自序伝:齋藤修二の採鉱屋の半生

1.
思い出すことなど 第Ⅰ部(PDF) 初版発行:2009年11月1日 第2版:2011年2月15
第3版:2012年2月3日  著者 齋藤修二 発行者 齋藤修二
発行所 さいとう書房  印刷・製本 さいとう書房
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2. 思い出すことなど 第Ⅱ部
       行雲之巻(PDF)
第1刷:2010年5月15日 著者:斎藤修二 発行所:さいとう書房
印刷・製本:株式会社オーエム
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3. 思い出すことなど 第Ⅱ部
       流水の巻(PDF)
 
第1刷:2010年5月15日 著者:斎藤修二 発行所:さいとう書房
印刷・製本:株式会社オーエム
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4. 栃洞坑27年間の断想(PDF) 第1刷:2012年3月15日 著者:斎藤修二 発行所:さいとう書房
印刷・製本:さいとう書房
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著者略歴
 1965年 京都大学工学部資源工学科卒
 1983年 三井金属神岡鉱業栃洞坑鉱長
 1992年 三井金属ペルー支社長
 1997年 三井金属取締役兼神岡鉱業㈱社長
 2000年 奥会津地熱㈱社長
 2003年12月 退職
参考:
<日本の論文を探す>のサイトに掲載されている齋藤修二の論文集URL
 http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000000102870
 掲載論文
 1)神岡鉱山の現状について
   齋藤 修二
   資源処理技術 : 浮選 = Resources processing 46(2), 95-98, 1999-05-31
 2)南米における資源開発の展望
   (特集 地球環境・資源エネルギーへの取り組み)
  齋藤 修二, 北川 嘉昭
  金属 69(4), 325-329, 1999-04
 3)ワンサラ鉱山の選鉱の現況について
   齋藤 修二, 北川 嘉昭 , 佐藤 敬 , 川代 敦志
   資源処理技術 : 浮選 = Resources processing 45(2), 126-130, 1998-06-01
 4)海外鉱山開発の現状
   齋藤 修二, 小長井 憲二 , 鶴見 憲二
   資源・素材 1997(3), 43-47, 1997-09-23
 5)ワンサラ鉱山における採鉱技術
   齋藤 修二, 北川 嘉昭 , 坂井 治文
   資源・素材 1997(4), 50-54, 1997-09-01
 6)神岡鉱山における非電気式雷管による坑道掘進について
   茂住 洋史 , 藤井 広太郎 , 斎藤 修二
   工業火薬 54(1), p44-49, 1993-02
 7)神岡鉱山における非電気式雷管による坑道掘進について
     (平成3年度全国鉱山・製錬所現場担当者会議講演集) -- (採鉱 選鉱・青化)
   斎藤 修二, 藤井 広太郎 , 茂住 洋史
   資源と素材 107(6), p361-364, 1991-05
 8)栃洞鉱山における油圧ジャンボの導入について
     (平成2年度全国鉱山・製錬所現場担当者会議講演集) -- (採鉱)
   斎藤 修二, 藤井 広太郎 , 茂住 洋史
   資源と素材 106(5), p247-251, 1990-05

<まえがき> 抜粋
思い出すことなど 第Ⅰ部
思い出すことなど 第Ⅱ部 行雲之巻
 退職してから,朝の散歩と晩酌が日課になっている。散歩は夏は荒川の河川敷,冬は京葉道路を錦糸町辺りまで行く。晩酌は焼酎の「烏龍茶割り」に決まっている。散歩をするにつけ,晩酌をするにつけ,遠く過ぎ去った日々の思い出が,沸々と脳裏に湧いてくる。
最近は近くに住む孫達が代わる代わる遊びに来て,
 「爺ちゃん!爺ちゃん!」
と言って遊んでくれる。自分の人生の大半は終わってしまったが,この孫達はどんな人生を歩むであろうと思いやる。
 隠居暮らしの徒然に,沸々と浮かぶ「我が思い出」を綴り,孫達に読ませようと考えた。
 毎朝,血糖値を測っている。値が高い時,昨日は何を食したかを思い出そうとするが,思い出せないことが多い。ところが,50年,60年前のことが昨日の如く,事細かに思い起こされる。自分は悲しいときも,絶望の時も,冗談を飛ばして,前向きに進んできたつもりだ。孫たちが大きくなって,
 「お爺ちゃんは長い人生を辛抱強く歩いて
  来たのだね。」
と溜息をつくかもしれない。
 大学卒業までを第Ⅰ部,入社から退職まで,第Ⅱ部とし一般的記述を「行雲之巻」とし,技術的な記述を「流水之巻」とした。
退職後からあの世に行くまで,第Ⅲ部と予定している。
第三部が完成するか否か心許ない。何故かというと,単調なせいか,記述に値することが極めて少ないからである。
 自分の会社生活は38年間である。その内訳は,神岡鉱業で通算29年間,ペルー支社で2年間,東京本社で4年間,最後の勤務となった奥会津地熱(株)で3年間である。
 勤務期間の長い,短いに拘わらず,それぞれに強烈な思い出は忘れることが出来ない。
何と言っても神岡が懐かしい。駆け出しの係員時代から,社長になるまで通算29年間,人生の大半を神岡で過ごした。自分にとっては鉱山技術者としてのルーツである。
 ペルーは最初で最後の海外勤務である。しかも,駐在は僅か2年間であった。心に残るのは,スペイン語の勉強と,やっと日常会話が出来るようになったことである。
 東京での4年間は資源開発部長として海外鉱山の開発に世界十数カ国を奔走した。
 三度目の神岡は三井金属取締役兼神岡鉱業社長として勤務し,会社生活で一番くつろいだ時期である。
 最後のお勤めとなった奥会津地熱(株)では,地熱蒸気の回復に取り組む一方,電力会社との契約更新の交渉等,苦労の多い時代であった。
沸々と湧いてくるこれらの思い出を,そこはかとなく綴り置き,読み返すと,会社生活,家庭生活,技術的事項, 歴史的事項,知り得た知見等,雑多なものが詰まっている。
 その姿はさながら玩具箱のようである。この雑多な記述を整理し,会社生活,家庭生活等「行雲之巻」に,技術的事項,海外出張等を「流水之巻」に集録することにした。
思い出すことなど 第Ⅱ部 流水の巻
栃洞坑27年間の断想
 我が人生を振り返る時,以下の鴎外の「妄想」の一文を思い起こす。
 「生まれてから今日まで自分は何をしているか。(中略)自分のしている事は,役者が舞台に出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後に,別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる。(中略)赤く黒く塗られている顔を洗って,舞台から降りて,静かに自分というものを考えてみたい,背後の何物かの面目を覗いて見たい。
 背後の何物かの面目とは「黄梁一炊の夢」で示される「人間の欲望」ではなかろうか。又
   夏草や兵どもが夢の跡    芭蕉
 「けばけばしく」生い茂る夏草を見ていると,「兵ども」が戦いの果てに得た藤原三代の栄耀栄華を思い起こされるが,これとて悠久の歴史に比べれば儚いものである。と歌っている。
 この「夏草」を自分の中に住む「欲望」や「願望」であると解釈すれば,人生は「欲望」や「願望」との闘いであり,例え,それを成就したとしても,儚い夢のようなものである。と歌っているように思える。
 そうではあるが,人間生きていくためには,世に出て次から次へと役を勤めざるを得ない。
 本書に記述した事項の大半は,自分がこれまで,役者が舞台に出て或る役を勤めているように,次から次に役を勤めあげてきたことを綴っている。その行跡は,人間の欲望や願望そして,儚い夢であったであろうか。
 自分が栃洞で坑長をしていた昭和58年頃,尾本君は神岡の経理課長であった。鉱山経営や全社の会社方針等についてよく教えて貰った。彼は京大経済学部を卒業した後,三井金属に入社した。自分より2年後輩であるが,後に三井金属専務取締役のポストに就いた。退職後何年も経ってから,尾本君が意外と近いところに住んでいることを知り,週に一度,一緒に散歩することにした。
 当初は,スカイツリーまで別々に行き,帰途は一緒に「四つ目通り」を通り,京葉道路と横十間川が交差する所の松代橋で別れた。
桜の頃,荒川のほとりに「小松川千本桜」の花見をした。勿論その時は酒を飲みながら桜の花を愛でた。それが契機となって以後,桜の花が散っても週に一度,焼酎を持参して千本桜の木陰で歓談をしている。このことを我々二人は「山行き」と称している。「山行き」は世の中で言う登山ではない。神岡では野外で宴会を開くことを「山行き」と言っている。それに習ったのである。同じ大学を卒業し,同じ職場で働いたことから話題には事欠かない。
 歓談しているときに,三井修史論叢の中に掲載されている山口光治郎氏の「大正期の神岡採鉱場」が話題になった。「9番鉱床を発見したときの様子」や「坑夫取り立ての儀」など興味深く書かれている。尾本君が
「山口さんに続く昭和期の神岡鉱山について記述してはどうですか。」
と提言してくれた。
 確かに小生は,昭和40年に入社して以来平成12年まで通算で30年間神岡に勤務した。その内,栃洞坑に24年間,茂住坑に3年間,神岡鉱業全般の管理に3年間である。栃洞坑の歴史を語るには十分な経験を有していると自負している。
先に著述した「思い出すことなど」で栃洞坑のことは記述したことであり,再び書く気にはなれなかった。しかし,「思い出すことなど」のプライベートな部分を取り除けば栃洞坑の歴史となる。そんなに大仕事にはならないと考え直し,重い腰を上げる気になった。
 第1章と第2章は「神岡鉱山写真史」を参考に記述したけれど,筋道を立て,解り易くするためには可成り手間取った。それに,尾本君から借りた奥田静平氏の「思い出の小話」を参考にさせてもらった。
 第3章から第7章は坑長の代わる毎に章立てをして記述した。記憶を思い起こすにはこの方法が,都合が良かったからである。
東坑長から南光坑長までは,栃洞坑に勤務していたが,井澤坑長時代筆者は茂住坑に勤務していたため,月に一度のコストダウン会議での情報等を頼りに記述した。
 グラフ等は「栃洞坑実績集」を基に記述した。因みに,「栃洞坑実績集」は,栃洞坑の事務係に長く勤務された井澤光行氏が纏めてくれたものである。
 最後の第8章の「山の生活」については殆ど記憶に依って記述したので,思い違いなどがあるかもしれない。
 栃洞坑長について職名の歴史を調べると,昭和24年~27年までの5年間は採鉱課長であった。昭和28年に栃洞坑長に変更された。それ以来,昭和45年迄の18年間は栃洞坑長であった。昭和45年に採鉱課長,昭和49年に鉱長となったが,本書では全て歴史の長い「坑長」と記述する。
 この著作を仕上げるに当たり,尾本衛君には奥田静平氏の資料を提供して戴いた上に,4回に亘って誤字誤植の指摘,校正をして戴き,大変お世話になった。ここに厚く感謝を申しあげる次第である。

2012年 2月吉日
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