水泳
 夏休みは円山川で水泳することが日課になっていた。伊佐7地区のうち少なくとも,上小田,下小田,伊佐,坂本の4地区の子供は皆そうであったと思う。浅間,大江,岩崎の3地区は円山川から離れていたので何処で水泳をしていたかどうか不明である。
 中学3年生以下小学1年生あるいはそれ以下の子供も円山川に飛び込んだ。水泳と言うより水の中で戯れていたのである。12時半頃から3時頃まで川の中で遊んだ。上級生の何人は川の両岸をクロールで往復していた。自分は水と戯れていた部類である。遠くの橋の上からでも子供達が「ワイワイガヤガヤ」騒ぐ声が聞こえた。
 自分が小学5,6年生の頃,下級生を向こう岸に連れて行ってやると言って彼を背中に背負って泳いだ。正に向こうの浅瀬に近づいた時,急に背中の下級生が暴れ出した、自分に襲いかかっている様である。振り切って自分だけ浅瀬に逃げた。彼はおぼれている様子であったが何とか浅瀬までたどり着いた。自分は大変危険なことをしたと反省をした。後年,夏休みに入る前には
 「水に犠牲にならないように!」
と言う言葉が流行した。その度にこの下級生と対岸に渡るトラブルを思い出した。一方,「犠牲」という言葉使いに違和感を持った。事故であって,犠牲ではない,と思ったのである。
野球で「犠姓フライ」を打つという。その意味は,自分が犠牲になってアウトになり,塁上の他の走者を進塁させることである。水の事故に遭遇することは解るが,それによって得られるメリットは何も無い。そこに疑問を抱いたのである。
 辞書によると犠牲とは,
「不測の災害などで命を奪われること」
である。辞書的な解釈だと正しい使い方かもしれないが。

不埒な先生
 五年生の担当の玉川先生は試験の出来が悪いと,答案用紙を生徒に返す時,成績の悪い生徒の頭を小突いた。相当出来の悪い者には「びんた」を喰らわした。そんな時は,玉川先生は宿直をした翌朝の授業で,頭には櫛を入れず,バサバサの髪であった。恐怖の授業であった。
 「自分の指導力の無いのを棚に上げて,生徒に暴力を振るうとは!」
 今ならとっくに懲戒解雇は間違いなしであろう。無事に定年まで勤められたか否か心配する。
 大学を卒業するまで,いや,社会に出てからでも,教え子に暴力を振るうような不埒な先生には遭遇することは無かった。
 逆に,六年生の平野先生は,何の科目の試験か忘れたが,クラス全員の出来が悪く,平均点が相当低かったことがある。平野先生は皆に小言をいうと同時に,
 「自分の教え方も悪かったのではないかと反省をしている」
と嘆かれた。
 先生が自分の教え方を反省するなんて,小生には初めての経験である。驚きであると同時に感激もした。
 玉川先生はベテラン教師の悪い一面が出て,平野先生は新進気鋭の好ましい一面が出たのである。

学校の帰り途
 夏の日,同級生の齋藤正寛君と一緒に帰る途中,「さとや」を通り過ぎた所で,材木を満載した馬車に遭遇した。幸い我々が帰る方向に進んでいた。二人はうずたかく積まれた材木が作る日陰を歩いた。その日は習字の授業があったので,鞄の他に習字の道具を持っていた。とても熱い日であった。習字の道具は材木の間に乗せた。製材所の辺りに来た時,前方から自動車が来た。馬車と擦れ違う瞬間,自動車が馬車の搭載していた材木に接触した。材木が引きずられ後ろに移動した。その材木が自分の頭に当たった。仰向けに倒れた。その後の記憶はない。気の付いた時は自分の家で布団の上に寝ていた。2~3日学校を休んだ。近所の小母さん達が事故を聞きつけて
 「修ちゃん,どうしたの?」
と見舞いに来てくれた。学校からは誰も見舞いに来なかったように思う。見舞いに来たかもしれないが,記憶にはない。あの不埒な玉川先生,答案用紙を返すとき,出来が悪い生徒に「びんた」を喰らわせる,あの不埒な教師には見舞いに来て欲しくなかった。
 この馬車は幸か不幸か「うまよしさん」が牽引する馬車ではなかった。

兄の友達
 小学生の1年生か2年生の頃だと思う。
家の前の道路には自動車など殆ど走っていなかった。道路はさながら子供の遊び場になっていた。夕方,近所の子供たちと路上で遊んでいた。平野先生(当時は旧制の中学生)と兄が学校から帰ってくる光景によく遭遇した。彼らは旧制豊岡中学で,自宅から八鹿駅まで歩き,そこから豊岡中学まで汽車で通学していた。我々は路上でわいわいがやがやと騒々しく遊んでいた。平野先生と兄達は,黙々と!ただ黙々と!歩いて学校から帰って来た。
 「大きくなるとあんなに喋らなくなるのだ!」
と驚くやら,感激するやら複雑な気持ちであった。その光景に遭遇するたびに,遊びをわざわざ中断して,畏敬の念をもってその光景を見送ったものである。

兄の朝寝坊
 ある冬の朝のことである。自分が学校に出かける時,祖母が兄を誘いに来た学生二人に
 「寒いから,これで暖をとって待ってやっておくれ。」
と言って玄関口で藁を燃やしていた。
 兄は豊岡中学に汽車で通学していた。学生さんの一人は平野先生であった。兄は朝早く起きる事が苦手のようであった。この事を兄に聞くと,
 「学校の帰りは平野君と一緒であったが,行くときは近所の西山俊ちゃんとか,
  西山睦行君が誘ってくれた。」
と言っていた。
 お祖母さんが燃やした藁で暖を取って待っていたのは平野先生ではなく,西山の俊ちゃんと睦ちゃんであったらしい。お祖母さんは1950年(昭和25年)に亡くなったので,その後此の景色は見られなくなった。

兄病床に伏す
 暫くして,兄はTBで病床に臥した。兄の病床は離れの二階であった。ある日の夕方,遊びから帰ると母が
 「平野さんが收の見舞いに来て見えるよ。」
と言った。学校の帰りに兄の見舞いに来られたのだ。
自分はどんなお客さんが,見舞いに来たのか興味 深々で,離れの二階に覗きに行った。忍び足で音を立てないように歩いていたが,辺りが暗くなっていたので,縁側に置いてあった籐椅子にぶつかった。
 「ギシツ!」
と音がした。部屋の中から
 「あれっ!大きなネズミが居るぞ!」
と平野さんの声がした。
 「三十六計逃げるに如かず」
で階下に逃れた。

平野先生
 次に平野先生に逢った時は,小学六年生の時で,渡辺教頭が教壇に立ち,平野先生が側に立っておられた。
 「平野先生は大変優秀な成績で卒業され,またスポーツマンであり,立派な先生で
  あります。これから皆さんの学級を担当にしてもらうことになりました。」
というような意味の紹介をされた。平野先生は,渡辺教頭の紹介される間,終始天井を向いてニコニコされていた。
 平野先生が着ていた背広がやけに小さかった。多分,お父さんの「お下がり」だと思った。兄も親爺の「お下がり」を着るとあんな格好になるのだろうと思った。平野先生の名誉の為に言っておくが,その頃の衣服は兄弟や親爺の「お下がり」を着るのは当たり前のことであった。衣類ばかりでなく教科書だって姉の「お下がり」を使った。自分には一つ年上に,すなを姉がいたから,教材は何時も「御下がり」であった。幸い衣類はすなを姉の物を着るわけにはいかないので,新しいものが着る事が出来た。
 我々を担当していた先生が,何かの都合で退職された。暫くの間,渡辺教頭が担当していてくれたが,正式に平野先生が就任され,担当される事になったのである。
それに引き換え,兄は未だ病床に臥している。
 「世が世なら兄だって先生になれるものを,病気で寝ているとは可愛そうだ。」
と沈み込んだ。何となく「世の中,不可解だ」と思った。

森羅万象
 国語の時間の最初の授業が始まった。既に教科書の中程迄まで進んでいたが,平野先生は
 「教科書の表紙を開きなさい。」
と命じられた。表紙の裏には志賀直哉の子供に関する記述があった。その文章は正確には覚えていないが
 「子供は森羅万象に好奇心を持つものである。」
というようなことが書いてあったと思う。
 先生には「森羅万象」とか「好奇心」という言葉の意味を教えて戴いた。世の中にこんな難しい言葉があるとはついぞ知らなかった。又,此れまで教科書の裏に書いてある文章を勉強したことは無かった。そもそも教科書の表紙の裏に文章が書いてあることすら気にもつかなかった。それにもう一つ気になることがあった。兄は平野先生と同級生であったから,「森羅万象」とか「好奇心」といった難しい言葉を知っていなければならないが,果たして知っているだろうかと心配した。家に帰って質問しようかと思っていたが,家に帰ると遊びに夢中になり,質問することを忘れてしまった。
 最初の頃は何かにつけ,平野先生と兄を比較したものであった。
 国語の教科書に載っていた「咸臨丸」の詩や伊能忠敬の偉業についての記述も記憶に残っている。伊能忠敬については毎日の散歩の時想起する。
「咸臨丸」は小さな船である。暴風雨や大波に襲われ,木の葉のように翻弄され37日間の航海を経て,サンフランシスコにたどり着いた。その様子が詩の形式で記述されていた。「咸臨丸」には勝麟太郎も福沢諭吉も乗っていた

図7 咸臨丸

ソフトボール大会
 郡内の小学校のソフトボール大会が開催された。小学校レベルで郡内の試合が行われたのは後にも先にもこの大会のみであったと思う。八鹿,小佐,伊佐,宿南,等が参加した。
何処の小学校との試合か忘れたが。自分が打席に立った時,特大のヒットを打つつもりが気負いすぎて,内野ゴロになってしまった。それでも,ファーストに向かって一心不乱に走った。タイミングではセーフであった。ところが小生はファーストベースを踏まずに駆け抜けてしまった。タッチされてアウトになってしまった。ファーストコーチをされていた平野先生に
 「ベースを踏まずに,駆け抜ける奴があるか!」
と叱られた。
 その試合の結果は如何であったか記憶にない。又伊佐小学校が何位になったのかも記憶に無い。
 平野先生から懐かしい手紙を戴いた。ソフトボールの思い出に関して,次の記述があった。
 「ソフトボールの三塁の守備に“右に一歩動いてゴロは両手捕球するのだ!”とやかましく言っても,逆シングルの捕球癖は治らなかった。先日WBCで左翼手の某がこの齋藤流逆シングルで捕球して,二塁に送球して刺殺したのを見て,やんぬるかな!と感激したことだった。」
 試合が終わった後「懇親会」が開かれ,大会を振り返って各学校の代表が感想を述べた。八鹿小学校の代表は大きな声ではっきりと堂々と発表した。さすがに規模の大きい小学校の代表だと感心した。ところが我が伊佐小学校の代表は冴えない発表であった。誰が挨拶したかも記憶にないのだが。試合で負けたことより感想戦で負けたことが悔しかった。
 帰りは乗り合いバスで帰った。家に着くと姉(伶子)が
 「修ちゃんはバスの中で,一人大声で喋っていた。
  友達の手前とても恥ずかしかった」
と嘆いていた。その姉は1999年に64歳で他界した。

図8 ソフトボール大会

水上スキー
 小学校のグランドの端は堤防であった。堤防は河原の方にダラダラと斜面になっていて,その斜面の先端は円山川が流れていた。河原と川の境は水の流れは無く浅瀬になっていた。ある冬先生はグランドの先端の堤防の斜面でスキーをしていた。河原の先端まで滑って,浅瀬を眺めていると,変な誘惑に駆られた。川が河原に食い込み,水溜まりになっている部分を
 「スキーでうまく,渡れるであろう。」
と衝動に駆られ早速水面を滑ることを試された。勢いよく水面に向かって滑った。あにはからんや!水面に倒れてずぶ濡れになったという話をされた。さぞかし冷たかったであろうと思うと,自分はそんな冒険はとてもできないと思った。

ガラス拭き
 先生に我々のガラス拭きの出来栄えの良かったことを,以下のように褒めて戴いた。
「昨日の放課後皆の試験の採点をしている途中にタバコを一服すった。吸殻を捨てるべき灰皿が近くに見当たらなかった。幸い,窓ガラスが一枚壊れていたので,吸い殻を,その破れた窓ガラスをめがけて外に“ポイッ!”と投げ捨てた。ところが吸殻はガラスに跳ね返されて床に落ちた。皆がガラス拭きを上手にしている結果,ガラスが入っているか否か解らないくらい綺麗になっていた。」と
 先生の机は教室の左側,運動場に面した窓側にあった。
図9写真は舟山の裾野で撮影したものである。小学校の頃の記念写真は舟山で撮ることになっていた。
 アルバムをめくると,小学2年生の頃から,図9と同じ場所で撮った写真が貼ってある。兄妹のアルバムを見ても同様である。

図9 舟山の麓で

ポーニャン
 正月に同級生5~6人で平野先生宅に遊びに行った。先生が笑顔で蜜柑を菓子鉢に山盛りに持ってきて,歓迎して貰った。トランプなどで遊んだ。浅間から通っていた小柄な宮崎君がいた。彼のニックネームが何故か「ポーニャン」といった。彼が突然
 「時は元禄十四年!」
と浪曲をうなり出した。皆,驚くやら,おかしいやらで
 「もっとやれ! やれ!」
と掛け声をかけたが,ポーニャン君はその後を続けなかった。今度は高木勲君が
 「芋兵衛が!」
とうなりだした。彼もその後は続けなかった。ポーニャンの
 「時は元禄十四年!」
が何を意味するか解らなかった。大学生になって「忠臣蔵」に興味を持つようになったこと,ポーニャンの母親が芸妓をしていた噂を聞いたこと,の二つを合わせてポーニャンの浪曲
 「時は元禄十四年!」
の意味を理解することができた。しかし,「芋兵衛が!」の意味は未だに解らない。
 誰かが座布団を二つ折りにして使っていた。
それを川瀬正美君が
 「そんなことしたら,綿がちぎれて座布団が駄目になってしまうよ!」
とたしなめた。それを側で聞いていた先生は
 「君のうちの躾は厳しいのだな!」
と笑っておられた。
 沢山の年賀状が来ていた。その多さに驚いた。
年賀状を見ていると大谷章君が
 「修ちゃんの兄さんからも来ているよ!」
と言って一枚の年賀状を取り出した。その年賀状には「平野壽殿」と書いてあった。その他の年賀状は殆ど「平野壽様」と「様」書きであった。大谷章君が
 「殿 と書いてあるよ!」
と指摘した。小生は気まずい気持ちを抱いた。「殿」とはいかにも高圧的で失礼な書き方ではないかと疑問に思ったのである。大谷章君がわざわざ指摘したのも同様の意味であったかもしれない。
 平野先生の家から自転車で夜遅く帰った。夜道は寂しく,心細かった。家に着くなり玄関先で
 「大隊長が還ったぞ!」
と大声で叫んだ。隣近所の人が驚いていた。

“つかさどる”
 社会科の時間に「司法」「行政」「立法」とはどんなことか調べて来る宿題が出された。兄に「立法」は法律を作ること。行政は法律を実施すること。司法は法律をつかさどること。と教えてもらった。しかし朝になってから
 司法は法律をつかさどること」
の意味が判然としない。母に
 「法律をつかさどる」
とはどんなことか尋ねた。母は
 「兄ちゃんが起きたら教えてもらえばいい。」
といって教えてくれない。兄が起きてトイレに向かった。
 「司法とはどんな意味か」
と尋ねた。兄は機嫌悪く
 「昨日教えたじゃないか!法律をつかさどることだ!」
といってトイレに入ってしまった。
 小生の質問は「法律をつかさどる」とは如何なることをするのか教えてほしいのだが舌足らずで,質問の真意が伝わっていなかった。
 仕方なく学校に行った。社会科の時間に「司法とは何か」を先生から質問された。自分以外の人に名指されれば好いと思っていた。がそんな時に限って自分に指名さるものである。自分自身が十分に意味の解っていないまま
 「司法とは法律をつかさどることです。」
と受け売りの答えをした。先生に「つかさどる」とはどんなことかと突っ込まれたら,何と答えるか「びくびく」していた。先生は
 「ははー!兄ちゃんに教えてもらったな!」
と全てお見通しだったのだろう,その質問はなかった。

俳句
 国語の時間に皆で俳句を作った。皆の発表した俳句が黒板に書かれた。
発表された作品の中から,良いと思うものを選んで,投票することになった。その中に
   初雪や二の字二の字の下駄の跡
があった。小生はこの句を読んで「どきツ!」とした。素晴らしいと思うより,悔しいという感情のほうが強かった。同級生の中にこんな素晴らしい句が読めるとは,青天の霹靂であった。
しかし,先生は
 「この俳句は除きましょう。投票しないように!」
と言われた。何故除外されたのか解らなかった。家に帰ってこのことを兄に尋ねた。兄が答えてくれた
 「その俳句は小林一茶という有名な俳人の句である。」
と説明してくれた。
 小生は小林一茶のことは勿論,その俳句も知らなかった。同級生の中に小林一茶やその人の俳句を知っているとは驚くべきことであった。兄が「小林一茶」の名を挙げたか否かは不明である。兎に角,自分の知らない有名な俳人を挙げたのである。
 先生はこの俳句を提出した生徒の名誉のために,その俳句を除外した理由を説明されなかったのだろう。小生が教師なら
 「バカ者!他人の俳句を盗作するとは何たることだ!」
と怒鳴りつけたかもしれない。平野先生は奥ゆかしい人だと思った。
因みに,
   初雪や 二の字二の 字の下駄の跡
は芭蕉時代の「田捨女(でんすてじょ)」という俳人の句を,誰かが改竄したものであることが解った。
 最近ではこの俳句に詠われているような光景は見られないであろう。最近の男は着物を着ることもなければ,下駄を履くこともない。今の小学生に此の句が理解できるであろうか。
 田捨女(でんすてじょ。田ステで女は敬称)(1634年~1698年)は丹波の国氷上郡栢原村本町で町頭「田助右衛門季繁(でんすけえもんすえしげ)」の長女に生まれる。
 捨女の名前は、幼いときに死亡することが多かった時代には、生まれて直ぐに路傍などに捨て、親戚などに拾って貰うと丈夫に育つという風習とともに,名づけられた。幼年より、父と兄の影響で俳諧と和歌を学び,才能を発揮した。師は芭蕉の師匠でもある、北村季吟などである。彼女は幼い頃から文才があり
   雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡
わずか6歳で,この句を読み人々を驚かせた。
 又,ステ女が10歳の時には,たまたま遊びに行った親戚の酒屋に「菊」と言う女性がお酒一升を買いに来た。ところが店に誰も居なかったためステ女は傍にあった帳簿に
   酒一升 九月九日 使い菊
とみごと俳句調に書きとめたと言う逸話も残っている。
 10歳を超えると、その才能は城主や近隣にも知られていた。16歳の時には柏原城主「織田信勝」より
   かやはらに(栢原に) おしや捨ておく 露の玉
を送られている。ステ女が3歳の時に母,妙善が38歳の若さで亡くなり,母親の亡き後母親役となっていた祖母もステ女が12歳の時に亡くなった。
 父季繁はわが子の英才ぶりを高くかっていたので,他家に嫁がせることを嫌い,後妻の連れ子「季成」を夫に選んだ。
 夫も俳諧などをよくしたし,夫婦仲は睦まじかった。五男一女をもうけている。捨女が42歳の時,夫が51歳で死んだ後,庵を建て3年間夫の菩提を弔った。7回忌を終えた時,子供たちも独立したので出家を志した。京に移り住み生涯の師と仰ぐ盤珪禅師に出会う。正式に盤珪国師に入門し名前も貞閑と改めた。

図10 下駄の跡


 盤珪禅師は全国に寺を作ってきたが,最後に出身地である播磨の国網干に帰り,龍門寺(りょうもんじ)を創建した。田捨女は寺の近くの浜田に「不徹庵(ふたいあん)」を建て、移り住んだ。貞閑がこの「不徹庵」の庵主となった。そこから毎日龍門寺の禅堂に通い盤珪禅師の教えを請うた。貞閑尼の徳を慕ってやってくる尼が常時30人は「不徹庵」で寝食を共にした。1698年,多くの尼僧たちに見守られながら66歳の生涯を終えた。
 彼女は優秀な俳人であったと思われるが,不思議に人口に膾炙されていない。藤村作の「国文学史総説」にも取り上げられていない。何故であろうか?
 彼女の句は以下の2句以外に余り見あたらない。
   花は世の ためしに咲くや ひと盛り
   草よ木よ 汝に示す 今朝の露

散切り頭
 社会科の時間に
 「散切頭をたたいてみれば文明開化の音がする」
という言葉を教わった。面白がって友達の頭を叩きながら
 「散切頭をたたいてみれば文明開化の音がする」
を唱えたものである。これは明治4年(1871)発行の『新聞雑誌』第2号に掲載された歌と聞く。その他に
  ¶ チョンマゲ頭をたたいてみれば因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする
   「因循姑息」明治文明開化期の流行語。古い習慣にとらわれて,その場しのぎを
   して改めないこと。
  ¶ 惣髪(そうはつ)頭をたたいてみれば王政復古の音がする
   惣髪頭は幕末浪人に多い、月代(さかやき)を剃っていないオールバックアス
   タイルで当時の改革派のスタイル。
 今風のものを並べれば
  ¶ ○○党をたたいてみれば,贈収賄の音がする
  ¶ ○○党をたたいてみれば迎合政治の音がする
  ¶ 経団連をたたいてみれば、金,金,金の音がする
 又,この時期に
 「万里の長城で小便すれば,ゴビの砂漠に虹が出る。」
も教わったと記憶する。

跳び箱と鉄棒
 3学期に他校の先生が伊佐小学校に来られ,我々の体育の授業,「跳び箱」の練習現場を参観することになった。殆ど毎日「跳び箱」の練習をして跳び箱のいろいろな技術を習得した。当時,日記を書いて毎日提出し,講評を朱書きして貰うことになっていた。日記には「跳び箱」の練習のことを書いた。朱書きで自分の「水平跳び」の出来が良いと褒めてもらって大変嬉しかった。
 一方,「鉄棒」は全く駄目であった。前回りを順番に先生の前で行うことになった。たいていの子は先生に支えられて前回りをしいたた。自分もそのつもりで先生の両手に体を預けるように前回りをした。ところが先生の両腕はなかった。頭から大地に墜落した。先生は驚いて
 「君のように運動神経のよいものが,鉄棒から墜落するとは何事だ!」
と嘆かれた。
 家に帰って一つ年上の姉に竹竿と布団を用いて「前回り」の練習をしてやっと出来るようになった。学校の鉄棒の下にマットが敷いてあったら何の不安もなく回転できたであろう。跳び箱のように
 「例え失敗してもマットが敷いてあるから大丈夫!」
と安心が出来るのであるが,失敗すると痛い目に遭うとなると,躊躇してしまうのである。
 鉄棒に関して,再び平野先生の手紙を紹介する。
 「火鉢の埋火の上の灰をふっと吹いて現れ出る炭火のように,思い出は鮮明に甦ります。低鉄棒に,両腕を突っ張って,まるで反り板を乗せたかのように,歯を喰いしばって,前傾を拒んでいる姿が浮かんでくる。脇から背中を押して,前に倒そうとするのだが断固応じない。何度か放課後に鉄棒に連れ出し,練習を試みたがどうにもならず中止となった。」

予習合戦
 3学期に入って勉強もかきいれどき時となった。算数の授業では教科書の予習をしていくことになった。教科書の最後まで予習をすることを競った。教科書に掲載されている問題を解答して提出した。毎夜10時頃迄算数の予習をした。
不可解な問題があった。列車が衝突しているような絵が書いてあり,次の問題が書いてあった。
 「長さ138mで,時速90Kmの急行列車が,長さ120mで,
  時速64.8Kmの普通列車と向かい合って接しています。
  何秒後に離れるでしょうか。」
自分は次のように考えた。
 「こんなものはお互いの運転手がバックギアを入れて,アクセルを吹かせば
  たちどころに離れてしまう!計算できるものではない!」
そこで,離れの二階に寝て居る兄の所に質問に行った。小生の考えを述べた。兄は
 「カンラ、カラカラ」
と大笑いした。
 「何が可笑しいのだ!こちとらは真剣なのだぞ!」
といらいらした。兄がおもむろに説明した。
 「あのな!山陰線は単線で,列車は上りか,下りの何れしか走れないが,
  都会の線路は複線で上り列車も,下り列車も同時に走れるのだ。」
平面図を書いて説明してくれた。小生は3学期の終わりに体調を崩し学校を休み,卒業式も欠席し,春休みを迎えてしまった。従って,算数の「予習競争」で誰が1位になったか不明である。噂では小生宅の斜め前隣の「米田和歌子さん」であったと聞いた。
 卒業式の日,通知簿や表彰状を持って見舞いに来て戴いた。卒業式とあって,平野先生の背広は,就任の時と違って一張羅の背広であった。腕白坊主が服装のことを気にして申し訳ないが,此は美的感覚から来ているのである。図・表においても美的感覚のない人の作品は見る気がしないのである。

国会解散
 3学期も終盤に入った頃,クラスで討論会が開かれた。議題は「再軍備,是か非か」であった。クラスを2つのグループに分けて討論が始まった。活発な意見を戦わし,議論伯仲,どちらも譲らない。先生から
 「議論は熱中しているが,このあたりでトイレ休憩にしよう。」
と提案があった。みんな
 「国会解散!国会解散!」
と叫びながら,トイレに向かった。
その当時,国会で「バカ野郎騒動」が勃発した。
 2月末国会で,問題となった吉田茂と西村栄一の質疑応答の内容は以下の通り。
西村
 「総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべきであると
  いう根拠は一体どこにお求めになりましたか」
吉田
 「私は国際情勢を楽観すべしと述べたのではなくして,戦争の危険が遠ざかり
  つつあるということをイギリスの総理大臣,あるいはアイゼンハウアー大統領
  自身も言われたと思いますが,英米の首脳者が言われておるから,私もそう信
  じたのであります(中略)」
西村
 「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総理大臣の翻訳
  を承っておるのではない。(中略)外国の総理大臣の楽観論ではなしに,(中略)
  日本の総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。(中略)やはり
  日本の総理大臣としての国際情勢の見通しと,その対策をお述べになることが
  当然ではないか,こう思うのであります」
吉田
 「ただいまの私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁いたしたのであります。
  私は確信するのであります」
西村
 「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか」
吉田
 「無礼なことを言うな!」
西村
 「何が無礼だ!」
吉田
 「無礼じゃないか!」
西村
 「質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。(中略)翻訳した言葉
  を述べずに,日本の総理大臣として答弁しなさいということが,何が無礼だ!
  答弁できないのか,君は……」
このやり取りに腹を立てた吉田首相は,席に戻る際に
吉田
 「何を言ってんだ,ばかやろう…」
と呟いた,これをマイクに拾われ西村栄一議員が取り上げて,
西村
 「何がバカヤローだ!国民の代表に対してバカヤローとは何事だ!!(以下略)」
と騒ぎとなった。これが原因で3月14日に国会が解散された。
いわゆる「バカヤロー解散」である。その混乱を小学6年生が真似て,
 「国会解散!国会解散!」
と叫んだのである。

志を果たして
 小中学校が同じ校舎であったので,音楽は中学の平野先生に習っていた。因みに,担任の先生は平野壽,中学の先生は平野一太という名前であった。
 音楽は中学の平野先生に習っているにも拘わらず,前に出て教壇に立って歌わされる機会が多くあった。何かの罰則で歌わされたのだと記憶する。みんなの歌うのは,今習っている高野辰之の「故郷」が圧倒的に多かった。

図11 故 郷

 平野先生はその唄は何て云う題名の歌かと訊ねられた。そして,
 「非常に良い歌だね」
と感心された。その時自分はこの歌の良さが理解できなかった。社会に出てから,云十年が経過した。やっと,その意味が理解できるようになった。
 「志を果たして,何時の日にか,帰らん」
と口ずさむ。学校を卒業して三井金属に入社した時,先生宅で御馳走になった。宴が終わって我が家に帰る時,先生に途中まで送って戴いた。伊佐橋の上で
 「三井金属の社長になるからね!」
と大言壮語した。勿論,それは冗談ではあったが。
それは果たせぬ夢と終わった。自分の人生も第四コーナを周りゴールが其処に見えてきた。一体自分の「志」は何であったかと自問自答しているこの頃である。

悪戦苦闘
 宮崎一弥さんは自分より三つ年上であった。彼には自分より年下の弟が二人いた。宮崎兄弟と近所の同輩6,7人で,野や山で遊び,あるいは河原で野球などしてよく遊んだ。
 ある時,山から伐採された材木を運んだら1回につきなにがしかの金が貰えるという話があった。一弥さんが
 「修ちゃんも行かないか」
と誘ってくれた。10人くらい参加したと思う。上級生ばかりであった。伐採された材木が集積してある山は,高さは60m程度であったから,斜距離で400mぐらいかと思われる。自分が1回降りる間に,上級生は2~3回以上追い越した,そのたびに
 「修ちゃん頑張れよ!」
と声をかけてくれた。山の集積場では年上の人が荷作りをしてくれた。縄で材木縛り,引きずって運ぶのである。途中,丸太が細い山路から逸脱し,崖に落ちそうになる。歯を食いしばって引きずりあげる。
 結局,自分の運んだ回数は2~3回であったと思う。上級生などは10回以上運んだであろう。
 その日は家に帰って,すぐ炬燵に入って寝た。母が
 「ご飯だよ!」
と呼んでくれたが.起きる元気は無かった。晩御飯も食べずに寝入ってしまった。

水戸黄門漫遊記
 講堂で映画鑑賞する機会に恵まれた。小学生の高学年と中学生であったと記憶している。自分は既に中学生になっていたと思う。平野先生が学校からの連絡事項などを報告され,今回鑑賞する「水戸黄門漫遊記」のあらすじを紹介された。
 「水戸の黄門という偉い殿様が助さん,格さんという強エーサムライを連れ,悪人共をバッタ,バッタとやっつける物語である。」と。
講堂に集まったものは皆,
 「やんや!やんや!」
の大拍手。小生も勿論喜んだ。が,不思議に思ったことがある。
 「先生は未だ観ていない映画のあらすじがどうして解るのだろうか」と。
 当時は映画を観る機会は年に2~3回程度のことであった。
因みに,「水戸黄門」は1969年からテレビ番組で放送するようになった。在宅している時は必ず観る。
 三井金属に外国の女姓と結婚していた社員がいた。彼女は日本語が殆ど解らなかったけれども,「黄門さん」の大フアンであったと聞く。ストーリーが「勧善懲悪」の物語だから単純で解りやすかったのである。
 映画では水戸黄門の役は月形竜之介で貫禄があった。テレビの水戸黄門の役は東野英次郎を皮切りに,西村晃,佐野朝夫,石坂浩二,里見浩太郎と5代目になる。月形竜之介に比べて「軽い」というか,「品格」が無いというか,「今一貫太郎」である。東野栄二郎に至っては田舎の爺さんのようであった。このドラマを見るたびに,月形竜之介を偲ぶと同時に,半世紀も前の平野先生の解説を思い出すのである。

中学校の先生達
 中学校の先生は総勢11人程であった。そのうち女の先生が三人おられたが,数学の広瀬先生は転校された。代替の先生は来られなかった。社会科を教えている藤原先生が数学を担当することになった。残る二人の女の先生は英語の小出先生と国語の齋藤田鶴子先生である。
 小出先生は小出病院長の末裔である。従って,恬ちゃんの家系であるが,どういう血のつながりか自分にはわからない。
 最初の英語の業で度肝を抜かれた。英語で
 「Good morning boys and girls. How are yours.」と
挨拶をされたのである。これまでの勉強。算数,国語,理科等とまったく異なるものであった。小出先生は教科書に沿って「英会話」を多く取り入れて教えられた。実に楽しく勉強ができた。これは自分だけでなく多くの生徒がそのようであった。中学二年生の頃に転校されてしまった。小出家の人は素晴らしい人が多いが,すぐ転校してしまうのが残念であった。小出先生の代わりは誰も赴任して来なかった。理科担当の宿南先生が教えてくれた。やはり授業の中身は格段の差があった。日本語を英語に翻訳するのが精いっぱいであった。
 国語は齋藤田鶴子先生であった。国文法が得意であった。この授業も楽しかった。動詞の活用が印象に残る。未然,連用,終止,連帯,仮定,命令と活用させる。それに伴い,五段活用とか上一段活用とかを勉強した。スペイン語の動詞は,現在,点過去,線過去,未来,過去未来,接続法現在,接続法過去と変化し,それぞれの動詞が一人称,二人称,三人称の単数,複数に活用させる。その変化は42通りである。命令形を加えると44通りに変化する。日本語の場合は話すことが先で動詞の変化は後で学んだ。スペイン語の場合は動詞の変化を覚えて話すようになった。
 齋藤先生に,永井隆の「この子らを残して」を涙ながら読んでもらった。因みに,永井隆氏は長崎大学の医学博士であった。長崎の原爆で自らも被爆しながらも、被爆者の治療にあたった。病に倒れた永井博士は,浦上のキリスト信者が建ててくれた如己堂の僅か2畳の部屋で執筆活動や平和運動を行った。彼が綴った「この子らを残して」の本は映画にもなった。永井博士は1951年、43歳の若さでなくなられた。
 国語の先生はそのほか本田先生と平山先生がおられた。
本田先生は国語で漢詩を教えてもらった。杜牧の次の詩が印象に残っている。
 千里鶯啼緑映紅
 水村山郭酒旗風
 南朝四百八十寺
 多少楼台烟雨中
また句読点についての面白い話を聞かせてもらった。
 近松門左衛門が句読点をつけていた。数珠屋の旦那がやって来て
 「何をしているのですか?」と
尋ねる。
 「文章に句読点をつけている」と
答えると。
 「余程,暇ですね!文章など句読点がなくても十分読めるものだ。」と
馬鹿にする。近松門左衛門は数珠屋に
 「フタエニマゲテクビニカケルジュズ」と
書いて数珠を注文した。数珠屋は
 「二重に曲げて,首にかける数珠。」と
読んだ。数珠屋はや
 「こんなに長い数珠を何に使うのかね。やはり門左衛門さんは変わっている。」と
思いながら注文の数珠を作って持参した。近松門左衛門は
 「こんな長い数珠を注文した覚えはない。」と
言って受け取らない。数珠屋は怒って注文書を持ってきて
 「二重に曲げて,首にかける数珠」と
書いてある注文書を示し,
 「この通りだ」と
言う。門左衛門は数珠屋の旦那の持って来た注文書を手に取りこれは
 「二重に曲げ,手首にかける数珠。」と
書いてあると言った。数珠屋は
 「そんなら句読点をチャンと打って貰わないと困る。」と
語るに落ちたのである。
 平山先生には夏目漱石の「坊っちゃん」を読んでもらった。
藤原先生は器用な先生であった。社会科,数学,習字等を教えて戴いた。それに,軍隊で南方方面での経験談を面白おかしく話してくださった。写真撮影に興味をもたれ,好く写真を撮ってもらった。
 宿南先生には理科,歴史,英語などを教えてもらった。専門は理科であった。音楽は平野先生で卒業する時「唇に歌をもて」と言っていた。
 齋藤保先生は社会で,放課後にバレー部の指導を担当,茨城先生は理科を教え,放課後は野球部の指導を担当されていた。
数学の広瀬先生が転向され欠員になっていた。その間,藤原先生が数学を教えられていた。3年生になってやっと,珍坂先生が正規の数学の先生として赴任されたのである。

図13 伊佐小中学校

策を弄す
 親父は囲碁が大好きで,盆・正月は勿論,百姓の閑散期は隣近所の碁キチを集めて碁会を開いていた。二十数人は集まった。
 「門前の小僧習わぬ経を読む。」
とかで,先ず兄が囲碁を覚えた。自分は兄から教わった,というより無理矢理覚えさせられた。自分も,中学一年生の頃は碁を打つようになっていた。
 兄とは離れの二階で夜遅くまで打った。中学一年生の夏休みが終わる頃の事である。
夏休みの宿題を掛けて兄と対局していた。母がトイレに起きた時,パチリパチリと音がするのを聞きつけて,
 「收!いい加減にしとかないと!修ちゃんは明日学校があるから!」
と階下から小言をいう。
 兄は石音がしないように二つの対策を提案した。
  第一は,碁石を碁笥から全て座布団の上に出すこと。
  第二は,碁盤に石を置くときは座布団の上の石を静かに取り上げ,音がしない
  ように盤上に置くこと。
 この対策を守りながら石音をたてないように,深夜まで打った。
夏休みの宿題を賭けて対戦したこともあるが,星目置いてもなかなか勝てず宿題は出来なかった。時間は容赦なく過ぎ去る,宿題は出来ず。この夏の宿題はどうなったのであろうか。

囲碁よもや話
 中国の2600年も前の前の古文書に囲碁の話があるらしい。春秋戦国時代,晋の囲碁好きの樵が山奥深く分け入ったところ,仙人達が囲碁を楽しんでいた。木をかる伐ることも,時の過ぎるのも忘れ観戦していた。気がついて帰ろうとしたとき,手に持っていた斧の柄は朽ちていたという。この故事に因み囲碁の別名を「爛柯」と言う。「柯」は斧の柄で,「爛」は腐ると言う意味。即ち,囲碁を打っていると時間の経過を忘れ,斧の柄が腐るほどの長時間,没頭すると言うのである。「白髪三千丈」と同じく中国人は針小棒大に表現するのである。
 三国志の関羽は毒矢で腕を射られた。名医華陀が関羽の骨に染みこんだ毒を取り除く手術をすることになった。関羽は毒矢を受けた腕を差し出し,一方の手で囲碁打ちながら,麻酔をすることなく手術を受けたという。これは,関羽の豪傑さ加減と,囲碁が苦痛をも忘却させる妙薬であることを物語っている。

図12 仙 人
 囲碁は所詮陣取りゲームであるが,そのプロセスが実におもしろい。一局の碁は序盤の布石,中盤の戦い,終盤の寄せで構成される。
 序盤の布石は一局の碁をどのように導くかを決める重要な基本計画である。いろいろな考えは宇宙のように広く,その変化は361の階乗(361!)である。361の階乗の変化とは,中山典之氏が「囲碁の世界」で次のように書いている。
 「何でもその道の人に教えて貰ったところでは,361!
  は全宇宙を電子で埋め尽くしたとして,その電子の数を上回るということだ。」
コンピュ-タがプロ棋士に勝てない理由は此処にある。勿論,布石理念に従って打てばよいのであるが,知恵の限りを尽くして打ったとしても正解は得られない。正に打つ人の感性や人生観がじみ出る。創造の世界,イマジネーションの世界,いわゆる左脳の世界である。
 中盤の戦いはロマンの世界で,左脳と右脳を同時に働かせる。「切った,張った」の攻防戦は誠にスリリングなものである。盤上にのたうち回る敵の大石を仕留めんと,時間をかけ,全知全能を働かせる時こそ,囲碁の醍醐味を味わうときである。
 終盤の寄せは計算の世界,右脳の世界である。訓練と修養を積めばプロ級の力をつけることも難しいことではない。にもかかわらずアマチュアは終盤の勉強を疎かにする。寄せの段階迄くればコンピュータは正確無比であろう。
 戦国の武将が囲碁を好んだのは,盤上の覇権争奪を現実に擬え,戦略,戦術を試行錯誤する場として楽しんだのではなかろうか。
 現実の「我が世」は生涯に一度しか経験できない。盤上の「我が世」は何回でも繰り返すことが可能である。会社や人生で独創的な構想を試すことはリスクが大き過ぎる。例え魅力があってもリスクを避け,安全な策を採用してしまうことが多い。
 しかし,盤上では多少リスクがあっても機知に富む戦略,戦術を試すことは日常茶飯事である。予想通りにうまくいった時こそ,囲碁の醍醐味をあじわうことができる。例え失敗しても金を取られるわけでもなければ,命を取られるわけでもない。
 囲碁で序盤の誤りは後で軌道修正が可能であるが,終盤の過ちは致命傷となることが多い。プロでもアマチュアでもミスはある。同じミスでも後半に犯した方が負けになる場合が多い。
 人生においても同じことが言えそうである。若気の至りは修正可能であるが中年後のしくじりはどうにも挽回しようがない。

野球部
 中学2年生の時,茨城先生から野球部に入らないかと勧誘された。その時点では,既に大方の選手とそのポジションが決まっており,野球部の体制は決まっていた。そして放課後,毎日練習をしていた。自分に誘いの無かったのが不思議なくらいであった。本当に入って欲しいなら
 「始めに勧誘して貰いたい。」
と言いたかった。自分が野球部に入るなら
 「守備はサードで,打撃は4番打者。」
とまるで長島さんのように思っていた。
 「今更,補欠選手紛いの部員などになるものか」
と心に決めていた。誘いがある度に,嘘も方便で
 「親父に勉強しろと言われているので」
と言って断った。ところが茨城先生は
 「齋藤君!お父さんに会って話したら,野球部に入ってもいい。と言っていたよ」
と勧誘されたが,頑として入らなかった。
体操の時間に紅白に分かれて野球の試があった。自分が打席に立った時,打球が外野に飛び,センターオーバーのヒットで農協の建物を直撃した,その光景を見て茨木先生は
 「野球部に入って打ってくれればいいのだが!」
と嘯いておられたそうだ。
 野球部に入らず,勉強したかと言えば,結局何もしなかったのである。

工作の宿題
 夏休みの宿題は「夏休みの友」絵画,習字,工作の作品等が出題さるのが慣例であった。中学二年生の夏休みのことだと記憶している。工作の作品は木下康夫君と相談して,電池で動くモーターボートを作ることにした。木下君と自転車に乗って,隣町の養父町まで工作の材料を買いに行った。情報を交換しながらある程度の所まで出来上がった。難しいとこは船底に孔を明け、スクリューを取り付ける部分であった。兄が傍で見ていた。自分がもたもたしていると「貸してみろ!」と言ってスクリューを取り付ける部分を手伝ってくれた。木下康夫君がやって来た。
 「スクリューの取り付け部分はどうした?」
と尋ねた。正直に
 「兄に手伝って貰った」
と言えば好いのに。
 「出来たよ!」
と何気なく答えてしまった。彼は
 「手伝ってくれないか?」
と頼み込んできた。今更
 「実は兄に手伝って貰った。」
とも言えず。
 「失敗して君の作品を台無しにしては申し訳ないので。」
と言って断った。彼はそれでも長時間,手伝って貰うよう自分に頼んでいた。自分も断り続けた。最後はあきらめて帰って行った。
 夏休み終わって作品を提出した。木下康夫君もチャンと完成させて提出した。
 養父町に工作の材料を買いに行った時,養父町方面から通っている平山先生に出会った。
 「遠い所まで材料を買いに行き,作品をよく仕上げた。」
と二人の作品に対しし平山先生からお褒めの言葉を戴いた。
 自分は兄に手伝ってもらったが,木下康夫委君は独力で作ったことに敬意を表した。また友達の困っていることを助けてやれなかったことを後悔した。
彼は自分のことを
 「友達甲斐のない奴,意地悪な奴だ。」
と思ったに違いない。

卓球部
 中学学生時代は勉強をした覚えは殆んどない。卓球部に入って一生けん命練習をしたことを覚えている。卓球部に入部したというより郡の卓球大会が近付いた頃,大会に参加するため,2年生の中から,5~6人の生徒が指名され,卓球部が編成されたのである。中学3年生がいたにもかかわらず,部員は全て2年生から指名された。多分,試合が差し迫っていたため,次年度のことを考え,選手は2年生から選ばれたのだろう。
 部員は大谷章,川瀬紀元,木下康夫,加藤正義,田村徳行君であった。女子の部員も数名いたが覚えているのは,3年生の本田恵子さんと,一年生の田村八千代さんの2名である。

図14 卓球部

 写真を見ると女性軍が表彰状を持っている。彼女たちどんな成績を挙げたのか全く記憶にない。本田さんが「修ちゃん教えて!」と言うから,彼女とよく練習をした。
 この年の郡の大会は唯,参加したのみで何の成果も挙げることは出来なかった。群大会で多数の選手の中で,広谷中学の藤原君が印象に残った。
 三年生の夏休みは毎日卓球の練習に学校に通った。部員は川瀬紀元,大谷章,加藤正義,木下康夫,田村徳行君等であった。高校生の先輩からも若干の指導を受けた。
 「バックハンドでは打ってはならない。中学生は体を移動し フオアで打て!」
と厳しく指導された。好敵手は川瀬紀元君,通称「のりちゃん」であった。彼と自分と何れが強いか,甲乙付け難い間柄であった。彼との試合で,サーブはバックから相手のバックに向けてロングサーブを出すか,フオアに小さいサーブを出すかいずれかである。偶々,バックにロングサーブを出した時,彼は素早くフオアに回り,スマッシュで返す場合がある,これには参った。
 木下康夫君と練習しているとき,体勢が崩れ自分のスマッシュが変なところに飛んだ。「すまん!」と云って彼が球を拾いに行っている間,卓球台を背にして他の選手の練習を見ていた。そろそろ球を拾って帰ってきた頃だと,彼の方を向いた。彼は前屈みの姿勢になって,ワイシャツのボタンの処を持って,ヒョイ!ヒョイ!と手を振っている。
 「何しているのだろう」
彼の所作を見ながら,暫く考えた。
 「分かった!」
 自分がスマッシュした球が彼のシャツの中に入ってしまったのだ。そしてその玉を出そうとしているのだ。彼は親父のお下がりのワイシャツを着ていた。親父は随分大きな人であったので,親父の下がりのワイシャツは彼には大きすぎた。ワイシャツの中に入った球を素早く,取り出そうとしているが出てこない。慌てると余計に出て来ない。落ち着いてボタンを外して取り出せば1分も要しないのに。急に可笑しくなった。笑うに笑えず,しゃがみ込んで腹を抱えた。
 3年生の郡大会では団体戦は1回戦で敗退した。個人戦で自分が出場することになった。「紀(のり)ちゃん」と自分は何れガ強いか不明であったにも拘わらず,自分が個人戦に出場することになって,「紀(のり)ちゃん」に申し訳ないと思った。彼も残念そうな顔付きであった。
 トントン拍子に勝ち上がり,準決勝戦で広谷中学の藤原君に対決することになった。彼は昨年から際立って強い選手であったから,自分などではとても勝てる相手ではないと諦めていた。試合は21本勝負,3セットであった。第1セットは簡単に取られた。第2セットは接戦の末勝ったが僥倖であると思った。第3セットはジュースの末勝った。正に無欲の勝利であり自分ながら驚いた。決勝戦は波に乗っていたのであろう難なく勝った。
 帰途,先生の奢りで,映画を見て帰った。題目は中山義秀原作の「少年死刑囚」であった。「紀(のり)ちゃん」は映画がとても好きであった。彼は映画を観る事が出来たので,卓球のことなど忘れてしまったようだ。
 個人戦で北但の大会に出場することになった。流石に北但の大会では1回戦で敗退した。
 此の頃,伊佐中学校の卓球部にはユニホームが無かった。従って,自分は群大会でも県大会でも,メリヤスのアンダーシャツを着て戦った。他の学校はユニホームをチャント着ていたにも拘わらず。後年,白のユニホームは禁止されたそうだ。
浪人時代に藤原君と昔話をした。卓球大会のことが話題になった。彼は「斎藤君は全くマークしていなかったので,負けたのはショックであった。」と言う。加えて「自分には隠しサーブがあったのだが大会では出さなかった。隠しサーブを使っておれば多分君には勝ったであろう」と言っていた。どんな隠しサーブかと聞くと,バックに構え,くるりと回転して,フオアから出すサーブである。確かに最初のうちはびっくりして正確なレシーブは出来なかったであろう。

陸上競技部
 自分は短距離の選手になれると思っていた。というより,短距離の選手になりたかった。ところが自分より速く走る者が2,3人いた。自分は走り幅跳びの選手として出場することになった。トラックの選手の練習を脇目に見ながら,砂場で走り幅跳びの練習をした。その頃の陸上競技と言えばトラック競技が花形で,先生も生徒も皆トラック競技を注目していた。従って,走り幅跳びの競技は縁の下の力持ち的な競技であった。
 郡大会では走り幅跳びの応援をしてくれる者は誰もいなかった。齋藤保先生が走り幅跳びの競技場を巡回に来てくれた。
 「齋藤君!どうかね!」
と言いながら選手の成績表を見に行った。記録を見た帰りに
 「齋藤君!5位に入賞しているじゃないか!」
と言って喜んでくれた。先生も自分も驚いた。残念ながら,その当時,自分がどれくらいの記録であったか記憶にない。 図15の写真に大勢の陸上競技の選手が写っているが,彼等がいかなる競技に出場したか記憶にない。

図15 陸上競技部

 高校に入って体育の時間に「走り高跳び」の授業があった。篠崎君が自分の高跳びのフォームを見て
 「彼は走り幅跳びならすごく飛べるだろう。」と
言った。かれは「走り高跳び」の群大会の優勝者であった。自分のジャンプは平坦なカーブを描いていたのであろう。篠崎君の「走り高飛び」のフォームは背面跳びで,鋭角の放物線を描き,実に綺麗であった。因みに,走り幅跳びの優勝者は八鹿の薬局の息子の川瀬元君であった。彼は謙虚な男で,昔の自慢話などしなかった。

遠泳競争
 中学3年生の頃,夏休みに入る直前,学校の近くの円山川で遠泳競争があった。円山川の流が舟山に衝突し,川が蛇行し,流が停滞している箇所があった。川幅が広く成っている場所で格好の水泳場になっていた。川幅は50m以上あったと記憶する。川を横断してロープが張られ,途中に樽が何個か繋留してあった。遠泳競争途中に,息切れした者が休憩するためである。1往復すると100mである。
 女性軍の大半は2~3回で脱落した。男性群も7~8往復くらいで大半がギブアップした。自分が限界を感じた頃は,途中に繋留されている樽に掴まり,凌いでいる者が数人いた。
 自分は10往復程度,約1,000m泳いだ処で,ギブアップした。着替えて伊佐橋を渡って帰る時,遠泳競走場を振り返ってみた。未だ泳いでいる連中が数人いた。川瀬紀元君や加藤正義君等であっと思う。
 彼等は伊佐地区に居住しており,夏休みは舟山で泳いでいるのである。
 「舟山は彼等のホームグランドだから,止むを得まい。」
と思った。彼等はどれくらい泳いだであろう。
 自分は円山川の上流で,川幅のもっと狭い場所で,水遊び程度の水泳しかしていなかった。
 帰って兄に話したら
 「だらしない!もう一度学校に行って泳いでこい!」
と発破を掛けられた。

図16 円山川

下級生の謀反
 中学3年生が村の行事を取り仕切ることになっていた。地蔵盆には,各家から花を集め,集会所に祭壇作り,盆踊りの準備などみな取り仕切った。初盆の家庭からお酒が奉納される。このお酒は盆が終わったとき現金に換える。小中学生に謝礼として分け与えた。
 中学3年生の時,修学旅行と地蔵の盆の行事の準備期間が鉢合わせになった。
旅行から帰って来るなり,中学2年生が自分を集会場の一室に呼び出して
 「地蔵盆のお金の分配するイニシアティブを中学2年生に譲って欲しい。」
早い話,3年生は仲間にしないということである。理由は
 「中学3年生は,地蔵盆の準備で一番忙しい期間に修学旅行で留守をしたから」
と言う。上級生が隣の部屋から様子を窺っているらしく,隣の部屋から物音や話声が聞こえた。
自分は以下の3つのことを言った。
第一は
 「来年,お前達が中学3年生になった時に,2年生が同様のことを言ったら,
  お前等は納得が出来るか?」 
第二は
 「どうしても3年生を仲間にしないと言うなら。そうしても好い。その変わり,
  盆祭りの準備の間,3年生が修学旅行に行っていたから,といって,3年生
  は仲間に入れないと言うような薄情なものは,今後「秋祭り」も,「こと」
  の行事もお前等2年生は仲間に入れないからそのつもりでおれ」
第三は
 「以上2つのことを検討して,結論が変わらなければ、今年はお前達の言うこと
  を受け入れてやる。」
と言ってその場を去った。修学旅行に行っている間,村人や上級生が中学2年生に「くだらぬこと」をけしかけた。そのことが先生の耳にも入ったらしい。次の日の夕方,近所に住んでいた齋藤保先生が自分を呼び出して,ある村人の家を訪問した。
 「地蔵盆の行事は子供達皆が力を合わせてやっている事なので,黙って見守って
  いて欲しい。」
という意味のことを言われたと思う。その村人は平身低頭に先生に謝った。
 それ以降,全員で例年のように地蔵盆の行事を執り行う事になった。上級生にも意見されたか否かは不明である。
秋祭りは神社の境内で相撲大会を開く。この時も各家庭から「御花」と称して「献金」される。夜は「だんじり」と称する御輿を担ぎ,村中から「お花」を集める。これらの金は1年間,毎日,「夜警」に巡回した男女の小中学生に分け与えた。このお金を配分する作業は中学3年生の男の子に任された。他の何人も容喙することは無かった。分配に関する引き継ぎなどは全くない。全てその年々の中学3年生が独自に判断して,匙加減をしていた。先輩の中には,自分たちに厚く,下級生には薄く,配分した悪代官もいたようだ。
霜月の祭りは境内に火を焚き一晩中神社に籠もる。暗闇の中,境内の裏山を駆け巡って遊んだ。深夜12時頃,村人達が御馳走の入った重箱を供えに来る。皆でその御馳走を夜食として戴くのである。そして,深夜の3時頃から太鼓を叩きながら
 「爺(ジジ),婆(ババ),おきゃれ(起きれ)!おこわ(赤飯)がむせんぞ!」
と叫びながら村中を巡回したものである。
 
 一年間の最後の行事が二月の「こと」である。「こと」とは,その年,誕生した男の子を祝う会である。男の子の誕生した家庭が協力して,地区の子供達を集めて御馳走してくれるのでる。生まれた赤ん坊が地区の子供会への入会式のようなものである。
 中学生は世話をしてくれる家に,前夜から行って手伝いをする。夜中の「餅つき」である。村人の中に,海軍で「餅つき」を鍛えられたという人が居た。「餅つき」には何時もこの人が応援に来る事になって居た。中学生に力一杯,杵を打たせる。杵が餅を打つ寸前に餅を取り除く,中学生は空臼に力一杯杵を振り下ろすことになる。手がしびれる。海軍の「餅つき名人」は涼しい顔して餅を臼に返し
 「どうした!どうした!」
と気合いを入れる。この「空臼」を突かされない中学生は未だいないという事だった。
 次の日子供達が昼時に食事に来る。腹いっぱい御馳走になって,昨夜ついた餅をお土産に持ち帰る。
 この頃の村の小中学生を率いて統率力を養うことになったのである。餓鬼大将の経験が鉱山会社に入って,現場監督,係長,課長になった時も統率力が役に立ったのである。
神岡の社長時代の課長会で「優秀な課長になろうとするより,ガキ大将になれ!」と檄を飛ばしたことがある。

近所の秀才
 上小田地区で国立有名大学に入った人が2人いる。一人は前隣の米田忠生さんが,大阪大学の法学部,もう一人は4軒下隣の宮崎加寿弥さんが京都大学の工学部に入った。二人とも我が家の近所で,自分より3級上であった。
 米田忠生さんとは一緒に遊んだ覚えはないし,彼が遊んでいる光景も見たことも無い。彼の家は百姓であったが,手伝っている光景も見たこともない。勉強ばかりしていたのであろうか。
 小学生の頃,夏休みに入る前日に地区毎に集会が開かれた。議題は「夏休みの生活」についてであった。米田忠生さんが中学三年生であったので議長を務めた。皆に意見を出すことを求めた。誰も発表しないので,上小田地区担当であった,女の秋山先生が議長に何か助言をされた。米田忠生雄さんはそれを黙って聞いていただけであった。その後も意見は出なかった。その集会は如何に収束したかは記憶にない。兎に角,沈黙のうちに会議は終わってしまった。
 宮崎加寿弥さんには自分が小学生五,六年の頃,よく遊んでもらった。彼には弟が二人いた。隣近所に男の子が2,3人居た。いずれも彼より年下であった。一弥さんはそれらを率いて河原や野原で遊んでくれた。同級生は彼に「餓鬼大将」と渾名を付けていた。
 度々,一緒に映画にも連れて行ってくれた。インデアンの出てくる西部劇,ジャングルのターザンの物語,ロビンフット,三銃士等々であった。ある時この本はとても面白いといって「我が輩は猫である」を読んでくれた。自分には何が面白いか解らなかった。

大学受験
 高校時代の思い出は受験勉強をしたこと以外何も記憶に残っていない。兎に角近所の秀才に遅れを取りたくなかった。
 当時の八鹿高校は1学年約50名で10クラスあった。普通科は6クラスで,約300名程度であった。英語:数学:国語の実力試験(進学クラスの生徒が受験する)の成績で上位5位以内でないと,京大や阪大の一流校には入る可能性はなかった。自分の順位は20番前後であったと思う。
 学校から帰ると夕食迄の2時間は英語の復習を,夕食後の2時間は英語参考書を,その後2時間は数学を勉強し,夜は12時に床に就いた。このパターンを365日,3年間続繰り返した。それにも拘わらず,実力試験の順位はなかなか上がらなかった。数学はともかく英語と国語の成績が不出来であったように思う。結局,神戸大学の工学部を受験したが落第した。落ちても失望はしなかった。もう1年,力いっぱい受験勉強ができること,一日24時間,自分の好きなように時間が使えることが最大の魅力であった。我が家の経済状態からも予備校に行ける身分ではなかった。自分も予備校にいく気はなかった。何物にも拘束されないで,自宅で伸び伸びと勉強がやりたかった。
 大谷章君が慰めに来てくれた。酒を飲んだ。酔っ払って,平野先生に電話をした。その頃の電話は有線放送で,当事者以外にも会話が漏れ聞こえた。有線放送で大きな声で,わめいていたので,隣近所の人が驚いて,次の日母親に
 「キミ子さん!夕べは何事があったの?」
と聴いたくらいであった。平野先生も我が家に駆けつけて戴いた。今後の心構えなどを筆で書くつもりで書道を練習していたので,飲んでいる側に書道の道具が置いてあった。平野先生がそれを使って次のように書かれた。
 「雌伏三年」
 酔っぱらって居たので先生が筆で書かれる字を,一字,一字
 「めす!」「ふす!」「 さん!」「ねん!」
と読みあげた。後になって先生が
 「君たちは雌伏三年を “めすふすさんねん”」
と読んだねと大笑いされた。

文通
 中島昭光君は中学時代の友達である。彼は川崎重工業の私立の高等学校いわゆる養成校に入った。彼とは長い間,高校の1,2年の間くらい文通をしたと記憶する。
 どんなことを書いて居たか記憶にないが。彼に便りを出すこと,必ず返事が来る。これが楽しみであった。彼の家では牛を飼っていた。子牛が生まれた時,彼が作文に書いた。仔牛が見る物触れる物全て初体験である。その驚きを仔牛の立場で綴っていたと記憶している。実に見事な作文であった。
 又,彼は地理が得意であった。県境の最も多い県とか最少の県,日本の河川,世界の河川,世界の高峰,等々よく知っていた。理由を聞くと毎朝早く起きるがすることもなく,読むべき本も無かった。地図ばかり眺めていたそうだ。
 後年,川崎重工業を訪れる機会があった。営業のため神岡鉱業によく訪れた阿部さんが
 「会うように準備いたしましょうか?」
と言ってくれたが断った。
 神岡鉱業所にも三井金属の私立鉱山高校があった。近隣の俊秀が集まった。公立の船津高校に合格した者が,次の年に鉱山高校に入り直す人もいた程である。川崎重工業の場合はもっと広い範囲から俊秀が集まって来たと思う。鉱山高校卒で優秀な人は管理職に抜擢された。ところが養成校の卒業者はシステム上,決して抜擢されることはないと聴いた。それでは彼は未だ工員であると聞いた。中島敦の「李亮」の一節を思い出した。
 「蘇武の己に対する態度の中に,何か富者が貧者に対するときのような,己の優越
  を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じた。」
とても自分から会う気持ちには成らなかった。
後で,そんなこと考えずに,フランクに会っておけば良かったと思った。

浪人
 浪人生活1年目の最初の頃は,まるで梟の生活であった。予備校には行かず自宅浪人である。隣家が電気屋で昼間は騒々しかった。それで,昼は寝ることとし,夜静かな時に勉強することにした。朝6時頃寝て昼12時に起床,午後から夜を徹し勉強し朝6時に就寝する。この梟の生活は12月頃まで続いたと思う。受験の時期が近づくと徐々に通常の生活時間帯に合わせた。
 娯楽はたまに映画を観ることと囲碁を打つことであった。同じ上小田地区の齋藤正寛君も自宅で浪人していた。偶に小生宅に気晴らしに遊びに来た。その時は,決まって徹夜で語り込んだ。
彼に誘われて市川右衛門の「旗本退屈男」等の娯楽作品を見た。

図17 浪人1年生

 囲碁の相手は,向う隣りの秀才米田忠雄さんのお父さんこと「みのるさん」である。月に1,2回は対局した。又,平野先生が時たま陣中見舞いに来てくれた。その時は囲碁を打った。実力は互角であったと記憶する。
 勝負が終わると勝った方の碁石を畳の上に1個並べる。「旗本退屈男」を真似て一手打つごとに,
 「この謎は深い!」
と言って相手の出方を待った。実は謎など全くない。単なる“アタリ”を打っても
 「この謎は深い!」
とお互いに言った。勿論,深い謎が秘められた“手”も偶に打った。夜を徹して打ち,明け方には互いに出し合った碁石が一直線に並び,畳の端から端まで横断して並んでいた。二人でそれを眺めて大笑いした。

村上鬼城
 受験勉強で外部からの刺激が無いと気がゆるむので,旺文社のラジオ講座を聴いた。放送時間は夜遅くの時間帯であったと記憶する。
 国語の講座で村上鬼城の俳句が掲載されていた。村上鬼城という俳人を始めて知った。
    痩せ馬の 哀れ機嫌や 秋高し
 丸々と太った馬が,秋晴れの日に,元気よく駆け回っている姿は見るからに頼もしい。しかし,痩せ馬よ!お前が機嫌良く飛び回っていると,かえって哀れをもよおすね!
という解説であった。自分の浪人生活を歌っているようである。村上鬼城に興味を持ち少し調べた。
 因幡鳥取藩士の長男として江戸藩邸に生まれ,鬼城は8歳の時、家族とともに江戸から高崎に移ってきた。ここで波乱万丈とも言える人生を送ることとなる。幼少からの耳の持病に悩まされ,人一倍努力したにも拘らず,軍人,政治家,弁護士の職を次々と諦めざるを得なくなる。やっと高崎裁判所の代書人に就いたが,ここでも耳が不自由なために依頼人が付かず,職を解かれてしまう。この間、二男八女の子を持っていた鬼城は,困窮の極みであった。
 その状態を知った中央俳壇の名士達が、裁判所に掛け合った結果,鬼城は再び復職することができたという。
 多くの子女を抱えて貧困と不遇の生活に甘んじ,動物に哀憐の目を注いだ独特の境涯句は,大須賀乙字(おおすがおつじ)の激賞を受け,一躍俳名があがった。その後,愛知県発行の俳誌『山鳩(やまばと)』の選者に迎えられ,浅井啼魚(ていぎょ)らの尽力で大阪に鬼城会も発足し,生活もしだいに安定した。
その他の句に
   五月雨や 起き上がりたる 根無し草
 根っこの付いていない,名もない草が,うち捨てられていた。俄に五月雨が降って来たので,あたかも根っこがあるかのように起き上がってきた。五月雨が上って晴れてくれば,再びしおれる運命にあるのだが。可哀相だな!
   行く春や 憎まれながら 三百年
 若干25歳の名君内匠頭は,桜散る春に哀れにも切腹した。大石内蔵助が仇討ちを果たす。約300年もの間「忠臣蔵」が上演されてきた。そのたびに吉良上野は憎まれ役であった。吉良さん!あんたは,3百年間,みんなに嫌われてきましたね。誰一人あなたに同情する人はいない。ほんとにあんたは不幸な人ですね。御同情いたしますよ。
   鷹老いて あわれ烏と 飼われけり
 若い頃は勇ましい企業戦士の頃,みんなにちやほやされてきたが,今頃は,年老いて大した働きも出来なくなると,有象無象と一緒に,窓際に座っている。
   鷹のつら きびしく老いて 哀れなり
   生きかわり 死にかわりして うつ田かな
   冬蜂の 死にどころなく 歩きけり
   何の彼のと 銭がいるなり お正月
   今日の月 馬も夜道を 好みけり
   露寒く 生き残りたる いなごかな

藤記先生
 藤記先生を思い出す度に,何故か漱石の小説「こころ」を思い出す。「こころ」の先生も子供はいなかった。藤記先生宅も子供三はいなかった。その境遇が似ているからであろうか。「こころ」の主人公の先生は名無しの権兵衛で,最初から最後まで「先生」である。藤記先生は「藤記義一」という列記とした名前を公表し得るのである。先生は自分のことを「修二君」と言われた。此まで,自分のことを「修二君」と言ったのは,先生が唯一人である。大概は「齋藤君」か「修ちゃん」である。
小生が神岡鉱業の社長になった時も「修ちゃん」と愛称で呼んでくれる従業員がいた。
 そうだ,先日平野先生から戴いた手紙に「修二君」と書いてあったのをおもいだす。何れにしても新鮮な呼び名に感じた。
夏の頃,兄の勤務する国立三田病院に遊びにった。兄の最初の勤務地であった。隣の官舎に藤記先生が住まわれていた。夫妻だけで子供さんは居なかった。先生は囲碁やバイオリンを嗜まれ,物静かな人であった。時々,招かれ,先生と兄と三人で囲碁を楽しんだ。囲碁の実力は兄が少し強かったが,先生と小生はほぼ互角であったと記憶している。
 奥さんは背の高い綺麗な人であった。我が田舎ではとても見ることの出来ない程であった。奥さんは料理が得意で,時々我々兄弟を招待して,沢山の御馳走をして戴いた。
 田舎に帰って藤記先生と奥様に長い文章の礼状を書いた。先生に対する印象も書いた。奥さんが大変感心し,喜んで返事を戴いた。達筆な草書体で書かれているので,どうしても独力で全てを解読するには至らなかった。親父に読んでもらった。このことが縁で,以後お付き合いをして戴き,自分たちの結婚の仲人になって戴いた。

父の死
 受験の直前の1月の寒い日に父が亡くなった。朝トイレに起きた時,母が台所に立って忙しそうにしていた。
 「修ちゃん!お父ちゃんが今朝亡くなったよ。でも心配しなくてもいい。勉強して
  大学の受験をするように。」
と励ましてくれた。1月の寒い朝であった。受験勉強が忙しくて,親父のことなど全く気にしていなかったので青天の霹靂であった。しかし,父は高血圧が原因で,ここ2~3ヶ月の間に,1,2度,発作を起こして倒れたことがあったと後で聞かされた。
それが死の前触れであったかもしれない。
 父の晩年は恵まれぬ生活を送っていた。それは自業自得かもしれない。大人しく役場に勤めていればいいものを,自己都合退職をしたのである。その理由は聞かされていないが,勤務中に料亭で囲碁に興じたことがあり,示しがつかなくなったことが自己都退職をした理由ではないかと思われる。享年56歳であった。せめて自分が大学に合格するまでは頑張っていて欲しかった。ある隣人が来て炬燵に入り
 「息子がああした,こうした。」と
自慢しているのを,じっと我慢して聞いていた姿を思い出す。

父の思い出
 日和山海岸

 小学生の頃,英子姉,すなを姉と自分の3人を日和山海岸に連れて行って貰った。料亭の一部屋に案内された。昼ご飯を食べた跡親父は昼寝をしていた。子供達は岩場で遊んだ。竹野浜なら海水浴場だからもっと楽しかったのに,どうして日和山海岸であったか不明である。
 ¶ 中学校の試食会のこと
   学校が所有する田圃に皆で田植えをすることが慣例になっていた。稲の収穫の
   時期に試食会と言って,収穫した米で「炊き込み御飯」等の御馳走を,中学生
   全員が講堂で会食をすることになっていた。その時に,大豆を持参する事にな
   っていた。自分はそれを家から持ってくることを忘れたのである。
 齋藤保先生が授業中に
 「齋藤君!親父さんが大豆を持ってきたよ!」
と大きな声で言った。皆,笑った。恥ずかしかった。
 「わざわざ,大の男が大豆一合ぐらいをぶら下げて来なくてもよいものを,明日
  でも良かったのだ。」
 「先生もそんなつまらぬことをみんなの前で,大声で言わなくても良さそうなも
  のだ。」
 しかし,親父は別の魂胆があった。授業が終わって廊下を歩いている時,宿直室で飯野校長と囲碁を打っている光景をちらりと見た。親父はそれが目的なのであった。

 ¶ 父兄懇談会のこと
   高校2年の参観日に父が来た。珍事である。小学校,中学校を通じて学校参観
  日に父が学校に来たことは一度もなかった。担任の佐藤先生から
   「お宅のお子さんは良くできる。」
  と褒めて貰って喜んでいた。自分は学校の成績など眼中になく,実力試験で少な
  くとも10位以内に入ることを目標にしていたから,通知簿が多少良くても満足
  できなかったのである。

 ¶ 親父に叱られたこと
   父が亡くなる直前の事だったと思う。母と3人で昼食をしていた。母が
   「台所辺りが暗いから,蔵を裏庭の方へ引いて」
  と話していた。自分も何か意見を述べた。親父は
   「たとえ家がひん曲がっていようと,子供には勉強をさせようと思っている
    のだ。余計なことを言うな!」
  と激怒した。親父に叱られたのはこの時くらいである。

 ¶兄の帰省
   兄が国立三田病院に勤務している頃である。休暇を取って帰省する知らせが
  あった。八鹿駅には夕方着く予定であった。汽車が八鹿駅に到着する頃,父は
  2~3分おきに玄関に出て,兄の帰ってくる八鹿駅の方を眺めていた。兄は長
  い間病床に伏していたので,兄の「藪入り」が余程うれしかったのであろう。

合格発表
 大阪大学の医学部を受験した。試験はとてもよくできた。宿から母に,
 「試験は良くできたので,合格は間違いなし」
と便りを書いた位であった。
 当然,合格している事を前提に,大阪の伶子姉の所に宿泊し,合格発表を見に行くことにした。
 大阪大学の池田分校で発表されるので,阪急電車に乗って,姉と二人で発表の会場に赴いた。医学部の発表会場に大勢の人が集まって居た。廊下に合格者の受験番号が発表されていた。受験番号順に発表してあった。自分の受験番号の位置を探した。
 「無い!」
 再び最初から最後まで見た。それでも見つからない。
 「そんなバカなことはない。」
繰り返し,繰り返し探した。そのうち姉が
 「修ちゃん!もう帰ろう!」
と声をかけてくれた。止むを得ず帰途に就いた。駅の途中までトボトボと歩いた。どうにも合点がいかない。
 「もう一度発表会場に引き返し,確かめてくる。」
と言って,会場に向かった。姉は呆れた顔して,しぶしぶついてきた。丹念に探したけれど,やはり自分の受験番号を見つけることは出来なかった。

再び浪人
 大阪大学の不合格ショックは大きかった。暫くは勉強する気にはならなかった。母親の野良仕事の手伝いをしていた。体を使うのでよく食べよく寝た。一生涯,百姓で暮らしても好いと思う位であった。夕食の済んだ後,母は疲れてテレビを見ながらうたた寝をした。実にうらやましいと思った。
 母は2年も浪人させるわけにはいかない。就職するように勧めた。幸い,浅間の宮崎さんが,八鹿の職業安定所の所長として赴任してこられた。宮崎さんは親父が親しく付き合いをしていた人だという。彼に頼んで就職を斡旋して貰らったら如何かということで,職業安定所に行った。宮崎さんは
 「川崎重工業が募集しているので紹介する。応募する気があれば,履歴書を持参す
  るように」と
言われた。付け加えて,
 「川崎重工業に就職した場合,大学受験はきっぱり諦めなければならない,就職し
  てから,密かに受験勉強をするようなことが在ってはならない。」
とも言われた。早速履歴書を書くため机に向かった。筆が進まない。何時間もかけてやっと出来あがった。履歴書を持って,自転車で八鹿の職業安定所に向かった。

図18 円山川を見つめて

 「高築地(たかついじ)」まで来た時,円山川の流れを見ながらわが行く末を考えた。長い人生で僅か1年のことで,将来が大きく異なる。どうしても,もう一度大学受験に挑戦させて貰いたい。帰って母に頼んでみようと,自転車をくるりと回転させ帰宅してしまった。履歴書は宮崎署長に届かなかったのである。母は
 「宮崎さんに申し訳ないことをした。」
と情けない顔をしていた。
 今度受験に失敗したら就職するように,国家公務員初級の資格を取ることを条件に,再度の大学受験の挑戦を許してくれた。

母の昔話
 家には兄弟姉妹合わせて6人居たが,その頃は妹と自分の二人だけが残った。妹は高校1年に入ったばかりであった。妹は学校に通っていたので,昼間は家には母と自分の2人だけであった。此の頃,母の昔話を度々聞いた。
 母の里は神鍋山で,両親はスキー客を目当てに民宿をしていた。母は兄弟が多い中,長女であった。小学を卒業すると弟や妹の子守りをさせられた。自分の将来を危ぶみ,親の反対を振り切って,京都府立医大の看護学校を志願して京都に出た。看護学校を受験するには,高等科を卒業していなければ成らなかったが,学歴詐称で受験し,合格してしまったのだ。松原通にある加藤医院に住み込み,看護婦の見習いをしながら看護学校に通った。看護学校は今出川通りと丸太町通りの中間地点にあり,加藤医院は松原通りにあったそうだ。通学は通常は電車を利用したが,電車賃を節約するため歩いたこともあった。その時は,歩きながら「京の通りの名」の歌をくちずさんだ。
 まる,たけ,えびす,に,おし,おいけ,あね,さん,ろっかく,たこ,にしき,
 し,あや,ぶっ,たか,まつ,まん,ごじょう,せったちゃらちゃら,うおのたな,
 ろくじょう,さんてつ,とおりすぎ,しちじょう,こえたら,はち,くじょう,
 じゅうじょう,とうじ,とどめさす。
 因みに,「京都の通り名の歌」の意味は,以下の通りである。
   まる      丸    丸太町通り
   たけ      竹    竹谷町通り
   えびす     夷    夷川通り
   に       二    二条通り
   おし      押    押小路通り
   おいけ     御池   御池通り
   あね      姉    姉小路通り
   さん      三    三条通り
   ろっかく    六角   六角通り
   たこ      蛸    蛸薬師通り
   にしき     錦    錦小路通り
   し       四    四条通り
   あや      綾    綾小路通り
   ぶっ      仏    仏小路通り
   たか      高    高辻通り
   まつ      松    松原通り
   まん      万    万寿寺通り
   ごじょう    五条   五条通り
   うおのたな   魚の棚  魚の棚通り
   ろくじょう   六条   六条通り
   さんてつ    三哲   三哲通り
   しちじょう   七条   七条通り
   はち      八条   八条通り
   くじょう    九条   九条通り
   じゅうじょう  十条   十条通り
   とうじ     東寺   東寺通り
 加藤医院で朝食の後,薬を処方していると無性に眠くなったそうだ。この性癖は自分にも遺伝した。朝食後,机に向って勉強していると無性に眠くなった。
加藤医院の御子息が京都大学の建築科に通っていた。背の高い格好のいい人だった。
 「お前も,京大に入れるかね!」
と冷やかした。
母が加藤病院にいた頃,弟の誠治さんが芦屋から姉を訪ねて来た。10歳そこそこの子供が独りで芦屋から歩いて来たのだ。姉の顔を見て途端に泣いた。
 「兄弟の中で自分一人だけ,幼くして丁稚奉公に出されたのが情けない。」
と言って泣いたそうだ。
 嫁に来た時,齋藤家は裕福であったそうだ。親父は役場に勤務,母は産婆,お祖母さんは髪結いをしていた。三人の現金収入があった。その上,小規模ながらも地主であったので,収穫の頃は,庭に米俵が積み上げられていたという。
 お祖母さんが家事の遣り繰りをしていたせいもあるが,親父の給料など貰った事も見たことも無いという。それぞれが稼いでそれぞれが自由に使っていたそうだ。
 長男の健一さんは車夫をしながら立命館の夜学に通っていた。柔道で肋骨を骨折し,暫く我が家に奇遇していた。
 「今に自分の書いた小説が八鹿劇場で上演される。」
と吹聴していた。
 当時は,縁側で裁縫していると,家の前の通りを馬車が鈴をならして通っていたという。長閑かな村の風景である。
 ところが時代が変わり,自分が浪人していた頃には,家の前の通りは自動車が頻繁に走るようになった。その喧噪が囂しいので,通りと家の間に板塀を設け,縁側の戸は閉め切っていた。それでも家の中に自動車の走る喧噪が喧しかった。文明の利器が長閑な村の風景を破壊したのである。
 我が家の家運が傾きかけたのは何時頃のことであろうか。親父は役場に勤務をしていたが,何かの理由で辞めることになった。親父が役場勤めのサラリーマン止めて自営業を始めてから,以後家運が傾き始めたらしい。自分が小学二年生頃であろうか?

背水の陣
 これまで通りの勉強方法ではこれまで通りの結果になってしまう。勉強方法を変えようと考えた。受験参考書と問題集はこれまで十分に勉強してきた。英語,数学(Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ,)国語,物理,化学,日本史,世界史の8科目の内,化学,日本史,世界史は暗記物だから問題はない。強化すべきはやはり英語,国語それに物理である。これらに対し
 第一に
  Z会の通信添削に入会し,英語・数学・国語の実戦問題に取り組み,受験テクニ
  ックを習得する事にした。毎月送られてくる問題は何れも相当骨の折れる問題で
  あった。特に国語が難しかったように思う。一週間程度かけて回答した。添削さ
  れて帰ってくる答案を見るのが楽しみであった。英語と国語の実力がメキメキと
  付くことを自覚した。
 第二に
  英作文が不得意であったので村井・メドレー著の
  「THE NEW ART OF ENGLISH COMPOSITION」
  の三巻の内2巻を丸暗記する。
  毎朝1時間くらいこの本を読み,暗記した。半年くらいで1巻の丸暗記が終了し
  た。50年経過した今でも最初の2,3ページの文章は口から出てくる。2巻目
  は丸暗記が出来なかったが,繰り返し読み,半分くらいは暗記した。3巻は二,
  三回読んだのみである。結局,丸暗記は1巻と2巻の半分程度であった。それで
  も英作文にはかなりの自信が着いてきた。
 第三に
  これまで物理の計算問題を系統的に勉強したことはない。この対策として「物理
  根底500題」を底的に習得する事であった。Z会の会誌の受験体験談に紹介さ
  れた参考書であった。物理の計算問題が殆ど網羅されており,基本的な問題を扱
  っているにも拘わらず難しい問題にも応用がきく仕組みになっていた。
 夏期の熱い期間は神社の境内で勉強した。神社の境内で勉強することは勇気のいることであった。机と椅子を境内に運びたいのだが,母は
  「村の人がいい噂をしない。」
と反対して手伝ってくれない。兄が三田から帰省した時,手伝って貰い机と椅子を境内に運んだ。夏期のスケジュールは以下の通りである。
   7時:起床,7時半には食事終了。
   7時半:境内に向かう。
   8時~11時:境内で勉強。
  11時:境内から帰宅。
  12時:昼食。
  13時:境内に向う。
  13時半~18時:境内で勉強。
  18時:境内から帰宅。
  19時:食事。
  20時~23時:土蔵の中で勉強。
  12時:就寝。
 秋風が吹き境内が寒くなってきた頃は,家で勉強することにしたが,隣の電気屋が騒々しいので,一日中,土蔵の中に入って勉強した。土蔵の中は,
 「夏は涼しく冬は暖かい空間である」
ことが解った。
 夏が終わる頃,国家公務員の初級の化学職を受験し,管内2位で合格した。管内で2位であったのが気に食わなかった。自分は2年も浪人して勉強している。他のものは現役の高校生のはずである。1位になってしかるべきである。兎に角,母との約束を果した。

大工の孫
 秋風の吹く頃。離れの二階の部屋を,冬でも快適に勉強出来るように改造する事を思い立った。自分が勉強している離れの2階は床の間と押し入れが部屋の東側にある間取りであった。南の窓側に机を置いて居るのだが冬は寒い。
 床の間に,ベツト,掘り炬燵,勉強机の三点セットが収める様な案が頭に浮かんだ。設計図など作らずいきなり工事に取りかかった。材料は母屋の三階に松材が置いてあった。お爺さんが大工であったので,松板を沢山保管していたのである。親父は大工の息子であったが,不器用であったのか,無精であったのか,大工仕事等全くしなかった。遊びに来る村の人は皆
 「たっちゃん」は大工の息子なのに!」
と嘆いていた
 ベツトは「床の間」に,40cm位の高さに,三階に保管してある松板を並べる,掘り炬燵はベットの先端を切り落として作る計画である。先ず,畳を挙げて,全て隣の部屋に移した。これまでの勉強部屋が大工場に変身した。
 三階の松板は,余りにも長い年,乾燥させてあったので,堅くて鉋のはが立たない。川に2,3日浸けておくと好いと教えてくれた。が裏庭で水をかる,雑巾で拭く,また水をかける,を繰り返した。しかる後に鉋をかけた。夏の暑い日で汗だくになって鉋をかけた。やっとの事で松板鉋かけが終わり,加工材が仕上った。



 ベツト作りは床の間の柱に横木を打ち付け,板を並べるだけで簡単に出来上がった。掘り炬燵はベツトの先端を50cm程度切り落とし,南側の壁に向く形で作った。机は掘り炬燵の天台と兼用にし,横幅は「床の間の幅」,即ち,90cm位で机には丁度好い幅であった。机の上部には本棚も設置した。
 所要時間は2日か,せいぜい3日で出来上がった。大工の孫躍如たるものである。しかし,こんな非常識な改造をして,当然母に叱られることを覚悟していた。
 大きな音がするので母が
 「修ちゃん!何をしているの!」
と訝った。
 「チョット棚を作っているだけ!」
と答え詳しくは説明しなかった。母はそれきりで二階には上がって来なかった。父が生きていればこの改造は出来なかったと信じる。因みに,図面の右隣の部屋は兄が病床に伏していた部屋である。浪人一年生の時と同じように土蔵の中で勉強をすれば好かったのであるが,何故か気分を変えてみたかったのである
 冬には母が熾してくれた練炭を,自家製の掘り炬燵に入れた。冬の寒い日も暖かく勉強が出来るようになった。
 大工の息子である親父は大工をしなかったが,孫息子は立派に大工をしたのである。親父は草葉の陰で
 「如何に思っているだろうか」
自分の使った松材について,兄に訊ねたら
 「あの松材は親父が蔵の床を張り替えるために保管していたが,張り替えの工事費
  の工面が出来なかった。」
そうである。
 母屋家は後を継いだ兄が建て替えた。蔵は母の念願通り,裏庭の方に移動した。但し,蔵の床は未だそのままになっている。張り替え無くとも,持ちこたえているようだ。
 蔵は今では無用の長物となっている,親父は
 「買っておいた松材を好く有効利用してくれた。」
と感謝しているに違いない。
 この勉強部屋を改造した結果,冬期間も暖かく勉強が出来るようになったのである。

読書
 国語の勉強のため文学作品を読んだ。というよりも受験勉強が嫌になって文学作品に逃避したという方が正確である。
 浪人1,2年を通して読んだ本は,主に鴎外・漱石・龍之介の作品である。
  鴎外の舞姫,雁,阿部一族,妄想,寒山拾得。
  漱石の草枕,こころ,三四郎,満韓ところどころ,思い出す事など,硝子戸の中。
  龍之介の鼻,朱儒の言葉,芋粥,羅生門,藪の中,地獄変,河童,大導寺信輔の
  半生。
  三木清の人生論ノート。
  長塚節の土。
  中島敦の李陵。
  天野貞祐,阿倍能成の随筆。
  阿倍次郎の三太郎の日記。
 中でも漱石の「草枕」や三木清の「人生論ノート」それに龍之介の「朱儒の言葉」等は繰り返し読んだ。
  古典では土佐日記,枕草子,源氏物語,更級日記,今昔物語,平家物語,方丈記,
  徒然草,奥の細道,雨月物語等。
 国語の受験参考書として,
  藤村作の國文学史總説,
  小西甚一の古文研究法等である。
 古典の,土佐日記,枕草子,平家物語、方丈記,徒然草,雨月物語等の目ぼしい件(くだり)は暗誦するまで読んだ。
 最近,近所の本屋に立ち寄った時,小西甚一の「古文研究法」を見つけた。小西甚一の「古文研究法」は50年以上も前に受験参考書として著述されたものであるが,未だに店頭に並んでいた。小西仁一氏は初版を出版した際,
 「自分の書いた本には,どこまでも責任を持ちたい。」
と約束された。その通りのことが実行されていることに大いに感激した。余りに懐かしかったので1冊購入した。初版が1955年(昭和30年)で2009年2月25日(平成21年9月25日)が改訂106版発行となっている。実に54年間不備な点を修正し続けてきたのである。
 なお「古文研究法」は大学受験者向けに書かれたものであるが,単なる受験参考書を超えた国文学入門書としてファンが多く,ロングセラーとなっているそうである。

「やっちゃん」
 木下康夫君のことを「やっちゃん」と呼んでいた。下小田に住んでいた。自分と同様腕白坊主で大の仲良しであった。学校の帰りに「やっちゃん」の家でよくあそんだ。
 伊佐橋と里屋の間は道の両側は田圃である。小学1,2年生の頃,学校の帰りに彼と二人で,
 「自分たちより早く帰ると,田圃の中に突き落とすぞ!」
と宣言した。女の子は怖がって,先に走って帰ろうとする。それを追っかけて,道の両側の田圃に突き落としたことがある。
 この話は何故か自分が一人でやったように噂された。以後,腕白坊主と言う悪名が村中に轟くようになった。「やっちゃん」は噂にはならなかった。彼は小学5,6年生の頃,学級委員長になるなど,急に優等生に変身した。
 中学生の頃は勉強の良きライバルであった。英語や国文法を彼と競いあった。英語は「やっちゃん」の方が好くできたが,数学は自分の方に利があったと思う。
 高校に入ってから,数学,特に幾何学の問題が解けないといって,自分の家によく訪ねてきた。幾何学の問題を解くには,理論でなく,「ひらめき」が必要なことが多いのである。
 高校在学中に腎臓を悪くして休学した。「やっちゃん」の家に何度か見舞いに行った。新築された離れの部屋が彼の病床となっていた。自分が浪人している頃,八鹿町のキリスト協の教会に通っていた。小生も誘われて,1,2度,協会に行った。牧師さんは外人であった。英会語の勉強のつもりで牧師さんと英会語の練習をした。
 八鹿のキリスト教の教会の帰りに,我が家で食事を共にした。彼は食事の前にお祈りをした。母は「やっちゃん」のお祈りを聞いて驚いていた。「やっちゃん」と話したのはこれが最後であった。ささやかであったが最後の晩餐となってしまった。彼がその後どのような人生を歩んだか定かでないが,「やっちゃん」は,幼い女の子供を残して夭折したと聞く。

母の御馳走
 1月頃,受験勉強がいよいよ佳境に入った,母が
 「栄養を付けて風邪は引かんようにせんな!」と,
2軒下隣の魚屋から庶民の魚である「ハタハタ」「鯖」「鰺」等を買い求めて食べさせてくれた。鶏肉で「すき焼き」を作ってくれた。その頃,我が家の家計はどうなっていたのか解らない。農家だから,米や野菜は買う必要はない。魚屋の買い物はすべて「御通い帳」で買い求める。「御通い帳」に溜まった借金はどうして支払ったのであろう。親父が
 「たとえ家がひん曲がっていようと,子供には勉強をさせようと思っているのだ。
  余計なことを言うな!」
と怒ったのを思い出す。
 ある朝,歯磨きをしながら,鶏小屋の中を覗いていた。
確か.6~7羽いたはずの鶏が2,3羽減っているのに気がついた。
 「どうしたのだろう?」
隣家も同様に鶏を飼っている。小屋から出した時,隣の小屋に紛れ込んでしまったかも。母に問い正そうとした。しかし,その前に,思い当たることがあった。少なくなった鶏は,度々作ってくれた鶏肉の「すき焼き」になってしまったのだ。お陰で風邪も引かずに受験の日を迎えることができた。
 志望校は京都大学の工学部にした。理由は,浪人している自分は,現役に比べ時間が十分にあるので,受験科目数が多い京都大学が有利と判断したのである。

最後の受験
 受験で京都に出発する日,母は風邪を引いていた。寝床の中から起き上がれる状態で無かった。元気のない声で
 「見送ってやれないが,頑張って来るように,又,これが最後の大学受験のだから
  失敗しないように!」
と送ってくれた。
 京都での宿は,同じ地区に住んでいる田村さんの親戚に世話になることになった。
田村さんの次男が京都でうどん屋をしていた。兄と同級生で通称「ノボサン」と呼んでいた。弟の「田村力さん」は通称「チカさん」と言って自分より三つ年上で,兄の「ノボサン宅」に寄寓し,立命館大学の法学部に通っていた。
 「ノボさん」が受験の前日,英気を養うため大徳寺の境内など散歩してはどうかとアドバイスしてくれた。
 試験の出来具合についての記憶はほとんどない。昨年の阪大の入学試験のように浮かれた気持ちはなかった。
 試験が終わったとき「チカちゃん」が新京極に寿司を食べに連れて行ってくれた。新京極通りを一つ東に入った通りに赤い大きな「提灯」をぶら下げた店であったであった。一皿20円の握り寿司屋であった。今で言う回転寿司である。実にうまかった。合格した暁にはまたこの寿司屋に来ようと思った。
 寿司屋を出て新京極のすき焼き屋の「翁亭」あたりの広場で「ガマまの油売り」が口上を述べていた。油売りが
 「皆さんの過去の経験,将来の運命など何でも当てる。一つ試してみませんか」
と宣った。「チカさん」が
 「修ちゃん!試験の結果を見てもらおうよ。」
といって手帳を枚破ってなにやら書いて,油売りに渡した。油売りは
 「それ!いらっしゃった。」
 「どれどれ!」と
チカさんの渡した紙を広げて読みあげた。
 「試験の結果はどうか?」
 「試験を受けた方はどなた?」
チカさんが自分を指さす。油売りは自分の顔をジロリト見る。
 「それでは皆さん!ずばり百発百中で当ててみよう!」
 「他に占ってほしいことは無いかね!」
自分は怖くなってチカさんに
 「もう行こうよ!」
と彼の手を引っ張った。チカさんはなかなか動かない
 「聞いてゆこうよ」
と悠然としている。
 「それじゃこの試験の結果を当ててみましょう!」
と,今まさに次の言葉が発せられる瞬間,自分は耳をふさいで駆けだした。チカさんは笑いながら,後から悠々とついてきた。

合格発表の日
 大学受験の最後のチャンスなので二期校の名古屋工業大学を受験することにしていた。これまでの年間で,二つの大学しか受験をしていなかった。現役で神戸大学,一年浪人で大阪大学である。京都大学の合否の発表は3月21日で,二期校の受験日が3月22日であった。京都大学の合否を確認するや否や,名古屋に出発することにしていた。夕方5時になっても合否通知の電報は来なかった。母は,自分が名古屋に行くための弁当を作りながら
 「修ちゃん!名古屋に行く準備をしないと間に合わなくなるよ!」
と言う。
 自分は京大の発表が来るまでは,名古屋に行く準備をする気が湧いてこなかった。京都大学に合格しれなければ,大学は諦めて,就職してもしょうがないという気分になりかけていた。

図21 電報を待つ家族

 結局,受験生活3年間の間,受験した大学は神戸大,大阪大,京都大の三つだけである。
 兎に角何処でもいいから入りたいという気持ちはなかった。むしろ,気に入らない大学に行くくらいなら就職した方がましだと思っていた。
 その日,何故か兄が勤務先の三田から帰っていた。姉の英子,姉のすなを,妹の瑞子がいた。同席していなかったのは姉の伶子だけであった。皆,炬燵に入って電報を待って居た皆が
 「修ちゃん!どうする!準備しないと間に合わなくなるよ!」
と名古屋行きを促す。
 18時頃,
 「電報です!」
と郵便局の配達人が入って来た。私は配達人から,素早く電報を受け取って,誰にも見せないように隠した。自分一人で確認し,しかる後に皆に披露するつもりであった。
 兄は小生が配達人から受け取る場面を見ていた。そして
 「合格しているよ!」
と言った。
 「電文を見ないで,そんなこと解るものか。」
と思いながら,誰にも見られないように,皆に背を向けて電報を開いた。電文は
 「ゴ ニュウガ クオメデ トウゴザイマス」
であった。兄は
 「配達人が修二に渡した時,封筒の模様が折鶴であったので,合格だと解った。」
という。自分は封筒の模様など目に入らない。その中に入っている電文の内容ばかりを気にしていた。後にして思えば配達人が電報を私に渡す時、妙にニコニコとしていた。配達人は例え電文の内容を知っていても
 「合格していますよ!」
と言って渡す訳にはいかないのである。
 早速,京都で受験の宿を世話して戴いた「田村ノボサン」の親家に走って行き,合格の報告と御礼を述べた。お父さんも一緒に喜んでくれた。その夜は家族揃って御祝いの酒盛りをした。

京都大学入学
 合格の電報を受け取った時の喜びが過ぎ,二,三日経つと,空しい気持と,不安が襲った。

図22 喜びの顔

 大袈裟に言えば,「芋粥」の主人公,「五位の某(なにがし)」と同じ気持ちである。
五位の某(なにがし)は
 「芋粥を飽きる程飲んでみたい。」
と長年夢想していた。ある時,敦賀の豪族藤原利仁が,饗宴で
 「お望みなら,利仁がお飽かせ申そう。」
と,五位を敦賀に案内する。
 彼の邸宅に着くと,若い下司女が五斛納釜を五つ六つかけ連ねて芋粥を作っている。その景を見て,五位は「芋粥に飽かむ」事が,こうも容易に事実となって現れては,折角今まで,何年となく,辛抱して待っていたのが,如何にも,無駄な骨折りのように,見えてしまうのである。又,敦賀に来ない前の彼自身を,なつかしく,心の中で振り返った。それは,多くの侍たちに愚弄されている彼である。京童にさえ
 「何じゃ。この赤鼻めが」と,
罵られている彼である。色のさめた水干に,指貫をつけて,飼い主のない尨犬のように,朱雀大路をうろついて歩く,憐れむべき,孤独な彼である。しかし,同時に又,芋粥に飽きたいと云う欲望を,唯一人,大事に守っていた幸福な彼である。


下宿生活
 最初の下宿は白梅町の和田家であった。「すなを」姉が勤務している上司の紹介で下宿が決まった。この下宿は八鹿高校の先輩で京都府立医大に入った岡本卓也さんが下宿していた。彼がこの春卒業したのでその後釜として入った。彼は私の3級上で,八鹿高校の実力試験は常に1位であった。
 この下宿は二食付きで,1か月6500円であった。白梅町から百万編まで市電に乗って通学した。途中の「同志社大学前」までは学生たちで何時も混雑した。同志社の大学生のみならず,付属の高校生もいたからである。梅雨の時期は水滴の付いた傘に接触し,ズボンがひどく濡れてしまうのでうんざりした。下宿には男の中学生と女の小学生の二人がおり,日曜日には二人の家庭教師をした。お父さんは京大の工学部の事務課に勤めていた。お母さんは保険の外交員をしているようであった。
 自分の入学試験の成績がどれくらいの成績であったか調査可能であると言った。早速調べて貰うよう依頼した。京大は入学試験の時,工学部の何々学科と専門課程をも決めて受験し,第一志望から第二志望に移るには,合計得点の1割を差っ引いて,尚且つ合格点に達しておれば第二志望に入ることが認められるシステムであった。合計得点の1割も差っ引かれれば第二志望に移ることは略不可能である。自分は工学部の土木科に進みたかったが。安全サイドに考え,合格ラインの低い鉱山科を選んだ。土木科を選んでいたら合格していたか否かを知りたかったのである。二,三日後に結果を知らせてくれた。工学部の電子科,建築科等2,3の学科を除き合格していたことが判明した。
 社会に出てから実感したことであるが,学科の選択が我が将来に多大な影響を与えたのである。結果からいえば鉱山学科を選んだことは僥倖であったと思う。
 神岡鉱業所の採鉱部門は,入社後1年目は実習,2年目以降保安係員,6年目に生産管理職,9年目係長,15年目鉱長代理,18年目鉱長となるのが標準的なコースである。
 2年目以降の保安係員は二・三十人の部下を指揮・労務管理を担当し,9年目に係長になればいわゆる「お山の大将」,即ち「一国一城の主」である。
 係長は100人の部下の労務管理をはじめ,請負工事の査定,保有する鉱床の採掘順序,採掘法,採掘機械の選定,予算決算等のコスト管理等を担当する。係全体の経営が任され,さながら中小企業の社長のようである。鉱山設備や鉱山機械を使うためには電気や機械の知識が必要である。要するに浅くではあるが広い知識が必要である。入社後10年そこそこで中小企業の社長のような業務を担当させて貰うのは鉱山会社ならではではある。採鉱屋は狭い範囲であるが,深く,深く追求することが求められる。同じ大学でも他の学部や学科を卒業した人の場合は,入社後,10年程度で会社経営をする業務などとても担当させては貰えない。

京都見物
 下宿に落ち着いて間もなく,母が田舎からやってきた。目的は下宿への挨拶と,息子の入学した京都大学を見に来たのである。序で,懐かしい京都を見物することであった。
 京都駅まで迎えに行った。その頃,親鸞聖人700回忌の法要が西本願寺で盛大に執り行われていた。
本堂に上がって御経を聞いた。帰りに
 「修ちゃんピーナツが好きだから,下宿に帰っておやつに食べると好い。」
と言って,境内で野師が売っていたピーナツを,紙袋に一杯買ってくれた。下宿への挨拶を済ませた後,清水寺,知恩院などを見物したあと夕方吉田山に登った。四月の下旬であったから,吉田山から京都を一望したときは北風が冷たかった。帰りに京大の西部構内の学生食堂で粗末な夕食を取った。
 母は,もう一度京都に来た。自分が3回生で壬生に下宿していた頃である。山陰線の二条駅まで迎えに行った。夏の盛りであったのでサンダルを履いて行った。母はそのサンダル姿を見て
 「修ちゃん!どうしてそんなものを履くのだ」
と酷く嘆いた。母親の頭の中には,黒の革靴を履いた学生さんの姿がこびりついていたのであろう。
 三田から兄が京都見物に来てくれた。勤務先の同僚である南部さんと一緒だった。自分が浪人していた頃,三田に遊びに行った時,南部さんとは面識があった。
 竜安寺,仁和寺,金閣寺,平安神宮等を巡ったように覚えている。仁和寺に行った時は,やはり徒然草の「仁和寺の法師」が話題になった。

図23 兄と竜安寺で

 徒然草 第五十二段
  仁和寺(にんなじ)にある法師,年寄るまで,石清水(いはしみず)を拝まざり
  ければ,心うく覚えて,ある時思ひ立ちて,ただひとり,徒歩(かち)より詣で
  けり。極楽寺・高良(かうら)などを拝みて,かばかりと心得て帰りにけり。
  さて,かたへの人にあひて,
   「年頃思ひつること,果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて,尊くこそおはしけれ。
    そも,参りたる人ごとに山へ登りしは,何事かありけん。ゆかしかりしかど,
    神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて,山までは見ず」
  とぞ言ひける。
  すこしのことにも,先達(せんだつ)はあらまほしき事なり。

図24 仁和寺全景

 図24の一番下に在るのが極楽寺と高良寺である。八幡宮は山頂にある。
 「仁和寺の坊さん!分かりませんかね!」
 今回この「思い出すことなど」の小さな出版物を作製するに当たり,出来うる限り安価に仕上がるように,紙屋,印刷屋,製本屋,自費出版業者等を東奔西走した。いろいろなことを勉強した。その度に,
 「すこしのことにも,先達(せんだつ)はあらまほしき事なり。」
を痛感したのである。
 しかし,人間は失敗をして育った人間には味がある。何事も経験が大切である。常に指導者に付き添われていると,薄っぺらな人間が育つような気がする。失敗を積み重ねることにより人間は育つような気がする。
 仁和寺の法師もそのうちに,図24の一番上に位置する「石清水八幡宮」に参るであろう。
 それから,大阪大学に入った高木君が京都見物にやってきた。高木君は懐かしい友達である。宿南から八鹿高校に通っていた。自転車通学で,自分の家の前を通って八鹿高校に通った。学校の帰りは何時も一緒に帰った。実力試験も自分と同様20番前後であったが,志望校だけは,密かに京大・阪大を目指していたのである。彼は浪人1年目を自宅で勉強し,2年目は大阪の予備校に入って勉強した。二年間自宅で勉強することは難しいらしい。兎に角,自宅浪人は忍耐力が必要である。
大学に入った時,銀閣寺の下宿で山内君が言った。
 「予備校も行かず,自宅浪人で2年間頑張ったことは,驚きである。尋常な人には
  出来ないことだ。」
と言ってくれた。彼は福井の勝山高校から現役で京大に入った秀才である。
因みに,高校時代の同級生に藤原博明君がいた。彼は中学時代,広谷中学の卓球選手である。浪人時代になって初めて親しくつきあうようになった。彼から「大学への解析Ⅰ」を紹介して貰った。科目名が「解析」から「数学」に変わった。それに伴い,参考書も「大学への数学Ⅰ」に変わった。このシリーズの大フアンになった。数学に自信がついたのはこのシリーズのおかげである。彼は薬学部に進んだ。


 藤原君は社会人になってから,我が家に訪問してくれた。自分が東京に転勤になったばかりの時で,東大駒場前の社宅に遊びに来てくれた。自分の家族は富山にいた。いわゆる「逆単身赴任」であった。自分だけ東京に単身赴任していたので,御馳走は何もなかったが,二人で酒だけ飲んで酔っぱらった事を記憶している。

やりくり算段
 国を出る時,母が4万円くれた。夏休みまでの4カ月ある。1か月1万円で遣り繰りせよということであった。
 しかし,入学金,授業料,教科書代それに製図器具等の出費は嵩み,夏休み迄は到底持ちそうになかった。下宿の小母さんが
 「齋藤さんは酒も飲まず,映画さえも見に行かず,下宿にばかり居て,勉強して
  いる珍しい学生さんですね!」
とよく褒めてくれた。こちとら好きこのんで下宿にいる訳ではない。兎に角,金がないため遊ぶ気にはなれなかったのだ。
 ある日曜日,下宿の小学生の女の子と遊んでいたら,下宿の小母さんが
 「齋藤さん!昼になったら食堂に行ってきなさい。」
と言う。2食付きの下宿だから,日曜日の昼食は外で食べることにしていた。別に腹は減っていなかったが外に出た。しばらく散歩して何も食べずに帰ってきた。小母さんが
 「随分早いはね!何を食べてきたの!」
と問う。返事に困った。
 この時,ジョージギッシングの「ヘンリーライクロフトの私記」を思い出した。彼は腹が減って,道を歩いていた。パン屋さんのパンを焼く好い香りがしてくる。パンが食べたいと思うが金がない。パン屋の前を行ったり来たりしたことが幾度かあるそうだ。この「ヘンリーライクロフトの私記」は英文解釈の受験参考書に掲載されていたので対訳双書を購入し愛読した。
 日本育英資金3千5百円や郷土の奨学資金で小谷資金3千円が戴けるようになった。母からもらった金と奨学資金で,1か月当り1万7千円の出費が許されるようになり,生活と気持ちにゆとりが生まれた。
 この年の秋から,特別奨学資金制度(1か月7千5百円支給される)が制定され,秋から施行されることになった。この奨学資金を受給するには,「受給資格試験」に合格しなければならなかった。夏休みに入る直前に鴨沂高校で受験した。
 10月頃合格通知を受けた。4月にさかのぼって支給された。申し込みをしていた家庭教師のアルバイトも見つかった。俄に金持ちになった。母からの仕送りが無くても十分やっていけるようになった。家計のやりくり算段ではないが,学生生活の遣り繰りに目途がついた。結局,学生生活の間,家からの仕送りは必要としなかった。
 滑稽な思い出がある。家庭教師の月謝を初めて貰う時である。友達と河原町で待ち合わせ,飲む事にしていた。家庭教師から帰ってくる電車の中で,月謝の入って居る袋に手を入れて。いくら入っているか数えた。驚く無かれ6枚!6千円入って居る。引き継いだ直後だから,月途中の分も1ヶ月分として6千円支払ってくれたのだ。河原町で
 「今日は僕が奢るよ!」
と景気よく飲み屋に向かった。いい加減飲んで勘定の際,月謝の入って居る袋を取り出した。6千円入って居るはずが3千円しか入っていないのである。実は,月謝袋に千円札が二つ折りにして入れてあったのだ。

放浪
 近くの等持院のすぐそばに杉谷君が下宿していた。彼は京都繊維大学に入学したがすぐに辞め,京大を受験して入学した。動機は下宿を探しているとき,「京大生ならよいが京都繊維大ではね」と言って断られ,「コンチクショウ!」と発憤して京大に入り直したそうだ。従って,年齢は自分より3歳くらい年上であった。
 2食付きの下宿は,夕食を家族と一諸に食べるため,時間的に制約があるので,大学生活を伸び伸びと満喫しうる下宿に移りたかった。
 山内君が銀閣寺の参道付近に下宿していて,3畳と6畳の部屋を占有しているので,3畳の部屋なら何時でも入れってやると言ってくれた。6月の終わり頃,銀閣寺の山内君の下宿に移った。全て外食の生活は気楽であった。此の下宿の難点は前の通りが銀閣寺の参道なので,朝早くから観光客が騒々しくある歩くこと,参道に沿って小さな谷川が流れて居てそのせせらぎが耳障りであった。
此の下宿に農学部の宮本さんがいた。一級上であったと思う。岡山の朝日高校出身であった。此と言って趣味のない素朴な人であった。文学ともおおよそ関係のない人と思っていた。宮本さんの部屋で山内君と3人で暇をもてあましていた。宮本さんが突然
 「感激のない一日は空虚なり!」
と宣った。宮本さんの口からどうしてそんな言葉が発せられるのかと驚いた。宮本さんはニコニコしていた。
 自分達が下宿している長谷川さん宅は銀閣寺界隈に不動産を沢山持っていた。鹿ケ谷の哲学の小道の脇に親戚の長谷川金五郎宅があり,家主は住んでいないが,現在2人が下宿している。部屋はまだ一部屋か二部屋あいているということだった。夏休み明けには鹿ケ谷に移った。このとき長谷川さんに大八車を借りて,机や布団を銀閣寺から鹿ケ谷まで運んだ。道行く観光客が自分の大八車を引く姿を珍しそうに眺めていた。
 因みに,「哲学の小道」は若王子神社から銀閣寺まで続く,2kmの疎水沿いの道で,哲学者の西田幾多郎や河上肇など,思索にふけりながら歩いたことから,その名がつけられたといわれている。春の桜は素晴らしい。この下宿には自分の他に二人が下宿していた。京大の電気科を卒業し,東芝か松下に勤めている先輩と,もう一人は長谷川さんの親戚に当たるお爺さんで,どこかに勤務していた。
 ある日曜日,杉谷君、山内君と三人で「すき焼き」でもしようと,「ワイワイガヤガヤ」騒いで準備をしていた。お爺さんがヒョコヒョコ出てきて,準備していた葱や白菜を調理台から土間に落とし,足で踏みつけ,ブツブツ言いながら外に出て行った。
お爺さんに何の断りもなく騒いでいたから悪かったと反省し,「すき焼き」の会は中止にした。2,3日後に,お爺さんが三条河原町の「グリル京阪」で御馳走をしてくれた。御馳走をしてくれた大儀名文は述べなかった。
 そのうち杉谷君が転がり込んできた。幸い,物置になって居る空き部屋があった。お爺さんと三人で物置部屋を片付けて,杉谷君を受け入れた。
 兄も京都国立病院に転勤となり一時しのぎに我が下宿に転がり込んできた。兄と小生は同じ部屋に住んだ。自分も杉谷君も留守の時,インドネシアの留学生である「ソリーマンガラガーハラハップ」君が訪れて来た。兄が相手をしたそうだ。英語混じりの日本語で「国防論」を議論したと聞いた。彼はインドネシアに帰って政府高官となったが夭折した。
 このころは,同志社の中学生の家庭教師をしていた。中京区の壬生高樋町であった。週2回で食事付きあった。暫くの間は銀閣寺の下宿から通って家庭教師をしていた。下宿代は取らないから住み込みで家庭教師をするよう依頼され,秋に下宿を変わった。この下宿には1年有余お世話になった。居心地は良かったのであるが,大学まで遠かった。やはり自転車で通える位の場所が良い。それに食事付きだと制約があるので北白川の下宿に代わった。この下宿も2~3ヶ月経ったところで,娘が結婚するということで出る羽目になった。丁度其の頃,銀閣寺の元の下宿屋の長谷川さん宅が裏に新築しその2階を下宿に貸せるということであった。2階には下宿用の部屋が3部屋あった。再び銀閣寺に引っ越してきた。これが下宿変遷の最後である。
 結局,等持院を皮切りに,銀閣寺,鹿ケ谷,壬生高樋町,北白川,銀閣寺と4年間で6か所の下宿を転々としたことになる。

狭い世の中
 名古屋の千種高校から来た寮隆吉君と知り合った。彼も文学の好きな青年であった。下宿は北白川であったからよく行き来した。この下宿は大きな邸宅で庭木も沢山植えてあった。今はお祖母さんが一人住んでおり,息子は東京の会社に勤めていると言っていた。夏休みに,平松先生の使いで,「傾斜計」を神岡鉱山に運んだ。神岡鉱山では技術係長の松永さんに対応して戴いた。その時に解った事だが,この息子とはなんとと三井金属の松永恒忠さんであることを知った。下宿は松永さんの実家であった。
 この下宿で寮君がチゴイナルワイゼンを聞きながら,タクトを持って,頭をかきむしりながら指揮者のマネをしていた。指揮者の様に髪の毛が乱れるためには,自ら掻きむしらなければならなかったのである。
 寮君の高校時代の親友で,医学部に大鐘俊彦君がいた。彼もまた文学好きであった。彼は「ガガーリン大佐」をテーマに小説を書いた。
 最近,尾本君と荒川を散歩する。彼が入社した頃,松永さんとレンネルでボーキサイトの探鉱の仕事をした苦労話を話してくれる。
  尾本君:昭和42年京大経済学部卒,元三井金属専務取締役

ロシア文学
 自分は此の頃,ロシア文学に興味を持っていた。1962年(昭和37年)に修道者出版株式会社から「ロシア文学名作全集」が出版された。豪華な本であった。吉田山に登る山道の脇に中西屋という本屋があった。そこでドストエフスキー,トルストイ,ツルゲーネフ等の5冊を買い求めた。以後は修道社出版株式会社が倒産してしまった。やむを得ず,チエホフの「桜の園」,「退屈な話」ショーロホフの「静かなドン」等は世界文学全集で読んだ。チエホフの「退屈な話」が今でも印象に残っている。
 鹿ケ谷の下宿で夜を徹して読んだ。夜明け近くには法然院の鐘が「ゴーン」と鳴り響く,そのうち岡崎の動物園のライオンが「ウオー」と吠える。夜が白々と明ける。人々が活動を始める頃,自分は眠りに就いた。この頃は,学校の授業なんか「糞食らえ」と思っていた。
 寮君とツルゲーネフの「父と子」を読んで,医学生バザーロフに興味を抱いた。そのためか,彼は専門課程に上がる時,医学部に進路を変更した。何かの寄せ書きに,彼は
 「奥さんを連れて,アラビアに石油を掘りに行く。」
と言っていたのに残念であった。
昼休みに吉田グランドのベンチに座って「罪と罰」を俎上に上げ議論した。1週間以上議論は続いた。そばで聞いていた山田栂(つがお)君が
 「たかが小説のことで,そんなに議論ができるものかね」
と驚いていた。彼は数理工学科の秀才であった。難しい試験は皆彼の世話になった。彼が答案用紙を書き上げると,後ろの席に座っている者が彼の答案用紙を引き取り書き写す。その後ろの席の者が同様に引き取り,書き写す。試験時間が終わった時,山田君は
 「僕の答案用紙は何処だ?」と
自分の答案用紙を探していた。
 「カラマーゾフの兄弟」を夏休みに一生懸命読んだ。読むのは苦痛であったが,唯ひたすらに活字を追った。読み終わった後,頭の中に中身は何にも残っていなかった。
ロシア文学のみならず,夏休みには「不如帰」や「金色夜叉」等の大衆小説と言われる小説を故郷の籐椅子に寝転がって懸命に読んだ。
 これまで純文学至上主義で大衆小説など鼻にも掛けなかった,というより軽蔑をしていたのだけれど。少しは角が取れ,人間が丸くなったのかな。
 丸太町通りの古本屋街によく行くった。筑摩書房の「芥川龍之介全集」が店頭にあった。2,3回通って買うか否か迷った。家庭教師の謝礼を貰った時,清水の舞台から飛び降りる心境で買った。全9冊で3,500円であった。箱入りの全集を自転車に乗せて,喜び勇んで下宿に帰った。

夏休み
 7月の終わりから,9月の上旬までであった。この長い夏休みの期間を
 「田植えの終わった直後から,稲の穂が実る頃まで」
と表現した人が居る。特にやるべきことは無い。ロシア文学に代わって,籐椅子に寝転がって「金色夜叉」や「不如帰」を読んだ。
 「金色夜叉」明治時代の尾崎紅葉著の代表的な小説。読売新聞に明治30年(1897年)1月1日~明治35年(1902年)5月11日まで連載された。作者逝去の為、未完。
芝居や映画でたびたび取り上げられる間貫一のセリフ
「一月の一七日、宮さん、善(よ)く覺えてお置き。來年の今月今夜は、貫一は何處(どこ)でこの月を見るのだか!再來年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!いいか、宮さん、一月の一七日だ。來年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから,月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一は何處かでお前を恨んで,今夜のように泣いて居ると思ってくれ。」
 一方,「不如帰」は明治31年(1898年)から32年(1899年)にかけて国民新聞に掲載された徳富蘆花の小説。後に出版されてベストセラーとなった。武男が日清戦争へ出陣してしまった間に、浪子の結核を理由に離婚を強いられ、夫をしたいつつ死んでゆく。浪子の
 「あああ,人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ千年も万年も生きたいわ!」
は日本近代文学を代表する名セリフの一つとなったそうである。
 小説を読むに疲れたら,家の前の西山さんと西村さんの家の間を通って土手に出る。土手から竹藪の中の細い路を通って川岸にたどり着く。そして,円山川に飛び込んで水泳を楽しむ。小中学生の頃と何も変わっていない。唯,あの頃のように子供達が水泳をしている光景は見あたらなかった。
どうせ教育委員会あるいは父兄が
 「危ない。」とか「監視の目が届かない。」
等の理由で子供達の遊び場を奪ったのであろう。
 ある夏休みは平野先生の奥さんの弟さんと,その友達を家庭教師したことがある。退屈しのぎには丁度良かった。
 映画「悪名」シリーズは1961年(昭和36年)から登場した。古い任侠精神の持ち主・朝吉と,腕も度胸も人一倍だがドライな感覚の持ち主・清次が登場する。彼等もこの映画に興味を持っていた。「悪名」が共通の話題となり,会話の中に八尾の朝吉や清次の名前が度々登場した。
 9月に入ると涼しい秋風が吹くようになる。夜は虫の声が聞かれる。最初の夏休みのことであったと記憶する。田舎の生活も厭きて「さあ帰ろう」といさんで京都に帰った。しかし,京都は残暑の厳しい頃であった。もう一度田舎に引っ返したい気持ちになった。京都の夏は特別暑い。特に祇園祭のころである。夏休みやはり田舎で過ごすのが正解であると悟った。

政治学の講義
 特段興味のある授業はなかったが,政治学の岡田教授の講義は面白いと評判であった。それに木村教授の法学は必ず試験に合格点を付けてくれるという事でこの二科目を選択した。岡田教授の政治学でいかのようなはなしが記憶に残る。
昔の京大生は貧乏で風呂にも行けなかった。教授が風呂をたいた時は旗を揚げた。それを見て近所に下宿している学生が,教授の家に貰い風呂に行ったそうである。
 学生達は食堂でホワイトライスを注文した。ハイカラな名前の付いているホワイトライスとはいかなる料理であろうか?
 実は白い御飯のみである。御飯だけ注文し,食堂のテーブルに乗っているソースをぶっかけて食べていた。ところが,今時の京大生は肩にカメラを提げて颯爽としている。昔と偉い変わったものだと感心していた。
 此の教授は東大と自由党が大嫌いであった。
 自由党議員はお粗末である。国会の質疑の演説は,秘書の書いた原稿を棒読みするのが常である。例によって秘書の書いた原稿を棒読みしていた。秘書は原稿に
 「ここは力を入れて」
とか,
 「ここで水を飲む」
等のコメントを書き込んでいる。自由党の某議員は秘書の書いた演説を滔々と読みあげた。
 「ここでチョット水を飲む!」
と秘書の書いたコメントまで堂々と,大声で読んでしまったとか。実際に水を飲んだか否かは不明である。
 法学の木村教授の授業は自分の著述した教科書を使った。毎年教科書を更新するから.先輩のお古を使うわけにいかなかった。何処が書き換えられるのか先輩達に聞いた。内容は殆ど変わらない,極端なことを言うと「て,に,を,は」が代わる程度だと言っていた。それで解った。試験を受けた全ての学生を合格させ,多くの学生が法学を選択するよう仕向ける。些細な変更で受講生全てに教科書を毎年買わせる。何事も商売である。この木村教授で感心したことは,黒板にドイツ語を,飾り文字でサラサラと書いたことである。
 木村教授は夏休み前に洋行するので試験を夏休み直前に実施した。大学に入学して初めての試験であった。銀閣寺の下宿で窓際に座って,法学の教科書を真面目に勉強した。
噂では何かを書けば合格する。ある先輩は日本シリーズの予想を書いて悠々合格したといっていた。兎に角,行数を沢山書くことであると,先輩たちは教えてくれた。ある先輩は噂を信じて,カレーライスの作り方を長々と書いたが,不合格になった。度胸のある学生であったのか,教授に自分が不合格になったことについて抗議に言った。
 「私は20行以上書いたと思う。1行3点にしても,60点以上はあるはずですが。」
 教授は彼の答案用紙を取り出して行数を数えた。
 「確かに22行ある。合格点にしましょう。」
と合格にしてくれたとか。嘘のような本当の話らしいが,事実かどうか解らない。

第二外国語
 ある日のドイツ語の授業に出た。学生はパラパラと十人程度であった。佐野教授は窓際でタバコをふかしていた。定刻の十分をすぎた頃,学生がやっと二十人くらいになった。
教授は徐に教壇に立ち
 「教える側の教授が先に教場に来て待ち,学生が後からチラホラと来るとは。
  何事か!」
と激怒した。この年,クラスの大半はドイツ語の単位を落とした。自分もその一人であった。専門課程に入ってから,ドイツ語の単位を取得した。
 高木教授のドイツ語の授業で先ず出席を取る。そして授業を始める。ところが出席の返事だけして,教室を出て行く不埒な輩がいた。それに気付いた高木教授は凄い勢いで廊下に飛び出て,サボタージした学生を追っかけた。学生は必死に逃げ難を逃れた。高木教授は息を切らして教室に帰ってきた。そして
 「今,教室を出て行った学生は誰か」
と詰問したが誰も答えなかった。因みに此の高木教授はドイツから著名な人が日本に訪れた時通訳をした。NHKのテレビで見たと仲間が噂していた。
 第二外国語などを2年年間,英語と同じような方法で習うのでは,到底物にはならない。二十数年習っている英語ですら物にならないのだから「推して知るべし」である。苦しむだけである。英会話を勉強した方が実用的である。
 社会に出て50歳を過ぎてから2年間,ペルーに赴任した。その僅か2年の間に,日常会話くらいはスペイン語で話せるようになった。勉強方法が日本の英語と全く異なるからである。自分がスペイン語を習ったのは,日本語が喋れないばかりか,日本語が皆目わからない,スペイン語しか話せない家庭教師にスペイン語を習ったのである。幼児が言葉を覚えるようなものである。
 日本における英語の教育の方法は考えるべきである。英語を話せない教師が英語を教えても,生徒は話せるようにはならない。英語の教師は日本語の解らない,英語しか話せない外国人にすべきである。夏目漱石も随筆で日本の英語の勉強方法はよろしくないと書いていた。今を去ること130年以上前のことである。その後も多くの人が英語の勉強法について批判や提言をしているにも拘わらず改革がなされていないのである。十年一日どころか百年一日の如くである。
 世界で英語の話せない民族は,何故か,日本人とモンゴル人であるという。日本は
160カ国中151位,モンゴルはそれ以下だそうである。
 日本人とモンゴル人が英語は喋れない理由は語学的才能がないこと,勉強方方が悪い子とであると考えていた。が,本当の理由は日本人もモンゴル人も英語を喋る必要が無いからである。
例えばモンゴル人は,子供でも授業中に日本語をぺらぺら喋っているそうである。世界で難しい語学の最右翼は日本語とロシア語である。その日本語をモンゴルの子供が喋っているのである。何故か?
モンゴルでは日本語を習得することで,観光産業などに就職口がある。つまり,日本語を学ぶことは,「手に職をつける」ことに等しい,極端な話,それだけをやっていれば将来がある程度保証されているのだ。ところが英語を勉強しても稼ぎにはならないのである。
日本人の場合,毎日の生活の中で,更に言えば一生涯で、英語を喋る必要に迫られる人は殆どいない。毎日,それも一生涯,日本語だけで十分である。英語に関わるのは学校の授業の中だけ。勿論,そこでも英語を喋る必要はない。海外旅行に出かけても現地の人と会話することは皆無で,英語を話す必要は無い。

実験と料理
 サボタージした授業は数多くあるが,1年間皆勤した授業がある。それは物理学実験と化学実験である。化学実験は一人で,物理学実験は2人一組であった。実験の内容は殆ど覚えていない。唯,実験の報告書を必ず提出しなければならなかった。物理学実験は土木科の近藤君であった。彼は相撲部であった。近藤君も小生も好んで勉強をする方ではなかった。
 報告書を交代々々に嫌々ながら,書いたように記憶している。実験の「出来ばえ」より実験に出席する事に意味があった。この単位を落とすと専門課程には進めなかった。他人に頼むわけにも行かず,まじめに実験に出席した。多くの授業は眠気を催す講義で時計台を眺めて,時間の経過を待つばかりであったが,物理学実験や化学実験は時間が足りないくらい忙しかった。物理学実験より化学実験の法が自分性格に合っている様な気がした。興味のある実験もあったが,ただ面倒なだけの実験もあった。興味を持ってやっている学生はあまりいないようであった。実験が旨くいくこつは,特に化学実験は,教科書に忠実に行う事である。
 最近料理をするようになった。美味しく作る「こつ」は化学実験と同様に,レシピに忠実に,書いてある通りに作ることであると悟った。山勘は禁物である。料理の基礎はこの時に出来たと考える。
 料理作りと化学実験はとよく似ている。料理の得意な女性は案外化学実験に向いているのかもしれない。分析係に女の人が多いことも頷ける。男性は独創的なアイディアで仕事をするのが得意である。片や女性は言われた通りに素直に仕事をするのが得意のようである。即ち,女性は料理に向いているのである。

図26 化学実験


別子鉱山
 専門課程の授業はつまらない授業が多かった。例えば,選鉱学の授業などは教授がゆっくり喋る,それを生徒がノートに書き取る,図面などは小さく切ったものを貰らって,ノートに筆記した文章の傍らに張る。まるで印刷工の養成所のような風景であった。又,ある教授の授業は自分の書いた教科書を棒読みしていた。ところが平松先生の講義はその逆であった。
 数式は必要な時は書物を見れば書いてある。書き取ることも覚える必要もない。その意味を理解しなさいと言っておられた。
 数理統計学の講義で何時もの教授は来ない,若い男が白墨1本もって入って来た。どうせ事務員が
 「本日休講」
と書くであろうと思った。ところが,あに図らんや
 「本日○○教授に代わって講義します。」
と挨拶をして講義を始めた。90分授業を白墨1本で,訳の分からぬ数式を書きながら喋り続けた。
 3回生から4回生に進む時,さらにきめ細かい分野に分かれた。即ち,資源工学科が,採鉱学第1,採鉱学第2,物理探鉱,鉱山機械,鉱山地質学,選鉱学の6つの教室に別れているのである。何れの教室を選択するか,仲のよい友達7名が集まって相談した。自分を含む5名が採鉱学第1に進み,他の2名が選鉱学に進むことになった。採鉱学第1は平松教授であった。

図27 鉱山学科の建物

 3回生の夏期講座で別子鉱山に見学に行った。
一行は平松教授以下,有志十数名であった。坑内に入るとき,身体検査をされてタバコ・マッチ類は一時保管所に預けられた。採掘法は採掘した鉱石を足場にして,順次上部を採掘する「シュリンケージ法」であった。作業すべき足場と天盤の間隔は,僅か1m足らずの個所で,這いつくばって進んだ。坑内温度はサウナ風呂のように熱かった。
 そんな環境で耳をつんざく騒音をたて,削岩機で岩石を穿っていた。何と過酷な労働環境であろう。京都で鈍(なまくら)な生活をしていた自分には,今の世の中に,こんな苛酷で過激な労働をしている人々がいることにいたく感激した。この感激が鉱山会社に就職する遠因になったかもしれない。自分には事務所で仕事をしている,いわゆるホワイトカラーは興味がなかった。
 夕方に先輩が宴席を開いてくれた。会社の接待でなく先輩個人が催した宴席であると平松先生が言っておられた。
 平松先生は教え子に接待して貰うことが大層うれしいようであった。30年の後,自分が神岡鉱業の社長になった時,同期で京都大の教授をしていた齋藤さんと,平松教授と奥さん共々,鴨川の「床」で宴席を設けたことがある。
 宴会が終わった後,宿に帰って平松先生と「互先」で囲碁対局した。多分小生が先であったと記憶する。
 田舎に帰省したとき,平野先生と対局した時,平松教授と対局したことを自慢話した。平野先生は
 「その教授は余り強くないね!」
と言われた。平松教授は自らは,
 「自分は強くないのだ。学生さんが研究室に来た時,囲碁を教えるが,卒業する
  頃は,学生さんの方が強くなっている。」
と言っておられた。だとすると,その当時は自分も相当弱かったことになる。

四国旅行
 メンバーは杉谷,水田,三浦,高橋君,それに自分の5人であった。麻雀の好きな連中ばかりである。松山,足摺岬,高知,金毘羅さん等で約1週間程度の旅であった。酒を飲んでは麻雀をした。乗り合いバスで移動中に,皆で「琵琶就航の歌」など大声で歌っていた。お客は極めて少なかったが,バスガールに
 「他の乗客も居ますから静かにして下さい。」
と注意された。桂浜の海水浴場では,二人泳ぎ,4人は浜辺で麻雀をしていた。何処かで雀卓を調達してきたのである。砂浜で麻雀をしたのは,後にも先にも,この時が最初で最後である。
 高橋君が浜茶屋の小母さんと孫の写真を撮ってやった。小母さんが喜ぶので何枚も撮った。小母さんは「かき氷」等を奢ってくれた。京都に帰ったら現像して写真を送ると約束し,住所を書きとめた。
金毘羅さんに登った時,高橋君が
 「大変なことをしてしまった!」
と如何にも残念そうに嘆いていたので。
 「何をしたのだ?」
と聞くと
 「桂浜で小母さんや,子供達の写真を撮ったけれど,フイルムが入っていなかった
  のだ。」
という。浜の小母さん達が喜んでいた顔を思い浮かべると,如何にも残念であった。そして,
 「あの学生さん達は口から出任せ適当なことを言って!」
と怒るであろう。
 結局,京都に帰ってから,菓子添えて謝りの手紙を送ることにした。
 高知での麻雀は3人打ちであった。3人打ちなので牌はマンズ,ソ-ズ,ピンズの何れかが抜いてあった。ただし国士無双を作るに必要な「1」と「9」の端牌は入れてあった。
 高知の繁華街アーケードに浴衣姿で出かけた。人通りの多い十字路にさしかかった。いたずら坊主の高橋君が言う
 「あのなー!水田君と齋藤君の浴衣を此処で取り替えて無いか?その勇気があった
  ら後で御馳走するよ。」
二人共ためらっていた。高橋君が
 「勇気が無いな!」
とけしかける。
 「それじゃ!」
と言って,水田君と自分の浴衣を取り替えた。黒山の人だかりにはならなかったが,数人は珍しそうに見ていた。水田君は自分より背が高い。従って,水田君は
 「山田の案山子」
が歩いているようであり,自分は「松の廊下」で裃を引きずって
 「殿中でござる!」
といって歩いているようであった。

大学とは
 解析学の林教授が
 「大学は何もしなくても卒業できる。反面,何かしようと思えば何でもできる。」
と名言を吐いた。自分は
 「大学時代に,一体何をしたのだろうか?」
と反省する。大学4年間で自分は何をやったか。コツコツと勉強する意欲は無くなっていた。勉強したことを強いて言えば,教養課程で解析学とドイツ語の勉強をしたくらいである。勉強以外では工学部の学生でありながら,
  ¶ ロシア文学や日本文学を読み耽った。
  ¶ 学費を稼ぐ為,4年間通じて家庭教師をやった。
 ロシア文学や日本文学が人間形成に役に立ったのであろうか。又,家庭教師の教え子達の成績が伸びたかどうか。果して自分が家庭教師として役に立ったのであろうか。
結局,自分は
 「何かしようと思えば,何でも出来たのに,何もしないで卒業した部類である。」と
反省するのである。どうせ何もしなかったのなら,囲碁部に入って,囲碁の実力を身につければ好かったと後悔する。
 兎に角,浪人生活2年間と大学4年間は,長くもなく短くもなく丁度好い期間であった。特に大学4年,あれ以上在学すると,なまくらな生活になっていただろうと考える。丁度好い時期に引き上げたのが実感である。

図28 最後の冬休み故郷で

 誰にも気兼ねすることなく,伸び伸びと,思うが儘に生きた。人生の中で一番幸せな時代であったと実感する。
 ある時は文学に,ある時は哲学に沈潜し,又ある時は「人生如何に生きるべきか」を模索し,又あるときは麻雀に,碁に好きなことを存分に楽しんだ。要するに自由奔放な生活を満喫したのである。

就職
 就職については,助教授であった岡先生から石原産業や日本鉱業の機械・電気部門等を紹介されたが断っていた。
 何故なら,別子鉱山の見学で見たあの過酷な現場に惹かれたのである。どうしても,鉱山の採鉱部門に就職するよう希望していたところ,三井金属の神岡鉱山の話が舞い込んだ。
 東海道新幹線が1964年10月1日に開業した。面接試験は開業早々の新幹線に乗って,東京へ向かった。
 田舎と京都の行き帰りに利用する山陰線は「ガッタンゴットン」と走るとすれば新幹線は疾風のごとく走った。但し,東海道線に比べトンネルの多いことに辟易した。
 入社試験には佐藤,皆島,播本君も来ていた。試験は面接のみであった。後で解った事であるが,通常は学科試験も受験するのであるが,縁故入社の者は面接試験のみで,学科試験が免除されたのである。平松先生も,岡先生もその件は何も教えてくれなかった。
これも後で判明したことであるが,三井金属への入社は,本来,同期の田口君が入社することになっていたが,彼が大学院に進むことになったので,彼に代わって自分にお鉢が回ってきたのである。
 田口君のお父さんの戦友が三井金属に勤めていると聴いたが,詳しい話は聞かなかった。田口君は大学院修士課程を卒業後,三井金属に入社した。

おわりに
 我が人生を三つの時期に分類すると,
  第一期は学びの時代,
  第二期は社会貢献の時代,
  第三は安息の時代
である。躓きながら学びの時代が経過した処である。第三者が総括すると,可もなく不可もなく,75点程度の評価点を与えるであろう。
 しかし,わが人生を振り返って,我が人生の第一期は自由に伸び伸びとした時期であった。とりわけ浪人時代が我が人生の謳歌した時期であったと言っても過言ではない。貧しくとも,苦しくても,一途に受験勉強に取り組んでいた時である。そんな生活が,今振り返って見ると,楽しく,幸せであったのである。
 人生の第二期はどんな人生が待ち受けているのであろうか。
 この文章を書くことを思い立った時,題名を「自叙伝」にするつもりであったが,書き終わってみると,たわいもない「思い出」ばかりで,とても自叙伝と言える代物ではない。
 従って,題名は「思い出すことなど」に変更した。しかし,今度は,夏目漱石先生が怒るかもしれない。漱石の作品の中に「思い出すことなど」があるからである。
 書き終わって振り返れば,苦しいことや薄暗いことはみんな埋没して,楽しいことや,滑稽な事ばかりが「思い出」として残っていることに気がついた。孫達は
 「お爺ちゃんはおもしろ,可笑しく生きて来たのだね。」
と微笑むかもしれない。実際、書き終わって振り返れば、苦しいことや薄暗いことはみんな埋没して、滑稽な事ばかりが「思い出」として残っていることに気がついた。
 辛酸をなめた時期があっと思うがそれを思い出したくないのである。

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