自叙伝:齋藤修二の採鉱屋の半生思い出すことなど 第Ⅱ部 行雲之巻

斎藤修二自叙伝
思い出すことなど
第Ⅰ部
思い出すことなど
第Ⅱ部 行雲之巻
思い出すことなど
第Ⅱ部 流水之巻
栃洞坑27年間の断想



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はじめに 第1章 第2章 第3章
はじめに 1 1.三井金属入社 5 1.高多課長 68 1.初めての転勤 111
2.栃洞 8 2.採鉱係長 72 2.茂住鉱長 115
3.結婚 16 3.南光鉱長 75 3.カミオカンデ 120
4.三井金属の鉱山 21 4.円山係長 79 4.プロジェクトX 130
5.坑内実習 26 5.未曾有の合理化 91
6.東尚七坑長 39 6.山の生活(Ⅲ) 96
7.山の生活(Ⅰ) 45 7.井澤鉱長 107
8.保安係員 50
9.生産管理職 53
10.山の生活(Ⅱ) 60
第4章 第5章 第6章 第7章
1.栃洞鉱長 134 1.支社長 152 1.資源開発部長 186 1.神岡鉱業社長 207
2.技術革新倉 139 2.ペルーの生活 154 2.中央アジア 187 2.経常損益 209
3.地下空間利用事業 141 3.ワンサラ鉱山視察 160 3.南米回帰 195 3.神岡の生活 211
4.危ない経験 147 4.フジモリ大統領の招待 167 4.ペルー大使公邸事件 196
4.井澤副社長夭折 215
5.柴田社長 150 5.スペイン語事始め 172 5.社長退任 217
6.永久帰国 182
第8章 第9章 おわりに
1.奥会津地熱の状況 219 1.ペルー 234 おわりに 259
2.経営改善 221 2.神岡 238
3.奥会津地熱事業の総括 229 3.奥会津 249
4.社長退任 232

思い出すことなど 第Ⅱ部  行雲之巻
はじめに
 自分の会社生活は38年間である。その内訳は,神岡鉱業で通算29年間,ペルー支社で2年間,東京本社で4年間,最後の勤務となった奥会津地熱(株)で3年間である。
 勤務期間の長い,短いに拘わらず,それぞれに強烈な思い出は忘れることが出来ない。
 何と言っても神岡が懐かしい。駆け出しの係員時代から,社長になるまで通算29年間,人生の大半を神岡で過ごした。自分にとっては鉱山技術者としてのルーツである。
 ペルーは最初で最後の海外勤務である。しかも,駐在は僅か2年間であった。心に残るのは,スペイン語の勉強と,やっと日常会話が出来るようになったことである。
 東京での4年間は資源開発部長として海外鉱山の開発に世界十数カ国を奔走した。
 三度目の神岡は三井金属取締役兼神岡鉱業社長として勤務し,会社生活で一番くつろいだ時期である。
 最後のお勤めとなった奥会津地熱(株)では,地熱蒸気の回復に取り組む一方,電力会社との契約更新の交渉等,苦労の多い時代であった。
 沸々と湧いてくるこれらの思い出を,そこはかとなく綴り置き,読み返すと,会社生活,家庭生活,技術的事項, 歴史的事項,知り得た知見等,雑多なものが詰まっている。
 その姿はさながら玩具箱のようである。この雑多な記述を整理し,会社生活,家庭生活等「行雲之巻」に,技術的事項,海外出張等を「流水之巻」に集録することにした。

第 1 章  駆け出しの頃(1965年~1973年)
1.三井金属入社
 三井金属に出社する時は,何時も「追分旅館」に宿泊した。修学旅行で宿泊する旅館のようであった。そのせいか親しみが感じられた。反面,本社は三井銀行ビルの6階にあり,廊下には深紅の絨毯が敷かれており,妙に緊張する雰囲気を醸し出していた。
図1 三井銀行ビル

1-1.本社の研修
 この年の新入社員は総勢30人であった。昨年一緒に面接試験を受けた佐藤,皆島,播本君もいた。4月の入社早々は東京本社で一週間程度の研修があった。日本生産性本部の研修会等に参加した。それに続いて,中国地方の玉野,竹原精錬所,彦島精錬所,九州大牟田の三池製錬所,鹿児島の串木野鉱山,岐阜県の神岡鉱業所等において三か月間の実習を終えた。この実習期間は,未だ学生気分が抜けきらず,無鉄砲な言動が残っていた。実習が終わると東京の本社で配属先が言い渡された。自分は神岡鉱業所へ配属されることになった。資源工学科出身の者は,栃洞・茂住の鉱山を保有する神岡鉱業所に配属されるのが通例であった。
 この時,三井金属社長は三代目の高林敏巳氏で,神岡鉱業の所長は高島正氏であった。

図2 同期の新入社員30人


1-2.神岡鉱業所配属
 神岡に赴任したのは7月であった。新幹線で名古屋へ,名古屋から高山線で高山へ。高山からバスに乗って神岡へ。神岡に着いたときは既に夕方になっていた。神岡駅は濃飛バスの終点である。バスの改札口の近くに水道の蛇口が開けっ放しの状態で,蛇口から水が流れ出ていた。流し台のバケツに花束が入れてあり,飲み物が冷やしてあった。そんな鄙びた光景が印象に残っている。 神岡は乗鞍に昇る登山口の所為か,大きなリュックを背負った登山客がちらほらしていた。

図3 高原川

 神岡鉱業所の事務所で簡単な手続きを済まし,町の旅館に泊まり,高原川のせせらぎを聞きながら寝た。次の日栃洞鉱の人事課に出勤した。
 神岡町は海抜1300mクラスの山々に囲まれており,高原川の両岸に町並を形成している。
 高原川の源流は岐阜県と長野県の県境に位置する乗鞍岳の北麓に源を発し,平湯・福地の集落を抜け,栃尾で蒲田川と合流し,その後,双六川,蔵柱川,吉田川と合流し,徐々に北に進路を取りながら神岡町市街地を貫流する。神岡市街地では山田川と合流する。神岡の市街地を通り抜け,茂住の手前で跡津川と合流する。更に北上し,岐阜県と富山県の県境で宮川と合流し,神通川となって日本海に注いでいる。

2.栃洞
 栃洞地区は二十五山(1219m)の山腹に位置し,標高はおおよそ850m準である。この斜面を約400m下れば神岡町があり高原川が流れている。神岡町は谷底に位置するが,栃洞は山腹なので神岡町に比べ日当たりが良い。
 鉱山に働く人の殆どがこの栃洞地区に居住している。鉱山の最盛期には,昭和30年頃であろうか,約800の従業員が鉱山に勤務し,家族を含めると3000人余が居住していた。
 栃洞地区には通洞,泉平,前平,南平の4つの地区から構成されている。南北に町道が通る。これが坑内では前平断層となっている。北の端に通洞社宅群,中央に前平社宅群,南に南平社宅群,西側の斜面に泉平社宅群が位置している。前平地区の南西の奥まった一画に,柏豆社宅がある。その地区には主に管理者が居住している。前平地区と南平地区には数戸の私宅が存在するが,通洞と泉平地区は全て社宅群である。
 通洞から前平へ行く途中に,西側の坂をだらだらと下って行くと泉平社宅群がある。前平を通り抜けて南に下って行くと南平社宅群がある。更に行くと和佐保の私宅がある。その先端に和佐保堆積場がある。この堆積場を通り抜けて更に下に行くと神岡町に至る。

図4 栃洞地区


インフラとして,社宅群,小学校,中学校,病院,郵便局,警察,信用金庫,書店,魚屋等の店が並ぶ商店街等があり,それに飲み屋も1,2軒はあった。
 この商店街を「前平銀座」と称し,常にほろ酔い加減の人がちらほらしていた。
図5 金のなる道

 図5の写真は「前平銀座」を通り抜けて,鉱山の事務所に至る道である。薄ら寒い景色であるが,毎月,給料日には,旦那の給料を貰うために,奥さん方が笑顔を浮かべて通った道である。経理課の窓口に列を成して給料を貰っていた。正に,金のなる道なのだ。往時は,給料は坑内事務所で支給されていたが,給料袋を盗難された事件があり,その後,坑外事務所で支給されるようになった。

2-1.二十五山
 二十五山(1219m)は昔,峰記山といい,霧の深い山であった。村人の多くが此の山に入って迷子になった。源蔵もその一人であった。源蔵は峰記山に入り,行方知れずとなった。夜遅く伊西の人に送られてくたくたになって帰ってきた。
 以後,村人は誰も峰記山には入らなくなった。元禄1,2年の頃,飛騨を行脚していた円空がその話を聞いた。仏に助を願うため山に入った。円空は晴れた日に,山々を見渡し,数え,数えること二十五,その眺めに見惚れているうちに,俄に霧に包まれた。円空は老杉の根のかたわらに御堂を建て,二十五体の菩薩像を鉈(なた)一丁で彫り込んだ。精魂込めた御仏を御堂に納め,経を読むと峰記の山は鎮まった。

図6 二十五菩薩

 いつしか村人はこの山を二十五山と呼び,7月25日の縁日には,近郊からも多くの人が詣でるようになり,年々,賑わった。
 自分が入社した頃,7月25日の縁日には夕方,多勢の人が,明かりを掲げ,行列を作って北盛の谷路を二十五山に登って行く光景を,夢か現(うつつ)か分からぬ程の幽かな記憶として残っている。
 駆け出しの頃,鉱山で一緒に働いた黒川修三君が,次のことを教えてくれた。
 彼等が中学生の頃までは,二十五山の縁日は,会社が2日間休日となり,二十五山祭りに加え,運動会や芝居が催された。休日の第一日目が運動会で,各地区対抗戦が執り行われた。応援団は園児から高校生まで,総勢1000人以上が駆り出された。今から思えば壮観な運動会であった。
 二日目が芝居であった。芝居は旅芸人一行が毎年訪れたのである。大勢の観客が近郊からも訪れた。
 子供達に取って,二十五山の縁日は,盆と正月が一度にやってきたかのような,楽しい祭りだったのである。
 鉱山四柱神社と二十五山を結ぶ参道には菩薩が置かれており,縁日に参る時はその仏像を拝みながら登った。
 頂上では焼きそば・おでんなどの夜店や野師の露天商等で賑やかであった。二十五山の頂上には稲荷神社と観音菩薩があった。しかし,豪雪で菩薩堂が壊れ,阿弥陀二十五菩薩は南平の光円寺本堂に安置され,堂の絵天井などの貴重品全て当寺に保管されている。
 この地は坑内採掘の影響,取分け,7丙の崩落に続き,5番甲の崩落により,社や杉の木は埋没した。その後,露天掘りの採掘現場となり鬱蒼とした杉の木の森は消えた。

2-2.対山寮
 学卒社員の寮は前平に対山寮,一般社員の寮は南平に聳南寮があった。対山寮に着いた時,7月というのに未だストーブが備え付けてあった。対山寮は鉄筋コンクリートの二階建てで,娯楽室には,囲碁,将棋,麻雀等の道具が備え付けてあった。別の部屋に撞球台や卓球台等の設備も備え付けてあった。
 寮の住人は寿賀,藤江,丹,前園,北島,上山さんの6人であった。
 そのうち3人は交替制勤務に入っていたので夕方に顔を合わせるのは,寿賀さん,藤江さん上山さん位であった。そのほかに学校の先生がいたが社員との交流は殆ど無かった。
 賄いの女の人は浅田のおばちゃんがリーダでその他に若い未婚の女性が3,4人いた。
 新入社員は採鉱関係の中谷,山口,それに自分,地質関係の中井で合計4人であった。
寮生が一挙に倍増したのである。一番喜んだのは上山さんである。前年は新入生が居なかったので,2年間,先輩に「こき使われ」てきたが,今後は上山さんが「こき使う」身分になったのである。
 坑内勤務は,朝7時から3時までの時間帯である。寮に帰ると先ず風呂に入る。風呂の窓を開けると,眼下に雲海が棚引いている。まるで仙人にでもなったような気がした。
 栃洞は,7月下旬の真夏というのに午後3時になると涼しく夏の暑さは感じられない。結婚してからのことであるが,盆踊りを見に行って,夜9時頃,
 「寒くなったので家に帰って炬燵を出そう。」と話したことがある。
海抜850mともなれば,気温は下界とは全く異なる。
 寮での娯楽は麻雀であった。上山さんは麻雀が大好きで娯楽室に実習生を呼びつけては麻雀を楽しんでいた。
 ある時実習生4人で麻雀をしていた。上山さんが側で観戦していた。自分は国士無双で「一索(い-そう)」の単騎待ちを聴牌(てんぱい)した。トイレに行きたくなったので上山さんに代ってやって貰った。トイレから帰って先ほどはどうなりましたかと上山さんに質問する。彼は何も答えず,
 「次!次!」
と言いながら一心不乱に牌を混ぜていた。
 「誰か一索(い-そう)を出したか?」
と訊く
 「一索(い-そう)はすぐ出たよ!」
と答える。上山さんは国士無双を見逃してしまったのだ。
 偶に,寿賀さんが技術係の中川さんと囲碁を打っていた。彼らの実力は2,3段の実力であったと思う。側で観戦していると,
 「君は碁を打つか?」
 「はい」
 「実力はどれくらいか?」
 「3級程度です。」
その後,彼等と対局するようになった。両氏に4子で打って貰っていた。
 特に中川さんとはよく打った。栃洞で勤務している間,中川さんが自分の家に来る,逆に自分が中川さんの家に行く,暇さえあれば碁を打っていた。暇が無くても打っていた。
 最初は4子局から始め,互先の手合いになったが,4子局の期間が最も長かったように記憶する。3子,2子,常先の対局は殆ど記憶にない。互先になったのは随分後のことである。
 彼とは囲碁ばかりでなく酒もよく飲んだ。酒を飲んで囲碁の話,彼の経験談,栃洞の昔話,文学の話等よもや話をしながら夜が更けた。退職後も手紙のやりとりをする,実に生涯の友達になった。その当時,娯楽といえば碁を打つか,酒を飲む以外に無かった。
 1989年に鉱業労働災害防止協会界名古屋支部発行の「保安通信」に投稿した原稿に次のような件(くだり)がある。
 「小生,下手の横好き,で30年近く囲碁を嗜んでいる。
  当社に入社した24年前は,せいぜい3級程度であった。現在,免状は3段,
  碁会所では4段と称している。顧みれば24年間で6段階,即ち,4年間で
  1段階ずつ昇進したことになる。此のペースで進むと,20年後には9段と
  なる。」
丁度,今年が20年後の2009年である。実力は如何?恥ずかしながら5段である。20年間でやっと1段上ったのみである。
 何事においても努力すれば,技や芸はある程度は伸びるが,努力に比例して無限に伸びるわけではない。限界がある。その限界は人によって異なり,神様が決めている。
 囲碁に限らず,文学・芸術・スポーツにおいても,「天才」がおりその下に「並みの人」がひしめき合っている。
 福沢諭吉の言うように「天は人の上に人を作らず。」と云うほど簡単なわけにはいかない。神様は世の中が丸く治まるために
 「人の上に人を造り,人の下に人を造っている。」
のである。

3.結 婚
 坑内実習中に,9月には結婚する予定であったので,人事係に届けを出した。社宅は何時でも入居可能であるとのことであった。八月の下旬の会社の帰りに同期入社の山口君と社宅の下見をした。社宅は警察署の上で公園山の麓であった。二軒長屋の南側で乗鞍岳や御嶽山が眺望し得る所であった。夏は涼しい,冬は北風が激しく吹く社宅として評判であった。

3-1.最初の引越   対山寮から前平
 対山寮から社宅に引っ越しをした。僅かな荷物であったのでリヤカーを借り,実習の親方である織原さんや同期の山口君達に手伝って貰って運んだ。対山寮を出て信用金庫か田口の菓子屋の辺りで数人の酔っぱらいに遭遇した。服装から推測すると,結婚式の帰りのようであった。その中に中川さん(生涯の囲碁友達)がいた。彼は可なり酔っているようであった。
 「やあ!齋藤さん、久しぶり,飲みに行こう!」
と腕を掴んで放さない。事情を話しても一向に効き目がない。中川さんの腕力は天下に鳴り響いていた。彼が寿賀さん達と酒を飲んでいて,戯れに腕相撲をした。中川さんがぐいと力を入れた,寿賀さんの腕が「ボキリ」と音を立てて折れたとか。その中川さんが自分の手を掴んでいるのだから,どうしようもない。
織原さんが
 「逃げるな!お前の引っ越しだぞ!」
と連れ戻す。
 リヤカーで2~3回往復したら引越は終り,社宅でささやかな宴会となった。

3-2.結婚に際して
 結婚式に帰る時,職場の人達が冗談半分,真面目半分で次のような話をしてくれた。
 「奥さんに逃げられないように!」
その昔, 長い間,独身であった人が,やっと奥さんを見つけて結婚した。都会の奥さんを栃洞の社宅に連れてくる途中,奥さんは杉の木が鬱蒼と聳える神原峠で,
 「こんな寂しい所に町があるのですか?」
と悲しそうな顔をして尋ねた。そして,何とか栃洞の社宅に着いたが,家に帰るといって泣き出したという
又,こんな話もある。
ある御曹司が由緒正しき所から嫁を貰った。嫁に来た奥さんは
 「栃洞は辺鄙で寂しいところだ。」
と実家に手紙を書いた。
母親が栃洞社宅をわざわざ視察に来た。そして
 「こんな山奥に娘を置いておく訳にはいかない。」
と奥さんを連れて,里に連れて帰ってしまったとか。

3-3.妻と神岡へ
 大阪で結婚式を済ませて妻と新居の神岡に向かった。京都から新幹線で名古屋へ,名古屋から高山線で高山に向かう。下呂を通り,久々野までは飛騨川沿いに走る。久々野を過ぎて宮トンネルを出ると,飛騨一ノ宮,次が高山駅である。やっと高山に着いた。妻は
 「神岡は何処ですか?」
と訊ねる。
 「ここから,バスで1時間くらいのところ。」
バスに乗って杉の木が鬱蒼と茂る神原峠にさしかかった。兎がバスの前を横切るのを見て妻は驚き溜息をついた。
 やっと神岡に着いた。赴任の時と同じく,濃飛バスの鄙びた停留所である。妻は
 「社宅は何処ですか?」
と訊ねる。
 「これからバスで40分程行った山の上だ。」
妻は流石にうんざりとした表情をしていた。
 バスの停留所は標高450m位である。ここから標高850mの栃洞にバスにのって登る。バスは坂巻の停留所までは混雑していたが,坂巻の停留所で多くの乗客が下車して,満席状態が解消され,座席に座ることが可能となった。
 この後は,つづら折りの路を40分掛かって,やっと栃洞の前平の停留場に着いた。

3-4.前平社宅 : 3年間在住
 1965年9月に前平社宅に入居した。この社宅は海抜850m準の山の上で,公園山の麓であった。
 木造の隙間の多い社宅であった。夏は涼しくて好いが,冬は家の中まで北風が吹き,とても寒い社宅であった。従って,冬期間は台所の直ぐ側の3畳の部屋ばかりを使っていた。皆に新婚だから,暖かいだろうと冷やかされた。
 何れの社宅も雪廊下が付属しており,自分達にとっては異様な感じがした。しかし,豪雪の時にその威力を実感した。外出の際には容易に外に出られるのである。

図7 最初の社宅

 1979年に御嶽山が水蒸気爆発を起こした時は,この裏庭から,噴火で立ち昇る煙がよく見えた。
 近くの左手に伊西峠から山の村(海抜1000m)に至るつづら折りの坂道が見えた。遠くの正面に乗鞍岳が,右手には御嶽山が見えた。何処を見ても山ばかりである。
 隣の社宅に水口義松さんが住んでおられた。下部係の係員であった。旦那さんも,奥さんも大変親切な人であった。特に奥様には長女「史歩」の面倒をよく見て戴いた。栃洞の様子の分からない時代に,色々リコメンドをして戴いた。
 その隣は井上隆平さんで,やはり下部係の係員であった。彼とは麻雀の友達になり,自分の社宅や井上さん社宅で,度々麻雀をすることになった。彼は麻雀しながら,奥さんのことを「うちの女中が云々」と何時ものろけていた。
 社宅のすぐ下に警察の派出所があった。派出所の南側に,だらだらとした坂道があった。これを「番屋(ばんや坂)」と称して
いた。
 図8は昭和29年頃の「番屋(ばんや)坂」の写真である。坂道の斜面が南に傾斜しているので日当たりがよく春先には,最初に雪が溶ける。

図8 「番屋(ばんや)坂

 「番屋」とは江戸時代消防や自警団の役目をしていた詰所のことである。坂道を登り切った処に警察署がある。昔この警察署が番屋(ばんや)であったのであろうと推測する。
 「番屋(ばんや)坂」を下りて行くと独身者の聳南寮があった。その下方に南平の社宅群が立ち並んでいた。
 この「番屋(ばんや)坂」は鉱山労働者の通勤路で,南平の社宅に住んでいる人々が朝早く坑口に向かって通勤する。

4.三井金属の鉱山
各鉱山の概要  
 三井金属が所有するベースメタルの鉱山は,神岡鉱山,中竜鉱山それにペルーのワンサラ鉱山の三鉱山である。神岡鉱山は岐阜県の北端,即ち富山県と岐阜県の県境に位置するし,鉱種は銀,鉛,亜鉛を産出する鉱山である。北に茂住鉱山,南に栃洞鉱山がある。鉱山から産出する鉱石を製錬するための鉛精錬所と亜鉛精錬所を所有している。
 さらに,1968年にはペルーのワンサラ鉱山を開山した。ワンサラ鉱山の鉱石は山元で,純分約60%の精鉱にして日本で製錬されている。
 自分は中竜鉱山に赴任した経験は無いので,中竜鉱山のデータを持ち合わせていない。その他の鉱山については,勤務経験があり,その当時のデータを持ち合わせているので,そのデータに基づいて以下を記す。

4-.生産量
 生産量は時代と共に変遷している。鉱山操業を「細く長くか,太く短くか」は経営者の考え方次第である
 一般的には,手持ち鉱量の多い時は増産傾向であり,手持ち鉱量が少なくなると次第に減産傾向となる。
 日本のような農耕民族は「細く,長く」,操業を続けることが地域的にもトラブルが少ないようである。因みに,栃洞鉱山は三井が明治7年(1874年)に鉱山経営するようになって以来,2001年に採掘を止めるまで,127年間操業したことになる。
図9に各鉱山の粗鉱生産量の推移を示す。


4-2.粗鉱品位
 図10に各鉱山の粗鉱中の亜鉛品位の推移を示す。品位の高い順は労働生産性とは逆にワンサラ鉱山,茂住鉱山,栃洞鉱山である。可採粗鉱量には亜鉛の他に銀,鉛が含有されている。毎年の出鉱品位はその年度の出鉱切羽構成により変化する。
平均的な品位を以下に記す。
           亜鉛%   鉛%    銀g/T
 ワンサラ鉱山   10    4.5     200
 茂住鉱山     7.5   0.5     20
 栃洞鉱山     4.1   0.3     22



4-3.労働生産性
 図11に各鉱山の労働生産性を示す。労働生産性の高い順は栃洞,茂住,ワンサラ鉱山である。
 各鉱山ともに,トラックレスマイニングの手法を取り入れて以来着実に労働生産性が向上している。
 1985年から栃洞鉱で始まった技術革新により,労働生産性は急激に向上した。技術革新は茂住鉱山,ワンサラ鉱山にも波及し,それぞれの鉱山の労働生産性を向上させた。
 茂住鉱山は1994年に鉱量枯渇で休山を余儀なくされ,技術革新の恩恵を十二分に浴することが出来なかったようである。ワンサラ鉱山は栃洞鉱山の技術革新が1990年頃から移植され,労働生産性は着実に向上している。



4-4.経常損益
 図12に各鉱山の経常損益の推移を示す。栃洞鉱山のように品位が低い鉱山で,出鉱量の多い鉱山ほど建値の変動に振られるようである。
 直近で,最も儲かっている鉱山はワンサラ鉱山で,次に茂住鉱山,栃洞鉱山は最下位である。これは粗鉱の品位の順番である。即ち,鉱山は「一に建値,二になおり,三四が無くて五に技術」である。技術の良い鉱山より,「なおり」即ち品位の良い鉱山が儲かるのである。品位の項で説明した通り,粗鉱には銀,鉛,亜鉛が含有されており,その価値の合計が生産金額となる。ワンサラ鉱山の銀品位は,栃洞鉱山や茂住鉱山の約10倍である



4-5. 鉱山の特色
 それぞれの鉱山の特色を以下に説明する。
 栃洞鉱山:粗鉱品位は低いが鉱床の規模が大きく,岩盤が強固である。大型機械化
      が進め易い自然環境である。労働産性を高め,低コストで採掘が可能で
      ある。
 茂住鉱山:品位は栃洞鉱山のほぼ2倍程度である。鉱床の規模は中程度である。
      岩盤状況については,母岩は強固であるが鉱床内及び周辺の岩盤は脆弱
      である。大型機械化が困難であり,労働生産性は低く,高コスト体質で
      ある。
 中竜鉱山:粗鉱品位,鉱床規模,岩盤状況,労働生産性等栃洞鉱山と茂住鉱山の中間
      に位置している。
 ワンサラ鉱山:粗鉱品位が桁違いに高い。鉱床規模,岩盤状況は茂住鉱山並みである。
      労働生産性は低いが,品位が高く,上記鉱山の中で最も競争力のある鉱山
      である。

5.坑内実習
 現場監督に就くためには保安係員の国家資格を有する者でなければならない。この資格を得るためには,学卒者で1年以上,高卒は3年以上の鉱山における実務経験が必要であった。
 従って,学卒社員といえども受験資格を得るためには,どうしても1年間の坑内実務を経験しなければなかった。一人前の保安係員になるまでの身分は実習生であった。
 配属された7月以降,神岡鉱業所の全般と坑内を実習することになった。坑外の亜鉛製錬や鉛製錬所の見学はもちろん,金木戸発電所の見学もあった。
 金木戸発電所の脇を流れる金木戸川は,三俣蓮華岳(2841m),笠ヶ岳(2897m),双六岳(2860m)等に源を発している。
 流れる水はとても綺麗で,冷たく,美味しい。これを「アルプスユミアン」と名付けて飲料水として販売したが,需要が追随せず商売には成らなかったそうだ。
 現在はいろいろな水がペットボトルに入れて販売されているが,昭和30年代では「水の販売」は時期尚早であったらしい。アイディアは良かったが,商売のタイミングが時期尚早であった。
 一通りの坑内実習と坑外の製錬所の見学が終わり,この後は,親方の指導を受けて,坑道掘進,追切り、立坑開削,採鉱作業,運搬作業,支柱作業等の実務を体験することになった。坑内実習は安全を考慮し,岩盤が一番強固な下部係で行うことになった。この頃の下部係は,栃洞鉱の出鉱量の大半を賄なっていた。人員は100人以上いる大所帯であった。実習に先立ち塚本俊六係長から
 「鉱山労働者と共に働き,共に昼食を取り,彼等の考え方,心情をよく理解すること。  又毎日,実習日誌を書いて提出すること。」
等の指示があった。
 特に,実習日誌は必ず提出すること。宴会でどんなに酔っぱらっても,実習日誌を必ず書いて,生産管理職の寿賀祥吾氏に提出するように厳命された。

5-1.坑道掘進
 坑道掘進は掘削の断面が小さいこと以外は,トンネルを掘削する作業と同じである。
 トンネル掘削は小さい断面でも幅6m×高さ5m程度であるが,坑道掘進の断面は幅2.2m×高さ2.0m程度である。最近のトラックレスマイニング法が導入されている鉱山では,坑道の加背の標準の断面は幅4m×高さ3mの断面である。
 岩盤は地表に近い部分は脆弱であるが,地表から深いところは硬く強固である。
 トンネルは地表に近い脆弱な岩盤の掘削であるが,鉱山の坑道掘進は地表から500m以上深い強固な岩盤を掘削するので,岩石を起砕することが難しいのである。
 自分が下部係長の時ゼネコンに坑内の坑道掘進を発注したことがある。その時代残業した後,-370の坑口を出て町の飲み屋に行くことがあった。本日は二の方で,坑内作業しているはずの,ゼネコンの作業者が威勢良く飲んでいる。
 「どうしたのだ」と聞くと
 「あほらしくて仕事が出来ない。今日はやけ酒だ!」という。
詳しく事情を聞くと次のようであった。
 坑道掘進作業で,ゼネコン流の穿孔配置で穿孔し発破をかけた。発破はけたたましく鳴り響いた。発破後の点検をしたところ起爆された一遍の岩石のかけらも散乱していなかった。発破音だけが勇ましく鳴り響いたのであった。鉱山で云う「ベロハチ」である。
 因みに「ハチ」とは発破の起爆不良のことである。「ベロハチ」とは全くの起爆不良で,発破をかけても岩盤が全く起爆されていない状態である。
坑道掘進は以下の3つの基本作業から成っている。
  ¶ 穿孔作業
    岩盤に火薬を装填するための孔を穿孔する。
  ¶ 発破作業
    穿孔された孔に爆薬を装填した後,発破を掛け岩盤を起砕する。
  ¶ ズリ取り作業
    起砕された岩石を片付ける。
 以上の穿孔,発破,ズリ取りの作業を繰り返す事により,坑道が掘削されていく。坑道掘進を行うに当たって,難しいことが二つある。
 第一に,穿孔作業の最初の段階の紋取り作業であった。岩盤を穿孔するのは鏨を岩盤に押しつけ,適当な回転を与える。紋取り作業とは岩盤を穿孔する最初の段階の事である。鏨先が岩盤に食い込んでしまえば削岩作業は順調に進む。鑿先が岩盤に食い込むまでの作業を紋取り作業という。
 第二の難関は穿孔配置である。坑道の断面に如何なる配置で穿孔するかである。岩盤によって穿孔配置を換える必要がある。片磨岩と,石灰石の場合では穿孔配置が微妙に異なるのである。岩質が異なれば穿孔配置も換える必要がある。これをマスターするには10年~15年の経験が必要であるらしい。即ち,一人前の鉱夫になるには最低10年が必要なのである。
 穿孔配置を図面に書いて貰って覚える。穿孔配置を覚えることはさほど難しくないが,穿孔配置通りに岩盤に孔を開けることが難しいのである。岩盤には少なからず凹凸があって穿孔配置通りに,紋取りが出来ないことが多いのである。
 穿孔,発破,ズリ取りを1回行うことを1サイクルと称していた。1サイクルの作業,即ち,1発破により約1.5m程度進行する。1ヶ月に30サイクル繰り返すと,1.5m/サイクル×30サイクル=45mを開削する事になる。
 鉱石の採掘をするための準備作業を開坑という。開坑の作業には坑道掘進,切上り,追切(拡幅すること)等の作業がある。これらの作業に従事する作業員を進削員といい,坑内作業員の花形である。体力と技術が必要である。給料の高い職種で魅力的であるが,技術が伴わないと災害を引き起こす確率が高い。
 最初の坑道掘進の現場は-300m準のケ-ジプラットの前にブロック食堂を作る為の坑道掘進であった。坑道掘進が終了した後,坑道を拡幅して食堂を仕上げるのである。ブロック食堂を計画通りに拡幅して,-300m準のブロック食堂に仕事を終えた。

5-2.ブロック食堂作り
 -300m準のケ-ジプラットの前にブロック食堂を作る作業であった。この作業は40%程度進捗していたので早く終了した。
次の作業は-370m準のケ-ジプラットの前に坑内事務所を作る計画があった。-300m準のブロック食堂と同じように坑道掘進から始めた。
 穿孔作業は手持ち削岩機を使用した。土砂取りは600型ローダを使った。当時は700型ローダが最新鋭の土砂取機であったが,実習生には使わせて貰えなかった。600型ローダは使い易い機械であったが,土砂取り時に度々脱線をした。ローダの脱線を修復している時間が多かったように思う。
(注)マインレベル
 海抜850m準を基準にして,定められたレベル準のことをマインレベルという。マイナス300mとは,海抜850m準を0m準とし,そこから300m下のレベルのことである。海抜で表示すると450m準のことである。
 鉱山で働く人達が通勤時に出入りする坑道を通洞坑道という。通洞坑道は海抜850m準である。鉱山ではこのレベルを0m準としている。

5-3.立坑開削
 立坑開削の実習では進削員の米田さんの指導で,高さ30mクラスの切上りの実習をした。
 -300m準から20mほど上がった中段から-250m準までの切上りであった。-300m準には我々実習生が掘削した空間に,大工さんが入りブロック食堂が既に出来上がっていた。米田さんは鉱山高校出身であった。彼と同期の者は既に現場係員に昇格している人もいたが,そんな事は全く気にせず悠々と仕事をしていた。彼も後年に現場係員に昇格した。
 彼は将棋が大変上手であった。昼食の後,米田さんと将棋を2,3番指した。1の方の時は残業で足場材を中段まで上げた。1の方の作業が終わり,残業に取り掛かる迄,15分か20分程度の小休止があった。その僅かな時間にも,米田さんと将棋を指した。勝敗は米田さんが圧倒的に強かった。自分の実力は3級か4級程度であったが.米田さんは初段近い実力であったから,当然の結果であった。
 切上の作業は穿孔・発破・足場入れが1サイクルであるが,1方(ひとかた)では1サイクルはこなせなかった。1の方で穿孔・発破の作業を行えば,次の2の方で,穿孔作業を行うための足場入れ作業を行うことになった。
 坑木・木材を縄に結わえ,肩に担いで「引っ立て」まで運ぶ。此の材料運搬は意外と重労働である。材料が重いので縄が肩に喰い込んで,肩に赤い痣ができる。女房が自分の肩に赤い痣を見つけ
 「会社でどんな仕事をしているか?」
と訊ねることがあった。

5-4.思い出の斜坑
 当時,栃洞鉱の出鉱量は9番鉱床の24号,26号をサブレベルストーピング法で採掘することにより賄われていた。
 殆ど毎日長孔発破が掛けられた。夜10時頃,社宅にいても地震と勘違いする程の「ズシン」と振動を感じた。
 9番鉱床の下盤に斜坑(傾斜35度)があった。長孔発破火薬運搬にこの斜坑を使った。
 「実習生あなた方は若くて,力持ちだね!」
と煽てられ重量物や爆薬類を率先して運んだものである。この斜坑はその当時のメインストリートであった。
 上部係の係員をした後,下部係員に配属された。実習後の4年くらい後の話である。下部係の坂本係員にこの斜坑を案内して戴いて。-250m準の坑道からこの斜坑を眺めた
 24号,26号の採掘の影響で斜坑は傾き,さながら廃墟のようであった。じっと斜坑を眺めていると,実習時代が思い起こされ目頭が熱くなった。坂本さんは
 「齋藤さん,そんなに懐かしいかな?」
と不思議そうな顔をしていた。

5-5.ガマ
 サブレベルの中段を拡幅する作業を「土平返し」という。「土平返し」の発破をかけた後「ガマ」が出ることがある。ガマは,晶洞内部の鉱物の結晶である。方解石,魚眼石,水晶等いろいろなものがある。
 自分が入社した頃,小さなガマを貼り付けた「東京タワー」の模型を作ることが流行っていた。「ガマ」は重宝がられた。後年,高山に観光に行ったとき古物商で神岡鉱山産出の「ガマ」が店頭に並べられていた。我々の目からすると大して立派なガマでもないにもかかわらず,4~5千円で売っていた。

図13 ガマ(晶洞)


 ある2の方の作業中に26号の切羽で「ガマが出た」と噂が流れた。皆ガマの出た現場に向かった。自分達もガマの出た堀場に向かった。着いた時は既に,5,6人が集まっていた。
 天盤からガマを掘り出す人,それを受取って次に渡す人。最後の人は受け取ったガマを踏前に並べた。自分も中間の渡す人になった。ずしりと重いガマを受け取った時,ガマで指先を切り出血した。誰にも何も言わずに指を押えていた。昼休みに弁当は5分くらいで済ませ,怪我の処置をするため
 「忘れ物をした。」
と家に帰った。冬のことであったから辺りは暗くなっていた。坑口を出れば5,6分で我が社宅に着く。玄関に座り,妻に右手を出して処置をしてもらった。急いで会社に引き返し,午後の作業についた。一日の仕事が終わり手洗いをしていた。
 「あっ!」
と驚いた。ガマを受け取った時に,怪我をした指は「薬指」であるにも拘わらず,包帯は「人差し指」に巻いてあったのだ。

5-6.支柱作業
 下部係での実習も1年以上が経過した。最後の実習が支柱作業である。下部係では岩盤が良好であったので支保作業は皆無の状態で,支柱作業の花形は重量物運搬であった。我々実習員は重量物運搬の手子として従事した。その当時の切羽運搬機の主力は電動の50馬力や30馬力のスクレーパであった。切羽が移り変わる毎にスクレーパも移動させなければならなかったのである。
 支柱員に野沢さんという作業者が居た。彼は纐纈三郎さんと共に昇格の候補者であった。纐纈さんが昇格し,野沢さんは見送りになった。彼は引き続き支柱員として働いていた。彼の昇格が話題になっていた頃は,激しい仕事ぶりであったが,昇格に漏れた後は実にのんびりとした仕事ぶりに激変した。
 「齋藤さん一服してゆっくりやらまいか。」
悠然たるものであった。纐纈さんは麻雀が好きで,度々,係長宅で麻雀をしていたとか。野沢さんは遊びには見向きもしないで仕事一本の人であった。人の噂では,
 「纐纈さんとの昇格競争に負けて人が変わった。」
と言うが,彼は過去のことについての愚痴は一切言わなかった。唯,悠然と仕事をしていた。
 修繕の仕事が終わり,実習生3人は-300m準のケージプラットで,ケージの来るのを待ちながら,雑談をしていた。下部係長が塚本係長から池田係長に交代した頃である。
 ケージが-300m準のレベルより少し下のレベルで止まった。ケージに搭乗している人の頭が見える状態で停止する。反対側のケージが-60m準に止まり,人が昇降をしているのである。
 塚本係長 から交代になった池田係長の噂をしていた。どうせ好い噂はしていなかったと思う。-60m準のプラットで人の昇降が終わり,ケージが-300m準のプラットに止まった。実習生3人はケージに乗り込んだ。其処に噂の池田係長が乗っていた。逃げることもならず,黙って下を向いていた。
 通常,池田係長はこの時間帯は事務所にいるのであるが,この日は現場巡視をしていた帰りであったらしい。
 早速池田係長の仕返しがあった。2~3日後に,纐纈さんが池田係長の言付けを申し渡してくれた。
 「明日から,山口,中谷君は技術係の実習に従事し,齋藤さんは下部係に残って支柱
  作業の実習を続けること。」
自分は1ヶ月以上,下部係に残って支柱作業の実習をした。技術係に行った山口,中谷君達がタイムスタディ-で下部係にやってきた。彼等は
 「齋藤!まだ重量物運搬で絞られているのか。」
と冷やかされた。

5-7.実習の締め括り
 入社2年後に,自分の選んだテーマを小論文に纏め,本社で発表する事になっていた。自分のレポートのテーマは鉱山機械の動力源である圧縮空気の「高圧化について」を選んだ。
 一般的に,作業能率は圧縮空気の3/2乗に比例すると云われていた。
 円山坑における高圧化前後の各作業のタイムスタディを比較することにより能率の上昇の検証を試みた。坑内の各作業の能率が3/2乗に比例して伸びれば,1.22倍になるはずであるが,圧縮空気を使用する時間は作業の1サイクルの内50%程度である。他は準備・後片付け等に時間を費やしている。従って,能率アップは圧縮空気を使う50%の部分のみである。各種作業のタイムスタディを取り,作業能率の向上を検証することとした。

図14 流量測定装置


 先ず,配管による圧力降下を調べた。コンプレッサー室から円山坑まで約2500mの距離である。圧縮空気は通洞坑道に12インチの配管で円山坑に導かれている。圧力測定用のオリフィスは坑内事務所の横に敷設してあるメイン配管に設置した。
 ガラス管のU字型に曲げた部分が圧力に耐えかねて,幾度となく破裂した。その度に坑外工作係に行って作り直して貰った。工作係の作業者は文句も言わず根気に作り直してくれた。
 坑外工作係は鹿間の工作課の管轄で,係長は山本郁夫氏であった。彼は坑道レシーバや高圧化の工事に多大なる貢献をした人である。我々実習生の面倒も良く見て戴いた。
 やっと,測定の段階になった。この段階で技術係の下島さんに応援してもらった。
 冬の通洞坑道は入気が強い,手は悴(かじか)んで字を書くのに苦労した。鼻水がしきりに出た。
一日の測定が終了し人車に乗って帰宅する。帰途,下島さんが
 「一杯やらんかな!」
と誘ってくれた。帰りに下島さんの社宅で日本酒を戴いた。飲みながら下島さんが言う
 「普通の人ならあれだけU字管が破裂したら,別のことを考えるで!」
 「あんたは良く言えば辛抱強い!悪く云えばダラやで!」
とぼろくそに言う。1,2杯飲んで帰るつもりが,苦労話に花が咲いて,遅くまで飲んでいた。ほろ酔い気分を通り越して千鳥足で帰宅した。
 下島さん宅でよく餅を焼いて貰った。醤油に味の素と七味唐辛子をたっぷり入れる,その中に焼いた餅を浸ける。餅が七味唐辛子で真っ赤になっている。厚さと辛さで
 「ヒ-,ヒ-」
と吹きながら食べた。この食べ方が実に美味いのである。今でもこの方式で餅を焼いている。そして下島さんの事を思い出す。
 正月であった。下島さんが我が家に飲みに来た。ほろ酔い気分になったところで,彼が
 「井澤さん宅に飲みに行こう。」
と誘う。
 井澤さんが上部の現場係員をしている頃,下島さんは,部下として廃滓充填の仕事をしていたので井澤さんとは昵懇の間柄であった。
雪が降っていた。玄関に置いてある傘を持って雪廊下を出た。
 「あんた何処の人や?京都では雪が降ったら傘をさすのか!」
 「雪が降っている時に傘を持つなんてダラヤナ!」
 「栃洞の雪は下から降るんや!傘など間にあわんで!」
と下島さんが大笑いをした。

6.東 尚七1 坑長    1東京大学工学部S20年卒
 実習していた当時の坑長は東尚七氏であった。神岡鉱山発展のために尽力し,神岡鉱山をこよなく愛した人である。
図15 東 尚七 坑長


 鉱山ライフを極力長く保つ観点から,鉱石を完全採掘する事が東さんの基本的な考え方であった。採掘順序は
 「地表に近い鉱床から,ケージ立坑から遠い鉱床から順次採掘し,鉱石を無駄なく,
  1トンも残さぬように採掘すること。」
と口癖のように言っておられた。又
 「計画は慎重に,実行は勇気をもって。」
とも言っておられた。「計画は慎重に」とは,立案した計画を職場や組合等に十分説明し実行に当たってトラブルが生じないようにという意味であった。又
 「栃洞鉱山は豊富な可採粗鉱量を保有しており,今後20年間は,採掘を続けること
  が可能である。こんなに長い鉱山ライフを誇る鉱山は国内では他にない。栃洞鉱山
  は未だヤングマインである。」
と自慢しておられた。
 東さんの時代から20年というと,1985年が,閉山の時であるが,実際は2001年であったので,予想より16年間長く採掘を続けたことになる。自分が鉱長に就任したのは,東さんに遅れること18年(1983年)であるが,お客さんに操業概況を説明する時,東さんと同じように,
 「今後20年間操業が可能である。」
と説明していた。自分の言葉通りだと閉山は,2003年であるが,実際は2年早い
2001年6月30日に休山した。
 東さんは重要な事項を,一つ何々,二つ何々,三つ何々と列挙することが好きであった。例えば栃洞坑目標に
   一に 保安
   二に 探鉱
   三に 3,600トン
があった。解説すると
 安定操業をするために,先ず保安を確保する,長期安定操業のために,探鉱によって将来の鉱石を確保する。しかる後に,一日当たりの粗鉱生産量,3,600tを確保する。と云うことであった。又,
保安確保のために
   1.保安は計画から
   2.保安は機先を制し
   3.保安はみん「なの目から」
というのがあった。これは,災害を防ぐためには,
 第一に
  管理者は無理のない安全な採掘計画・作業計画を立てる。
 第二に
  監督者は設備や作業方法をチェックし,災害を未然に防ぐよう努力する。
 第三に
  作業者は不安全設備・不安全行動を「みんなの目」で指摘し安全な職場作りに協力す  る。
良くできた保安目標であった。

6-1.東さんの逸話
 東坑長とは直接に会話した事はないが,多くの逸話を記憶している。
1)懇親会
 下部係で実習をしている時,現場監督者の懇親会が催された。東坑長も参加され,我々実習生三人も仲間に入れてもらった。塚本係長以下,現場監督者がマイクロバスで富山に
ツグミの焼き鳥を食べに行った。
ツグミは北陸や中部地方では霞網によって年間数百万羽も捕ら
えられ、雀という名で焼き鳥にされていた。1947年にツグミは禁猟になり,霞網も禁止になったが,まだ密猟が後を絶たなかったのである。宴たけなわの頃,実習生のなかで
 「東さんに巻き寿司を投げつける勇気があるか?」
と言う者がいた。誰も投げつける勇気のある者はいなかった。
しかし,後年,誰かが
 「齋藤は東さんに巻き寿司を投げつけた。」
と言いふらす者がいて,有名な話になってしまった。
 帰途,東坑長が霞網で捕獲したツグミをポケットに入れ得意そうにしておられた。それを見つけて
 「禁猟であるツグミを持ち帰るとは何事か?」
といって東坑長のポケットに手を入れて,持ち帰ろうとしていたツグミを逃がしてしまった。このいたずらのため,東さんの自分に対する印象を極めて悪くしてしまった。
2)日本地図
 佐々木賢治さんが何かの会合の時
 「“天は二物を与えず”とはよく言ったものだ。東さんは優秀な採鉱屋であったが,
  研修会で東さんが講師をされ,日本地図を黒板に描かれた。その日本地図はどう
  見ても日本地図に見えなかった。」
と佐々木賢治さん独特の「ケタケタ」という笑い方で笑いながら,得意そうに話してくれた。
3)片山さんの話
 東さんが引退された後に病床に伏されたことがある。自分が茂住鉱長代理の時だと思う,片山一郎氏がわざわざ取手まで見舞いに行った。茂住に帰って,次のことを報告してくれた。
 「今,茂住の鉱長は誰だ!」
 「齋藤修二さんです。」
 「あれはなかなか頑張る男だよ!」
と東さんが呟かれたとか。
円山係長の辞令を受ける時,東さんは自分に
 「齋藤君!君を何時,首にしようかと思っていた。」
と冗談を言われた自分にとっては嬉しい話であった。
4)神岡に帰ろうよ!
 東さんが亡くなられ,徳永さんが葬式に行った時,奥さんが話してくれた。東さんの臨終が近いとき,夢うつつの状態で
 「陽子!神岡に帰ろうよ!」
 「陽子!神岡に帰ろうよ!」
と魘(うな)されながら,繰り返されていた。
東さんは余程,神岡が懐かしかったのであろう。陽子さんは東さんの娘さんである。
自分も臨終の時に自分の娘に
 「史歩!神岡に帰ろうよ!」
と叫んでみたい。
 自分が退職する迄に居住した箇所は,故郷の兵庫の但馬に20年,京都に4年,神岡に29年,ペルーに2年,東京に10年である。
 神岡の勤務が一番長く,サラリーマン生活の大半を過ごした。子供達は神岡で生まれ,神岡で育ったのであるから,文字通り故郷である。
 自分の臨終の時,東さんのように,
 「史歩!神岡に帰ろうよ!」
と叫んでも不思議でない。
5)ゴルフ
 東さんが神岡鉱業の社長で赴任された頃は,ゴルフなど「亡国の遊びだ!」と軽蔑をされていた。周囲の人に勧められて,止むを得なく,東さんもゴルフを始められた。東雲の練習場にも通われた。
予算説明の席上,東さんが
 「ウフフ!」
と一人笑いをされた。皆が不思議がって何事かと訊ねた。東さんがおもむろに説明される。
 「昨日,東雲の練習場に行った。満身の力を込めて振り抜き,玉の行方を追った。
  何処にも見えない。やむなく下を見た。ゴルフボ-ルはティ-の上に鎮座して
  いた。」
それを思い出され一人笑いをされたのだった。又,
 東さんは講釈好きで,ゴルフのプレイ中,パートナーに
 「君ね!球はこのように打たなければ!」
と教えられる。東さんよりはるかに上手な人に対しても教えられる。皆がゴルフ場で東さんのことを「教え魔」と渾名を付けていたそうだ。
6)越冬燃料
 昭和26年に4日間のストライキ後,佐藤久喜社長と東尚七神鉱連委員長,荻野正男神岡労組委員長で交渉が持たれた結果,勝ち獲た賜物と聞く。因みに
 当時は三井鉱山から分離独立した直後であり,労働組合は三金連(三井金属労働組合連合会)から,神鉱連(神岡鉱業労働組合連合会)と改称された。
 発足当時の各単組の勢力は神岡4,316名,三池2377名,彦島767名,日比697,竹原379名,串木野209,合計8,749名であった。越冬燃料については各単粗から,中々理解が得られなかったようである。各単組の代表が
 「一度神岡に行き,冬期間の生活の実態を調査する。」
ことになった。各単組の代表が雪の降る神岡にやっと到着し,
 「やれやれ」
と思っていると,栃洞は山の上で,
 「これから車で40分」
という。渋々,栃洞に向かった。和佐保の堆積場に来た時,猛烈な吹雪となり,一寸先も見えず,車は前に進めない状態となった。単組の代表達は
 「もう解った!解った!」
と栃洞に上るのを諦め,下山してしまったと言う。


7.山の生活(Ⅰ)
 栃洞の生活は慣れてしまえば単調なものであった。朝6時半頃出勤する。朝は早いけれども,午後3時には帰ってくる。夏なれば未だ太陽がかんかんと照っている。そんな日の高いうちに共同浴場に行く。娯楽と言えば,職場で知り合った人達と麻雀や囲碁を楽しむことである。
 第一子は最初の社宅で1967年3月17日に誕生した。図16の写真は妻が長女「史歩」を裏庭で抱いている写真である。
 裏庭の地面は海抜850mである。季節は服装から判断して初秋の頃である。
 図16の写真の背景の山は「伊西(いにし)」方面の山である。写真には写っていないが,写真に向かって右方に乗鞍岳,更に,その右方には御嶽山が位置している。裏庭に居ながらにして乗鞍岳や御嶽山を眺望することが出来るのである。
 長女「史歩」が未だよちよち歩きの時に,水口さん夫婦に,よく懐いて一人でも遊びに行った。柏豆の社宅に引っ越した後も親しくお付き合いをして戴いた。長女史歩が4歳,次女文代が2歳の頃,水口さんの奥様は亡くなられた。史歩と文代が共に悲しんだ。

図16 長女の史歩


 自分は栃洞に連続21年間在住した。その間に4回も引っ越しを経験した。社宅にも格付けがあった。新前が入る社宅,中堅社員用の社宅,管理職用の社宅等である。会社における地位が上がると,それに伴って社宅も格上の社宅に引っ越しする。あるいは後輩が入社して結婚すると,既婚?はところてん式に引っ越しをする必要があったのである。

7-1.遠来のお客さん
 この社宅に遠来のお客さんが沢山訪れてきてくれた。
先ず,英子姉の家族が訪れてくれた。姉の家族と言っても夫婦と赤ん坊の三人であった。赤ん坊は長男の正樹君であった。
車で旅行の途中に立ち寄ってくれた。
 杉谷嘉昭君は機械メーカに就職をしていた。選鉱のポンプを茂住鉱に販売したので出張でやってきた。茂住からわざわざ栃洞まで遊びに来てくれた。徹夜で碁を打った。次に兄が単身で来た。

図17 藤記奥様と兄

 藤記先生夫妻と一緒に来る予定であったが,都合で兄が一日早く来た。自分は2の方で勤務中であった。2の方とは午後2時半から夜の10時半までの勤務のことである。勤務中妻から電話があって,勤務途中で帰宅した。藤記先生夫婦は次の日に,富山への旅行の途中,自家用車で来られた。帰る時は,兄は藤記先生の車で一緒に帰った。
 山内勇喜男君は大学院に在学中の冬であった。京都から遊びに来てくれた。彼は学生時代銀閣寺の参道の脇に下宿し,6畳の間と3畳の間を一人で占有していた。自分の下宿は白梅町で,朝夕の食事付きで自由度がないことを理由に,彼の3畳の間を借りて暮らしたことがある。
 同和鉱業に就職した黒田昭君も会社の出張でやってきた。冬のことである。炬燵に入って長女の史歩を抱いてあやしてくれた。彼は残念ながら,1991年に夭折した。49歳であった。
 藤記先生は別の機会にも来られた。1971年頃,自分が生産管理職であったのでこの社宅でなく,柏豆社宅に引っ越した後である。その時は坑内見学をして戴いたと記憶する。坑内見学は下部係を見学して戴いた。下部係の清濁水分離に大変感心されていた。そして清水の温度が冷たいこと,綺麗なことにも感心されていた。図18はその時,南平坑口で撮った写真である。
 坑内見学の後,山本外也夫妻の案内で,「山の村」の水芭蕉を観察に行った。山本氏の奥さんの里が「山の村」である。
 水芭蕉の群生する高原を案内して貰った。藤記先生の奥さんは大変感激しておられた。「山の村」からの帰りの車の中で,山本の奥さんが,「山の村」についていろいろ説明した。その時「伊西」という地名が出てきた。藤記先生の奥様が
 「“いにし”とはどんな字を書くのですか?」
と質問された。山本の奥さんが
 「イタリアの“伊”に“東西南北”の”西“を書きます。」
と答えられた。素晴らしい説明だと思ったのであるが,何故か本人が大笑いした。皆もつれらて大笑いした。 

図18  藤記夫妻と南平坑口で


8.保安係員
 保安係員とは坑内作業を行うに当たり,坑内作業員を20~30人単位にグルーピングし,彼等の保安管理,作業管理,労務管理等を行うものである。

8-1.国家試験
 1965年7月より,1年4ヶ月の実習期間を終え,8月に国家試験を受験した。受験に際し先輩から
 「学卒でこの試験に落第した者はない。もし不合格なら赤飯を炊いて祝ってやる。」
と冷やかされた。8月に受験し合格発表は11月末であった。
 無事,国家試験に合格し1966年12月頃から保安係員としてデビューした。
 採鉱係は上部・中部・下部・円山の4つの係があった。自分はそのうちの上部係に配属された。直接の部下は20人そこそこであったが,全て年上の労働者であった。最初のうちは仕事も十分に解らないのに,指導・監督の立場に立つことは気がひけた。

8-2.浅坂新十郎さん
 鉱山の操業は2交代で1の方は朝7時から午後3時まで,2の方は午後2時半から夜10時半までである。一つのブロックを二人の保安係員が担当する。
 最初の相棒は浅坂新十郎氏であった。彼は厳しい人であった。満州で憲兵をしていたそうである。北海道の本庫鉱山や神岡の下ノ本鉱山にも勤務した経験があるそうだ。
 何事にも厳しい人であった。上司に対しても胡麻をする人ではなかった。作業者は皆,畏敬の念を持って接していた。綺麗好きな人で,彼の担当する切羽には塵一つ落ちていないほどであった。
 作業に当たっては必要な資器材をあらかじめ準備していた。例えば,切り上り作業に掛かるときは,作業者が坑木・木材を注文する以前に,彼は必要な坑木・木材を,あらかじめしかるべき場所に準備していた。坑道掘進作業の場合も,レール,ペーシ枕木等も前もって準備をしていた。
 「何事も要領を本分とすべし。」
と言っておられた。
 浅坂氏には色々な旧坑に連れて行って貰った。簪(かんざし)が落ちていたという2番(甲)鉱床の堀場,捕虜が働いていたという,8番(乙)鉱床の堀場等に連れて行って貰った。8番(乙)鉱床の旧堀場では土平(壁)に,
 「No long more」 
とか
 「髑髏(どくろ)」
の絵がカンテラの墨で描かれていた。
 カンテラとはカーバイトランプのことで,語源はオランダ語の kandelaar から来ている。カンテラはキャンドルとも同一語源。
カンテラは鉱山でキャップランプが使用される以前に使用されていた。
 図19に示すカンテラを肩から提げて照明灯に使用していた。アセチレンの炎は煤を多く発生させるため,測量員は,他の鉱山労働者がキャップランプをしようするようになっても,カンテラを重宝にして使用していた。炎で文字を書く,マーキングをする等に適していた。

図19  カンテラ


8-3.よもやま話
 1の方勤務の時は近くに技術係,保安係の人,あるいは係長の目が光っているため,午前も午後も現場巡視に出かける。
 しかし,2の方勤務で,午後6時半の昼休みは,周辺に余分な人はいない,坑内事務所は現場係員のみとなる。
 年配の係員は気分が乗ると,昔の武勇伝,作業方法,災害,事故,春闘のストライキ,豪雪等について語ってくれた。次の話は何時までも忘れられない
 1957年,栃洞坑下部係でバッテリー電車が第二ケージ竪坑に墜落し,死者5名,重傷14名の重大災害の話は記憶に残っている。
 朝の番割が終了し,作業者が満杯状態でケージに乗って下降中,竪坑内の上部からバッテリー電車が墜落して来た事故である。

8-4.三交代勤務
 北2第7旧坑帯を探鉱するため,3交代で坑道探鉱が開始された。自分はその三交代の保安係員を命ぜられ,浅坂さんと別々に仕事することになった。
 三交代勤務は1クルー3人で,一日は3クルーで9人編成であった。彼等とは,よく遊び,よく飲み,よく仕事をした。
 三交代のメンバー全員が一同に会する機会がないので,保安常会は全員が参加できるように,日曜日に公休出勤をしてもらって開いた。保安常会の後は宴会となる。宴会は12時頃から始める。終わるのは深夜の12時であった。鉱山の人たちの宴会は何時に始めても,終わるのは深夜12時である。この三交代勤務を約1年半勤務した。


9.生産管理職
 生産管理職は保安係員を卒業後に就くポストである。採鉱計画,予算,長期計画等の編成を主な業務とする。生産管理職は昭和1969年に上部係の生産管理職を,昭和1971年~1973年まで中部係の生産管理職を務めた。
 この頃,自分は会社でどのような人生を送るのであろうかと,行く末を考えたことがある。一概には言えないが。
採鉱部門の先輩達の軌跡から推測すると,入社後1年目は実習,2年目以降4年間は保安係員,5年目に生産管理職,9年目に係長,15年目に坑長代理,18年目に坑長となるようである。会社の組織はピラミット型の階級的組織構造を形成しているので,全ての人が坑長になるわけではない。
この生産管理職に以下のタイプがある
 ¶ 計画に独創的なアイディアを盛り込む。
 ¶ 上司の係長と議論しながら,納得した上で仕事をする。
 ¶ 命令されるが儘に,ひたすらに仕事をする
 ¶ 命令されたことも満足にこなせない。
 生産管理職の主な仕事は月予定,予算,長期計画等の策定であった。月予定とは1ヶ月間の
 ¶ 鉱量・品位・金属量の積算
 ¶ 探鉱・開坑の場所と作業量
 ¶ 採鉱の場所と作業量
 ¶ 切羽運搬の場所と作業量等
これは鉱山労働者がどこでどんな仕事をするかの予定となる。
 予算は上期・下期の予定表であるが,早い話,月予定の6ヶ月分である。 予算はそれに以下の仕事を加える。長期計画はそれの5~6年分である。
 ¶ 全ての作業量から必要人員を積算
 ¶ 使用機械類の必要台数積算
 ¶ 修繕費と起業費の申請

9-1.予算編成
 生産管理職時代は月予定,上期予算,下期予算,その中間の落付予算の編成,長期計画等であった。現場巡視する暇が殆ど無く,机に向かって,年中予算に関する仕事をしていたような気がする。
 予算とは出鉱量,人員,機械,物品費,修繕費,起業費等を積算し,その予算に基づいて人員,機械を再配分する。
出鉱量から鉛精鉱,亜鉛精鉱および銀,鉛,亜鉛の金属含有量の計算をする。金属建値が決まれば,収入金額が判明する。
 予算編成をする時に,特性値,工程,工数,探鉱,開坑,採鉱,切羽運搬,運鉱,支柱,雑工数等の用語を使う。
 特性値:作業量のことである。
 工程:能率のことである。
 工数:人数のことである。
 探鉱,開坑,採鉱,切羽運搬,充填,運鉱,支柱,雑工は各種作業の名前である。
 探鉱 :鉱石を探すために開削する坑道掘進。
 開坑 :鉱石を出す準備をするための坑道掘進。
 追切(おいぎり) :坑道を拡幅すること。
 採鉱 :鉱石を採掘すること。
 切羽運搬 :採掘された鉱石を立坑まで運搬すること。
 運鉱 :立坑に投入された鉱石を選鉱場まで運搬すること。
 充填 :採掘跡を土砂で埋め戻すこと
 支柱 : 脆弱な岩盤を補強する作業,
 修繕 : 軌条敷設や重量物運搬等
 何処から,どれだけ鉱石を出すかが決まれば,上記の各種作業量が決まる。各種作業量の能率を設定し,工数を算出する。以上の工数に支柱作業と雑工数を加え総工数とする。この総工数を年間1人当たりの工数で除した数が必要人員である。
 年間1人当たりの工数の計算は以下の如くである。
 年間1人当たりの工数
         =年間操業日数×超過労働率×出勤率
 年間の操業日数が300日
 超過労働率が5%
 出勤率が90%
であれば
 年間1人当たりの工数=300×1.05×0.90=283
となる。
 係の必要人員は総工数を283で除した数であり,各種作業の工数を283で除せばそれぞれの作業に必要な人員が算出される。
 各係では特性値や能率を安全サイドに組み,予算達成が容易となるように予算を作成する。従って,各係の予算を集計すれば,人員や機械が不足することになる。予算会議は分捕り合戦なのである。
 ある予算会議で,採鉱係の4係,即ち,上部,中部,下部,円山の予算を集計すると。2万工も超過していたことがあった。当時の栃洞鉱の坑内総工数は13万工であったから2万工と言えば約15%である。人員にして約60名分である。
 鉱長は各係が設定した坑道掘進や切上等の各種作業の能率を査定して修正する。全係の能率を修正したところで再度集計をする。削減された工数は僅か数百工である。主作業率を上げる,超労率を上げる。それでも2万工には達しない。
 最後には作業量をカットする。ありとあらゆる方法で工数を削減すが所期の目的は達成しない。時間は深夜1時になっている。鉱長は最後に
 「一律に数%カット!」と
 大声を出す。各係長はそれぞれブツブツ文句を言いながら鉱長の命令に従う。やっと2万工の削減を達成した。深夜2時であった。それから前平で唯一の飲み屋であった「中沢」に繰り出した。家に帰るのは朝の4時頃である。予算会議は毎期そんな調子であった。
 前もって飲み屋の「中沢」の店に
 「今晩は遅くから行くので店を閉めないように」と
連絡している者がいたらしい。
 53年の合理化以降は,ぶんどり合戦的な予算会議の様子が一変した。1時間も掛からぬうちに終わるようになった。その理由は一口で言って管理職の質が向上したことである。それに,トラックレスマイニング法となって以来,坑内作業がシンプルとなり,坑内作業の見積りが容易となったことである。以前は積算が複雑なので,自分の組んだ予算に自信が持てず,若干の鯖を読まざるを得なかったのである。若干の鯖なら兎も角,過剰な鯖を読む輩が混在していたのである。
 一体適正な予算とは如何なる予算であるか?
 ¶ うっすらと赤字となる予算,
 ¶ 大幅な黒字となる予算,
 ¶ 大幅な赤字となる予算
 等いろいろな予算があるが,中でもうっすらと赤字になる予算が最良であると言われる
 多少の困難があると人はそれを乗り越えようと力を発揮する。あるべき姿を思い描き,それに近づくような予算を立案する。そういう場合どうしても背伸びをした予算になる。どんな管理職でも予算を達成するためには最大の努力をする。結果がうっすらと赤字になってもそれは問題ではないと言うのである。
 容易に達成可能な目標は目標とはいえない。努力もしないで大幅な黒字となる予算は「甘い予算」なのであって,達成しても自慢にならない。目標が低かっただけのことである。多くの管理者はこのような予算を編成する。
 逆に,達成不可能な予算は、努力しても達成不能なので,取り組む意欲そのものを失わせてしまう。予算を説明する段階では気持ちがいいが,それは絵に描いた餅に過ぎない。

9-2.長期計画
 その頃、長期計画第四報に次ぐ計画が焦眉の課題となっていた。自分が生産管理職になる以前に,長期計画第五報が作成された。第四報に比べ,内容が今一であったことから,「第五報」を称して「大誤報」と名付けた人がいた。悪乗りして「蓋し名言なり」と感激する人もいた。
そこで,次なる長期計画第六報の作成の起工式というか,元気付けのような宴会が,栃洞クラブで開かれた。30人以上のメンバーであった。東所長を始め,高多課長,南光課長代理,新田探査課長等々,偉い人が参加されていた。
 その後,会社では明けても暮れても長期計画の立案の仕事をした。朝は6時頃出勤し,帰りは夜8時を過ぎることが多く,まさに「朝は朝星,夜は夜星」の生活であった。
 長期計画の第一歩は鉱量,品位,金属量の積算から始まる。鉱量計算書と地質図(リコメン)を見比べながら,何処の鉱床から出鉱するかを決定する。東尚七坑長の
 「地表に近い処から,ケージに遠い処から」
を思い浮かべながら選択するのである。
一生懸命やったにもかかわらず,長期計画第六報が出来上がった否か,確かな記憶はない。

図20  長期計画立案発足会


10.山の生活(Ⅱ)
 山の生活も3年の月日が流れ,ようやく栃洞という土地柄にも慣れ,周囲の人々にも打ちとけてきた。

10-1.二度目の引越 : 前平から柏豆へ : 5年間在住
 1968年に前平社宅から柏豆の506号社宅に引越をした。柏豆の一本松の分岐をだらだらと下り,2軒目の社宅であった。
 引越の日取りが決まり,当日運送屋が来るのを待っていた処,前田さんが亡くなったと訃報があり,引越は中止となった。
 当日,井澤さんも柏豆に引越をする予定であったが彼の引越も中止になった。
 前田さんは井澤さんと同期の採鉱屋で,下部係で生産管理職をしていた。彼とは全山卓球大会が催される時は,栃洞体育館で夜間に練習するのが常であった。大学は井澤さんと同じく東大であった。結局,引越は1ヶ月程度延期になった。
 この社宅には内風呂が備わっていた。五右衛門風呂で,炊き口が風呂場の中にあった。薪を焚くと煙が風呂の中に籠もり,子供達は
 「辛い!辛い!」
と風呂から逃げた。彼女たちは「煙たい」という言葉を知らなかったのである。

10-2.花火を見下ろす
この社宅には裏庭に畑がついていた。茄子や胡瓜を栽培した。胡瓜は手間暇掛からず収穫が出来た。トマトの栽培は難しかったような気がする。盆休みに故郷に帰省して,3,4日間留守にした。その間に胡瓜が育ち,巨大な胡瓜を収穫した。

図21 社宅の裏庭

 この頃は生産管理職であったので,予算編成や,長期計画の立案で忙しく「朝は朝星,夜は夜星」の生活であった。長女は自分が夜になっても帰って来ないので悲しんだ。
 自分と遊ぶために朝早く起き,会社に行くまでの僅かな時間を社宅の周りで遊んだ。会社に行く時間になっても,解放してくれない。
 「お父さんは会社に行くのだから,史歩はお母さんと遊びなさい!」
と無理矢理,会社に行くのだが,
 「お父さん!お父さん!」
と叫び,泣きながらトコトコと付いてきて,大変弱ったことがある。
 この社宅で,次女の文代が1969年10月21日に,長男の正紀が1972年1月1日に誕生した。図21は裏庭で撮影したものである。背景の山は大洞山(海抜1349m)である。
 夏祭りに打ち上げられる花火は空を仰いで眺めるものである。ところが柏豆社宅から眺めると,花火を見降すことになる。花火を打ち上げているのは高原川で海抜400m準であるが,社宅は海抜850m準である。約450m下に花火が打ち上げられる。
 社宅の裏庭から眼下に見下ろす花火は浮き世離れしていた。お釈迦様が蓮の池の畔から下界を眺めているような感じである。

10-3.すす竹
 この頃,地質測量係で測量を担当していた工藤さんにすす竹を取りに連れて行って貰った。6月頃であった。伊西峠を越えて「山の村」の山に入ったと記憶する。我々が山に入る頃,筍取りのベテランは,既に筍を叺(かます)に詰め込んで,帰宅するところであった。彼等は早朝の3時か4時には家を出発しているそうであった。自分たちも遅まきながら,藪や茨の茂る中に入り,もがきながらすす筍を採取した。家に持ち帰り,女房に茹でて貰った。子供達は丼に入れて貰って「おかわり頂戴!」と言っていた。すす筍は採りたて,茹でたてが一番美味なのである。すす竹取りに行ったのは後にも先にもこの時限りであった。
 この社宅に遠来のお客さんとして,寮隆吉君が訪問してくれた。彼は専門課程に上がる時,工学部から医学に編入し,医者になった。冬の雪の積もっている時期であった。1m以上も積雪していたので,雪の上を子犬のように,歓び,転げ回って遊んでいた。彼は名古屋生まれの名古屋育ちだから,雪が珍しかったのだ。

10-4.娯楽
 山間僻地で娯楽の少ないことから,定期的に銀嶺会館で映画が上映された。東京で封切りされると,1週間も経たないうちに銀嶺会館で上映された。昭和30年代の雪が数メートル積もった時でも,銀嶺会館は観客で満員になった。
 坑内で働いている労働者に「小回り」という制度があった。ある一定の作業を片付けると時間かまわず帰宅してもよい制度である。銀嶺会館で映画が上映される日は「小回り」の人は通常1日掛かる仕事を半日で仕上げて銀嶺会館に走ったそうだ。又,
 毎年のように,有名歌手が招かれた。美空ひばり以外,大抵の歌手は銀嶺会館に招かれたと云われている。最後は1977年頃で,千昌夫ショウが催された。彼は神岡に来る道すがら
 「こんな山奥に公演に来るなんて冗談じゃないヨ!」
と不平不満をぶちまけていたとか。しかし,舞台に立てば別人,
 「銀嶺会館は素晴らしいね,真夏と言うのに,クーラーも扇風機も要らない,涼しい
  風でぐっすり昼寝が出来た。自分は三井金属の専属歌手になりたい。」
とお世辞を振りまきながら「北国の春」を熱唱してくれた。
 銀嶺会館の思い出について栃洞に在住であった巣之内武氏の文章を紹介する。
栃洞の銀嶺会館には戦後の二十年代に有名な芸人がその技を競った。演劇では関西歌舞伎の大御所・中村雁治郎一座。辰巳柳太郎,島田正吾の新国劇。杉村春子,長岡輝子の文学座。花柳章太郎の新生新派。エノケン一座等。
浪曲では寿々木米若,広沢虎造,木村若衛,春日井梅鴬等々。変わった所では三波春夫が南条文若の芸名で口演,翌日下之本まで荷馬車で運んで一曲うならせた思い出がある。
 歌手では藤山一郎,霧島昇,田端義夫,楠木繁夫等々有名人を網羅したが,美空ひばりだけはワンステージ80万円(煙草のピースが二十円の時代)で手が出なかった。
文学座の[女の一生]を公演後,楽屋で一席を設けたとき,正面の上座に照明係の兄(あん)ちゃん達が座り,御大の杉村春子や芥川比呂志が中程に座って,飯を食っていたのが印象的であった。その会館もいまは訪れる人もなく,ひっそりと眠っている。

10-5.麻 雀
 実習時代は職場で知り合った人達と麻雀をした。知り合いがどんどん増え,メンバーも多種多様の人々とお手合わせするようになった。
 昭和40年代春闘華やかな頃,ストライキ闘争が繰り広げられた。ストライキの時期は朝の組合の集会に参加した後は,社宅に帰って麻雀することがお決まりであった。給料が増えるにつれ,麻雀の賭けも大きくなった。
 自分が生産管理職をしている頃,新田課長が赴任してこられた。これを契機に新田さんと麻雀する機会が多くなった。新田さんには特殊な賭けがあった。「にぎり」である。これは特定の人を指定して順位を争う賭けで,順位の上位の者が「にぎり」を戴くのである 勿論,「にぎり」は新田さんを中心に行われたのだけれど,それ以外の人とも握ることが多かった。
 銀嶺会館で退職者や転勤社の送別会が仕事の終わる4時頃から催された。宴会はいい加減にして,新田さん宅で麻雀をするのが常であった。
 次長の大倉さんは「麻雀狂」であった。正月でも奥さんのいる東京には帰らない。神岡に居残って麻雀をするのである。メンバーを電話で呼び出し社宅に集める。さあ始めようとすると麻雀牌がない。東京に電話する。奥さんが出る。挨拶も何もしない。唯
 「牌は何処かね?」
と質問するだけである。側で聞いていると滑稽であった。
 大倉次長を入れて新田さん宅で,麻雀をした。もちろん徹夜になった。朝の6時になった。自分は
 「小松係長と公休出勤で,修繕費の予算を組むことになっているので,これで帰らし
  て戴きたい。」
と申し出た。大倉さんは両手でマージャン卓を抱えて
 「駄目だ!止めるなら代わりのメンバーを連れて来い!」
と叫ぶ。朝の6時から麻雀のメンバーなど集められない。止む無く公休出勤をスッポカして麻雀につきあい,次の日小松係長に叱れることになった。
 自分はこの時期,麻雀で大層負けが込んでいた。1ヶ月分の給料分くらい,いやそれ以上かも知れない,兎に角,大層負け,蟻地獄に入り込むような状態であった。
 年末に新田課長から麻雀の付けを支払うようにと請求があった。田舎に帰省するために貯金を引き出していた金銭をそっくり支払った。年末の30日のことであった。年末休暇で銀行は閉まっており,新たに銀行から貯金を引き出すことも出来ず,その年の里帰りは断念した。女房には長期計画の仕事が忙しくて帰れないと言い訳をした。ところが後でこの噂が栃洞中に広がり,女房には叱られ惨たんたる有様であった。

10-6.卓球大会
神岡鉱業所ではスポーツの行事として職場対抗の野球大会,ソフトボール大会,卓球大会,マラソン大会,運動会等の娯楽が企画されていた。自分は卓球大会に出場した。実力は平均的な選手であった。卓球のラケットを握るのは中学時代以来,初めてのことであった。中学時代に郡大会で優勝したからといって,社会人の卓球大会に通用するものではなかった。卓球大会の時期が来ると,夜間,小学校の体育館を借りて,1週間程度練習をした。栃洞の選手は小島,山田、横山,木村,前田さん等であった。小島さん,山田さんは50を越えていたと思う,彼等がダブルスを組むと,皆は百歳コンビと冷やかしていた。小島さんは小柄な人であったが粘り強い人であった。中々勝てなかった。木村健郎氏は自分が円山係長している時に,生産管理職であった。彼にも勝てなかった。結局自分は選手の中では中くらい部類であった。

10-7.マラソン大会
 最も人気のあった行事はマラソン大会であった。選手が退業時に練習する時は,交代で応援に出掛けた。自分が円山係長をしている時に三連覇の偉業を成し遂げた。選手は仲谷,河上,尾形君等であった。
 第4区間に長い坂道があり,選手にとって苦難のコースであった。このコースを尾形朝元君が走った。大概の選手は長い坂道でバテるのであるが,朝元君は悠々と走ってトップに躍り出るのである。第4区の苦難の坂道を「朝元坂(ちょうげんざか)」と称していた
 尾形君は常日頃から訓練していたようである。出勤は徒歩であった。普通の人なら当然バスに乗る距離であったが彼は毎朝歩いて通った。
 この時期は坑内チ-ムが強かった。後年は坑外チ-ムが優勝するようになった。
マラソン大会終了後の宴会は当初,各地区に帰って行っていたが,だんだんエスカレートし,全山のチームが神岡の町で宴会を開くようになった。滝華所長の時代には,所長を始め幹部が各チームの宴会場を巡回された。そして,皆は所長に一気飲みを強要した。瀧華所長も大変な困苦であったと思う。

第2章 係長時代(1973年~1980年)
1.高多2課長     2東京大学工学部S27年卒
 1969年10月に佐藤坑長が転勤となり,坑長は東技師長が兼務されたが,実質は高多坑長代理が引き継がれた。
 翌年鉱山長制となり,栃洞鉱山長に石須章氏,茂住鉱山長に佐藤一夫氏が任命された。栃洞坑長は採鉱課長と変更され初代の採鉱課長には高多さんが就任された。
 自分は未だ生産管理職であった。課長と対面するのは予算編成会議の時のみで,年に4~5回程度であった。
 高多課長は厳しい面もあったが人情味溢れる好い人であった。部下が元気を出して働くような環境や雰囲気を作ってくれた人である。しかし,高多課長時代は栃洞坑の操業成績は決して芳しいものではなかった。粗鉱生産量を4400T/日から4800T/日に増産する時期と時短操業の時期が重なり,坑内操業日で5200T/日を産出することになってしまった。

1-1.出鉱品位の低下
 手持ち鉱量に比し,出鉱量が過大となり,出鉱計画の維持が困難となった。勢い,ブロックケービング法による出鉱割合が増加し,低品位鉱を多量に出鉱する結果となった。従来,出鉱品位は4%以上を維持してきたのであるが,図22に示すように,ブロックケ-ビング法による採掘割合が45%以上となり,出鉱品位が低下した。



 当時の石須副所長(元選鉱課長)は
 「栃洞鉱の出鉱品位が4%以上を回復することはないと思っていた。」
と回顧された。
 当時,粗鉱品位の4.0%は採鉱屋にとっては生命線のようなものであった。何故かというと栃洞鉱山の可採粗鉱量の平均品位は4.1%であり,採掘対象としている鉱床はそれ以上の品位であったからである。そしてこれまでの品位の推移を見ても4%を下回るのは恥ずかしい。
 それが,1974年から1979年までの3年間も,3%台に落ち込んだのであるから石須次長の嘆きも頷けるのである。
 自分が担当していた円山係の操業が回復するまで,即ち0m準以上の群小鉱床を回収するまで3年間を要したのである。

1-2.人員補充
 5200T/日の出鉱を維持するためには坑内の人員が不足することから,閉山になった炭鉱の労働者を大量に採用した。コストの上昇を招き,経常損益が赤字基調となった。赤字を消すために増産する。増産するためには人員が不足する。いわゆる悪循環に陥っていたのである。
 炭鉱労働者と神岡鉱山の労働者には格段の差があった。神岡鉱山の労働者は,近隣の俊秀を集めた神岡鉱山高校を卒業した者が殆どである。それに比べ炭鉱労働者は可成り見劣りがした。
 この頃から「災害多発者」と云う言葉が生まれた。災害多発者の殆どは炭鉱労働者であった。

1-3.町道付け替え工事
 南平から前平に至る道は「山の村」に通じる県道から分岐して町道となっていた。この部分が以下の理由で付け替え工事が行われた。
 「この町道の直下に#9鉱床の30号,32号の堀場が位置し採掘終了時には300千m3以上の空間が2カ所連立する。この大空洞が崩落した場合,町道が陥没することになり,あらかじめ町道を切り替えておく必要がある。」
 この理由は嘘も方便であったかも知れない。坑内で働く人は,「30号や32号が崩落する」と考える人は誰一人としていなかった。もし崩落の危険性があるのであれば採鉱法を切り替えるべきなのである。何故に,町道の切り替え工事がデッチ上げられたのか疑問である。

1-4.栃洞鉱の経常損益
 栃洞鉱の収益も芳しくなかった。図23は経常損益,総コスト,亜鉛の建値の推移を示している。



1972年まで亜鉛の建値は横這い傾向であったが,総コストはそれ以上に上昇したため,経常損益は赤字に転落した。
 1973年から亜鉛の建値が暴騰したけれども,総コストもそれ以上に激増し,経常損益は若干の黒字乃至赤字であった。
 1977年から景気の減退,亜鉛の需要の低迷,建値の暴落等で,年間約20億円の赤字となり,未曾有の合理化を余儀なくされた。

2.採鉱長
 1973年9月に採鉱係長に昇格した。当時採鉱係は上部,中部,下部,円山の四つの係があった。そのうちの下部係の担当を命じられた。高多課長から「保安と生産と労務管理」をしっかりとやるように訓辞された。

2-1.三度目の引越 : 柏豆506から柏豆510へ:6年間在住
 中部係の生産管理職をしている時である。係長に昇格するという事で,間取りの多い格上の社宅に引っ越しすることになった。風呂は燃料に石油を使う最新式に更新され,子供達が「辛い!」ということはなくなった。

2-2.引き継ぎ
 前任者の井澤さんは中部係に転任となった。下部係は出鉱量は少なかったが,選鉱場とか排水関係等で外部とつながっている係である。従って他の採鉱係とは異なって以下のようなことを配慮する必要があった。
 ¶ 栃洞坑全体の出鉱量の調整役をする。他の係で鉱石が出ない場合,代わって不足
   分を出鉱する。
 ¶ 清濁水分離を厳しく管理する。
 ¶ お客さんの案内をする。大概のお客さんは下部係が受け入れることになっていた。
等の役割を果たさなければならなかった。
 井澤さんからの引き継ぎの中に,配水管や排水系統の説明があった。清水管,濁水管,廃滓圧送管,廃滓洗浄管等が入り組んで配管されていた。説明して貰ったが,とても一度では覚えられない。困惑していると。
 「何のことは無い自分で配管系統を変えればすぐ覚えるよ。」
と言われた。彼は下部係でポンプを利用して排水を管理していたものを全て廃止し,濁水ピットを設けて管理するように改善し,「何々ポンプ」の名前を「何々ピット」に変更したそうだ。

2-3.水抜き孔
 当時下部係の生産管理は弘中君がやっていた。彼は納得しないと「ハイ」とは返事をしない男であった。
 ある朝,彼が日報を持ってきた。水抜き孔の穿孔位置について議論が始まった。水抜き孔とは坑道に溜まる水を下のレベルに排水する孔である。長孔採鉱用の機械で穿孔する。
 その時は予算編成時期であったので,2の方の上がり(22時30分)まで坑内事務所で仕事をしていた。予算の打ち合わせの合間を縫って,間欠的に水抜き孔の件を議論していた。
 係員は昼休みと,退業時等に現場巡視から事務所に帰って来る。その時に偶々,水抜き孔の議論をしていた。彼等は自分と弘中君が連続的に水抜き孔の議論をしていたものと誤解し,
 「係長と生産管理職が朝から晩まで水抜き孔の件で議論をしていた。たかが水抜孔
  で,かくも長時間に亘り,議論ができるものかね。」
と有名な噂になった。

2-4.芸妓組合坑内見学
 高多課長から電話があった。
 「これからゲイギクミアイが見学に入るから案内を頼むよ。」
自分は「ゲイギクミアイ」を「漁業組合」と勘違いをした。「漁業組合」が何で坑内見学をするのかと不思議に思いながら,坑内事務所で事務仕事をしていた。事務係の者に案内されて女性達が20人ほどドヤドヤと下部係の事務所に入ってきた。よく見ると料亭で接待してくれる「芸者」達である。何事かと訊ねると,先ほど課長の電話の通り,「芸妓組合」の人を連れてきましたという。「芸妓組合」を「漁業組合」と聞き間違えたことに始めて気がついた。
 側にいる者にコーヒを入れさせた。料亭に飲みに行った時には何時も,世話になっているのだが,今日,この時ばかりは,こちらが接待しなければならない。接待と言ってもインスタントコーヒを出すくらいである。コーヒを飲んで戴きながら,概況説明をした後,坑内を案内した。
 その後しばらくの間,料亭に行った時は芸妓さん達に
 「この間は,坑内を案内して戴いた上に,コーヒまで御馳走して戴き有り難う御座い
  ました。」
と丁重な挨拶を受けた。又,宴会中も,坑内の話題で退屈をしなかった。
 「そもそも芸妓さん達に坑内見学をさせるよう計画したのは,誰ですか?」
と,高多課長に質問すると
 「エヘヘ!」
と笑っておられたから,高多課長の発案らしかった。

3.南光3鉱長    3京都大学工学部S31年卒
 1974年10月に高多課長が副所長に昇格され,南光さんが高多課長から引き継がれた。この時,職名が「課長」から「鉱長」に改正された。

3-1.重大災害発生
 南光さんが栃洞鉱長に着任して間もなく,立て続けに2件の死亡災害が発生した。
12月に円山で死亡事故が発生した。人事課主催の研修に係員が招集され係員に不足を生じた。田口係長は人事課に苦情も言わず,自ら係員の代行で現場を巡視していた。
 係長がジャンボで穿孔中の現場を巡視に来た時,作業者は機械を止めず,穿孔を続けていた。係長はそのまゝ作業を見守っていた。突然,鑿先が残留火薬にくり当て,暴発した。作業者は死亡,田口係長は両眼失明の大惨事となった。
 翌年の1月上部係で,前平鉱床をサブレベルストーピング法で採掘終了後,採鉱員はピラーを外す為の長孔採鉱の穿孔作業に従事,運搬員はスクレーパ坑道で作業をしていた。突然鉱床上盤が崩壊し,その圧風で運搬員が吹き飛ばされ立坑に墜落し死亡した。
 残留火薬にくり当て事故で死亡災害が発生したことに鑑み日本油脂と共同でスラリー爆薬を開発された。このスラリー爆薬は,削岩機の鑿先が残留火薬にくり当てた場合でも爆発しない安全性の高い爆薬である。スラリー爆薬を使用するようになって以降は,「残留のくり当て」事故は皆無と成った。このスラリー爆薬はメーカも余り乗り気で無かったようだが,南光鉱長の情熱と執念で開発されたようなものである。南光鉱長は神岡鉱山の立場で意見を言われる。火薬メーカは日本の鉱山が神岡鉱山と同じレベルでスラリー爆薬の必要性に迫られているか否かを懸念していたのであろう。結果的には日本の鉱山界でもトンネル業界でもスラリー爆薬が主流の時代となった。

3-2.出鉱品位回復
 操業成績は高多課長時代の低品位の出鉱を引きずっていた。「課長」から「鉱長」に変更になった時。
 「何故,“坑長”に戻さなかったか?」
と訊ねると小松鉱長代理は
 「品位が向上するように金偏の鉱長に代えた」
と説明した。
 丁度その頃,某メーカから「栃洞礦業所」という宛名で品物を送ってきた。こともあろうに「石偏」の「礦業所」とは!
 「栃洞鉱山も遂に採石場と間違えられたか!」
と皆は大笑いをした。小松鉱長代理は
 「礦業所とは酷い!」
と酷く怒っていた。因みに,石炭の鉱山では「○○礦業所」と「石偏」を書くのである。
 この時期はズリ混入率が高くなり易いブロックケービング法による出鉱量の割合が増加し,ズリ混入率の少ないサブレベルストーピング法や本番鉱による出鉱量が減少していたのである。
 ブロックケービング法は岩盤の脆弱な鉱体に適用される。起砕された鉱石とその上部に堆積している土砂の境界面を乱さないように抽出することが基本である。そのためには起砕された鉱石のサイズが小さく,堆積している土砂のサイズが大きいことが理想的である。
 この基本的なことを頭に入れて計画を立案・実施されていれば,例えブロックケービングが多用化されてもこのような品位低下を招くことはないのである。ところが実際は自由面の少ない長孔発破を掛け,鉱石の起砕状況が悪い状態で鉱石の抽出に移行する。鉱石の上に堆積している土砂が早く落下し,ズリ混入が増加したのである。

3-3.査定率
 査定率とはズリ混入率の度合いを推測する値である。選鉱場における粗鉱品位を鉱量計算書の品位で除した値である。
図24は査定率と粗鉱品位の推移を示している。1972年から1976年の5年間は惨たんたる状態であった。
 この査定率が100%であれば,鉱量計算書に設定したズリ混入率で採掘されたことを意味する。査定率が100%未満の場合は鉱量計算書に設定されたズリ混入率以上のズリ混入があったことを意味する。
 南光鉱長は
 「査定率は少なくとも,95%以上を確保するよう努力するように。」
と常日頃から言われていた。
 その言葉を達成したのは1977年(昭和52年)であった。粗鉱品位も4.0%を回復したことは採鉱屋にとっては誠に喜ばしいことであった。その後の粗鉱品位は,1978年に4.27%,1988年に4.3%と好調を維持した。
 続く井澤鉱長時代に粗鉱品位が4.5%迄上昇した。この時期,「いざ鎌倉!」でもないのに,円山の#4鉱床から多量に出鉱したのであるが,将来のために温存すべきであった。若干やり過ぎた嫌いがある。



3-3.鉱山四柱神社
 鉱山四柱神社があった。一般の神社の社格には金弊社,銀弊社,白弊社とあるそうだ。鉱山四柱神社は銀弊社で一般の神社に比べ格式の高い神社であった。岸信介が通産大臣の時,この鉱山四柱神社を参拝している。
 毎年の春祭りはさることながら,年末年始は大祓祭・元旦祭が神社で執り行わる。夜の8時から鉱山の安全祈願が行われる。これには栃洞地区の住民が参拝し,各家庭の「家内安全」,「厄年にあたる人」等の安全を祈願する。参拝者が帰った後,11時頃から大祓祭,それに続いて午前1頃から元旦祭が執り行われる。全てが終わるのは2時半頃である
 氏子総代以下氏子の役員は年末の「紅白歌合戦」は見たことがないと,嘆きに似た自慢をしていた。
 鉱長には毎年招待状が来る。南光さんは単身赴任であったから,年末年始の休暇には,早く東京に帰りたかったであろうに,大祓祭・元旦祭が神社で執り行われるばかりに,年が明けて元旦の午後くらいに家族の居る東京に向かわれた。南光鉱長は足かけ5年間鉱長をされていた。この間の年末年始の例祭には,一度も欠席されたことはないのである。よく辛抱され頑張られたと思う。因みに,自分の鉱長であった時は,家族が富山に居住していたので,それほど苦痛では無かった。儀式が終わる頃,妻が富山から車で迎えに来てくれた。家に着くと午前4時頃であったと記憶する。

4.円山係長
 円山係の死亡災害では巡回中の田口係長が失明した。田口係長は自分と大学時代の同期であったが,彼は大学院に進学したので2年遅れて入社してきた。円山係長不在となったので,下部係長であった自分が円山係長を拝命することになった。辞令を受けるため鹿間事務所に出頭した。東所長から
 「円山は品位の高い下盤鉱床の採掘を行っていたが,長孔採鉱で失敗し,出鉱が苦し
  くなっているそうだ。操業が安定しないと災害も発生する。今後,採鉱計画を進め
  るに当たっては慎重に取り進め,早期に操業を安定させ,安全な職場作りに努力す
  るように。」
と訓辞を戴いた。
 鉱石が出ないことに加え,死亡事故が2件発生したことから,円山係の事務所の雰囲気は暗いムードであった。南光鉱長に頼んで逐次係員の入れ替えをして貰った。1年くらいで,明るい,元気の出る顔触れになった。
しかし,操業は1800T/日を出鉱することになっていたが主力になる切羽が無く,とても1800T/日を予算を達成する事は困難な状況であった。

4-1.新規堀場模索
 40m南メインと40m北メインに分けて崩落鉱の回収を行っていた。40m南メインは円山係の主力切羽となって出鉱に多大な貢献をしてきたが,これがほぼ終了し,40m北メインに移行するところであった。ところが,40m準以上の群小鉱床の採掘が遅れているため,40m北メインへの移行が出来ず出鉱の苦しい状態であった。
 40m南メインは丁度,饅頭の餡に相当し,群小鉱床はそれを取り巻く皮に例えられる。群小鉱床とは,北側の#5群小鉱床,南側のピラー,上盤の2甲,2乙,6甲鉱床,下盤に下盤鉱床等である。
 40m準以上の崩落鉱抽出に代わる切羽を作るために,鉱量計算断面図や地質図等を調べ,毎日現場を巡視した。毎日現場を巡視し,図面を確認しているうちに,円山係の鉱床賦存状況が明確に頭の中に記憶された。
 ある時,二次抽出の導入口が高詰まりしたと報告があった。二次抽出とは,40m南メインの既に抽出が終了した導入口と導入口の間に,新規の導入口を設けて残鉱を抽出する事である。この方法で可成りの出鉱量が稼げた。
 吉本係員を連れて現場に向かった。確かに導入口は空の状態で5m程上に大塊が組み合っていた。導入口の中に入って,吉本係員と如何に発破を掛けるか相談していた。
 突然上方で「ゴク!」と音がした。高詰まりしている大塊が崩れ落ちる気配を感じた。足場の悪いところを,我先にと相手の体を突き倒さんばかりの勢いで逃げた。
 幸い音だけで大塊は崩れ落ちなかった。お互いに顔を見合わせて大笑いした。上司が部下を,部下は上司を突き倒し,我先にと逃げる浅ましい姿を反省したのである。

4-2.40m北メイン
 40m準以上の群小鉱床,即ち,2番鉱床,6番鉱床,下盤鉱床,5番北部の群小鉱床及び#5南部のピラー採掘等の開坑を急いでいたが,40m北メインに代わるものではなかった。
 これらの鉱床からは大量出向は望めなかった。そこで,苦し紛れに,40m北メインの出鉱を試みた。この出鉱により開坑中の群小鉱床に多大なる影響を与えたのである。即ち,地山が下方に動き始め,地山の各所にクラックが入り始めた。

4-3.保安特別監査
 円山で立て続けに2件の死亡災害があったことから,神岡鉱業の保安課と本社の資源部の偉い人達により,「保安特別監査」が行われた。そのチ-ムにより円山の採掘について報告された。
 「40m北メインの出鉱により採掘中の群小鉱床にクラックが入り危険な状態であ
  る。」
と報告された。
 40m北メインの出鉱は中止せざるを得なくなった。ほとほと困って,温存していた円山下部の鉱床の開発をする旨東所長に申し出たところ,「まかり成らぬ!」の鶴の一声で拒絶された。
挙げ句の果てに,東所長に鹿間事務所に呼びつけられた。

4-4.円山第2次安定化計画      
 東所長の訓辞は
 「その昔,円山は災害が多く発生し,鉱石は出なかったので,困る山と言われてい
  た。円山坑は大崩落を惹起し,昭和38年に安定化計画を立案し,崩落鉱を回収
  することに成功した。それによって栃洞全体の操業が安定した。あれから既に
  10年が経過した。円山の崩落鉱の回収もほぼ終わった。この次の10年を見据
  えた安定化計画を立案し,円山坑の操業を抜本的に立て直すこと。先回の計画は
  第1次とし,今度作成する計画は第2次安定計画としなさい。」
と厳命された。又,
 「齋藤君!君は酒を飲むな!毎日鉱長室に残って,2の方退業時,夜の10時半ま
  で仕事しなさい。」
とも言われた。これは実習時代に酔っぱらって東さんのツグミを逃がしてしまったことに対する復讐であった。
 日曜日に,高多副所長,南光鉱長,齋藤係長の三者会談を開き,今後の円山鉱床の採掘順序についてブレインストーミングをすることになった。
 高多副所長,南光鉱長が日曜日に円山の坑内事務所に出勤された。4番,5番鉱床の採掘順序についていろいろ意見を交わしたが,「その日の飯」に間に合う妙案は纏まらなかった。これ以後円山第二次安定化計画を立案することになった。
 高多さんは鉱長時代,予算や起業費申請等どんなに忙しい時でも,公休出勤はされない人であったのに,この日,日曜日であったにも拘わらず,鹿間からわざわざ円山の坑内事務所に出勤されたことに感激した。
 この頃,円山の生産管理職は木村健郎さんであった。円山第2次安定化計画の作成に当たっては,彼と本部生産管理職の水口進さんが大変頑張ってくれた。

4-5.東所長からの電話
 ある日,円山の坑内事務所で仕事をしていた。電話が掛かってきた,電話を取ると東所長から電話であった。何事かと驚いた。電話の内容は以下のようなものであった。
 ¶ 鉱石は順調に出ているか?
 ¶ 下盤鉱床はどれくらい鉱量が残っているか?
 ¶ その品位は?
 ¶ 採掘はどのように進めるか?
等であった。
南光鉱長にこのことを報告したら,
 「東さんは偶にそのような電話をして部下の小手調べをされることがある。気にする
  ことはない。」
とのことであった。
 それから1週間程度後に東所長が円山係を巡視された。 
 40mメインの南側の抽出跡や群小鉱床の採掘現場等を巡視して戴いた。

4-6.クルーシステム
 当時は機械化が進み,坑内作業は殆ど一人作業となっていた。機械が不足している状態では,新入社員を教育訓練する現場が無かった。止むを得ず,ジャンボによる穿孔作業の手子として配番した。手子が役立つのは火薬を装薬する時のみであった。それ以外の時は親方がジャンボを操作する作業を見学しているのみであった。そこで,新入生を装薬発破の現場を専門に巡回させ,発破作業を手伝わせることにした。このことが意外と旨く回転した。彼等のために,ジープにANFO装填機を始め発破作業に必要な道具を搭載し,発破専用車とした。彼等を「ファイヤーマン」と名付けた。
 一方,従来の坑道掘進は,LHDとジャンボが与えられ親方手子の二人で行っていた。坑道掘進の切羽にLHDとジャンボがそれぞれ1台必要であった。この作業方法の場合,ジャンボを使って穿孔作業をしている時はLHDが遊休,LHDを使ってズリ取りをしている時はジャンボが遊休していると云った具合に,重機類の稼働率が極めて悪い状態であった。
 坑道掘進は穿孔作業,発破作業,ズリ取り作業から構成されている。これを分解し,ジャンボを使う人,LHDを使う人,発破専用車を使う人が,各所の坑道掘進を巡回するシステムとした。坑道掘進を分業による共業で行うクルーシステムである。
 これによってジャンボやLHDの稼働率および坑道掘進の能率が飛躍的に向上し,開坑作業が順調に進んだ。
 土砂取り作業に従事していたLHDのオペレータが,このクルーシステムで最も活躍した。特に,浦,水口,中田,仲谷,河上の5名は優秀なオペレータで,「円山5人衆」と言われていた。彼等は運搬員であったが坑道掘進の土砂取り作業に関しては,進削員以上の実力を有していた。

4-7.カウンセリング
坑道掘進は進削員が最も誇りとしている作業である。この作業方法を全く変えてしまったので,進削員から色々な苦情が噴出した。土砂取りマンからは
 「踏まえの凹凸が激しくて土砂が取りにくい。」
穿孔マンからは
 「引っ立ての土砂が綺麗に取ってない。」
発破マンからは
 「穿孔した孔の掃除がされていないので,ANFOを装薬する時,水が飛び出て体に
  掛かる。」
 等々。苦情の一つ一つに対応していては埒があかないので,日曜日に進削員全員を銀嶺会館に集め,以下の前置きで会議を始めた。
 「本日は日曜日であるにも拘わらず,出席して戴き有り難う御座いました。本日は新
  しく導入した作業方法である“クルーシステム”について皆さん方の苦情を纏めて
  お聞きしたいと思います。私のほうは何も申しません。皆様方から一方的に苦情を
  言って戴ければ結構です。皆さんから提出された苦情につきましては,後ほど文書
  で回答させて戴きます。」
 苦情が「出るわ,出るわ」日頃会議で発表などしたことのない人まで発言した。こちらにとって頭に来るような発言もあった。
 「もうこの作業方法は諦め,従来通りのやり方に戻すかな。」
と考えながら、じっと我慢して皆の言うことを聞いた。
 会議が終わって宴会になった。みんなに酒をついで回った。宴酣(けなわ)となり,席も乱れてきた頃,進削員から自分に酒をつぎに来て
 「“クルーシステム”は素晴らしい作業方法だよな!」
 「能率給は沢山貰えるし,作業は楽やし,クルーシステムは好いい方法だな!」
 「あの方法は係長が考えたのかな,頭好いな!」
とおだててくれる人もいた。
 「何でそれを会議の席で言わないのだ!」
 「そんなこと言ったら,会社側だと思われるよ!」
兎に角,会議は辛かったが,宴会は愉快に終わった。
 
2,3日後に,苦情に対する回答と作業標準書を作製して食堂に張り出した。 
 その後クルーシステムについて苦情を言う者は皆無となった。逆に前向きの提案がなされるようになった。
 クルーシステムについて進削員の宮野哲夫さんが鉱業所の「改善提案の発表会」で発表し,所長表彰を受賞した。発表会の講師であった新郷先生は
 「革命的な改善である。」
との講評を戴いた。東所長も誇らしげに,新郷先生に解説を加えておられた。
 後年,串木野の石油地下備蓄の施工管理に従事したとき,清水建設の三宅氏と飲んだことがある。その時,みんなを集めてクルーシステムについて,ブレーンストーミングを開いたことを説明したことがある。彼は
 「齋藤さんそれは大変良いことをされた。齋藤さんがやられたことは一種のカウン
  セリングと言います。」
三宅氏はこのクルーシステムを地下備蓄の掘削に応用し,素晴らしい成績を挙げられたと聞く。

4-8.予算編成
 係長と生産管理職を一同に集めて会議を開くと,調整のため「一律何%カット!」
という具合に中身のない内容で,会議が深夜に及ぶことを懸念して,鉱長と鉱長代理が前もって,各係を巡視して事前チェックをする事になった。予算編成で最大の焦点は開坑量とその能率である。
 この開坑量の積算方法に改善を加えた。すなわち,生産管理職の北川君が出鉱量から開坑量を積算して予算を編成する。
 一方,自分は所有機械の「期能力」から1年間で開削し得る開坑量を算出して予算を編成する。
トラックレスの機械類の「機能力」とは自分が考えた新語である。例えばLHDが6ヶ月間でこなす作業量のことである。この作業量はLHDの過去の実績を調査して決める実績値である。ジャンボもANFOトラックも実績を調査して機能力を設定した。
 ¶ 「期能力」から算出した開削量 ≧ 北川君が算出した必要開坑量
であれば現状の人員と機械で予算が達成可能である。この方法で調整し予算案を鉱長に事前説明をして好評を得た。

4-9.ピラー外し
 5番鉱床南部にサブレベルストーピング法の採掘跡が,充填されずに空洞の状態であった。この空間は50m準から150m準に及んでいた。今後,0m準以下の#5鉱床を採掘するためには,この空洞をどうしても充填しておかなければならなかった。
 垂直ピラーと水平ピラーを倒し,強制的に地表まで崩落させる計画を立案した。
 長孔の穿孔作業が終了した時点で,既に崩落の前兆が現れ,空洞になっている堀場に大塊が落下し,不気味な音を発していた。その不気味な音を聞きながら,火薬装填作業が午前中から始まった。こともあろうに,その日,茂住鉱で死亡災害が発生した。(1975年12月16日:坑道の分岐の落盤事故)
 南光鉱長の命により茂住鉱の事故現場に巡視に行くことになった。火薬装填の現場を気遣いながら巡視に出掛けた。組合から採選鉱のストライキが通告された。
 「もし,作業が順調に進捗しない場合,火薬装填中でストライキに突入することにな
  る。」
そんな心配をしながら,巡視から帰って,再び円山に入坑し,火薬装填の現場に急行した夕方6時頃であった。空洞の崩落は益々激しく,大塊が落下する音が辺りに響いていた。
 「火薬装填作業は後何時間くらいかかるか?」
と訊ねると。
 「なんとか時間内に終わるだろう」
と心細い返事が返ってきた。事務所で「一刻千秋」の思いで,作業が終わるのを待った。10時頃,やっと,
 「火薬装填が終了したと。」
作業者が報告にやって来た。
 北川生産管理と横山係員それに自分と3人で発破点火台に向かった。100m準の水平坑道と150mの斜坑がTの字に交叉している場所であった。発破により空洞が崩落するので当然圧風が起こる。その圧風は100m準の坑道を走ると予想し,150m準に向かう坑道にジープを止め,点火台を準備した。
 横山係員が点火した。手応えのある音がした。北川君と二人で微笑んでいるところに,ものすごい音と共に,予想に反し,150m斜坑から圧風が到来した。踏前の塵芥を巻き上げて圧風が目は開けていられない。吹き飛ばされるような風速である。立ってはおられない。横山係員は既にジープの蔭にいた。北川君と自分は,我先にジープに辿りつくよう藻掻いた。前に進めない。押しあいへしあいの戦いをしている間に風は収まった。北川君と二人顔を見合わせて大笑いした。
 「上司が部下を,部下は上司を突き倒し,我先にと逃げる浅ましい姿」
を思い出したのである。40m南メインの導入口の時の相棒は,吉本係員であったが,今度は北川君であった。

4-10.田舎採鉱屋
 栃洞鉱の円山係長を1975年12月から1979年4月までの4年間勤めた。苦しい4年間であった。6時45分に坑口から出発する人車に乗り,3km離れた坑内の円山事務所に通うのである。この3kmは物理的にも,精神的にも遠い距離であった。円山係の操業が安定する迄は重苦しく長い4年間であった。
 「鉱石は出ない,怪我は出る。」
東所長の指摘された
 「コマル山(困る山)」
となってしまった。人車の中で何時も田山花袋の小説「田舎教師」の書き出し
 「四里の道は長かった。」
を思い出した。文学を志ながら寒村の小学教師に埋もれていく青年の物語である。後輩と飲みながら
 「四里の道は長かった。」
とは
 「物理的な四里の長さと,青年の文学への“志」”の遠さを同時に表現している名文
  なのである。」
と講釈していると,
 「ああそうですか,齋藤さんは田舎採鉱屋ですか?」
と茶化す部下がいた。採鉱屋相手では残念ながら
 「高談転清」(こうだん,うたた,きよし)
 「飲むほどに,酔うほどに話が高尚に清らかになっていく。」
と云う具合に進行しないのである。
 何のかの言いながら,円山係長として4年間が経過した。第二次円山安定化計画の所期の目的を達成したか否かは第三者の判断に委ねることにして,兎に角,40m準以上の群小鉱床は片付き,「いざ鎌倉!」という時には,4番,5番の鉱床から鉱石が出せる体制になった。

5.未曾有の合理化
 この頃,鉱山は冬の時代であった。景気は低迷,金属建値は低迷,需要は減退,円高は進行する四重苦に苦しめられた。
 1976年には亜鉛のPPフラットは232千円/Tであったものが,1978年上期には116千円/Tの半額に暴落したのである。栃洞鉱山の経常収支が年間20億円の赤字に転落した。
 電気製品や自動車の業界で,ある日突然,値段を従来の半額にすると命令が下ったらメーカが如何に対応するであろうか。

5-1.合理化案
 南光鉱長は栃洞鉱のサバイバル策として以下の計画を立案された。
 ¶ 生産量を1/3を減産し(4800T/D ⇒ 3200T/D)
 ¶ 人員を1/2を減らす(560人 ⇒ 265人)
まさに未曾有の大手術であった。
 生産量は鹿間選鉱の最大処理容量の3200T/日とし,栃洞選鉱1600T/日分を減産し,栃洞選鉱は全面廃止となった。
 南光さんは生真面目な理論家で,「清濁併せ飲む」のでなく「清をのみ飲む」人であった。何事も正攻法で対処された。苦しいからと言って,抜き掘りをするような人ではなかった。又,
自分の手柄よりも資源や鉱山ライフを大切にする人であった。
人員の削減方法は
 ¶ 53歳以上に勇退をして貰う。
 ¶ 希望退職を募集する。
であった。



53歳で線引きした理由は,
 「坑内労働者は55歳で年金の受給資格が発生する。1,2年は失業保険等で凌げ
  ば,その後は年金が貰える。」
からであった。

5-2.希望退職募集
 この時,神岡鉱業所は30億円近い赤字を余儀なくされた時代である。神岡鉱業の所長は渡辺荘作氏であった。渡辺所長と佐藤一夫副所長等幹部の御一行が栃洞鉱山に来られ,栃洞鉱の管理職を鉱長室に集めて合理化に対するねぎらいのお言葉があった。そして最後に
 「忌憚のない意見を伺いたい。」
と挨拶された。
 末席の管理職である自分達はこの時とばかりに,言いたい放題のことを述べた。所長も頭に来ただろうと推察し,後悔したのである。ところが,渡辺所長は
 「御高説を承り,誠に有り難う御座いました。今後の経営に参考にさせて戴きた
  い。」
丁重なる御言葉で大変感激した。自分には到底,言えない「お言葉」である。合理化に大いに協力する気持ちになった。
 自分は円山係長を担当しており,100人以上の人員を抱えていた。在籍人員の割合から言って,最も多くの人員合理化をしなければならなかった。希望退職を募ったが,最初は誰も応募する者は無く心配していた。某採鉱員が退職届を持ってきた。退職届け第1号である。
 無意識のうちに笑顔になってしまった。しかし,その採鉱員は通勤の人車の中で,同僚に
 「俺が退職届を提出したら,係長はニコニコして受け取った。俺が会社を辞めるのが
  そんなに嬉しいのかな?」
これは冗談か,真面目か解らない。人前で堂々と喋っていたくらいだから冗談に違いないと勝手に解釈した。
 最初の段階では希望退職者は少なく心配した。若手社員にとって,可なりの一時金が貰えることが魅力となり,又,転職の可能性も十分にあったので,後半は雪崩を打つように希望退職者が集まった。
 管理職は若手社員が大量に希望退職する事を危惧して,退職を制御するよう働きかけたくらいであった。
 「去るも地獄,残るも地獄」
と言いながら,神岡鉱山始まって以来の人員の合理化は大きなトラブルもなく達成することが出来た。

5-3.合理化の効果
 合理化後の効果は図25,図26,図27のグラフの通りである。
労働生産性については,合理化前の1977年は11.3T/工であったものが合理化後の1981年のそれは19.0T/工に上昇した。 
 一方,経常損益は1977年に14億円の赤字,1978年に19億円の赤字に落ち込んでいたが,合理化直後の1979年は,合理化効果と亜鉛建値の回復により,10億円の黒字となった。以後14年間,栃洞鉱の経常損益は黒字基調で推移する。まさに,南光鉱長の大手術が成功したのである。1979年12月には南光鉱長は副所長に昇格され,後任の鉱長は井澤鉱長が就任された。




6.山の生活(Ⅲ)
6-1.自動車運転免許
 この頃,自動車の免許を取得した。免許証の交付は1977年6月20日と記されている。
 神岡には自動車学校は無く,富山か高山に通うことになるが,富山の中央自動車学校が栃洞まで送迎バスを準備してくれた。免許取得に要する自動車教習時間の最短時間は27時間であった。若い学生などは殆ど,既定の27時間の教習時間で免許を取得すると言っていた。自分は36歳で36時間の教習時間であった。翌年女房が自動車の免許を取得した。
 初心者マークの時代は中古車を乗った。運転技術が向上するまでの1年間は,中古車で辛抱する事にした。
 栃洞での日常生活では,車を乗るチャンスが極めて少ないので,会社から帰ると,家族を連れてわざわざ,富山方面に出掛けて,夕食を取ることを日課にした。夕食と言っても高級レストランに入る訳ではない。国道41号線のインタ-チェンジの「七越ラーメン」や「8番ラーメン」を食べに行ったのである。
 新車を購入するに当たっては,その当時発行された本で「間違いだらけのクルマの選び方」を読んだ。その本にイスズのジェミニが素晴らしい車であると推奨されていた。そのリコメンドに従って,新車のジェミニを買って得意になっていた。大概の者はトヨタか日産の車に乗っていたので,周囲の者はせせら笑っていたようである。
 二台目もやはりいすゞのジェミニで三台目はいすゞのジェミニのジーゼル車に更新した
 子供達の夏休みや春休みには車で兵庫県の故郷に帰省した。その頃は,妻の両親が健在であった。
 神岡を出発し41号線を走り,富山で高速自動車道:「北陸自動車道」に入る。北陸自動車道は敦賀インタ-で出る。その後,国道27号を走り,東舞鶴を経由し,西舞鶴辺りで175号線を走る。上川口辺りで二つのコースに分かれる。一つは,そのまま9号線に入り和田山経由で八鹿町へ。もう一つは,途中,426号線に入り,但東町,出石,浅間を経由し八鹿町上小田に至る。後者は少し回り道である。途中,1,2回休憩を取り,時間にして8~9時間の旅である。

6-2.栃洞の冬
 幼少の頃,但馬の故郷にも雪が降り正月には雪景色となった。しかし,栃洞で降る雪はそんなたやすいものではない。
 下島さんの言う通り,雪は風と共に下から舞上って来る。乾燥した雪が風で吹かれるため,地面に一様には積もらない。吹きだまりの箇所には数メートルの雪が積もり,吹きさらしの箇所には殆ど雪がない状態となる。豪雪の時はこの現象が増幅される。
 定期的に豪雪が訪れる。昭和38年を38豪雪と言ったが,51年は豪雪であったがこれには名付けられていない。 昭和56年の豪雪を56豪雪という。56豪雪の最大積雪は8mに達した。
 ブルトウザーのような重機が開発される以前は,降った雪を唯,踏み固めるだけであったそうだ。道を歩いていると地面から煙が立ち昇る。何かと思えば煙突がありその下に家があった。朝,旦那が出勤する時は,玄関先の雪を踏み固めて高い階段を作って道に出る。奥さんは洗濯竿の先端に弁当を結わい着けて
 「行ってらっしゃい!」
と送り出したとか。嘘のようなホントの話。
 
図28 柏豆510社宅


6-3.出勤途上の遭難
 柏豆道の掲示板のある箇所は,山の斜面を削って道が設けられ,吹きだまりの箇所であった。
 ある豪雪の時,柏豆に住んでいた松永恒忠係長が,通勤時にこの掲示板の吹きだまりの箇所にさしかかった。除雪がしてなかったので何処が道か判然としなかった。雪が積もっている状態に合わせて歩いていた。次第に谷側寄り,遂には谷側に足を踏み外し,20~30m下方に転げ落ちた。元の道に復帰すべく,もがきに,もがいた。もがくほど谷側に滑り落ちていった。まるで底なしの沼に落ちた状態であった。
 数時間もがいてやっと元の道に戻った。汗と雪で体中がずぶ濡れで水がしたたる状態であった。社宅に帰って風呂に入った後出勤したとか。会社に着いたのは昼頃であった。

6-4.家ごと“かまくら”
 図28,図29の写真は,1978年頃,柏豆の社宅510号に住んでいた頃のものである。屋根から降ろした雪と,地面に積もった雪が合体して,地面から屋根まで雪に覆われまるで,家ごと“かまくら”になった状態である。

図29 雪崩の跡

 日中でも家の中は暗いので,照明をつける必要があった。又,家の中の襖がことごとく開かなくなった。栃洞に長く住んでいる人は,生活の知恵で,頻繁に開け閉めをする襖には,左右のどちらかの襖の敷居に割り箸をかませておくらしい。すると他方の襖は可成りの雪が屋根に積もっても自由に開け閉めが可能なのである。
 除雪のため,子供達3人を連れて屋根に登った。
屋根の雪を最も効率的に降ろす方法を考えながら作業をしていた。軒先の雪をトタン板が見えるまで降ろし,その後の除雪は,スコップですくった雪をトタンの上を滑らせる,雪は自然に庭先に落下する。豆腐を切るように切り取り,屋根のトタンを滑り台にして流していた。軽快に作業がはかどった。子供達は“雪おろし”とは関係なく屋根の上で遊んでいた。
 除雪が1/3程度はかどった時,突然,「ゴオー」と音を立てて足下に踏みつけている雪が,動き始めた。「あれよ,あれよ」と言っているうちに軒下まで滑り落ちた。自分も子供もみんな雪と共に滑り落ちた。まさに雪崩現象であった。
 「大丈夫か!」
と声を掛ける。家の中にいた女房が,ものすごい物音と振動に吃驚して外に飛び出して
 「何が起こったの?」
と慌てふためいていた。
幸い,全員無事であった。全員が無事であることを確認して,
 「好かった!好かった!」
とみんなで大笑いした。
 屋根の雪が全部庭に落ちてしまったので,図28の写真で見るように,屋根と地面が雪で地続きとなり,社宅まるごと鎌倉のように,雪の中に入ってしまった。
写真の右側は鹿間谷である。雪の斜面を転がると何処まで転がって行くか解らない。

6-5.我が家のスキー場
 図30~図32は町道から分岐した社宅に至る私道の坂道で仲良くスキーを楽しんでいる風景である。
 前平から柏豆に至る道は町道である。町道から社宅に至るまでの支線の坂道は私道である。雪が降るとこの私道が格好のスキー場となった。斜面の長さは50m以上あったと思う。
 坂道の頂点は町道と私道の交点で,掲示板が設置してある場所で,係長の松永さんが出勤時に遭難した場所である。
 流葉のスキー場には車で30分位だから,毎週日曜日には家族で出掛けたものである。しかし,この豪雪では車が車庫から容易に出せず,流葉のスキー場には行けないのである。止むを得ず,この坂道がスキー場となったのである。

図30 長男     図31 長女     図32 次女


 長男:正紀は栃洞小学2年生で,やっとスキーが滑れるようになった。水泳は苦手であったが,スキーは大好きになって,いろいろな大会に出場するようになった。
 長女:史歩は栃洞小学校6年生。おっとり型であったが,運動神経は比較的発達していた。水泳もスキーもさりげなく覚えたが得意なことはピアノ演奏であった。
 次女:文代は栃洞小学校の4年生。3人の子供の中で一番活発で頑張り屋。負けん気も強かった。水泳もスキーも姉に負けぬよう頑張って挑戦した。
 図33の写真で,背後に写っている家はヒュッテではなく,我が家の社宅なのである。家の壁に「510」の番号が読み取れる。

図33 庭のスキー場


 子供達はスキーで衣服を雪まみれにして家に入ってくる。家では一日中,大型のストーブを焚いていて,スキー靴やスキーウエアー等を乾燥させるのである。次の項で説明する「越冬燃料」が支給されるので気兼ねなく,ストーブを焚くことができるのである。
 世の中にプール付きの大邸宅はいくらでもあるが,スキー場付きの邸宅は聞いたことがない。我が家はまさにスキー場付きの邸宅であった。世界中の何処を探しても,スキー場付きの邸宅は,唯一我が家だけではなかろうか。

6-6.越冬燃料
 冬期間は会社から越冬燃料として現物の薪が支給されていた。昭和20年代の名残で,家族構成に応じて「榾(ほた)何間分」と云う形で支給されていた。榾1間とは薪で180㎝×180㎝×72㎝である。
 各家庭ではこの榾を三つに切って,割り,乾燥させてストーブを焚いていた。昭和40年代後半には石油ストーブが主流となり,越冬燃料は灯油券に代わっていた。
 この越冬燃料は東さんが神鉱連の委員長時代に勝ち獲た代物であることを「神岡マイン」の縮刷版で読んだ。

6-7.栃洞の春
 冬の間は雪で遊び,スキーを楽しみ,ストーブの側で本を読む等,それなりに楽しい生活であったが,やっぱり春はいい。
 太陽が燦々と降り注ぎ,木の芽がふくらみ,小鳥はさえずる。やっぱり春は気分が晴れやかになる。
 屋根まであった雪も,春になるとチャント溶けるものである。太陽の光りが燦々と降り注ぎ,木の芽が吹いてくるのである。栃洞にも春がやってきた。
 図33の写真と図34の写真は同じ場所で撮影したもので,図34の写真は,冬場はスキー場にしていた場所である。
 日曜日に「のりこしの路」を下り,神岡の町に遊びに行くところである。子供連れで歩くと,神岡の町までは約40分,大人の足で約30分,乗合バスとほぼ同じである。
 山菜を摘みながら下り,途中で弁当を食べ,まるでピクニック気分である。一番ちびは弁当だけが楽しみである。

図34 待ち遠しかった春


 社宅の庭の脇下に神岡町に通じる「のりこしの路」が通っていた。いわゆる「けものみち」で人が歩く程度の山道であった。バスを利用すると40分は掛かるが,のりこしの路を利用すると,30分程度で神岡の町に着く。田口君は神岡で宴会が開かれるときは,何時でもこの路を歩き,町の共同浴場で汗を流して,宴会に出たそうだ。
 長男の正紀がよちよち歩きの時,裏庭で遊んでいた。石垣の塀が雪で壊れ取り外されていたので,「のりこしの路」まで転げ落ちた。泣いたけれど,怪我はしなかったと女房は言う。自分は驚いて当該場所を点検した。転げ落ちた距離は30m程あった。これでよくも怪我をしなかったものだと驚いた。春先で枯れ草の上を転げおちたのだ。
 春にはピクニック兼ねて「のりこしの路」を通って神岡の町に買い物に行った。図35は「のりこしの路」で昼弁当をしている風景である。神岡の町までたどり着くか心配である。ちびさんしっかり歩いてくれよ!

図35 のりこしの路

 因みに,図35の左端が長女史歩。その息子,裕介は小学4年生で上尾に住んでいる。学校に上がるまでは月に1度は遊びに来た。右端は次女の文代。その娘,彩乃は3歳で住吉に住んでいる。週に1度は遊びに来て,爺ちゃんと遊んでくれる。母親の文代にそっくりである。男の子は正紀。その息子,成弥は富山に住んでいる。夏休みか冬休みに遊びにやって来る。
 毎年7月には各職場で保安ソフトボール大会が催された。ソフトボールの終わった後,グランドでビ-ルを飲む。その後は係長宅に押しかけることが慣習となっていた。大勢が押しかけて酒は飲む,にぎりめしは食うで,女房は大忙しであった。ビールは大量に飲むので,冷蔵庫では間に合わない。箱ごと浴槽で冷やした。自分の係の宴会は止むを得ないとしても,他係の宴会の客も所構わずやって来るので,何処の係長の奥さんも大変な苦労であった。

6-8.4度目引越 :柏豆510から前平へ :1年間在住。
 1979年に人員減少に伴い,柏豆の社宅群を廃止することから前平社宅に引っ越しすることになった。この前平社宅は以前,お医者さんが入居していた。柏豆の510号はスキー場付き社宅で,6年間も住んでいたので,お名残惜しかった。

7.井澤4鉱長    4東京大学工学部S36年卒
 1979年12月に井澤さんが栃洞鉱長として就任された。ペルーのワンサラ鉱山の3年間の勤務を終え帰って来られた。
 栃洞鉱長は副所長の南光さんが兼務されていたので,引き継ぎは南光副所長がされるべきであったかもしれないが,実務を担当していた鉱長代理の自分が井澤鉱長に引き継ぎをした。
 引き継ぎが終わったら急に暇になった。此まで自分がやっていたことを,全て井澤鉱長に引き継いだので,当然といえば当然である。
 井澤さんが栃洞鉱長をしておられた時は,自分は茂住鉱に勤務していたので詳細は不明であるが,おおよその業績は以下の通りである。

7-1.予算編成
 従来の予算編成は支出のみを積算していた。せいぜい収入の元となる銀,鉛,亜鉛の金属量を積算するまでであった。亜鉛精鉱量や鉛精鉱量の計算は選鉱課で,経常損益の計算は経理課がやっていた。
 井澤鉱長になってから,鉱山側で精鉱量,精鉱単価を計算し,鉱山の収入を計算した。生産金額から総コストを差し引き,経常損益を計算するようになった。これにより鉱山側で収入に見合った予算を組み立てることが可能となった。

7-2.採鉱法
 最も大きな業績は採鉱法の改善である。即ち,栃洞鉱の採鉱法に再びカットアンドフィル法を採用されたことである。
従来の採鉱法に対する考え方は,
 ¶ サブレベルストーピング法は高能率採鉱法で大規模で岩盤の強固な鉱床に適用す
   る。
 ¶ カットアンドフィル法は低能率採鉱法で小規模で岩盤の脆弱な鉱床に適用する。
 ¶ 栃洞鉱は亜鉛品位が4.2%程度の低品位鉱床であるため高能率に採掘する必要
   がある。



ということから,栃洞鉱の主力採鉱法はサブレベルストーピング法ないしブロックケービング法とし,カットアンドフィル法は低能率な採鉱法であると忌み嫌っていた。
しかし,以下のことを勘案すれば,カットアンドフィル法の採用は当を得た変更であった
 ¶ 保有鉱量のうちサブレベルストーピング法を適用する程の大規模な鉱床は残り
   少なくなっており,大半は群小鉱床であったこと。
 ¶ トラックレスマイニングの進展によりカットアンドフィル法は,意外と生産性
   が高い採鉱法となっていた。
    総合的に(開坑から充填まで考慮する)判断すればサブレベルストーピング
   法以上の生産性であったと考える。
 ¶ ケービング法の適用を極力避け,カットアンドフィル法を採用することは出鉱
   品位の向上に多大なる貢献をする。
 図36に示すように井澤鉱長の就任(1979年)以来,C&F法による出鉱割合が増加し彼の在任中に,その割合は30%程度にまで上昇した。その後もC&F法の割合は増加し,C&F法による出鉱割合は60%以上となり,C&F法が名実ともに栃洞鉱の主力採鉱法となった。

7-3.機械統一
 栃洞鉱では同じような性能で複数のメーカの機械を使用していた。例えば穿孔用機械のジャンボなどは古川機械金属や東洋削岩機等である部品管理の面からこれを1社に統一された。
ビット・ロット等も数社のメーカから購入していたが,1社に絞られた。

7-4.省エネ
 省エネ等のコストダウンを精力的に実施された。
 ¶ 圧縮空気の漏洩防止
 ¶ コンプレッサーの適正運転
 ¶ 廊下灯の廃止

7-5.保安衛生
 保安衛生にも諸対策を実施された。
 ¶ 立坑にベルトカーテンの設置
    LHDで竪坑に鉱石を覆した後,自動的にベルトが竪坑から吹き上げる粉じん
   を遮断する設備である。
 ¶ エアーラインマスク
    酸素ボンベ用の容器に圧縮空気を封入して,LHDに搭載する。オペレータの
   マスクとボンベをチューブで連結し呼吸時に空気が供給される設備である。この
   ボンベは連続使用で7時間使用することができた。
 ¶ 坑内の各所にウオータカーテンの設置
 ¶ 土砂取り前の散水。
 ¶ 保護具として防塵眼鏡,マスク等の完全着用。

第3章 茂住鉱長時代
1.初めての転勤
 これまで南光鉱長が鉱長を兼務されていた時は,鉱長の業務を代行していたので可成り多忙であったが井澤鉱長が就任されてから,は保安技術係や事務係を兼務するようになったが,可成り暇であった。もうすぐ転勤になるだろうと思っていた。
 1980年5月にカナダ・アメリカの鉱山見学の出張から帰って間もなく茂住鉱に転勤となった。同じ神岡鉱業所内の転勤ではあったが,入社後15年にして初めての転勤である。茂住鉱は栃洞から10Kmほど川下の富山県側に位置している。

1-1.茂住鉱長代理
 茂住鉱長は小松弘さんであった。小松さんは以前の上司であった。自分が上部生産管理職をしていた1969年に茂住から栃洞の上部係長として転勤されてきた。8年間ほど栃洞鉱で勤務した後,茂住鉱長として転勤された。

1-2.5度目・6度目の引越 栃洞から茂住へ : 3年間在住。
 自分は国道沿いの鉄筋コンクリート4階建ての社宅に入った。家族は富山に住まわせることにした。引越は八尾の「風の盆」の時期であった。多くの観光客が八尾に向かっていた。
 家族が住んだ富山の家は「古稀庵」である。「古稀庵」とは,藤記先生が隠居されたお父さんのために建設されものである。お父さんは既に亡くなられ,「古稀庵」は他人が借りていた。無理を言って,その家を借りることにした。呉羽カントリークラブのすぐ近くである。
 茂住鉱の小学校は生徒数が少ないので,複式学級であった。中学校は汽車で神岡中学に通うことになっていた。
 子供のためには,家族は富山に住んだ方が好いと判断し「古稀庵」に住まわせた。
 長女史歩が中学2年生。次女の文代が小学6年生。長男の正紀が小学4年生の時である
 茂住の管理職アパートとは,僅か30km程度の距離であったので,週末には富山に帰った。

1-3.7度目の引越 「古希庵」からメゾン今泉へ  
 1980年に会社に住宅建設資金を貸し出す制度が出来た。富山市内に北陸一のマンションとの触れ込みで,南富山に「メゾン今泉」が完成し販売された。会社から住宅建設資金を借りて「メゾン今泉」を購入することにした。1981年10月に家族は富山のメゾン今泉に引っ越した。
 栃洞での引越であれば,大勢の人が手伝いに来るのであるが,この引越はレンタカーの2トン積みのトラックを傭車し,自分と女房の2人でこなした。冷蔵庫や洗濯機等の重量物の運搬を心配したが,引越用の台車を利用して,予想外に簡単に運搬することが出来た。朝10時頃から夕方の5時頃まで掛かった。引越が終わった頃,子供達が学校から帰ってきた。子供達には,
 「今日はメゾン今泉に引越しするから,帰る家を間違えないように。」
と言い聞かせていた。長女が中学2年,次女が小学6年,長男が小学4年であった。

1-3.56豪雪
 昭和55年の暮から新年にかけて豪雪となった。いわゆる56豪雪である。小松鉱長は中国に出張中であった。
明日1日,出勤すれば年末・年始の休日を迎えることができると安堵していた。29日の夜から雪が猛烈に降った。
 明け方4時頃,玄関のドアを「ドンドン」と叩く音がした。玄関に出ると田口事務係長が
 「雪崩です!従業員のアパートに雪崩がありました!」
と大声で告げてくれた。
慌てて服を着て従業員のアパートに向かう。胸の位置まで雪が積もっていたのでなかなか進めない。管理職アパートと従業員アパートは僅か20m程度である。が,たどり着くまで20分以上を費やした。
 雪崩は河上さん宅の窓を破って寝室に雪崩れ込んでいた。夫妻はなだれ込んだ雪の下になっていたそうだが,既に救い出されていた。部屋の天井にも雪が張り付いていた。そればかりか締め切った洋服ダンスの中にも圧風で雪が入り込みビッチリ張り付いていた。近くに単身寮がある。雪崩の被害を被った家族を皆寮に避難させた。怪我人の治療に当たるため看護婦がやってきた。看護婦は薬や包帯を診療所に取りに行って欲しいと依頼する。診療所は高台にある。この雪では容易に行けない。6時頃,?(かんじき)を履いた5,6人の部隊を編成して診療所に向かわせた。彼らが帰ってきたのは正午になっていた。6時間もかかった事になる。通常なら30分もあれば往復することが可能である。
 この時期の雪崩は「表層雪崩」であったと考える。春先に起きる雪崩は「底雪崩」とは異なる。「表層雪崩」とは根雪となった後,雨で表面の雪が溶ける。再び,寒波が来て表面がアイスバーンとなる。その上に新雪が積もる。木の枝の雪が風で落下して転がる。周囲の雪を集めて大きくなる。空気も一緒に丸め込む。転げ落ちる途中,空気を圧縮する。何かに衝突すると,圧縮されていた空気が爆発する。これが表層雪崩である。黒部第三発電所建設中に,飯場が表層雪崩で対岸の山腹まで吹き飛んだ例や,オーストリアでは一村が吹き飛ばされた例が,吉村昭の長編小説「高熱隧道」で紹介されている。
 年末から年始に掛けて休日であったにも拘わらず,毎日単身寮に出勤し,寮の食堂の一画に陣取って,豪雪対策の指示に明け暮れした。この時期,小松鉱長は中国に出張中で鉱長代理の自分が指揮を執った。
 雪で送電線が切断され停電となってしまった。会社の送電線であったから工作員を配番し対応した。その他,怪我人を富山の病院に搬送する,雪崩に遭遇した家族の布団の乾燥等いくらでも仕事が湧いてきた。国道41号線ではトラックが雪崩により高原川に墜落した事故も発生した。運転手は茂住の警察官によって救助された。
 この豪雪で国道41号線は不通となり,坑内で使用する爆薬等の諸物品が入荷しないため,通常の作業は不能となった。
従って,坑内作業員は坑外の設備,特に選鉱場の屋根の雪降ろしの作業をすることになった。全員がスコップ持参で通勤した。通常の仕事が出来るようになったのは3月頃であった思う。
 この豪雪で41号線を走るトラックが高原側に墜落する事故が3件発生した。2件は新聞ニュースになったが最初に起きた1件は死亡災害であったにも拘わらず,新聞ニュースにはならなかった。

2.茂住鉱長
 4月に小松鉱長が東京に転勤になり,鉱長は南光副所長が兼務された。実質は自分が茂住鉱の采配を振るうことになった。
 翌年の1987年の4月には鉱長代理から鉱長に昇格した。南光副所長から
 「実質鉱長であるにも拘わらず,長い間,鉱長代理の肩書きで申し訳なかった。」
とねぎらいの言葉を戴いた。その後,南光副所長がペルー支社長に転勤され,吉田さんが次長として赴任されてきた。この時,副所長が次長に改正された。

2-1.トラックレスマイニング
 茂住鉱は未だ完全トラックレスマイニングにはなっていなかった。従来から,茂住鉱の鉱体は小規模であるから,完全トラックレス化は困難であると考えられていた。各種機械はトラックレス用の機械を導入していたが,機械の移動は限られた範囲内であった。穿孔する時は,LHDが待機し,選鉱する時はジャンボ-が待機し,重機械類の稼働率が極めて低い状態であった。茂住鉱の生産性が栃洞に比べ極端に低いのはこのことが原因であると判断した。
 1980年に茂住に赴任した当時の茂住鉱の生産性は6T/工で栃洞鉱の12T/工の半分であった。
 トラックレスマイニングを完成する工事に着手した。ハード面では坑道の拡幅,新規斜坑の開削,斜坑から切羽へのアプローチ坑道の開削等,ソフト面ではクルーシステムの導入等である。

2-2.操業不調
 完全トラックレス化の工事は順調に進捗していると思えた。ところがクルーシステムの作業で,発破警戒区域内に入っていた作業者が,浮き石の下敷きとなる死亡事故が発生した。
 このことが直接的な原因とは思わないが,茂住鉱の出鉱が不調となり,予算の達成が困難となった。
 「鉱石を出すことを犠牲にして全山トラックレスの工事をしなければならないのか?」
と吉田次長は苦情を漏らしていたそうだ。
 彼は何時も面と向かって小言を言わない。蔭で,しかも酒を飲んでから,執拗に愚痴をこぼす。又,
 「百年の計」より「その日の飯」を大切にする人であった。将来,大型機械が各切羽に自由に稼働しうる坑内構造に転換しなければ生産性は向上しないのである。生産性が向上しなければ,採掘し得る鉱石も少なくなり,鉱山ライフは短くなる。
 資源を総括する立場にいる人は,更に将来の鉱山のあるべき姿を描くべきである。ポスト中龍,ポスト茂住,ポスト栃洞を考えておかなければならないのである。
 目下の処,茂住鉱の経常損益は黒字基調であり,現状の低能率を改善しておかないと,経済的に採掘し得る鉱量が極端に少なくなる。即ち,鉱山ライフを縮めることになると考え,全山トラックレスの工事は続行した。
 出鉱量を確保するため井澤鉱長に
 「栃洞鉱のトラックレスマイニングに精通した係長を茂住に赴任させて欲しい。」
 と申し込んだが井澤鉱長は中々首を縦に振らなかった。粘りに粘って,弘中係長に来て貰うことになった。
 彼は辣腕を振るって諸改善を実行した。トラックレスマイニング法を理解していない,オールドファッションの猛者(もさ)の考え方を変え,やり方を変えたのである。
次第に鉱石が順調に出るようになり,操業は安定してきた。

2-3.乾燥室を坑内に移設
 茂住鉱は坑口から3km入った坑内に事務所があった。作業者の乾燥室と風呂は坑口近くに設けてあった。係員は坑内で更衣手洗いをしていた。作業者は坑外で更衣・手洗いをしていた。しかし,作業者が坑内事務所で係員に引き継ぎをするとき10分程度の手洗いが必要であった。このシステムだと,作業者の手洗いが坑内と坑外でダブって発生する事になり時間の無駄であった。坑外の乾燥室を坑内に移設した。

2-4.万雑(まんぞう)
 茂住では新年に金竜寺で旧家と呼ばれる地主さん達の新年会が開かれる。この新年会に「万雑(まんぞう)」と云う名称が付いていた。「万雑」には鉱業所の幹部と茂住鉱長,鉱長代理等が招待される。
 ある「万雑」で吉田次長がペルーのワンサラ鉱山の思い出話をされた。ワンサラ鉱山が儲かって借金をゼロにして,無借金経営であったと自慢された。暫くして地主の長谷川さんが「椀」と「皿」と「トウモロコシのひげ」をテーブルの上に並べて,
 「これを何と解く」
と質問された。誰も答えられなかった。長谷川さんが得意そうに
 「ワン(椀) サラ(皿) モウ(毛) カッタ(刈った)」(ワンサラ儲かった。)
と回答してくれた。
「万雑」の締めくくりは,正式なお土産とは別に戴く景品の授与式である。謎解きをしながら,景品が授与される。例えば
 「破れ障子と掛けて何と説く?」
答えは
 「ウグイスであります。」
 「その心は?」
 「はる(春=貼る)であります。」
と言いながら絆創膏を渡す。
 このような「謎解き」を毎年,考えて景品を渡された。毎年よくも考えられるものだと感心した。
 自分の後継者は中沢君で鉱長に就任した。中沢鉱長と弘中鉱長代理が招待され,連名で「寸志」を出した。
 何かの会合の時,金竜寺の和尚さんが
 「今度の辞令で弘中さんが鉱長で中沢さんが鉱長代理のようですね。」
 「それは逆ですよ。中沢さんが鉱長で弘中さんが鉱長代理ですよ。」
 「でも寸志に弘中さんの名前が先に書いてあった。」
と和尚さんは譲らない。
 暫く考えて謎が解けた。図37のように,中沢君達は「のし袋」に自分達の名前を縦書きした。ところが,金竜寺の和尚さんはそれを横に読んだのである。


2-5.娯楽
 全山保安委員会が月に一度開催される。会議の終わった後,吉田次長,井澤鉱長と自分の3人で飲み会をするのが恒例となった。
 単身赴任の徒然に麻雀を楽しんだ。メンバーは田口事務係長,坂下工作係長,杉本係長,藤井生産管理職等である。
 管理職アパートの前の一般社員のアパートに杉本君,藤井君が居住していた。二人を招く時は「杉本君!藤井君!」と呼ぶべき処,広場から,「藤本君!」と叫んだ。藤井の「藤」と杉本の「本」を取り,一度に2人を呼んだ。故意にそう叫んだのでなく自然に「藤本君」になってしまったのである。
坂下工作係長は自分の手の内が好い時は,点棒箱を眺めて,
 「命まで取られることはない!」
と気合いもろとも危険牌を切ってきた。楽しい麻雀であった。

3.カミオカンデ
3-1.カミオカンデとは
 「KAMIOKANDE」の略である。
KAMIOKA=神岡のKAMIOKA
N=Nucleon=原子核の(陽子)のN
D=Decay=崩壊のD
E=Experiment=実験のE
即ち、カミオカンデとは
 「神岡における陽子崩壊実験」
を意味するのである。

3-2.二人の教授
 1980年12月27日に,東京大学の宇宙船研究所の須田英博先生と,高エネルギー物理学研究所の高橋嘉右先生が茂住鉱を訪問された。
 この年はいわゆる“56豪雪”である。この豪雪は12月28日から降り始め29日には数メートルの積雪となった。先生達は豪雪になる前に東京に帰還された。あと1日遅れれば交通機関がマヒに巻き込まれ当分は帰れなかったのであるが。
先生達の要件は次の通りである。
 陽子は永久不変の物質であるとされてきたが。実際は壊れると予測される。陽子の寿命は1030年と推測される。6000トンの水槽を貯蔵すれば,1年間に6個程度の陽子が崩壊する計算になる。
 「陽電子が崩壊する瞬間にチェレンコフ光を発する。」
このチェレンコフ光を観測することにより、陽子崩壊を検証しようとしたのである。このことが実証されればノーベル賞の受賞は間違いないという事であった。両先生は度々神岡を訪問された。その時々に色々な問答を行った。そのひとつに
 「先生達の目的を実現すれば世の中はどのような変化をもたらすか?」
 「世の中は余り変わらないが,高校の物理の教科書が2~3行書き直されますね。」
 「地下に建設する理由は?」
 「地球上には無数のニュートリノが降り注いでいるので,それ等の影響を避けるため
  である。そのフィルターの役目を果たすものが1000mの岩盤の被りが必要であ
  る。」
 「同じ性能の設備を地表に作るとすれば,無数のニュートリノの影響を避けるため,
  莫大な費用が掛かり,この実験は経済的に不可能となってしまう。」

3-3.建設予候補定地
 自分達は「陽子崩壊の実験室」となり得る候補地として,釜石鉱山,神岡鉱山,北海道の幌延地域等の3箇所を考えている。実験室を作る前提条件は
 ¶ 岩盤が固いこと。
 ¶ 地下1000mの被りがあること。
 ¶ 周辺に綺麗な水があること。
である。東京大学の工学部の先生に
 「日本で一番岩盤強固な鉱山は神岡である。」
と教えて貰った。問題は
 「地下1000mの地点に巨大空間が作ることが可能か否か」
である。
 「金に糸目をつけなければ,如何なる空間も作ることは可能である。」
と自分はそう答えた。先生達は安心したようであったが,また不安を抱いているようでもあった。後で解った事であるが,彼等は三井金属の本社で,地下空間の掘削費は1m3当たり約3千円であると聞いていた。ところが
 「金に糸目をつけなければ」
という条件を付け加えたものだから不安になったらしい。
 因みに,ゼネコンがアクセス等も勘案して,見積れば1m3当たり40千円以上になるであろう。
 東大の宇宙船研究所の戸塚洋二教授御一行が来山された時,鉱山の概況説明をした。得意になって神岡鉱山の生産性を自慢した。すかさず戸塚教授が
 「齋藤さんそれは素晴らしいですね。それでは,その能率の良さでカミオカンデを
  掘削して,建設単価を削減して下さい。」
と宣った。これには
 「マイッタ!マイッタ!」
であった。
 当初,神岡鉱業所が直接東京大学の施設部から受注するつもりでいた。係長を鉱長室に集め工事の積算をしていた。
南光副所長は
 「まるまる損しても3億円じゃないか。今後の地下利用事業の宣伝費と考えれば安い
  ものだ。」
と豪語された。自分達は安心して設計積算した。

3-4.神岡に決定
 結局,実験室の候補地は神岡に決定した。他の二つの候補地は,釜石鉱山については,地表の被りが浅い(600m程度)こと,幌延の無人の土地では莫大なインフラ費用が必要である等の理由で却下されたそうである。

3-5.開削位置
 開削位置を決める条件は,地表の被りが1000m必要であること,岩盤が強固であること等である。
 茂住鉱山の岩盤は鉱石を胚胎するゾーン以外は,主に片麻岩であった。昭和30年代に実施された探鉱で,マイナス500m準の南東部に長く伸びた坑道があった。その途中に強固な片麻岩帯があり,池の山三角点の真下となる地点をカミオカンデの開削位置とした。マイナス500mとは,海抜850m準を0m準とし,そこから500m下がったレベル準のことである。即ち海抜350m準である。
 高橋教授はカミオカンデに使う豊富な水が周辺にあるか否かを調査していた。カミオカンデの候補地の奥の坑道から湧き出ている地下水に目をつけ,量的には十分であると考えた。水質的に適する水であるか否かを検査した結果,東京都の飲料水の3倍綺麗であると言われていた。3倍綺麗であるとはどういう意味か理解に苦しむが,兎に角不純物が少ないと言うことである。

3-6.工事着工
 1882年2月にカミオカンデの工事を着工した。
巨大空間を開削するのであるから,使用する機械は全て大型機械である。ところが開削地点は古い坑道で,坑道加背は2.5×2.2mである。いきなり大型機械が使える場所ではなかった。
 先ず,この坑道を拡幅し,大型機械を組み立てるための空間を開削することから始まった。マイナス500m準から,約15m上のレベルに既設の坑道があった。この坑道を拡幅し,大型機械を分解搬入し,拡幅した中段で重機械類を組立てることにした。
内燃機関の機械を使用するので,通気を確保するための坑道や立坑も開削した。大型機械を使うまでに2ヶ月以上を要した。

 大型機械を使って工事が順調に進むようになった時期に山鳴り,山はねの現象が現れた。鉱山に長い間働いてきたが,初めての経験であった。「山鳴り」は間欠的に,突然に,巨大な音がするのである。近くで発破を掛けたと思うような爆発音である。最初は発破警戒をしないで,発破をかけたと騒ぎになった。
 「山はね」は地山の岩盤から岩石が剥がれて飛ぶ現象のことである。係員が現場を巡視していた時,目前で大きな岩石が右の壁から左の壁に飛んだ。大きさは約1m四方の岩石であった。
 工事を一時中断した。全面的な中止でなく。発破を掛ける作業を止め,切羽および切羽周辺にロックボルトを施工し,浮き石の発生を防いだ。それに切羽全体の整理整頓等の仕事をした。南光次長も参加され我々は対策を議論した。南光次長は東京大学の山口梅太郎教授にも相談された。
 その結果,
 ¶ 坑道掘進を一時中断する。
 ¶ 既に掘削した坑道に,ロックボルトを施工する。
 ¶ 新規に開削する坑道にもロックボルトを施工する。
 ¶ 発破方法はスムースブラスティング法を適用する。
等が今後の方針となった。ロックボルトは多量に在庫を抱えていたスプリットセットを施工した。坑道の一断面に30本程度施工したのである。ロックボルトの理論によれば,これによってアーチアクション効果,即ち,坑道の岩盤自らがアーチを形成し,あたかも支保を施したような効果が得られるのである。この方針の下に工事は順調に進むようになった。
 工事期間中は小柴教授も何回か現場を視察された。寮の娯楽室で鉱山労働者と酒を酌み交わされる場面もあった。酒がまわって,ほろりとした頃,
 「アメリカでは酒を飲むとダンスをするのが当たり前だよ!」
と言いながら。寮の賄いのおばちゃんを連れてきて,ダンスをされた。

3-7.竣工式
 1983年カミオカンデの竣工式が開かれた。東京大学,地域の代表,工事関係者等が参加した。来賓の挨拶の後,飛び入りで
 「工事関係者を代表して神岡鉱業の方どなたか挨拶をお願いします。」
とアナウンスされた。突然のことであったので,戸惑いながら吉田次長の顔を伺った。吉田次長は
 「俺は赴任してきたばかりで何も解らぬ。齋藤君!君が工事を担当してきたのだか
  ら,君が挨拶しろ。」
と言う。やむなく自分が壇上に向かった。口から出まかせに次のような挨拶をした。
 カミオカンデの竣工おめでとう御座います。工事を担当した者として一言御挨拶申し上げます。
この工事を行うに当たり次の三つのことを目標にしました。災害を出さないこと。工期を守ること。儲けること。であります。
第一の災害につきましては
 残念ながら1件の災害が発生しました。ただし,「山はね」や「山鳴り」の発生する過酷な現場であったことを勘案すれば,1件の災害であった事は,不幸中の幸いであったと言えます。
第二の工期につきましては
 先生方から,開削中に1秒でも早く仕上げるよう叱咤激励して戴きましたので,約束通り1年で完成いたしました。私も先生達に1秒でも早くノーベル賞を取って戴くよう叱咤激励いたします。(笑)さて,
第三の儲ける事でありますが。
 儲かったと言えば,東京大学の先生方から叱られる。儲からなかったと言えば会社の偉い人に叱られる。誠に申し上げにくいので,引き分けにしておきます。従って,この工事を総括いたしますと
 「1勝,1敗,1引き分けでありました。」(爆笑)
工事の完成を心からお祝い申し上げます。

3-8.ノーベル物理学賞
 チェレンコフ光を捕らえる設備は3000トンの超純水をタンクに貯め,その側壁に1000本の光電子増倍管が設置されている。
 チェレンコフ光を検出した光電子増倍管は,データをコンピュ-タに伝える。計算により,どの方向から来たニュートリノによる反応かが解る仕組みになっている。
 この仕組みにより,カミオカンデは1987年2月23日に,大マゼラン星雲で起きた超新星に依って生じたニュートリノを世界で初めて検出することに成功した。この功績により,2002年に小柴昌俊東大名誉教授はノーベル物理学賞を受賞された。

図38 文化勲章受章のお祝い


 カミオカンデ建設の当初の目的は、陽子崩壊を観測することであったはずだが。
 また,戸塚洋二(東京大学理学部),須田英博東京大学(宇宙船研究所)と共に仁科記念賞を受賞,同業績に対し「神岡観測グループ(代表小柴昌俊)」に朝日賞が授与された
 東京大学のゲストハウスが茂住に建設され,文化勲章受賞の御祝いがもようされた。図38は文化勲章受章の御祝いに,町長や教育長と共に招かれたときの写真である。

3-9.小渕総理大臣
 この施設には歴代の東大総長が見学に来た。有馬朗人総長,蓮實重彦総長など。
 自分が神岡の社長をしている時,1999年頃であったと記憶する。
 小渕総理大臣がカミオカンデの見学に来られた。この時,蓮實総長が同行されていた。有馬総長は坑内のカミオカンデの実験室の扉に
 「宇宙線は天啓」
と書かれていた。これを見て蓮實総長が
 「総理も何か記念に!」
と何か書かれることを促された。小渕総理はその気になり,マジックを受け取って,ドアの前に立った。ドアの前に立って暫く考えていた。丁度,生徒が先生に指名されて黒板の前で答えが分からず,白墨を持って考えている光景であった。
 小渕総理が一向に書こうとしない。蓮見総長は背後で暫く,総理を見守っていたが,手帳に何かメモを総理に手渡された。 
総理はそれを見てやっとドアに何かを書き日付と署名をされた。如何なる文言であったか忘れてしまったが署名だけは今も残っているそうだ。
ニュートリノに関する説明を聞いた。
 「南米方面の超新星が爆破し,地球を貫通して,ニュートリノが飛来した。
  そのニュートリノを,この光電子増倍管で補えた。」
と説明を受けると小渕総理大臣がすかさず
 「そのニュートリノはスペイン語を喋ったか?」
と質問して皆を笑わせた。

4.プロジェクトX
 小柴教授が2002年にノーベル賞を受賞したことから,カミオカンデを紹介さする番組が組まれ,2003年に「プロジェクトX」という番組に出演することになった。司会は善場さんと国井さんで,東大の小柴さん,浜松ホトニクスの鈴木さん,それに自分でカミオカンデについて語る番組であった。

図39 NHKの放送スタジオ

 先ず小柴さんと鈴木さんで物理学の話と浜松ホトニクスの光電子増倍管の開発に至る話をしている間,自分は控えで出番を待っていた。最後に
 「それでは,実験室の空間を開削された齋藤さんを紹介します。」
という言葉を合図に登場し,地下空間掘削の話となった。
 NHKのスタジオに入ったのは初めてであった。テレビの画像から判断して,重厚な舞台と想像していたが,以外と簡単な舞台装置には驚かされた。小学生の頃の学芸会の舞台装置と同じ程度であった。
 当時大河ドラマでは「宮本武蔵」が放映されていた。スタジオへの通路には,「武蔵」に関する衣装や諸道具が見受けられた。

4-1.「情熱が奇跡を呼んだ」
 「プロジェクトX挑戦者たち N0.19情熱が奇跡を呼んだ」
が日本放送出版協会から発行されている。
 開削時の雰囲気を伝えるため以下の記述を抜粋する。図40はその書物に掲載されている写真である。
 二月。ついに工事が始まった。掘削機械が片麻岩を削るすさまじい音が坑道に響いた。(中略)
リーダの齋藤は部下達に檄を飛ばしつづけていた。
 「鉱山技術者の意地を見せろ!必ずできる!」
しかし数日後のことだった。
 「ビシ,ビシ」
最初は気のせいかと思ったその音は,あっという間に大きくなり,坑道中に響きわたった。皆
 「何事か!」
と作業を止めた。次の瞬間,1メートル四方もあろうかと思われる巨大な岩石が,真横に飛んだ岩は反対側の壁まで飛び,砕け散った。齋藤は恐怖に青ざめた。
 「側壁の壁がボーンと横に飛んだ。もし人に当たっていれば間違いなく即死でした。」
“やまはね”だった。地下1000mで行われる工事。山の圧力に耐え切れず,岩の表面が剥がれ飛ぶ現象!いつまた“山はね”が起きるかわからない。工事は中断となった。小柴の計画は水の泡になるのか?
齋藤は現場に向かった。
 「何としても“山はね”を止めてみせる。」
齋藤のあとを部下たちが追った。
 「俺たちは鉱山技術者だ。“山はね”が怖くて,山が掘れるか」
齋藤たちは,鉱山にある鉄の杭をかき集めた。そして,“山はね”の危険が迫る現場に入り,工事を再開した。孔を掘るそばから,鉄のボルトを一本一本壁に打ち込んでいった。
 それは,岩壁の硬いヨーロッパのアルプス地方で,山岳トンネルを掘るために開発された方法,「NATM工法」をアレンジしたものだった。鉱山技術の最先端を行く神岡鉱山でもこのときが初めての実用だったが,齋藤は冷静であった。
 理論上では,ボルト一本で,1.38トン分の山の圧力を分散することができるはず。それを500本以上埋め尽くせば,必ず“山はね”は止む。
 九か月後。壁は561本のロックボルトで埋め尽くされていた。
 齋藤が耳を澄ませた。あの音は聞こえない。ついに“山はね”を克服した。齋藤は思わず涙ぐんだ。
 「30年間鉱石を掘った経験と同じくらいの重みを,このときの掘削作業には感じましたね。充実感という言葉でしか,その時の思いは語れません。」
まもなく,実験施設となる巨大な空洞が掘り上がった。
地下1000メートルで,鉱山技術者たちの万歳が響き渡った。

図40 「情熱が奇跡を生んだ」NHK出版


第4章 栃洞鉱長時代
1.栃洞鉱長
 1983年6月,井澤鉱長が中竜鉱山に転勤になり,自分が後任として栃洞鉱長に就任した。引き継ぎで円山を巡視した。0m準以下の4番鉱床や5番鉱床が既にサブレベルストーピング法で採掘が進んでいた。栃洞を去って4年の間に可成りの採掘が進んでいた事に驚いた。大切なものが無くなってしまったような気分であった。

1-1.8度目の引越 栃洞鉱長社宅へ :5年間在住
 家族は引き続き,富山のマンション住まいであったが,自分は茂住の管理職アパートから栃洞の鉱長社宅に引っ越した。
 社宅の押し入れの中に東さん,佐藤さん,石須さん,高多さん,南光さん,井澤さん等歴代の鉱長名が記されていた。栃洞クラブの横隣り,幼稚園の後ろの社宅であった。部屋数が7つあったが,使用する部屋は一つだけであった。

1-2.冬期間の通勤
 ウイークデイは鉱長社宅から栃洞社宅に通った。毎週土曜日には富山に帰り,月曜日には妻と一緒に鉱長社宅に来た。妻は一週間分の買い物と料理をして富山に帰った。
 土曜日に富山に帰る際,水道の蛇口を閉めて帰るものだから水道管を氷らせることが度々あった。その都度事務係のお世話になった。
 月曜日には,富山を早朝に出発し,栃洞に向かうのであるが,意地の悪いもので,日曜日にはよく雪が降った。出勤途上,南平の「山本前」はチェーンを嵌めなければ登らない。タイヤにチェーンを必要とする距離は,僅か100m程であったが。
 余り度々なので自分の自動車は山本義富氏の宅に駐車し,事務係に迎えに来て貰ったこともある。タイヤにチェーンを取り付けるのが面倒だったのである。

1-3.タクシー代一万三千円也!
 度々宴会があった。大方は社用であったが,プライベートの宴会もあった。深夜タクシーで社宅に帰るのが常であった。神岡から栃洞までのタクシー代は3,000円くらいである。ある時,社宅に到着して運転手が
 「お客さん!お客さん!」
と起こしてくれた。タクシーの中でぐっすり寝込んでしまったのである。
 「料金は?」
 「一万三千円!」
 「何!」
 「一万三千円です。」
 「どうして栃洞まで一万三千円もするのだ!」
と叱りつけると
 「お客さん此処は富山です。」
と答える。辺りを見渡すと,確かに富山の「メゾン今泉」の玄関先である。酔っ払って行き先を富山と指定したらしい。
翌日の出勤は笹津迄タクシーで後は神鉄に乗って通勤した。

1-4.娯楽
 娯楽は麻雀と囲碁であった。冬は,麻雀を度々,楽しんだ。メンバーは係長,生産管理職,それに,組合の地区対策部長(中田氏)等であった。この時期は良く負けた。茂住で勝っていた分を吐き出す結果となった。囲碁は技術係にいた稲葉氏と対局した。彼も家族とは別居し,一人暮らしであった。

1-5.9度目の引越, 鉱長社宅~東大駒場前 1年間在住
 1987年4月東京本店へ転勤の辞令が発令された。東京転勤に伴い,鉱長社宅から駒場前社宅へ引越をした。但し,家族はそのまま富山のマンションに居残ることにした。
 井の頭線で渋谷駅へ。渋谷駅から銀座線で三越前まで約45分であった。三越前で降り,エレベータで7階に上がると資源開発部の事務所である。社宅を出て,地下鉄に乗って事務所に行く毎日であった。外部の景色も,太陽も見ない。東京に来たものの,これでは栃洞で人車に乗って坑内に通っているのと代わらないことに気がついた。

1-6.本店勤務1年間
 本店鉱山部では今後,資源開発部を事業部に昇格させたいと考え,新規事業を模索中であった。
 本店勤務は丁度1年間であった。その間,以下の業務に取り組んだ。
 ¶ 1987年6月~8月の3ヶ月間,串木野の石油地下備蓄工事の施工管理会社で
   働いた。
 ¶ 1987年9月~1988年3月は原子力環境整備センターから発注された論文
   「1千年の長きに亘って材料の耐久性を検証する方法」
を仕上げた。
 此の論文を書くには兎に角,悩み苦しんだ。三井金属の図書館の書物を全て調べたが,妙案は浮かばない。そもそも1千年というとてつもなく長い期間を対象とした耐久性云々は誰に問うても笑うのみであった。そのうち,本社内で
 「齋藤さんは栃洞鉱長であったが,今はひげ面で青い顔している。」   
と噂されるようになった。この仕事を受注した親会社の清水建設がかみ砕いたテーマに置き換えてくれた。学生時代の同級生である山口大学の水田教授の指導を仰いだ。実際は京都大学の資源工学出身で3年後輩の佐野助教授に手伝って戴いた。大いに助かった。
 原子力環境整備センターの論文の発表会が催された。70ページに及ぶ論文の要旨を7ページに要約し,15分以内で発表した。

1-7.再び神岡へ
 論文の発表会が終り一息ついているところに,
 「神岡鉱山部長を命ずる。」
との辞令が発令された。管理部門の人なら,やっと東京勤務になったのに,再び,神岡のド田舎に舞い戻るのはいかにも残念なことであると考えるが,自分は逆に喜んだ。1988年4月のことである。

1-8.10・11度目の引越,駒場~神岡ハイツへ  4年間在住
 昨年,東京に転勤する時は,子供の学校の関係で家族を富山に置き,自分は単身で駒場社宅に引っ越した。学校問題もやっと,片づき,4月に家族を東京に呼び寄せることにしていた。
 ところが,今回の辞令で,自分は神岡のハイツに(10度目),家族は駒場社宅住に引っ越し(11度目)することになった。家族が東京に在住し,本人が地方の事業所勤務する,いわゆる逆単身赴任である。
慌てて富山の女房に電話した。
 「車は未だ処分していないだろうな?」
 「3日前に車屋に引き取って貰った。」
という。止む無く,神岡に赴任して中古車を買うことになった。

1-9.神岡鉱業鉱山部長
 神岡鉱業の社長は吉田篤氏であった。 自分は鉱山部長であったから,本来は幹部室に勤務すべきだあったが,栃洞鉱長を兼務していたので幹部室には出勤しないで,栃洞の鉱長室に勤務していた。鉱長として鉱山の技術革新に取り組んだ。大方の技術革新はこの頃に行った。振り返ると,1983年に鉱長に就任し,1992年にペルー支社長に転勤するまでの9年間,栃洞鉱長として技術革新に取り組んだことになる。但し,1987年から1年間は本店鉱山部に転勤した期間がある。1988年から1年間は栃洞の鉱長室に,後の3年間は六郎の鉱長室に勤務した。
 栃洞鉱の技術革新や地下間利用室を創設し,実り多い4年間であった。本部の生産管理職の茂住洋史君が頑張ってくれた。

2.技術革新
 この時期が鉱山技術者として,鉱山経営や技術革新に最も情熱を注いだ時期であり,最も成果を上げた時期でもある。
 労働生産性の向上に寄与した技術革新の項目を,以下に列記する。概要説明は「流水之巻」に譲る。

2-1.技術革新一覧
1)採鉱法
   ① 4mスライスのカットアンドフィル法
2)穿孔機械
   ① 油圧クローラドリル
   ② 油圧ジャンボ
3)発破機械及びシステム
   ① ANFOトラック
   ② ANFO自動計量器
   ③ 集中発破システム
   ④ MBS雷管
   ⑤ NONER雷管
4)運搬機械
   ① KLDM-12導入
   ② 40トンダンプ導入
5)支保作業の機械化
   ① スムースブラスティング法
   ② ロックボルトジャンボ
   ③ NATM工法
   ④ 吹き付けロボット
   ⑤ 生コンプラント
   ⑥ トランシットミキサー
   ⑦ タイヤハンドラー
   ⑧ スケーラ
6)坑内通信システム
7)坑内事務所移転
8)栃洞移転
9)第2次時短操業:(274日⇒262日)
10)坑内賃金改定
11)間接部門

2-2.起業費申請
 以上の鉱山機械を購入する起業費を申請した。神岡鉱業所の予算会議で幹部に説明をした。幹部とは社長,製錬部長,鉱山部長,管理部長,それに経理課長である。
 鉱山部長は自分であったが,説明する時は,栃洞鉱長を兼務していたので,幹部席から被告席に席を代えて説明した。説明中,吉田社長は何故か居眠りをしていた。会議終了後,自分と同期入社の津國管理部長が
 「齋藤!お前は社長が眠っている間に起業費を全部通してしまったな!」
と冷やかす。久保常務は
 「イヤ!社長は修ちゃんを信用して,任しているのだよ。」
と同情してくれた。石の地蔵さんに説明すると同様に相手が居眠りをしていると実に張り合いがなく説明し難いものである。

3.地下空間利用事業
 神岡鉱山は明治7年(1874年)に,三井が鉱山経営を開始して以来,100年以上が経過する。そろそろ閉山が見えてきた。
 鉱山資源は減耗性の試算である,採掘を続ければ何時かはなくなるものである。ポスト鉱山事業として,神岡鉱山における地下空間利用を模索する必要があった。
 一方,地下岩盤は強度,剛性,耐震性,恒温性,遮音性,隔離性等を所有しており,これらの特質を利用すれば,
 「地下でなければならない,地下の方が有利である」
施設が存在する。
 それ等の性質を利用した神岡における地下利用の第1号が,1982年に茂住坑内に建設したカミオカンデである。同様の機能をもつ設備を地表に作るとすれば経済的に不能であるとのことであった。カミオカンデに次いで1995年には,陽子崩壊の検証やニュ-トリノの研究施設としてス-パカミオカンデが建設された。このほか火薬試験場,岩盤掘削試験場等が栃洞坑内に設置された。
 今後,重力波の研究施設が茂住坑内に建設予定されており,地下利用は更に拡大していく可能性がある。

3-1. 地下空間利用の具体的事例
 1990年には南米,1991年にはフィンランド,1992年にはアメリカの鉱山を視察した。機会ある毎に地下利用を視察した。以下に示す地下利用の具体例はその時に見学したものである。

3-2.スーパカミオカンデ
 1982年に建設した「カミオカンデ」や,1995年に建設した「ス-パカミオカンデ」は地下を利用した方が有利な施設の一つである。同様の機能をもつ設備を地表に作るとすれば経済的に不能とのことである。

図41 スーパーカミオカンデの空間


 今後,重力波の研究施設が模索されているが建設予定地を何処にするかを模索されていた。重力波研究者の御一行が神岡を見学された。 
 「重力波の研究フィールドはオ-ストラリアの広大な土地にしか立地し得ないと考え
  ていたが,神岡の地下を見学して考えが変わった。日本のこの神岡の地下が重力波
  の研究フィールドになり得る。」
と坪野教授が言っておられた。地下利用は更に拡大していく可能性がある。

3-3.倉庫
 食料の貯蔵施設も,地上の冷凍室よりも地下の貯蔵庫の方が経済性に優れているといわれている。
 図42はアメリカのカンサスシティの石灰石鉱山の跡地がそのまま地下倉庫になっている例である。真っ白の壁や天井には塗料などは一切使われていない。

図42 地下倉庫


 カンサスシティはアメリカの中央部に位置している。西海岸地方の農産物は東に,東海岸地方の農産物は西へと移動する。
 両方の農産物を中間点のカンサスシティの地下に貯蔵し,お互いの端境期に地下倉庫から,東の農産物を西へ,西の農産物を東へ運搬するのである。
 図43の写真はカンサスシティの地下倉庫への入り口である。東西を結ぶ国道の地並みに坑内貯蔵庫への入口があり,トラックがそのまま進入する仕組みになっている。

図43 地下倉庫へのアクセス(坑口)


3-4.図書館
 ヨーロッパ特に北欧では地下利用が盛んに行われており,
図書館や協会も地下に設けられている例がある。図44はフィンランドの例である。
 地下に図書館を建設する理由は以下の通りである。
 ¶ 地下は遮音性や恒温性に優れており,物音一つしない静かな空間である。
 ¶ 地下の温度は14℃~18℃で殆ど冷暖房の設備は使わなくても好い。
 ¶ 周囲は岩盤であるから,他からの類焼で書物を消失することはない。
 ¶ 天災地変に対しても,地上に比べ安全性が高い。
 ¶ ヨーロッパ特に北欧の地盤は強固であるため,地上に建設するより地下の方が
   有利である。
 写真の持ち合わせはないが,同じくフィンランドで,下半分が岩盤で,上半分が建設物の教会を見物した。このように北欧の国の地質は日本と異なり,表土が少なく地下はすぐ岩盤となる。

図44 地下図書館


3-5.スケートリンク
 フィンランドは議会政治と資本主義経済を維持しながら,軍事バランス上,ソビエト連邦の勢力圏内に置かれていた。東西冷戦時代にフィンランドは戦争による核の恐怖にさらされていた。

図45 地下スケートリンク


 自衛上,地下に核シェルターの設備が設けられた。通常はスケートリンクとして利用しているが「いざ鎌倉!」の時は,スケートリンクが核シェルターに早変わりする体制を作っていた。
 従って,この施設は遠く離れた山岳地帯ではなく,住宅地の地下に設けられているのである。北欧は非常に強固な岩盤地帯であるから,都心といえども容易に、しかも安価に地下掘削が可能なのである。

3-6.射場
日本油脂がロケットや衛星等を発射する時に用いる推進薬の研究で射場を必要としていた。地上では,爆発音や振動がクレームの対象とならぬように,保安距離が必要なことから,膨大な敷地が必要となる。以上の理由で日本油脂は神岡の坑内に射場を建設した。第一期は飛距離50mクラスを造り,第二期は400mクラスを建設した。このほか火薬試験場,岩盤掘削試験場等が栃洞坑内に設置されている。

4.危ない経験
 東京~神岡間には北アルプスが屏風のように立ちはだかっている。従って,如何なるルートを経由しても何らかの峠を越えることになる。図46はそれを模式図で描いている。

図46 安房峠


 側のルート程,峠は急峻である。すなわち,安房峠(1790),野麦峠(1672),長峰峠(1350),舞台峠(700)の順である。自動車による東京~神岡間ルートは次の4通りのルートがある。
 正月休みに東京に自動車で帰省していた。息子と一緒に神岡に向かった。東京地方は快晴であったが,さすがに安房峠や野麦峠を経由するのは難しいと判断し,第三のルートまたは,第四のルートで帰ることにした。
第1ルート
 東京発―中央道―松本―島々―安房峠―平湯―神岡
第2ルート
 東京発―中央道―松本―島々―野麦峠―高山―神岡
第3ルート
 東京発―中央道―塩尻―木曽福島―長峰峠―高山―神岡
第4ルート
 東京発―中央道―中津川―舞台峠―下呂―高山―神岡
 木曽福島迄来た。ここで361号線即ち木曽街道に入れば,第三のルートで長峰峠を越えて朝日村を経て高山にいたる。
 19号線,即ち中山道を走れば第四のルートで舞台峠を経て下呂・高山に。このルートは島崎藤村の「夜明け前の」舞台となった地で,妻籠宿や馬籠宿を通り,中津川に至る。
 しかし,日も暮れかけていた,早く神岡にと考え,長峰峠を超える第三のコースを選んだ。長峰峠を越える頃は,雪が降ってきた。路面には,既に20cm程度の雪が積もっていた。左側に高根ダムや朝日ダムが満面の水をたたえている。スリップすれば水ダムの中。徐行運転でなんとか高山に入った。
 古川バイパスを過ぎ杉崎の交差点を左に曲がった所で突然「バシャ!」
という音と共にハンドルが利かなくなった。対向車が来る。衝突しないように懸命にハンドルを左に切るが車は直進する。もたもたしている内に,偶然,待避所のようなポケットに入り込んで止まった。神岡まで後30分の場所である。
 息子が偶々,「JAF」に入っていたので電話をかけて,助けを依頼することにした。丁度,前方100m位の所にコンビニがありその脇に公衆電話があった。公衆電話の前まで来ると先客が電話中であった。電話ボックスの側に一台車が止まっていた。「JAF」の車である。
 「今公衆電話を使っている人は「JAF」の人かも知れない。」
電話が終わって出てきた人に確かめた。幸運にも「JAF」の霧山という人であった。故障した車の側まで来て事情を話した。ハンドル操作を車輪に伝える部品に嵌めてあるボルトが抜けているという。
 そのボルトが近くに落ちていないか探すことになった。冬の午後7時である。辺りは暗闇である。自動車が走ってきた時,ヘットライトの明かりで道路上を探した。3人で懸命に探したが,見つからなかった。霧山さんは諦めて,自分の車の道具箱を探した。暫く探していた,幸運にも1本のボルトが見つかった。そのボルトをはめて貰って,ハンドルが正常に動くようになり,神岡に帰ることが出来た。正月のことであったから修理費として1万円を支払った。霧山さんも大いに喜んだ。この事故を振り返るに,
 第一に,中央高速道の走行中の事故。
 第二に,高根第Ⅰダムへの転落事故。
 第三に,ハンドル操作不能で,対向車との衝突事故。
等の事故が想定されるにも拘わらず,何れの事故も発生せず,古川までたどり着くことができたとは,幸運の一言に尽きる。又,
 ハンドル操作不能の状態で走行中に,幸運にも,道路脇の小さな待避所に入ったこと,コンビニの前で偶然 「JAFの霧山氏」に遭遇したこと。全て,僥倖であった。神岡の社宅に着いた時,息子と二人で
 「よかった!よかった!」
と言いながら,かろうじて1本残っていた酒を飲んだ。
会社でこの話をすると
 「齋藤さん,今年は宝くじを買いなさい。きっと3億円が当たりますよ。」
と言った。自分もその気になっていたのだが,宝くじを買う機会を失してしまった。

5.柴田5社長    5九州大学工学部S33年卒
 吉田社長は1991年に本社の常務として転勤になった。後任は柴田顯氏あった。
 柴田社長は製錬出身で玉野精錬所から転勤されてきた。鉱長職は滑川君に任せ幹部室で柴田社長に鉱山関係に関するリコメンドをすることになった。
 昼休みに社長と将棋を指した。柴田社長の将棋の実力は2段格であった。自分はせいぜい3級程度であったので「角落ち」で指して貰った。余り勝てなかったと記憶する。
 この時代に印象に残っていることは,円山の地表で陥没部の東側の壁(2番鉱床側)が倒壊し,ヘドロが外部に流出し,漆山の発電所の取水口を塞いだことがある。
 坑内で2番鉱床の崩落鉱を抽出し終えた堀場から,充填用の土砂を抜いていたのであるが,その影響が地表に及んだのである。
 翌早朝に幹部一同円山の地表に向かった。霧の深い日であった。折角点検に行ったのに笈破(おいわれ)霧が酷くて,十分点検できなかったが大体の見当はついた。
 5番の陥没部は通常は大きな窪みとなっており,水が溜まっていたのだが,東側の壁が崩れ落ち,その土砂が窪みに納まりきれず,西側の壁を越えて流出した。その土砂は笈破に向かう谷に土石流となって流出し,多くの立木をなぎ倒していた。
 地表の対策として2甲側の壁は断崖絶壁とならぬよう,露天掘りのベンチのように階段状にし,傾斜を緩やかにした。
 これと同様の事故がペルーでも起きている。1970年に発生したアンカシュ地震(マグニチュード7.7)により,ワスカランの北峰が氷河と共に大崩落を起こす。約15百万m3の土砂と氷塊が3000mの標高差から流れ落ちユンガイの集落を襲った。当時のユンガイの人口は約18千人であったが,そのほとんどが埋没されて死亡した。

第5章 ペルー支社長時代
1.支社長
 1992年,神岡の鉱山部長で鉱山の技術革新もほぼ完成した頃,ペルー支社長を命じられた。自分は51歳であった。海外勤務は初めてであった。採鉱屋である限り,ペルーのワンサラ鉱山の経験を一度はしたいと思っていた。時期的に少し遅いのが難であった。

1-1.12度目の引越
 神岡から直接ペルーに転勤になった場合は,東京には社宅は貰えないことから,家族は駒場前社宅を出て学芸大前のマンションを借りて住むことにした。

1-2.スペイン語
 スペイン語は全く勉強したことはないが,ペルー支社長の経験者である南光さんや吉田さんは
 「スペイン語が解らなくても,通訳がいるから,仕事には支障は全くない。」
と言われたので安心した。東京本社で,1週間程度,午後2時間,スペイン語の勉強をした。
 東京ではいろいろなグループが,ほぼ毎晩のように送別会を催してくれた。スペイン語の勉強は,昼食後の午後1時からで,腹がふくれて,丁度眠くなる時間帯であった。東京外語大学の大学院生が三井金属まで教えにやって来てくれた。
 教科書「Bienvenidos al Mundo Espanol」を使って,ワンツーマンの講義であったが,半分は居眠りをしていた。眠りながらも75ページの教科書を一通り勉強した。この教科書はペルーに持参し,殆ど丸暗記した。
 その頃はペルーの治安が悪かったで,家族同伴は禁じられていた。単身で赴任することになった。

1-3.ペルーに出発
 ペルーに出発の際は,家族が成田空港まで見送りにきた。結婚して以来,初めての長期の単身赴任である。二度と再び会えない訳ではないが,海外への転勤ともなれば,帰国は1年に1度か2度くらいのものである。成田空港でいよいよお別れの時は妻も子供も涙ぐんでいた。

1-4.出迎え
 ロサンゼルス経由でペルーまで約22時間ぐらいであったと記憶する。ペルーには夜中2時頃に到着した。

 空港には北川君が迎えに来ていた。宿泊はペルーで最も高級で,古典的な「ホテルセサール」であった。北川君曰く「がペルーに来た人はすべての人が試飲する酒である」と云って「ピスコサワー」を勧めてくれた。かなりキツイ酒であった。2~3杯飲んでぐっすり寝た。
 翌朝ペルー支社から木内氏が迎えに来た。
 「支社長さま!私は木内であります!迎えに参りました!」
と直立不動の姿勢で挨拶した。まるで明治時代の軍人に挨拶を受けているようであった。彼は若い時に山梨からペルーに移民してきた。日本語もスペイン語も決して旨くはないがワンサラ鉱山で通訳をしていたこともあるそうだ。

1-5.13度目の引越 
 村上支社長は一向に申し送りをしない。止むなく,村上支社長と引き継ぎをする間の半月程は,内務省の近くのミツマスペンションに世話になる事にした。 毎朝イノホサという運転手が迎えに来た。東京では村上支社長が帰ってこないとやきもきしていた。2週間くらいは彼の仕事ぶりを観察する日々が続いた。

1-6.14度目の引越 : 支社長社宅へ :2年間在住
 7月末にやっと申し送りを受けた。8月に入ってようやく,ミツマスペンションから支社長社宅に引っ越した。

2.ペルーの生活
 朝起きると女中が食事の用意をしている。会社から帰ると夕食の準備をしている。言葉は何も分からないので,何も会話をしない。只,朝に
 「ブエノスディアス!」 
夕方に
 「ブエナスタルデス」
と挨拶するのみであった。
 日常生活で日本と最も異なるところは,家の中でも靴を脱がないことである。家の中でスリッパに履き替えることはしない。外出する時も,家にいる時も四六時中,靴を履いている。ベットルームにも靴を履いたまま入る。
 朝出勤の時はパジャマを着替えると同時に,靴を履き,夜,寝る時迄靴を履いている。要するに日本の様に湿度が高くないので,一日中靴を履いていても,苦にならないし,水虫にもならないようである。

2-1.支社長社宅
 支社長の社宅は12階建てのマンションで中央にエレベータがあり,エレベータの両方のドアが開閉する。反対側のドアはお隣さんである。エレベータのドアが開くと,マンションのドアである。鍵が掛かっている。鍵を開けて部屋に入る。廊下はない。いきなりマンションの玄関用広間である。日本のマンションではこのような方式は見たことがない。
 1階部分は守衛の詰め所になっており戸数は全部で20戸である。支社長宅は11階と12階を使うペントハウスで全体の面積は400m2程度あったと思う。
 間取りは,11階は30人くらいの宴会が開ける大広間,食堂,台所,洗面所等がある12階は書斎,寝室3部屋,女中部屋,物置等があった。因みにこの社宅は南光さんが支社長の時に,3戸のマンションを購入されたと聞く。11階が支社長社宅,6階の二部屋は北川君と,山崎さんが入居しており,面積は200m2程度であった。

2-2.ルーチャ(Lucia)
 社宅には女中ルーチャ(Lucia)という女中がいた。彼女は1968年頃から支社長宅に勤務している。井上支社長の奥さんには,日本料理を教えてもらっていたので食事には不自由しなかった。但し,ルーチャは土曜日と日曜日は家に帰るので,2日間は自炊をする必要があった。必要な食材は全てルーチャが買って冷蔵庫に入れていた。
 当初は彼女との会話にも事欠くありさまであった。例えば,スペイン語の家庭教師が来る日に,急に宴会の予定が入った時,
 「今夜は宴会に出掛けるので,スペイン語の勉強は出来ない。」
と家庭教師に伝えたい。だけどスペイン語は喋れない。書斎に入ってスペイン語で作文をした後に,作文をルーチャに読んで聞かせた。兎に角,スペイン語が喋れなければ,不自由でたまらない。極端なことを言えば満足に飯も食えない。必然的に語学の勉強をするのである。

図47 女中のLucia


 赴任後しばらくしたとき風邪を引いた。起きる元気もなく寝ていた。ルーチャが様子を覗って会社に連絡してくれたようだ。暫くして「梅干し入りのお粥」を盆にのせて,寝室に運んできた。
 「!Por que!(どうして!)」
と叫ぶほど感激した。
 日本では風邪を引いた時は,病人に「梅干し入りの粥」を調理するのはごく当たり前のことである。しかし,異国のペルーで,異国のメイドが,「梅干しいりの粥」を調理して持ってくるとは感激である。
 ルーチャは15年間,即ちペルー支社開闢以来,支社長宅で働いてきた。その内,井上支社長の奥さんに5年間仕えて,日本の料理を完全にマスターしていたのだ。
 自分が日本に永久帰国した後も,ルーチャはペルー支社長の女中として働いていたが,舌癌に罹り若くして亡くなった。
 1997年のペルー大使事件の時は健在であったから,その後,自分が神岡鉱業の社長をしている頃であったと記憶する。

2-3.護衛
 朝の出勤は銃をもった4人の護衛と会社の運転手エンリケが迎えに来る。社長車には自分と護衛の一人とが乗る。あとの護衛は他の車で,社長車の後からジープで警護に当たる。運転手を含め6人が移動する。通勤のみならず如何なる外出の時でも6人が共に行動する。昼食を近くのレストランで食事をしている間も彼等は外で待機している。夜は地下の駐車場に止めている車の中で待機している。出退勤のコース(道順)と時間帯を毎日変える。時間帯は9時,9時15分,9時15分前の3通りで,道順も都度変える。テロリスタの誘拐を防ぐ方策なのである。
 見るもの聞くもの全てが珍しく,驚きの毎日であった。いわゆるカルチャーショックを受ける日々であった。

2-4.ペルー支社
 ペルー支社は日本人が4人であった。社長の自分,経理マンの山崎氏,採鉱の技術者の北川君,それに南米経験者で三井金属のOBである河原畑氏の4人であった。治安が良かった1975年当時は,20人以上の日本人が勤務をしていた。
 北川君は1980年から3年間,ワンサラ鉱山に勤務した経験があり。1989年から再びペルー支社に勤務している。山崎氏は自分より1ヶ月ほど先にペルー支社に転勤になったばかりである。河原畑氏は三井金属OBで1960年代にペルー支社に勤務した経験があり,奥さんはボリビアの人である。従って,日本人4人の内2人はスペイン語が堪能であった。

2-5.朝の会議
 毎日,朝の会議に出席した。鉱山担当のツリン氏,経理担当のサンチェス氏,総務担当のベラルデ氏,それに日本人の北川,山崎,河原畑氏であった。
 朝の会議はツリン氏のワンサラ鉱山の操業報告から始まる。サンチェス氏の経理の報告,ベラルデ氏の総務・人事の報告等である。各報告に対してコメントをするのが自分の仕事である。日系二世の千葉マリが全て通訳してくれた。会議の後は山崎氏や北川君が諸問題を持ち込んできた。自分は山崎氏や北川君に指示するのみで現地人とは直接会話をしないシステムになっていた。因みに,山崎氏は担当の経理課に日系人のマキノ係長がいて日本語で仕事が出来るようであった。山崎氏のスペイン語が上手になるより,マキノ氏の日本語が上手になったと言う噂があった。兎に角,南光さんや吉田さんの云われる通りスペイン語が解らなくても仕事が出来るシステムになっていた。

2-6.セクレタリ
 サンタルイサ社のセクレタリア(女性社員)は美人が多いという評判であった。図48はセクレタリアのオールキャストである。

図48 社長室でセクレタリア達


 しかし,メンバーは10年前と変わらず,全員が10才,歳を取ったので,美貌の度合いは低下している。
 彼女たちが結婚をしない理由は以下のようである。
サンタルイサ社はペルーの他の企業や官庁に比べ給料が高い。一方,ペルーには企業が殆ど育っていない。会社というものが極めて少ない。サラリーマンと言えば国家公務員くらいである。その国家公務員もフジモリ大統領が,合理化してしまった。従って,職に就こうにも職がない。世の男達の職業は露天商の様な物売りをするくらいのことである。彼女たちと結婚するにふさわしい働き口を持っていないので,彼女達は結婚する気になれないのである。
 ペルーには「セクレタリアの日」が設けられていた。この日はペルー支社で働く彼女達を接待する日である。彼女たちの選んだ一流レストランで昼食を御馳走する。
 この日はレストランの分捕り合戦である。何処の企業もレストランを予約するので,早いもの勝ちで一流レストランを予約する。レストランの善し悪しは彼女たちの腕の発揮次第である。
 昼食と云うより小宴会である。勿論,北川君やTurinさん等の幹部も出席する。彼女たちの楽しみの一つである。酒を飲んで,御馳走を食べて,バイレ(ダンス)を踊って時を過ごす。

3.ワンサラ鉱山視察
 ワンサラ鉱山の操業に付いてはツリン氏の朝の報告で様子が理解できた。大変要領のいい報告であった。北川君の解説も加わり,リマ事務所にいても十分管理が可能であったので,鉱山を視察するのは,治安の問題から,暫く見合わせていた。それに体調の事も若干心配であった。糖尿病の人が高地に登って意識不明になった例もあると聞いていた。
 年が明け,1993年1月,ペルーの様子を多少理解した頃,ワンサラ鉱山に視察に行くことになった。大村ドクターも付き添って貰うことにし,携帯用の酸素ボンベも準備した。大村ドクターは日系二世の開業医である。又,サンタルイサ社のお抱えドクターでもある。東北大学に1,2年間,留学した経験があり,日本語も堪能である。日本人の健康管理に十分配慮してくれる。

3-1.鉱山へのルート
 ワンサラ鉱山に登るルートは,Aルート,Bルートの2通りの路がある。
 ¶ Aルートは鉱山開発の当初に通っていたルートである。
   カルテラセントラルを経てチクリオ峠(4843m)を越え,オロヤ,セロデ
   パスコ,ワヌコを通ってワンサラ鉱山へ至る。
   約600kmである。
 ¶ Bルートは太平洋の海岸沿いに走るパンアメリカン道路を北上し,パテビルカ,
   チャスキタンボを通り,アンデス山脈のコノコチャ峠(4080m)を越えて,
   チキアン,アキヤを通り最後にヤナシャジャ峠(4756m)を越えワンサラ
   鉱山へ至る。
   約400kmである。
 図49の写真はコノコチャ峠からエルパハ(YERUPAJA)を望んだ景色である。コノコチャ峠から道は二通りある。
一つはチキアン,アキヤを経由してヤナシャジャ峠を越えてワンサラ鉱山へ。
もう一つはカタック道路からヤナシャジャ峠(4756m)を超えてワンサラ鉱山へ。この峠は太平洋と大西洋(アマゾン側)の分水嶺である。ワンサラ鉱山の水は大西洋に流れる。
 カタック道路は三井金属がワンサラ鉱山の精鉱を運搬する為に開削した道路である。現在は国に寄付した形になっている。
ヤナシャジャ峠(4756m)付近は常に氷河に覆われており,行き帰りにこの氷を採取し,オンザロックに使った。しかし温暖化が進行し,今では登山をして氷を採取しなければならなくなった。
初めてのワンサラ鉱山視察なので,最短距離のルートを択んだ。生まれて初めて4000mの高地に行くというので,サンタルイサ社のお抱えドクターの大村も同行し,酸素呼吸器も携帯した。又,安全のために一挙にワンサラ鉱山に行かず,途中,ワラスに一泊して次の日ワンサラ鉱山に登った。

図49 ペルーの高峰エルパハ


3-2.プヤライモンディ(Puya raimondii)
 カタック道路の途中に,サボテンのお化けのような植物が,彼方此方に立っている。図50の「プヤライモンディ」という植物である。茎の直径が約60cm,高さが3mを超え,植物の中では最大の花序(花が集まっている部分)を伸ばし,全体では10m近い高さになる。
 更に,南米アンデス山脈の標高約4000mの寒くて乾燥しているところ,しかも塩分の多い地域に生育し,安山岩系の火成岩の上にだけみられ,ペルーやボリビアの限られたところに分布している。 

図50 プヤライモンディ


 種子が発芽して開花まで100年かかると言われるが,大きな花序をほんの数ヶ月で伸ばす。実を結び,埃のように細かい無数の種子を撒き散らすと,この巨人は静かに長い一生を閉じる。
 花は100年に一度,あるいは50年に一度しか咲かない,と言われている。開花した後は枯れてしまう。
 枯れると真っ黒な色になり,形状は針の山のようになる。高山動物,例えばアルパカやリャマが枯れたプヤライモンディに触れると,怪我をすることが多いので,現地人は枯れたプヤライモンディを燃やしている。

3-3.ボカ・デ・ピューマ(Boca de puma)「豹の口」
 図51の水溜まりは綺麗な水が湧き出ており,小さな池をなしている。一見,何んでもない池であるが,恐ろしい池なのである。

図51 ボカ・デ・ピューマ

 Turinさんの話によれば,この小さな池は底無しの池なのである。動物たちが水を飲むために近づき,足を滑らせ池に落ちると動物がどんどん引きずり込まれて沈んで行く。再び地上にかえることが出来ない。
 あたかも豹に食べられているかのようなのである。現地人はこの池を「豹の口」(ボカ・デ・ピューマ)と名付けている。
 後年出張で訪れた時は,この小さな池に至る通路が板を用いて設けてあった。「水飲み場」として作られコップも準備してあった。水は冷たく炭酸水で,極めて美味である。

3-4.日本人宿舎
 ワンサラ鉱山は品位が素晴らしいこと以外は感激すべきものは無かった。整理整頓,トラックレスマイニングの路面,坑道の仕上がり等神岡鉱山に比べると今一であった。但し,その気になれば素晴らしい鉱山になると思った。
 日本人技術者の宿舎を「OTERA」と呼んでいた。これは「ホテルA」のことであるが「Hotel A」をスペイン語風に発音すれば「オテラ」となる。スペイン語では「H」は発音しない。日本人もふざけて「お寺」と呼んでいるのである。
 この宿舎の一室を見て余りのお粗末さに涙が出た。コンクリートの床にベットと小さな木製の洋服タンスが置いてあるのみである。冷え冷えとした宿舎であった。こんな宿舎で好くも辛抱していたものだと涙が出た。
 アメリカ人と全く異なった考え方だ。本社から来た地質屋の川崎君と「トケパラ」や「カホーネ」鉱山を見学した。ペルー南部に位置する銅鉱山で,米国人が経営する。その時二つ感激したことがある。
 一つは,鉱山技術者の宿舎の立派なことである。先ずは広い。冷暖房が完備している。台所,浴室等は日本の超一流マンション並である。アメリカ人の考え方,
 「家族と離れ,遠くの異国で働いているのだから,自国に居る時より好い所に住み,
  良い物を使って仕事をする。」
 仕事に必要な物は全て,本国から持ち込む。事務機器から紙類にいたるまで。少なくとも,現地の事務所に居る時は,本国にいるより居心地を良くする。
日本人の考え方は
 「短期間だから,辛抱しろ。」
 「郷に入って郷に従え。」
である。日本国陸軍の考え方である。
 宿舎はお粗末,使っている事務用品,紙,ボールペンは品質が悪い。紙は材木が入っているような茶色の紙で,ボールペンは書いているとインクがしたたり落ちる。これでは,郷愁をそそるばかりで,落ち着いて仕事は出来ない。
 もう一つは夜の晩餐会で川崎君は英語で話す。自分はスペイン語で話す。ところが,翌日の打ち合わせは自分を呼び寄せ,スペイン語で行った。川崎君の英語より,自分のスペイン語の方が良く意が通じたのであろうか,と自己満足をしていた。

4.フジモリ大統領の招待
4-1.日曜の朝
 日系進出企業の社員で構成する友の会を「三水会」といった。会長は三井物産の宇野支店長であった。自分が赴任して1年も経過しない1993年3月頃,彼が日本に転勤の辞令が発令された。三水会長が空席になる。宇野支店長,曰く
 「急遽,総会を開く訳にも行かず,困っている。同じ三井の齋藤さんが,会長を引き
  継いで戴ければ,三水会の会員は新会長を認めてくれるでしょう。」
赴任して間もない事でもあり,何事も要領を得ないが兎に角,引き受けることにした。
1993年4月24日(日曜日)の朝,ルーチャが
 「セニョール!テレフォノ!」
と階下から大声で呼ぶ。日本大使館からで,1時まで大統領官邸に行くよう指示された。

4-2.学校竣工式に招待される
 その頃,フジモリ大統領は山間僻地などに学校を建設することを推進していた。日本進出企業の寄付によって建設された学校の竣工式に出席するためだという。
 三水会の会長が招待されたのである。自分は偶々三水会の会長を三井物産の宇野氏から引き継いだばかりであった。

4-3.大統領官邸
 この時点では,大統領と会話するほどの会話力は身についていなかったので,通訳として北川君を同行することにした。大統領官邸の控え室でフジモリ大統領を待った。待っている間,官邸の中を見学させてもらった。映画館,飲食店,バ-等何でも揃っていた。大統領がさながら外出しているようなレジャーを楽しむことができるようになっていた
 しばらく待っていると,フジモリ大統領は正面玄関に向かったという知らせが入った。我々も急いで正面玄関に向かった。正面玄関の階下に着いた時,ちょうど大統領が階段をゆっくり降りてきた。そして,自分と北川君にそれぞれビデオを進呈してくれた。ビデオの題名は「Tres anos que cambiaron la Historia 」“歴史を変えた3年間”と書いてあった。彼が大統領に就任して以来の軌跡が録画してあった。

4-4.会場まで
 簡単な挨拶を交わし黒塗りのベンツに乗った。彼は自分のスケジュール・行動を前もって公表しない。テロリストに知られないように警戒し,予定はあらかじめ公表はしない。行動する直前に部下に言い渡すのである。
 フジモリ大統領の護衛はほんの僅かであった。文部大臣と数人の部下である。これもテロリストを警戒してのことだという。日本ならテロリストを警戒するなら警護は多人数でと考えるが,彼は逆であった。
 竣工式の会場まで,通常ならラッシュのため1時間以上はかかるところ,前を走る車をパトカーが排除したので,15分程度で着いた。
 学校の近くの道路は舗装がしてなかった。自動車が走ると,濛々たる砂埃である。フジモリ大統領が車から降りて会場に向かった。
 民衆は歓喜の声をあげて集まって,行く手を塞いだ。抱いている子供をさし出して,
 「この子供に握手を!」
と子供と握手するよう要求した。
周囲は砂埃で濛々としていた。
 フジモリ大統領はジャンバー姿で悠々と歩いている。地方を回っているフジモリ大統領が,何時もジャンバー姿である理由が分かった。自分は一張羅の背広着て行ったが,まるで作業着のようになってしまった。これが背広を台無しにした第1号である。

4-5.竣工式
 民衆の取り囲みからやっと抜け出して,会場に移動した。グランドに演台が設けてあった。其処に座ったのはフジモリ大統領とほんの少数の付き人であった。北川君と自分もフジモリ大統領の直ぐ側に並んで座った。
 フジモリ大統領は主催者の始めの挨拶を聞きながら,メモを取っていた。挨拶の順番がフジモリ大統領に回ってきた時,立ち上がる前に,自分に向って話しかけてきた。突然のことであったので,「ドキ!」として体を後ろに傾けながら,北川君の方を見た。
 「今日,何か話すことがあるか?」
と言っています。
 「本日は何も準備してないので遠慮します。」
と通訳して貰った。フジモリ大統領はにっこりと微笑んだ。
 フジモリ大統領は演壇に進んだ。
 驚くなかれ,原稿はなく,先ほどのメモを見ながら滔々演説を始めた。会場に到着してから記号のような原稿を作成したのだ。
 大統領の演説も終わり,「イナグラシオン(竣工式)」はお開きとなった。

図52 小学校の竣工式

4-6.除幕式
 玄関に移動して,銘板の除幕式に移った。大統領と自分と二人で序幕した後,玄関にぶら下げてある「シャンペン」を大統領と自分と二人で割った。このシャンペンを割る儀式は日本になく,初めての経験であった。
 新築の校舎の見学が始まった。日本進出企業の寄付によって建設された学校であるため,フジモリ大統領は三水会の会長である自分に,懇切丁寧に説明してくれた。
 現状と将来構想を説明してくれたようであった。
 「Si,! Si!」
と解ったような振りをしていたが,十分には理解できなかった。
 将来もこのような機会が巡ってくるだろうと考え,スペイン語の勉強に意欲が湧いた。
 再び席に戻って宴会が始まった。群衆は大統領の前に進み出てダンスを勧める。大統領は上機嫌で音楽に合わせ,群衆と共にダンスを踊っていた。ペルー人は,
 「バイレ,バイレ」
と云って,宴会では必ずバイレ(ダンス)を踊る,踊りが好きな民族である。

図53 除幕式


5.スペイン語事始め
 1992年8月からスペイン語の勉強を始めた。日本を出る時
 「通訳が居るから,スペイン語は特に勉強しなくても良い。」
というリコメンド通りに考えていた。
 ところがある事をきっかけに,スペイン語が喋れないと労務管理上問題であると判断した。ある事とは,
 ボーナスを支給する直前であった。Ing.Turinが社長に話があると言って,通訳の代わりに北川君を連れて,社長室に入って来た。
 「今期の自分の働きに鑑み,通常のボーナスに上積みをして戴きたい。」
という申し出であった。日本人はいくら手柄を立てても黙っているのが美徳とされる。流石ペルー人である。
 今後,このような申し出は,Ing.Turin のみならず,他にもいるであろうと思った。そうであれば自分はどうしてもスペイン語を喋れるレベルまで勉強しなければならない。一応スペイン語の参考書や辞書は持参していたが,独学では無理であるから,家庭教師について勉強することにした。

5-1.家庭教師
 前支社長のスペイン語の家庭教師をしていた,カルメン・オルティスに教えて貰う事になった。彼女は全く日本語が話せなかった。スペイン語しか話せない家庭教師の授業が始まった。
 カルメン・オルティスは月,水,金の週に3回来てくれた。授業時間は18時~21時の3時間程度であった。
 自分はそれとは関係なく,夕食が終わる7時頃から12時頃までスペイン語の勉強をした。まるで受験勉強でもしているようだった。他に何もすることがないのである。兎に角,フジモリ大統領に話しかけられて,何も喋れなかった屈辱と無念さを噛みしめて頑張ったのである。
 彼女との勉強は,最初は手製の絵本で単語を一つずつ覚えることから始まった。
例えば,
 gato (ガト) 猫
 leon (レオン) ライオン
 reloj (レロホ) 時計
 Fluorescecente (フルオレスセンテ) 蛍光灯
こんな単語を1個,1個覚えていて,会話ができるようになるかと疑問を抱くと同時に,前途の茫洋たる不安を感じた。
 名詞には男性名詞と女性名詞がある。男性名詞の前には「El」を女性名詞の前には「La」の冠詞を置く。
 例えば,Doctor(ドクトール)(医者)は男性名詞であるから,
 「El doctor」(エル,ドクトール)(医者)
というように「El,エル」という冠詞を付ける
enfermera(看護婦)は女性名詞だから
 「La enfermera」(ラ,エンフェルメーラ)(看護婦)
と云う具合に名詞の前に「La,(ラ)」という冠詞を付ける。
繰り返し練習させられている内に
 「La enfermera」(ラ,エンフェルメーラ)と発音すべきところ,いつの間にか
 「La看護婦」(ラ,カンゴフ)
と発音していた。
 自分がスペイン語で会話が出来るようになった時,家庭教師のカルメン・オルティスがこのことを思い出して言った。
 「セニュール齋藤は“La enfermera”(ラエンフェルメーラ)を,“La看護婦”
  (ラ,カンゴフ)」
と発音していた。
 「Otra vez! 」(オトラベス)(もう一度!)
と繰り返して問う,再び
 「La看護婦」
が返ってきた。何回繰り返して聞いても
 「La看護婦」
という回答が帰ってきたと云う。
 「その時,如何して注意しなかったのだ!」
 「Sr.齋藤が余りにも一生懸命に“La看護婦”と発音していたので,涙が出て,
  注意する気になれなかった。」
と笑った。

5-2.教材 
 最初に使用したテキストはガリバン刷りの簡単な教科書であった。後に使用した教科書は
スペイン国の出版社の
 ¶ ESPANOR EN DIRECTO: 1A,1B,2A,2B
 ¶ LINGUAPHON
であった。
 ESPANOR EN DIRECTOは解釈・文法・作文の勉強に役立つ。1A,1B,2Aの3巻まで進んだが,2Bは西文解釈の教科書であったが,とても難解で理解不能であった最初の2,3ページでギブアップした。英文解釈なら,この程度の文章は受験勉強でこなしてきたであろう。
 LINGUAPHONは会話に役立つ本であった。ESPANOR EN DIRECTOと並行して勉強した。内容は
 医者のドンラモン家族が夏休みを利用して約3ヵ月間スペインに帰省する。彼等はスペイン人であるが,現在チリに住んでいる。帰省中に
 Madrid ⇒ Toledo ⇒Sevilla
 ⇒ Costa del sol ⇒ Maaga ⇒Tossa de mar
 ⇒Barcelona
を旅行する。その過程で遭遇する色々な出来事を題材とし,また自然や歴史的遺跡の説明を網羅されている教科書であった。
 最後のレッスンは船でバルセロナからチリに向けて出発する場面で,Don Ramon 氏が休暇の3ヶ月間を回想する文章である。強烈に印象が残る文章であった。LINGUAPHONを学んだ人は皆 「Regreso a Chile」 を思い出すことであろう。
 文章の意味もさることながら,発音からくるしみじみとした感情が今もなお忘れられない。
Parece imposible que hayan pasado tres meses, que estamos en el Puerto a punto de partir.
Es una sensacion de tristeza indescriptible
Me pregunto si habra ocurrido algun desastre en mi ausencia.
Fuera del hospital, estoy cual pez fuera del agua.
A todos nos cuesta dejar a Luis, y de modo especial a Julia naturalmente.
Esperamos que pueda unirse a nosotoros el proximo verano, si termina su licenciatura en economicas.
Mi madre esta muy triste tambien,y Marisol, sobre todo, se muestra muy hurana.
Creo que tenia esperanzas de que la dejaramos aqui;
pero esa es una cuestion que ni siquiera vale la pena mencionar; debe volver al colegio: lo conviene .
El Puerto de Barcelona ofrece vista impresionante ;
es la hora del crepusculo.
Los grand es transatlanticos encienden sus luces, y hay multitud de personas que se despiden.
Nuestro barco se hara a mar dentro de una hora.
 スペイン語の難しいところは動詞の変化である。一人称,二人称三人称,それの複数で6通り。それぞれ人称で,現在,点過去,線過去,未来,過去未来,命令形の6通りに変化するので,一つの動詞が全部で36通りに変化する。そのほか,接続法と云って喜怒哀楽を表現するときに使う動詞の変化がある。この動詞の変化・活用を正確に使い分けているか否かでその人のスペイン語のレベルが解る。
 主語,述語,目的語,副詞等の順番を多少間違えていても,さほど問題にはならない。兎に角,動詞の変化を正確に使い分けることである。スペイン語の勉強は動詞の変化に尽きると言っても過言でない。

5-3.クリスマスの挨拶
 1992年12月この頃,スペイン語の勉強を始めて6ヶ月目である。日常会話が出来るようになった。文章も書けるようになった。クリスマスには支社長が社員を集めて挨拶をすることになっていた。スペイン語で挨拶の原稿を作った。家庭教師にかなり添削して貰った。毎日読む練習をした。
 クリスマスの当日,会社の大広間で原稿を読み上げた。習いたてのホヤホヤのスペイン語を社員の面前で読むせいか少し足が震えた。
 挨拶の後,宴会に入った。セクレタリアがかくも短期間にスペイン語を習得したと褒めてくれた。
 「この次はシンパペル(原稿なし)で挨拶されることを期待しています。」
と言っていた。
 会社では朝の会議が毎日開かれた。内容は通訳を通じて
 ¶ Turin氏の鉱山の操業の報告
 ¶ Sanchez 氏の経理の報告
 ¶ Veralde 氏の組合や鉱山労働者の日常生活の報告
等を受けた。緊急を要する案件は即答した。その他のことについては,日曜日に1週間分を纏め,月曜日の会議で冒頭に「所感と指示」として報告することにしていた。
 スペイン語で作文が書けるようになってからは「所感と指示」を土曜,日曜日にスペイン語で作文した。月曜日,朝の会議の冒頭に読むようにした。これを1年間毎日続けた。スペイン語の作文能力がついた。
 土曜,日曜は日系人の殆どがゴルフに行った。自分は社宅に閉じこもってスペイン語の作文や動詞の活用の勉強に時間を費やし,ゴルフは偶にしか参加しなかった。
 Turinさんは日本人に解り易い言葉で喋るので,通訳して貰わなくても,彼の話す意味が解るようになった。このことを通訳の日系三世の千葉マリに話すと,彼女は,
 「Turinさんの会話は普通のスペイン語ではありません。あれが理解できても自慢に
  はならない。SanchezさんやVeraldeさんの会話が理解できて初めてスペイン語
  が解るといえるのです。」
と言った。

5-4.シンパペル(原稿なし)で
 1993年7月に北川君に代って田辺君がペルー支社に勤務する辞令が出た。北川君は二回目の勤務で4年以上が経過しており,帰国の時期に来ていた。自分もペルーの事情が少しは解ってきた。北川君と田辺君は同期で,二人共ペルー大好き人間であった。彼等を紹介するに,シンパペル(原稿なし)で紹介出来るよう原稿を作った。出来上がった原稿を家庭教師のCarmenに修正して貰い,それを毎日練習した。
 ある夕方,CarmenとLuciaを前に座らせ,田辺君と北川君の交代を紹介する予行演習を行った。原稿なしで覚えたことを喋った。CarmenとLuciaがテーブルに座って聞いている終わったとき,家庭教師のCarmenが
 「ポルケ!ノ-アイ!アルティクロ!」
 「どうしたの!冠詞が抜けたよ!」
と怒る。Luciaが立ち上がってカルメンを制し,
 「ノーアイプロブレマ!」
  (問題ないよ!)
 「セニョール!ムイビエン!ムイビエン!」
  (あなた!大変上手よ!大変上手よ!)
 「セニョール!プエデアブラール,カステジャーノ,ポール,ポコティエンポ!
  セニュール,エス,ムイ,インテリヘンテ!」
  (こんなに短期間にスペイン語が話せるようになって,あなたは大変賢いのだ
   ね!)
と大粒の涙をポロポロ流しながら,私に近づき抱きしめた。
 そして田辺君が日本から赴任し,出勤してきた。朝礼で田辺君を紹介する場面がやってきた。通訳の朝新君が自分の方にやってきて側に立った。通訳するためである。
自分はそれにはお構いなくスペイン語でしかも,セクレタリア達が期待していた通り,
「シンパペル」(原稿なし)で紹介した。挨拶を聞き終わったTurinさんが
 「ペルフェクタメンテ!(完璧だ!)」
と感嘆の声を出して,右手を上から下に振りおろした。
北川君は
 「齋藤さんは何時からスペイン語が喋れるようになったのかな?」
と驚いていた。しかし,これは役者が台詞を覚えるように原稿を丸暗記したけで,スペイン語が自由自在に話せるようになったわけではなかった。語彙が増えればどんどんしゃべれるような気がしてきた。スペイン語を始めてからちょうど1年である。

5-5.スペイン語勉強法
 三井物産の井上大五氏は英語,ポルトガル語,スペイン語と三カ国語を喋る。ブラジルで育ってアメリカンスクールに通っていたそうだ。その間英語とポルトガル語を覚えた。英語はほぼネイティブである。ペルーに来て2年程度であるが通訳が出来るくらいだ。彼は私の勉強の仕方を聞いて
 「自分は齋藤さんの様な勉強法ではとても耐えられない。」
 「よくまあ,あの勉強法でスペイン語が喋れるようになるね!」
と驚いていたらしい。
 彼はテレビを観,ペルー人と片言のスペイン語で会話しているうちに喋れるようになったらしい。自分は動詞の活用や単語を片端から覚えた。兎に角,勉強をした。一日5時間以上勉強した。井上大五氏のような訳にはいかない。
 自分の場合は,会社の勤務を終え,社宅に帰って,夕食を済ませ,7時から12時まで,2年間,毎日スペイン語の勉強に励んだ。2年間の勉強の結果,日常会話が喋れるようになった事と,文章を書くことが出来るようになった。
 一方,英語は約10年以上勉強したけれども,少々読めるだけで,話すことも,書くことも出来ない有様である。

5-6.語学上達の秘訣
 世界で英語の喋れない国民は日本人とモンゴル人と言われている。日本は160カ国中151位,モンゴルはそれ以下だそうである。モンゴル人は,英語は喋れないが日本語は,子供でも授業中にぺらぺら喋っているそうである何故か?
 モンゴルでは日本語を習得することで,観光産業などに就職口がある。つまり,日本語を学ぶことは,「手に職をつける」ことに等しい,極端な話,それだけをやっていれば将来がある程度保証されているのだ。
 日本人の英語を喋れない原因は,勉強方法の悪さに起因すると考えていた。英語の喋れない先生に教えて貰っている訳だから,生徒が喋れないのは当然である。英語の勉強は,日本語を全く喋らない外人を教師にすれば,会話力は中学校の3年間で身に着くであろうと考えていた。
 しかし,日本人が英語を喋れない最大の理由は日本国では,英語を喋る必要に迫られていないと云うのが最大の原因らしい。 
毎日の生活の中で,更に言えば一生涯で、英語を喋る必要に迫られる人は殆どいない。毎日,それも一生涯,日本語だけで十分である。英語に関わるのは学校の授業の中だけ。勿論,そこでも英語を喋る必要はない。海外旅行に出かけても現地の人と会話することは皆無で,英語を話す必要は無い。
 外国語を上達する秘訣はその言葉を使わなければ生きていけない環境で生活することである。

6.永久帰国
6-1.資源開発部長の内示
 従来通り,サンタルイサ社の取締役は資源開発部長が兼務すればいいものを,吉田常務が兼務していた。ペルーに遊びに来るためであった。出張は3,4日間であるが,昼間は社長室のソファーで居眠り,取締役会でも居眠りをしていて,夕方にやっと元気になって飲みに出かけた。日本人は彼の接待で夜遅くまで付き合わされてへとへとになった。吉田常務が日本に帰るときも,深夜まで飲んで,飛行場まで見送りに駆り出される。日本に出発する時刻は深夜2時頃である。吉田常務が改札口を出て姿が見えなくなると全員が
 「万歳!万歳!」
を繰り返して喜んだそうである。
 1994年3月の取締役会にも吉田常務が来秘し,夜遅くまで飲んで昼間は社長室で居眠りをしていた。その夜は三井物産の支社長宅で接待されるので,鋭気を養っていたのである。そして
 「齋藤君!東京に帰れ!」
正気の発言か,寝言か解らぬことを賜った。居眠りしているソファーに近づいて詳細を聞いた。理由は
 「現資源開発部長の“海外鉱山開発”の取り組みが生ぬるい。君が東京に帰ってしっ
  かりやってくれ。」
と言うことだった。
 このいい加減な辞令にはクレームを付けざるを得なかった。早速,宮村社長に手紙を書いた。社長からは
 「東京に帰ってもう一度,吉田常務とよく話し合いなさい。」
と云うことであった。
本社で吉田常務と面談した。吉田常務が余りにも情けない顔をして
 「既に発表してしまった人事だから,何とか受け入れて貰いたい。」
と懇願されるものだから
 「ハイ」
と答えてしまった。その直後に井澤常務が入室して来られたが。
 「時,既に遅かった。」
 「もう少し頑張れば好かった。」
と後悔しながらペルーに帰った。
かくして,1994年7月日本に帰る辞令が発令された。
 ペルーでは家庭教師のCarmen Oritizが自分の日本への永久帰国を知り
 「Por que le conoci ! Por que le conoci !」
 「何故知り合ったのでしょう!何故知り合ったのでしょう!」
と泣き崩れた。南米人の表現はオーバーなのである。
彼女が加えて言う
 「自分は飛行場の近くに住んでいる。明け方,飛行機が飛び立つ音が聞こえる,その
  たびに齋藤さんがあの飛行機で日本に帰ってしまったと不安になることがあった。
  それが現実のものになってしまった。」
と悲しんだ。自分は丸2年間必死に勉強してやっと喋れるようになったが,日本に帰れば忘れてしまうだろうと残念であった。

6-3.送別会
 ワンサラ鉱山に御別れの挨拶に向かった。Ing.Turinが送別会を開いてくれた。送別会は鉱山のゲストハウスで開かれ,ワンサラ鉱山の職員全員が出席してくれた。

図54 最後の挨拶
 日本に帰国すればスペイン語で挨拶する機会はない。これが最後のスペイン語の挨拶なので,気合いを入れて原稿を作り,何回も読みあげる練習をした。宴会場は薄暗くて原稿が読みつらい。Ing.Turinがライトで照明してくれた。宴会の始まる前に読みあげたこれがスペイン語の最後の挨拶であった。
 宴会が佳境に入ってくると,余興に,すさまじい音響とともに,社員が派手な衣装を着け,民族舞踊を披露してくれた。
 スペイン人が侵略により現地人を征服し,黒人を奴隷として雇い入れ繁栄ぶりを喜ぶ物語をダンスにしたものである。古くからワジャンカ地方に伝わるダンスであると教えてくれた。

図55 送別会


第6章 資源開発部時代
1.資源開発部長
 通常ワンサラ鉱山なら3年間,リマ勤務は3年~5年という不文律のようなものがあった。自分は1992年以来だから少なくとも3年間はペルー勤務が続くと考えていた。ところが,2年間が経過した,1994年7月資源開発部長への転勤辞令が発令された。
 ペルー勤務を終え,本社の鉱山部長として,海外鉱山の開発と資源開発部の所管する関係会社の管理に取り組む事となった。

1-1 15度目の引越,中目黒の社宅へ:家族が2年間在住 
 如何なる理由か忘れてしまったが,ペルーに在任中,家族は学芸大前のマンションから中目黒社宅に引っ越していた。

1-2.16度・17度目の引越 阿佐ヶ谷社宅へ:2年間在住
 家族が中目黒から阿佐ヶ谷の社宅に引っ越(16度目)し,自分はペルーから,阿佐ヶ谷の社宅に引っ越(17度目)して合流した。二階建ての社宅であった。ペルーの支社長宅に比べれば犬小屋のように小さな社宅であった。支社長宅ではマンポ計がよく動いたがこのちっぽけな社宅では,殆ど歩くことはなかった。少し手を伸ばせば大概の必要なものには手が届いた。
 但し,社宅の回りに櫻の木が植えてあり,春には気持ちの良い環境であった。近くを流れる善福寺川辺の櫻も見事であった。

2.中央アジア
 1991年にソビエト連邦が崩壊し中央アジアの各国が独立した。これを機会にカザフスタン,キルギスタン,ウズベキスタン等の中央アジア諸国における鉱山開発が脚光を浴びていた。
 自分としては南米の鉱山開発の方に興味があったのだけれど,吉田常務が中央アジアの案件に取り組まなければ機嫌が悪かったのである。
 三井物産も中央アジアにおける商機を捕らえるため,カザフスタンに事務所を設けていた。勿論,鉱山開発にも興味を示していた。
 中央アジアに行く場合,二通りのコースがあった。一つはフランクフルト経由,もう一つはモスクワ経由である。印象に残るのはモスクワ経由である。冬期にシベリアの上空を飛ぶと,大地は真っ白の雪ばかりで,目立つものは何一つ無い。白線が南北に走っている。何かと問えば,あれは道路であるという。道路は黒くなるものと先入観があったが,極寒の地では道路は白線となるようである。
 中央アジアの国々を訪れる場合,冬期と夏期では,同じ国でも別の国に来たように感じる。冬は真っ白の雪に覆われ,夏は深緑の緑に覆われている。
 中央アジアに出張した時は,必ず三井物産の事務所の世話になった。事務所はカザフスタンの首都アルマティにあった。キルギス,ウズベキスタン等にも出かける場合もこの事務所を拠点とした。

2-1.マレーフカ鉱山の調査
 マレーフカ鉱山は国営鉱山であったが民営化されることになっていた。鉱種は亜鉛,鉛で品位も高い大規模な鉱山であった。
 マレーフカ鉱山の現地調査で宿泊したホテルは,ソ連時代には,ゴルバチョフやエリツイン大統領が避暑に来た壮大なホテルであった。
 日曜日にマレーフカの鉱山長が自分の住む社宅などを見学させてくれた。
鉱山長の社宅は鉄筋4階建ての3階で,間取りは3LDK程度の社宅であった。
 「管理職であっても,労働者であっても,社宅は平等で差別はない。」
 「住宅は国家から全ての人間に与えられるので,貧乏な人でも住宅だけは与えられて
  いる。ホームレスはいない」
と言っていた。
 スキー場にも案内してくれた。労働組合の委員長もスキー場に来ていた。スキーをするよう進めてくれた。三井物産の樺島氏は二日酔いで食堂の机に顔を伏せて寝ていた。
 勇気を出して挑戦することにした。すると,鉱山長は労働組合の委員長のスキー道具一式を脱がせて,自分に貸し与えてくれた。急斜面の凹凸の激しいスキー場であった。2~3回滑ったが,昨夜の酒が残っていて,ふらふらで帰って来た。委員長が
 「この前来たドイツ人は足を骨折したが,あなたは大丈夫であったか。」
と残念そうな顔をしていた。鉱山長と委員長が一緒になって自分に骨折をさせる魂胆であったのか。桑原!桑原!
早朝,ホテルを出て町中を散歩した。道端で朝市が開かれていた。野菜,魚,肉類何でも売っていた。印象的な光景は,自動車のボンネットの上で肉を切って売っていた。日本の朝市に比べもっと原始的であった。

2-2.ロシア人平湯寮に泊る。
 マレーフカ鉱山の社長以下5~6人が神岡鉱山を見学に来た。夜は平湯温泉に連れて行った。彼らは浴衣に大変興味を示し気に入っていたようである。又,酒が旨いと言ってしこたま飲んだ。へべれけになってから,卓球をやろうと挑戦してきた。カザフスタンで負けたので復讐戦だという。夜を徹して騒いでいた。
2,3日後総務課の中野氏から問い合わせがあった。
 「先日宿泊したロシアのお客さんの浴衣が無い。どうしたのでしょうか?」
彼等がてんでに持ち帰ったのである。

2-3.マレーフカ鉱山入札
 本気でマレーフカ鉱山買収を入札をする案件を,常務会に提案したが,担当の吉田常務がクレームを付け廃案となった。
海外鉱山の開発をする気はなく,
 「唯,調査だけやっておればよい。」
と云う考え方らしい。まるで金属鉱業事業団の役人のようである。本気で鉱山開発をする気がないのであれば強引にペルーから呼び戻すことはなかったはずだが。

2-4.ドンスコイ鉱山の技術支援
 投資する気は無いので,技術支援をする案件に取り組んだ。ドンスコイ鉱山は,クロム鉱の採掘・選鉱を行っている世界最大の企業の一つである。ドンスコイ鉱山の採鉱法はオールドファッションであったが,将来サブレベルケービング法で大型機械化により近代化を図る計画であった。
坑道の維持管理に関する技術指導であった。三井物産の仲介で「技術支援の契約」をすることになった。三井物産の某氏がこれまで,付き合ってきたショディエフ氏を紹介してくれた。彼が契約調印に立ち会った。

図56 技術支援契約
 彼は日本のロシア商務省に8年間いた人物で,日本語はペラペラであった。四カ国に自宅をもちそれぞれの国に奥さんがいると言っていた。
 契約書には三井物産と某氏と自分がサインした。調印の後,記者会見があった。ショディエフ氏が自分に何か喋れと命じる。
 「自分は鉱山技術者である。日本の鉱山の近代化を成功させた。ドンスコイ鉱山も
  同様に近代化に尽力するつもりでいる。」
と言うようなことを話した。自分が喋ったことを通訳がロシア語に翻訳した。それが終わるともう一人が通訳をしたようであった。
 あれは一体何をしているのだと聞くと。日本語をロシア語に通訳し,ロシア語をカザフ語に通訳しているのだという。
 その夜,ショディエフ氏の邸宅に招待された。プールサイドでウオッカをのんだ。若い女性が水着姿で水泳を楽しんでいた。ショディエフ氏はそれを指さし, あれがこの国での女房だという。
 そしてテレビで民営化案件に関する報道が放映された。自分たちが記者会見している様子が放映されていた。ショディエフ氏は極めて満足で,誇らしげな顔つきで
 「君のインタビューは好くできていた。」
と褒めた。
 我々はロシア語の契約書を確認せず,ショディエフ氏の指示するままにサインをしてしまったのである。契約書を通訳に確認させるべきであったが,その日はショディエフ氏が通訳をすることになっていた。
 一方,部下の鶴見君と平林君はこの時,ドンスコイ鉱山の現地に金髪の通訳イサベルをつれて赴いていた。その直後,
 「2,3日前,ドンスコイ鉱山を訪問した外国人2人が殺害された。」
というニュースを聞き,ひどく心配した。
鉱山に向かう途中,女性通訳イサベルが契約書を見て
 「これは大変な事が書いてありますよ!」
と驚く
 「何が書いてある!」
 「ドンスコイ鉱山の近代化に三井が投資する。」
と記されている。彼等が帰って来て報告してくれた。
日本に帰国すると金属事業本部の安田氏が,
 「深夜のCNNニュースで三井金属がドンスコイ鉱山に投資するニュースを聞いた
  が,齋藤部長は心当たりがありますか」
と質問する。
 「ドンスコイ鉱山の技術指導の件は吉田常務に了解を取って出張したのだが,成り
  行きが変な方向に行ってしまった。」
ことを説明した。吉田常務や三井物産とよく相談された方がいいとリコメンドしてく
れた。
 早速吉田常務に説明し,三井物産のプロジェクト開発部長に打ち合わせに出かけた。彼は悠長であった。
 「10月迄に合意が得られなければこの契約は破棄すると書いてある。」
 「今6月ですから,10月迄,4~5ヶ月大人しく待つことにしましょう。」
と言うことで落ち着いた。結局10月迄何の音沙汰もなく,経過し契約書は破棄された。
 一方,ショディエフ氏は我々の持参した提案書を読んで,他の書類にサインをしながら 「コンペンセイト(技術料)とは何ですか?」
 「コンペンセイトとは何ですか?」
と繰り返し口ずさんでいた。技術料など支払うつもりは無いようであった。そして彼のサインを見て驚いた。彼はサインとして何重にも楕円形の丸を書いているのである。数え切れないくらいの丸を繰り返し書いて,自分のサインとしているのである。
 我々のドンスコイ鉱山の技術協力の契約は何であったろうか。全く意味のないものではなかったはずだ。ショディエフ氏にどんな利益を齎したか知る由もない。

2-5.地下鉄サリン事件
 アルマティ~ウズベキスタンに車で移動中,金髪の通訳イサベルが
 「皆さん静かにしてください!」
と皆を制し,携帯ラジオをイヤホーンで聴いていた。彼女は,
 「東京の地下鉄で猛毒ガスが散布され,多くの犠牲者が出ている。」
と報告してくれた。その時は,それ以上のことは不明であった。
帰国後
 1995年3月20日午前8時頃,営団地下鉄の車内で,化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され,乗客や駅員ら13人が死亡,6,300人が負傷した事件であった。次女の文代が
 「お父さん,大変なことがあったのよ!」
と以下の説明をした。
 サリンが散布された1時間ほど後に,文代が通勤途上,新宿で丸ノ内線に搭乗した。ところが,その電車はサリンが散布された電車で,これから車庫入りする電車であった。すぐに下車を命じられた。それだけのことであったが,目に痛みを感じて2~3日通院治療した。自分が日本にいれば,午前8時30分頃,丸ノ内線の電車に乗っている。サリン事件に巻き込まれていたかも知れない。

2-6.気温マイナス38℃!
 マレーフカ鉱山のケーススタディの途中カザフスタンのウスチカメノス製錬所を見学した。この製錬所はマレーフカ鉱山の精鉱を製錬することになっていた。
 2月の極寒の時期で,気温はマイナス38℃であった。マイナス38℃は以下のような環境であった。
 ¶ 革靴で雪の上に立っていると足の裏が氷るように冷たくなる。従って常時足踏み
   をしていた。
 ¶ ヤッケを着ていたが,そよ風が吹くと寒さが肌を刺す。現地人は毛皮製のコート
   又は毛皮製のジャンバーを着ている。
 ¶ 息をすると鼻が痛い。サウナに入った時と同じ現象である。
 ある鉱山の精鉱をシベリア鉄道でウラジオストック港から輸出する計画があった。冬期間の精鉱は6月頃にならないと氷結が溶けないそうである。従って,その計画は廃案になった。
 ウスチカメノス精錬所に持ち込まれた精鉱は鉄の容器に入れられていた。容器は精鉱が3トンくらい入る円筒形であった。
 床に並べられていたが,床には電気毛布のような暖房の仕掛けがあり,精鉱の氷結を防いでいた。
 日本では精鉱は貯鉱舎に野積み状態で置かれ,容器に入れられることはない。

3.南米回帰
 中央アジア諸国は1991年から,日本のODAの対象国となったことから,カザフスタン,ウズベキスタン,キルギスタン等の国において政府間ベースの探鉱が行われるようになった。又,国有鉱山の民営化も始まり鉱山業界で話題となっていた。しかし,これらの民営化は南米諸国の民営化と異なり,国が50%以上の権益を保有する,いわば国と外国民間資本によるジョイント・ベンチャーである。但し,国は金を出さず,現物(鉱山又は埋蔵鉱畳)を提供するのみである。国は市場経済移行の過渡期であり,民営化案件には何れも,目に見えない多くの借金を抱えていた。
 吉田常務が退任され,資源開発部は井澤常務が担当されることになった。井澤常務の方針は
 中央アジアの案件は投資環境やカントリーリスク等が懸念されたので,当社としては将来に備え,それらの国の投資環境等を見守っていくこととする。
 中央アジアを撤退し,土地勘のある南米の資源開発に集中する事になった。
中央アジアの資源開発は調査をするが,いざ投資となると尻込みしてしまうのでは話にならない。とにかく,吉田常務は鉱山開発については腰が引けているのである。

3-1.18度目の引越 阿佐ヶ谷から亀戸へ  0.5年間在住
 1996年の10月東京でマンションを購入し,阿佐ヶ谷から亀戸へ引っ越した。
 神岡で経理課長をしていた尾本君が本社の経理部にいた。彼は神岡に在住していた時に,既に砂町にマンションを購入していた。彼が
 「齋藤さん!私なんか通勤時間は僅か20分程度ですからね!」
と自慢した。この言葉に刺激され,マンション購入する気になった。彼は地下鉄東西線の砂町である。自分もその辺りを探した挙げ句,亀戸に新築のマンションを見つけた。これが「終の棲家」となった。

4.ペルー日本大使公邸事件
 資源開発部長は関係会社の役員を多数兼務していた。ペルーのサンタルイサ社の取締役もその一つであった。サンタルイサ社の取締役会は,3,6,9,12月に開催され,都度出席をしていた。

4-1.天皇誕生日のレセプション
 1996年12月の取締役会に出席するためペルーに出張した。ペルーに到着した翌日,青木大使に電話で
 「三井金属の探鉱状況を説明したいのですが,何時伺えばいいでしょうか?」
 「ちょうどいいときに来た。明日は天皇誕生日のレセプションがある。是非出席した
  まえ。」
 「招待状を持ち合わせていないのですが?」
 「顔パスだよ,顔パスでいいよ!」
と云うことであった。
 北川支社長を始め,他の日本人および奥さん方が招待を受けていると言うことで,その夜,全員で日本大使館に行くことになった。大使館に到着して驚いた!
第一に,
 夜の宴会であったこと
第二に,
 招待客が多く,大がかりな宴会であったこと。中庭に大きなテントを張り,照明が
 煌煌と輝き眩しい程であった。
第三に,
 招待状が一ヶ月以上前に配信されていたことである。
 自分が駐在していた頃,西崎大使であった。その当時は,同様の宴会では,治安を考えて招待客は各社1名の割り当てであった。そして宴会は昼間に,こっそりと,ささやかに催されていた。テロリストの目標にならないための配慮であった。
 このように盛大に催すのはペルーの治安が良くなった事を意味するのであろうと思っていた。
 ペルーの宴会は日本のそれとは異なる。会場で主催者の挨拶や来賓の挨拶など全くない三々五々に集まって三々五々に帰って行くのである。参加した人達は会場で好きなだけ酒を飲み,好きなだけ御馳走を戴く。その間主催者の青木大使は玄関に立ちっぱなしで,参加者を出迎え,あるいは見送りをしているのである。宴会は夕方の7時に始まり,8時過ぎには日本語,スペイン語,英語で会話が飛び交う賑やかな宴会となっていた。

4-2.テロリスト乱入
 「北川君!酒は十分戴いたので,腹ごしらえして支社長宅で麻雀でもするか!」
 「結構ですね。」
と会話しながら焼きそばや,焼き飯のあるテーブルに向かった。そこに天野博物館の奥さんやミツマスペンションの奥さんが居た。
 「齋藤さん久しぶり!」
 「お元気ですか。」
と挨拶を交わしながら,テーブルの焼きそばに手を伸ばした時,
 「ド ドーン」
と猛烈な爆発音と爆風があった。皆顔を見合わせた。
 「伏せろ!」
 「伏せろ!」
と大声で叫ぶ。皆,芝生の上に這いつくばった。
 「何事だ!」
 「コーチェボンバが(車爆弾)爆発したか?」
てんでに想像するが要領を得ない。銃撃戦が始まる。青木大使が外に向かってなにやらわめいていた。そのうち,撃ち合いは止み
 「両手を頭に!両手を頭に!」
と叫びながら覆面姿で自動小銃を持った男達が,侵入してきた。背中に「MRTA」と書かれているネッカチーフを巻いたテロリストである。
 万事休す!我が人生も終わった。資源開発を志して30年!資源国ペルーで死ぬなら本望であると諦めた。

4-3.おびただしい人質
 全員が大使館の中に誘導された。催涙弾が打ち込まれ涙が出るハンカチで目を覆いながら大使館の広間に入る。困った事に小便がしたくなった。人質がすし詰め状態で身動きがとれない。トイレに行くことは全く不能である。窓際に近づきカーテンにくるまって他人から見えないように用を済ませた。
 この時,公邸の中には700人以上がいた。テロリストは来客の一人であった国際赤十字のミニング氏の忠告を受け入れ,700人もの人質の管理は不能であると判断し,その夜の内に女性・老人・大使館の従業員等350人程度を解放した。残った人質の数は366人であったらしい。三井金属関係ではペルー支社長の北川夫妻以下川崎,坂井,五味夫妻,橋本,それに自分のをくわえて8人であった。北川支社長・五味君の奥さんはその夜のうちに解放された。又,川崎,坂井,五味君も自分より早く解放された。

4-4.大使公邸内
 テロリストは深夜になって人質を分類する作業にはいった。軍隊・警察,裁判官・弁護士,外交官・大使館員,企業の日本人,それに技術者等に分類され,それぞれ各部屋に入れられた。ペルーでは理工系の大学を卒業したものをインヘニエロと呼び,一定の社会的ステータスが与えられていた。自分は技術者であるから「インヘニエロ齋藤」である。インヘニエロの部屋はさぞかし立派な部屋であろうと想像した。二階に案内されて行くと,インヘニエロの部屋は何と,「バーニョ!(浴室・洗面所兼トイレ)」であった。床はタイル張りであった。狭いバーニョに鮨詰め状態であった。最初は,皆座っていたけれども2,3人が横になった。早く横にならないとスペースが無くなってしまう。我先にと横になって寝た。階下では「ガタゴト」と物音がしていた。
 翌朝,隣の部屋をのぞいた。夫婦の寝室であった。小さな男が一人,ダブルベットの上に大の字になって寝ていた。三菱商事の宮下さんらしかった。
早朝,青木大使が
 「ティエネケ,プレパラール,デサイウノ」
  (朝食を準備しなければならない)
と叫んでいた。
ペルー人は
 「デサイウノ(朝食)だと!」
と云って笑っていた。何故笑ったのか解らないが,粗末な食べ物を準備するに「デサイウノ」は無いだろうと,せせら笑ったのであろう。
 その日は一日中バーニョ(トイレ兼洗面所)の床に座って居た。いわゆる「雪隠詰め」である。トイレに行くときテロリストが屋上に通じる階段や1階に通じる非常階段に,爆薬を仕掛け,雷管を装着していた。外部からの侵入を防ぐためである。
 夜は再び階下に降ろされた。大広間に400人ほどの人間が雑魚寝したのである。夜中にライオンが「ウオーウオー」吠えているのを聞いた。目を覚まし辺りをよく観察すると皆が鼾をかいて寝ているのである。彼方でも,此方でも「ウオー,ウオー」と鼾が聞こえるのである。何とも云いようのない光景であった。
 トイレに行くため立ち上がると,テロリスとが近づいて銃を向けた。トイレだというと銃でこづきながらトイレに連行された。
 ペルーの12月は乾期で,昼夜の寒暖の差が激しい。その所為か,風邪をひいてしまった。着るべき布団等が無いので,震えていると,誰かがピアノにかぶせてあった深紅のビロードを持ち出して被せてくれた。ペルーに出張するときに新調した背広は寝巻きになってしまった。これで背広台無し第2号である。鼻の横に熱が吹き「出来物」を生じた。鼻水を拭き拭き,寝転んでいた。まるで病人になってしまった。

4-5.芸は身を助ける
 人質は12月20日に39人,12月22日に225人が解放され人質の数は次第に少なくなった。
 人質が減少したことで再配置が行われた。再び2階に移動させられた。今度は8畳の間に10人程度が入った。落ち着いて生活が出来るようになったのはこの頃である
 大使館の医師三村さんが囲碁を嗜むと云うことで,その日から大使館員の部屋で囲碁を打つ事にした。
 朝起きると廊下を散歩する。これは自分ばかりでなく,他の人も廊下を歩き回り朝は廊下が混雑していた。散歩をしている振りをして,大使館の人達が入って居る部屋の前を行ったり来たりする。そのうち,三村さんが気ついて
 「齋藤さんどうぞ!」
と部屋の中に入れてくれる。逆に,三村さんが自分の部屋を覗きに来て誘う事もある。朝から晩まで囲碁三昧の日が続いた。
 三村さんの棋力も4段くらいで自分と好敵手であった。三村さんの口癖で困ってもいないのに
「困った!困った!」
と呟きながら囲碁を打つ。
 テロリストが巡回して来て,何をしているのか珍しそうに覗き見る。彼がかがみ込んで,碁盤を覗き込むと胸のポケットから手榴弾がこぼれ落ちる。一瞬「ヒヤット」する。
青木大使が巡回してきて
 「また碁をしとる!」
と嘆く。
 「三村君!君は医者だから日本人やペルー人の健康状態を診察して回りなさい。」
と命令する。そして,スペイン語の教科書を投げてよこした。三村さんは青木大使が投げてよこした教科書を取り上げて一瞥して, 
 「フン!」
と言って教科書を放り投げ再び,
 「困った!困った!」
と囲碁を続ける。
ペルー支社長である北川君が言う
 「齋藤さん!“芸は身を助ける”とは好く言ったものですね。」
 「何のことだ!」
 「齋藤さんあなたのことですよ!」
 「囲碁を打つ前は,まるで病人のように横たわっていたのに,囲碁を打つようになっ
  てからは嬉嬉として毎日を過ごしているじゃないですか!」
暫くして「ほかほか弁当」が配給されるようになった。食べるときは,皆で
 「味わいながら,ゆっくり食べようぜ!」
と会話しながら食べた。自分もこんなに旨い物が世の中にあったかと驚いた。「目黒のサンマ」以上であった。
 テロリストの中に3人の若い女性が居た。彼女たちは「1週間程度のアルバイト」としてジャングルの貧しい村から連れてこられたそうだ。日本の弁当を美味しそうに,珍しそうに食べていた。
 自分が解放されてから聞いた話だけれども,インスタントラーメンを好んで,両親に持って帰ってやるのだとリックに詰め込んでいたそうだ。彼女達は劇的な解放の時,他のテロリスト同様撃ち殺されてしまった。

4-6.解放
 ある日,例によって三村医務官と対局していたところ,三井物産の小林支社長が
 「齋藤さん!囲碁など打っている場合じゃないですよ!」
と慌てて部屋に入ってきた。
 「何事ですか?」
 「解放です。齋藤さん解放されるのですよ!」
と教えてくれた。
慌てて,身の回りの物をレジ物袋に入れ準備をした。
 外に出るまで色々チェックされ時間が掛かった。やっと外に出て,迎えに来たバスに乗り込んだ。
 人質として大使公邸に留まった期間は12月16日から12月28日迄の12日間であった。
バスは日秘文化会館に到着した。そこで簡単な検診を受けた後解放された。
出迎えに来ていた鶴見君が遠くで
 「齋藤さ-ん!」
と叫んだ。
ホテルに一緒に行った。彼がおにぎりを2,3個持参してくれた。武士は食わねど高楊枝である。が彼と色々話をしている間,「おにぎり」に視線が向く。早く
 「さようならをして,早くおにぎりを食べたい。」
日本食に飢えていたのである。
 この時,ワンサラ鉱山で3年間勤務した人が,日本に帰国し,晩酌の「つまみ」に米の飯を食べながら飲んだと聞くが,その気持ちが理解できた。

図57 開放の時


4-7.家族の反応
 東京では自分が解放された時,多くのマスコミが押しかけた。妻は
 「未だ,解放されていない方が見えるので,コメントは控えさせて戴く。」
とひたすら断っていたが,三井金属の人事課の坂口氏がマスコミ対応に応援に駆けつけてくれた。彼は暫く我が家に通ってマスコミ対応に骨を折ってくれた。妻も坂口さんが来てくれたことで,大変心強かったと感謝していた。
 妻はこの事件が発生した時,悲しみを通り越して夫はもう帰って来ないと諦め,事件解決後「夫の遺体」をペルーに受け取りに行くのであろうか,自分一人では心細いと悩んだそうだ。
 長男の正紀は富山に居住していた。富山では父の情報が入らず,会社でも仕事が手に着かず悩んでいた。社長が心配して
 「母親のいる東京に行きなさい。」
といって休暇を出してくれた。
東京に来て,炬燵にもぐりこんで,一日中テレビを見て
 「世の中一体どうなっているのだ」
と嘆いていた。
12月29日に自分の解放されたニュースが入ると
 「万歳!万歳!」
と歓び,富山に帰った。
 一方,奈良に住んでいる兄は
 「お前はまだ一人前の碁打ちじゃない。」
と言う。小林支社長が
 「齋藤さん!囲碁など打っている場合じゃないですよ!」
と慌てゝ部屋に入ってきた時,一人前の碁打なら
 「チョット待て!この一局が終わるまで静かにしてくれ!」
と周囲を制して,悠然と対局し続けるものだ。と冗談を言う。
 姉はマスコミのインタビューに対する応対で忙しかったそうである。図58は1996年12月30日の朝日新聞の記事で,
 「TVに弟“良かった”」
 「山東町の姉:松本さん喜びの電話次々」
等の見出しであった。

図58 開放を喜ぶ姉約
 友人知人等多くの人から安否を気遣う手紙や電話を戴いた。感謝すると同時に,大変迷惑を掛けてしまったことを申し訳なく思った。
 1977年4月22日,劇的な武力解決により,ピリオドを打った。人質72のうち1人と,特殊部隊の2人の死者が出たが,この種の作戦としては大成功である。
大使公邸事件の反省として最も致命傷はレセプションの案内が1ヶ月前に配布されていたことである。フジモリ大統領は自分の行動を前もって公表しない。直前に部下に知らせるそうである。

第7章 神岡鉱業社長時代
1.神岡鉱業社長
 井澤常務が陣中見舞いに,東京からわざわざペルーまで来られた。その時,
 「日本に帰ったら神岡鉱業の社長に就任して貰う。」
との内示を戴いた。又,
 「三井金属の取締役にするか否かについては,宮村社長が言い渡される。」
とのことであった。

1-1.19度目の引越 亀戸から神岡へ : 3年間在住
神岡鉱業に赴任する時は妻も同行して,社宅住いをしてくれることになり,神岡で夫婦水入らずの生活をすることになった。

1-2.神岡鉱業の課題
 鉱山については,茂住鉱山は休山し,栃洞鉱山は手持ち鉱量が減少し,生産量は往時の半分の2500T/日となっていた。
 鉱山部門からの収益は多くは期待できない状況ばかりか,今後の鉱山部門はマインアウトに備え,ソフトランディングが課題となってきた。
 栃洞鉱山と茂住鉱山の労働生産性は高くなってきたが,手持ち考量の減少から,粗鉱生産量は減産を余儀なくされ,マインアウトが見えてきたのである。
 神岡の当面の課題は亜鉛製錬の競争力強化であった。鉱山技術者に取っては,亜鉛製錬課の技術係数向上に関しては,陣頭指揮の出来るものではなかった。従って,神岡の3年間は,嘗ての鉱山の技術革新のように技術的改善はなし得なかった。もっぱら経営上の諸問題に取り組んだ。
 特記すべきことは鉱山病院の閉鎖,亜鉛製錬の修繕体制の改革,鉱山のソフトランディングの三つであった。
 第一の鉱山病院については院長が高齢であり,後継者となる医者が見当らないことから町病院に移管せざるを得なかった。町へ移管するに当たっては,河上町長と度々打ち合わせを重ねた。因みに,鉱山病院は明治22年に鹿間医院を開設して以来,猪谷,上平,金木戸,下之本に至る広範囲の地域の医療に当たってきた。
 第二の亜鉛製錬課の保全修繕体制は亜鉛製錬課内に修理保全を担当する係を設け,自分の設備は自分で修理するようにしなければならないと考えた。
 工作課,亜鉛製錬課,それにそれぞれの職場委員等を説得し,ほぼ了解を得た。しかし,この話が決着する前に転勤になってしまったので,どのように決着したのか不明である。
 第三は鉱山のソフトランディングである。手持ち鉱量から判断して休山が見えていた。21世紀初頭には休山を余儀なくされると考えていた。人員やコストの面でショックを最小限に留めるよう色々な施策を考えた。最大のものは堆積場に100年降雨が襲来した時の非常排水路であった。これが休山後の最大の仕事であった。次が地下空間事業である。日本油脂の500mクラスの射場を受注したと聞いている。

2.経常損益
 自分が神岡に赴任した1997年以降の3年間は亜鉛建値の暴落には見舞われず平穏な推移であった。従って,経常損益も黒字基調で推移した。
 しかし,ヘッジ問題で本社と意見の相違があった。金属事業部から誘いがあったが,自分は以前の苦い経験からヘッジを避けた。何故なら
 1988年に神岡鉱業は本社の金属事業部の強引な誘いと指導の下に,ヘッジ行為を行った。
 亜鉛の3ヶ月先物市場で,1年分の生産量に見合う分をヘッジしてしまった。取引でヘッジをしたつもりが,先物取引の投機をした結果となり大損をした。表面的には波風は立たなかったけれども,蔭で組合も,社員も猛烈な非難の声があった。「生兵法は大怪我のもと」で,結果は大失敗であった。同じ赤字でも建値が下がって赤字になったなら,諦められるが,人為的な行為で赤字になると,非難轟々となるのである。

2-1.先物予約
 その後もヘッジ行為を行っているが,結果は図59に通常の経常損益とヘッジ行為を行った後の経常損益を示しているが,大勢には影響を及ぼすものでは無かったようである。
ヘッジ行為について,1988年から2000年迄の13年間を纏めると,
 勝ち:黒字額            :20億円,
 負け:赤字額            :55億円,
 差し引き負け:合計の赤字額      :35億円
結局,ヘッジ行為を行って35億円損失したことになる。1988年度の最初の時に,大失敗した32億円を除いても2億円の赤字である。



2-2.経常損益の推移
 図60に1965年以降の経常損益の推移を示している。
 神岡鉱業の経常損益は過去3回の大幅な赤字を計上している。即ち,1977年,1986年,1994年である。その都度人員合理化,分離独立等の大手術を断行し,直後は建値の回復にも恵まれて,大幅な黒字を計上している。しかし,1994年から3年間は大幅な赤字を計上しているにも拘わらず,効果的な対策が打たれていない。そして直後に建値が回復しているにも拘わらず,経常損益は微々たる黒字でしかない。これは鉱山の生産量が減少したからであろう。



3.神岡の生活
 1994年にペルーから帰った後,家族は阿佐ヶ谷の社宅に住んでいたが,1996年10月に東京の亀戸にマンションを買った。その直後の12月にペルーに出張した。ペルー大使館事件に巻き込まれた。翌年の4月末には事件も解決した。
 7月には神岡鉱業社長として赴任したので,購入したマンションには8ヶ月間居住したのみであった。
 神岡鉱業の社宅玄関には櫟と櫻の木が植えてあった。
 社宅の敷地は広く建坪も広かった。南側と西側の庭は芝生が一面に植えてあった。夏なれば縁側から素足で出て芝生の上を歩いた。芝刈り機を買って休日は運動の代わりに,庭の芝刈りで汗を流した。北側は小さな畑があり,夏は胡瓜茄子トマトなどの家庭菜園を楽しんだ。
 マンションとは次元の異なる価値があった。田舎暮らしは都会では味わえない魅力がある。

図61 社長社宅玄関付近


 自分と妻が神岡に来たので,マンションには長女と次女の二人が住むことになった。長女は1998年に結婚したので,マンションは次女の文代が一人で占有することになった
 長男は自分がペルーから帰国した1994年に結婚した。彼の結婚話は自分がペルーに勤務している時であった。自分がわざわざ日本に帰らなくとも,日本とペルーの中間点であるハワイで結婚式を挙げる予定をしていた。ところが自分が意外と早く帰国になってしまった。日本で式を挙げるかと相談したら,既に
 「ハワイで結婚式を挙げると友達にも知らせてしまったので,変更はしない。」
と言った。
そこで,両家の家族が随行し,ハワイで結婚式を挙げた。
 住居は県営住宅に入った。1980年に購入した「メゾン今泉」は賃貸に出していた。1年ぐらい経って,県営住宅は手狭で冬は寒いと理由で,「メゾン今泉」に引っ越しさせた。

図62 社長宅裏庭で家族とバーベキュー


 息子と娘達が盆や正月には遊びに来た。長男の正紀,長女の史歩は結婚しそれぞれ,富山,上尾に住んでいた。次女の文代はまだ独身であった。
 文代は夏休みに神岡に遊びに来て,裏庭の芝生でゴルフの玉を打って練習していた。山手の斜面にボ-ルを打ち込んでしまった。斜面によじ登ってボ-ルを探している最中,足を踏み外し石垣から墜落し,足を骨折した。止むを得ず神岡で2ヶ月間療養をした。
 神岡の夏祭りの頃,兄が遊びに来た。木陰の下で囲碁を楽しむ。この頃兄の棋力は自分に常先ぐらいであった。インターネットでも盛んに対局した。そのうち歳のせいか兄の気力が衰え,2子乃至3子まで打ち込んだ。その後は殆ど対局しなくなった。現在,兄は下手とばかり対局して楽しんでいるようである。

図63 木陰で兄と対局


4.井澤副社長夭折
 1999年に井澤副社長が亡くなられた。喉頭癌であった。手術後,回復し勤務に復帰されたのであるが,再発したのである。実に残念なことであった。享年62歳であった。
井澤さんには大変お世話になった。井澤さんとは入社前からの付き合いである。
 1964年に栃洞坑で長孔発破を掛けるに当たり,京都大学の傾斜計を使用して,長孔発破に伴う地盤の変化を計測することになった。夏休みに三浦君と京都大学の傾斜計を栃洞坑に運んだ。栃洞坑で対応して戴いたのは,技術係長の松永恒忠さんであった。この松永さんの実家は京都の北白川であった。寮隆吉君が下宿していたので2~3回遊びに行ったことがある。
 坑内見学の案内をして戴いたのが井澤係員であった。現場巡視中に
 「クラブの食事が終わったら飲みにいらっしゃい。」
と招かれた。井澤さんはクラブのすぐ下の社宅に住んでおられた。お言葉に甘えて二人で出掛けていった。
 三浦君は水泳部であった。井澤さんは東大の水泳部の部長を務められた。お父さんも,弟さんも東大の水泳部の部長であったそうである。
 「京大の水泳部は弱かったね。」
と同情して戴いた。三浦君は何時も水泳を自慢していたけれどもこの時は,全くの形無しであった。入社してからも井澤さんとは囲碁,麻雀,酒を飲みよく遊んだ。お互いに長い栃洞時代を過ごしたが,不思議と直接の上下関係で仕事をしたことはない。 
 資源開発部長時代には上司として,海外鉱山開発の方向を中央アジアからペルーにシフトして戴いた。ペルー出張に同行した時,ペルーまで24時間の長旅を機中,「UDON DE SKY」を食べながら囲碁に興じた。ペルーではパルカ,ケチュア等の5000mの高地の探鉱視察に同行した。

図64 標高5000mのケチュア
役員研修会で「MECE(ミッシー)」という言葉を教えて貰った。MECEとは
「Mutually Exclusive Collectively Exhaustive」の略語で
 「それぞれが重複することなく,モレがない。」
の意味である。
この言葉は知らなかったが自分が生産管理職時代に坑内図面を整備した時の考え方
 「互いの図面がダブらないように,隙間が空かないように」
である。
研修会で夕食後,井澤常務,槇原取締役,浅野事業部長と連碁をするのが常であった。井澤さんはこの連碁を楽しみにされていたようだ

5.社長退任
5-1.チェックアクション会議
 毎月,東京本社で開催されるチェックアクション会議に出席した。会議の終了後,宮村社長が
 「齋藤君チョット!」
と声を掛けた。転勤の辞令の件だとすぐ解った。
 「今,奥会津地熱社は大変な事になっている。蒸気が減衰して膨大な赤字経営であ
  る。この状況を建て直すのは君以外にいない。奥会津地熱社には4月から行って
  くれ。取締役の任期は7月までにしおくから。2期4年間,頼む!」
であった。
 技術的には奥会津社に寿賀社長以下技術者がいる。寿賀社長は奥会津地熱の開発当初から従事されてきた。自分は全くの素人である。
 東北電力社に契約等で,睨みをきかす意味では,通産から天下りしてきた高原常務がいる。
 自分が奥会津の社長に就任しなければならない理由は何も見あたらない。
 それに辞令を受ける本人より先に,本社内で噂になるような辞令の出し方は,気分が悪い。
 奥会津地熱事業は,地下から資源を採取するといえども,この地熱事業に従事するのは初めての経験である。これが最後の仕事になると覚悟を決めた。
 奥会津社の本社は日本橋の寄席「日本橋亭」のすぐ前で三井銀行や三越の直ぐ近くであった。三井金属もこの地にいたが大崎に引っ越した。奥会津社だけは日本橋に残っていた
 神岡を出発するに当たって,通常行われる社員の見送りは,全て断り,女房と二人で神岡を去った。毎年綺麗に咲く,玄関の大きな桜の木は未だ蕾であった。
 神岡に3年間在住した間に,溜まった有象無象の不要物,書類等を裏庭の畑で燃やしたその昔,茂住宗貞が屋敷に火をかけて,百万両を持って茂住銀山より姿を消したことを思い出しながら。
 通常,東京に帰るのは,富山から飛行機で帰るのであるが,慌てて帰る必要もないので高山回りの汽車で,のんびりと東京に向かった。新婚時,女房を連れて神岡に向う時,利用した駅であった。二人でその頃のことを思い出していた。

5-2.20度目の引越, 神岡から亀戸へ
 2003年3月,神岡から終の棲家である亀戸に引っ越した。
入社以来,彼方,此方と引っ越し劇はさながらジプシーのようであった。引っ越しも今回の20回で終わりを告げた。後は,「あの世」に引っ越すだけである。

第8章 奥会津地熱社長時代
1.奥会津社の状況
 奥会津地熱発電は1995年に定格出力65MWで,順調に操業を開始した。しかし,1998年から地熱蒸気量が激しく減衰を始め,2000年には発電出力が38千kWまで低下していた。
 東北電力社との契約では発電出力が利用率85%(55MW)を割り込むとペナルティが課せられることになっている。
 その結果,2000年度の決算では,約10億円のペナルティが課せられ,経常損益は8億円の赤字が見込まれていた。



 加えて抑制電力問題を抱えていた。抑制電力とは不可抗力によって発電を停止した場合損失した発電量は発電したものと見なす電力量のことである。
 例えば,地熱発電から排出される蒸気が異臭を発生すると地域住民から苦情があり,発電を停止し,脱硫装置を取り付けた。この工事期間中は地熱発電の操業は中止した。この間の損失した発電量を抑制電力とするか否かで問題となっていた。東北電力地熱開発課は
 「異臭発生の原因は奥会津社の質の悪い蒸気である。」
と主張する。
 この問題解決のために幾度となく話し合いを持ったが,解決には至らなかった。しかしこの問題は一過性の事であり出力回復問題に比べ問題は小さかった。どのように解決したか記憶に無いが2000年の決算で決着を付けた。
 事業性を回復するためには以下の方法が考えられた。
   ¶ 地熱蒸気を回復させる。
   ¶ コストダウン
   ¶ 現状の出力に合わせた契約に改正する。
等の方策が考えられた。何れの方法も一朝一夕には解決できるものではない。
 第一項目と第二項目は自助努力によって実行できるものであるから,当面,蒸気回復とコストダウンに取り組むこととした。
 第三項目については東北電力との協議を要し,簡単に解決できるものではなかった。又高原常務に相談すると彼は
 「契約改正なんて,そんな大それた事は三井金属全体でプロジェクトチームを作って
  対応しなければならない。奥会津社だけでは無理である。」
と全くやる気がない発言であったので,暫く様子をみて取り組むことにした。

2.経営改善
2-1.蒸気回復策
 地熱蒸気を回復するため生産井を増掘する事とし,起業費を本社に申請した。
 2001年度に3本
 2002年度に2本
 2002年までに3本を追加した段階で,蒸気量は450t/h程度に増加したものの期待していた程は増加しなかった。井戸の掘削初期段階では,蒸気量は可成りの量が噴気するのであるが,その後の減衰が激しく持続性がないのである。

2-2.蒸気生産量の予測
 そこで,一体,何本の井戸を追加すれば65MWの出力の回復が可能であるか,以下の条件でシミュレーションを試みた。
 ① 蒸気量の減衰率は過去6年間実績ではほぼ6.3%であった。この減衰率を将来
  に適用する。
 ② 補充井を以下の如く掘削する
   2001年に3本
   2002年に2本
   2003年に1本
 ③ 2004年以降の補充制井は隔年1本を掘削する。
 シミュレーションの結果は図66に示すように,出力は40MW以下であった。



 この結果では65千MWの回復は極めて困難であることが判明し,結果論として,奥会津社の出力65千kWはオーバーエスティメイトである可能性大であると判断した。

2-3.コストダウン
 自助努力の第二弾としてはコストダウンである。奥会津社の総コストの内,削減可能な操業費は僅か18%で,資本費が82%を占めていた。しかし,どうしてもコストダウンが必要であり,資本費にもメスを入れることになった。
2年間で8.3億円のコストダウンを実現した。削減の内訳は
 総コスト : 8.3億円
 資本費 : 4.7億円
 操業費 : 3.6億円
である。
 ¶ 資本費の削減額4.7億円の大半は金利である。
 金利は1995年当時日本政策投資銀行を始め民間銀行から借りた金利の高い融資を返却し,低金利の資金を親会社の三井金属から借り換えた。銀行側は約定弁済であるため一度に返すことは出来ないと抵抗されたが。粘り強く交渉した。驚いたことに借入金の中には,1995年当時に金利14%で借りた資金が含まれていた。
 ¶ 操業費の3.6億円の削減については労務費,修繕費等の削減により,2.6億円を削減した。人員の30名体制を2003年には20名体制とし10名を削減した。
 諸経費の1億円の削減として,操業の大半を子会社に委託していたものを全て奥会津社自らで操業することとし約0.8億円を削減し,事務所は人員の減少に伴い,面積のより狭い所に移転することにより約0.2億円を削減した。
 以上のコストダウンでも,黒字に浮上することは不可能であった。



2-4.定格出力の見直
 蒸気回復とコストダウンの自助努力のみでは事業性の回復は見込めない事から,現状の出力に合わせた契約更新を東北電力と交渉することに全力を注いだ。
 交渉の相手は東北電力の地熱開発質で,山田課長が対応された。当初,彼は強硬で我々の言い分は殆ど受け入れて貰えなかった。
 東北電力の地熱開発質の山田課長と対談では
 「東北電力としては出力を下げる大義名分がない。下方修正するにしても奥会津社
  の言い分だけでは上司を説得することは出来ない。」
と云うような発言をされた。もっともなことである。この発言を善意に解釈して自分は次のように考えた。
 「過去5年間の実績に,直近の実績データを加え,奥会津の蒸気生産能力を客観的
  に再評価する。」
客観的とは奥会津社の評価でなく第3者の評価,即ち,GeothermEx社の評価である。GeothermEx社が
 「奥会津社の発電能力は45MW程度である。」
と再評価すれば山田課長も上司を説得することが可能であると考えた。東北電力社からの帰途,このことを菅野君と安達君に
 「俺は明日からアメリカに出張する。」
と宣言した。彼等は
 「目的は何ですか?」
と不思議そうに質問した。彼等に奥会津社の地熱発電の出力をGeothermEx社に再評価をして貰うこと,その結果を東北電力に示し,出力変更を依頼することを説明した彼等は
 「それは好い,是非アメリカに出張して下さい。」
と賛成してくれた。しかし,出張するまでもないと判断し,安達君にGeothermEx社のサニエル教授に依頼の手紙を書いて貰った。

2-5.GeothermEx社の予測
 東北電力社と共同研究という名目で,奥会津社の出力の再評価をGeothermEx社に依頼することにした。
 サニエル教授は1名の技術者を連れて来日した。彼は奥会津社の出力再評価について何ら疑問を持っていないようであった。サニエル教授は奥会津社の65MWを決定した人物であるから,それにこだわられると困るので,彼が帰国する前に念のため,自分のシミュレーション結果を示し,
 「奥会津社の出力は40MW程度であると考えている。」
と意見を述べ,これが正当であるか否かを検証して戴きたいと依頼した。
 数ヶ月が経過し,GeothermEx社から報告書が届いた。彼等の結論は
 ¶貯留層のキャパシティーは45MWから20MWの間である。
   但し,最大出力45MWを維持する条件は;
    ① 毎年1本の生産井を掘削し,成功すること。
    ② VWO方式などの改善を行うこと
という厳しい評価であった。
 この内容をレポートに纏め,報告書として,東北電力の地熱開発室に提出した。山田課長にGeotheermEx社の結論を受け入れて貰った。山田課長はこの報告書を読んで
 「契約改定に当たって燃料部が出力について,我が部に問い合わせてくるからその時
  に説明する。」
とのことであった。



2-6.契約改定
 2001年以降,契約変更案について説明を重ねてきたが,色よい返事は貰えなかった
 しかし,奥会津社のコストダウンの実績やGeothermEx社による奥会津地熱の発電出力の再評価等により風向きが変わった。
2003年の新年の挨拶に伺った時に,燃料部の課長から
 「奥会津社との契約で,蒸気単価を石油の値段にリンクさせる形式で設定したらどう
  ですか。」
という提案があった。一も二もなく了解した。
 これを契機に契約改定は急速に進捗するようになった。
この時,監査役の鳥海氏は
 「山が動いた!」
と表現した。長年交渉しても微動だにしなかったことが動き出したのである。どうしてこのような動きになったのか,自分には不可解である。
 燃料部の提案以来,契約案を作成するに当たって,大いなる希望を抱きながら創案する事が出来た。奥会津社の契約に対する基本的な考え方は,以下の通りである
 地熱事業は投資額が大きいので,最初は償却費が大きいので蒸気コストは高く,後半は償却が進むので償却費が少なくなり蒸気コストは安くなる。
 従って,蒸気コストを設定するに当たっては,最初のうちは石油の値段プラスα,後半は石油値段マイナスαと云う形にする事であった。色々な案を作って東北電力に提案したその過程で宮村社長も加わって検討した。自分は7月で退任したので,どのように決着したか不明である。

3.奥会津地熱事業の総括
 地熱事業は地球環境の観点からも,純国産のエネルギーであることからも,誠に結構な事業なのである。その地熱事業が何故,膨大な赤字を生む事業になってしまったのであろうか。奥会津地熱社で3年間働いた結果,以下の三つを指摘する。
 ¶ 発電出力65MWのオーバーエスティメイト
 ¶ 東北電力社との契約の失敗
 ¶ 東北電力社とのパートナーシップの欠如

2-1.発電出力について,
 出力を事前に予測することは極めて難しい。地熱蒸気の減衰率の予測は神のみぞ知る世界である。人間は歩きながら考える。即ち,実績を見ながら決めざるを得ない。奥会津社が運転開始する以前に日本の各地で地熱発電が行われていたのであるから,それらの実績を勘案すれば,現在の出力である65MWは設定できなかったはずである。
 「男は度胸!エイヤ!」
と65MWを設定してしまったのである。

2-2.受給契約について
 現状の契約をグラフで表したものが図68である。電力料金は総括減価方式,即ち,料金はコスト+適正利潤で設定し,決して赤字にならない方式である。それにも拘わらず,奥会津社の経常損益はペナルティ条項が加わり膨大な赤字経営に陥っているのは何故か。



 図69で,出力55MWを割り込むとペナルティゾーンに入り込む。経常損益は急降下し,35MWで経常損益は赤字の9億円に達する。このグラフを見ると,65MWに余程自信がなければ契約する気にはならない。本来なら,ペナルティ条項は外しておくべきであった。図69の緑のラインにしておくべきであった。兎に角,65MWを信じ切って,何もチェックしないで提案された契約に押印してしまったのである。
 自分が退職する時,東北電力に挨拶に伺った。地熱開発課長であった山田氏は既に,関係会社に出向されていたが,会食の機会を得た。
 彼と飲みながら思い出話に花を咲かせた。その時に感じたことは,出力決定の時,奥会津社が強引に65MWを強引に主張した。東北電力はこれには全く閉口したようであった
 それで,東北電力では自衛手段として,契約にペナルティ条項を入れたのではなかろうか。「江戸の仇を長崎」で取られたような気がする。

2-3.パートナーシップについて
 共同事業を行っている場合,事業に思わしくない事態が発生した場合,双方が助け合うものである。奥会津地熱社と東北電力の場合は逆に敵対関係になっていた。
 そもそも地下から,どれ程の蒸気が確保されるかを予測することは極めて困難なことである。それにもかかわらず,蒸気が予定通りに噴気しない場合,契約にペナルティ条項を入れること,又,それを受け入れたことも不可解である。
 努力によって確保し得るものならいざ知らず,人知の及ばぬ地熱蒸気の確保にペナルティ条項を入れるとは驚きである。
 出力決定の時に奥会津社は余程“強引さ”を発揮したに違いない。これがパートナーシップの欠如の原因と思われる。
 共同事業の場合,自分の意見も主張するが,相手の意見も受け入れる間柄でなければならない。 

4.社長退任
 図70は奥会津社の開闢以来の経常損益と発電出力の推移である。



 2003年の契約変更を機に,経常損益は過去の赤字を打ち消す程の大幅な黒字となっている。
 一方,発電電力量は2002年を頭打ちに,以降は低迷している。やはり,このグラフは奥会津の発電出力が最大45千kWであることを証明している。
現地西山に退職の挨拶に向かった。西山地区に入る手前にヘヤーピンカーブがある。そこ大きな桜の木がある。今が盛りの満開であった。側を通りかかった時,一陣の風が吹き,花吹雪となった。素晴らしく,豪快な花吹雪であった。車を止めて暫く眺めていた。一句詠む。
  ¶ 退職の 挨拶まわりや 花吹雪
威勢良く散る桜の花びらと同じように,威勢良く退任しようと歌ったのである。
 生涯で歌った唯一の俳句である。



第9章 備忘録
1.ペルー
1-1.ペル-高山の動物

1)リャマ (llama)
 哺乳類ウシ目(偶蹄目)ラクダ科の動物である。体高約1.2m,体重70~140Kg。南アメリカのアンデス地方に多く住む。
 姿はラクダと似ているが,背中にコブはなく,全身が毛で覆われている。白い毛のものと茶色の毛のもの,白と茶色がまだらになったものがいる。足から頭までの体長は1m程度。頭から尻までの長さは2m程度。まつげが長く目はパッチリとしている。性格はおとなしく,人に慣れやすい。

1 リャマ


2)アルパカ (alpaca)
 ビクーニャからの派生種。常に群れをなして暮らしている。
一年中放牧され草や苔を好んで食べる。極めて良質な体毛を具えている。古くから,衣類を始めとする生活用品への体毛を加工することが品種改良の目的であった。毛を採る以外の経済的利用方法は見られず,荷役にも用いられなかった。
 南アメリカ大陸,特にペルー,ボリビア北部,チリ北部の海抜およそ3500~から5000mのアンデス湿潤高原地帯で放牧されている。

図2 アルパカ


 アルゼンチンなど南アメリカ南部にはほとんどいない。
現在はアメリカやヨーロッパ,ニュージーランドではアルパカ牧場やペットとして飼育されている。 アメリカではペットとして飼っている人も多くいる。

3)ビクーニャ (Vicuna)
 標高約3,700~ 5,000mの高地の草原に10頭前後の群れを作って生活する。毛が高級なため密猟され、数が少なくなっている。今は保護施設または許可された人が飼育している。
 ビクーニャの毛織物製品は高級品として取引される。体毛が細いため,糸に紡いで利用される。毛は動物界で最も細く,100分の1mmといわれている。2年に一度しか毛の刈り込みは許可されておらず,1回の刈り込みで成獣1頭につき250~ 350gの体毛しか得られない。極めてきめ細やかなその糸は「神の繊維」「繊維の宝石」とも呼ばれ,ビクーニャ100%ともなるとコート1着で数百万円の値がつくそうである。
図3 ピクーニャ


4)グアナコ(Guanaco)
 北方のグアナコはリャマの祖先である。アルゼンチンのグアナコは世界のグアナコの95%を占めると思われるが,パタゴニアからアンデス高地に至るまで広く存在している。南アメリカではペルー,ボリビア,パラグアイ,アルゼンチンなどでよく見かける。
ビクーニャ,アルパカ,リャマと同様にアンデス原産の動物である。特にペルーではインカ時代以前から荷運び用に用いられていた。アンデスの一部では,肉や皮や毛を取るために乱獲した結果,絶滅が危惧されている。
 足がすらりとして気品のある野生動物である。身長は1.6mほどで体重は48~96kg。主に南アメリカの高地に生息している。リャマと同様に身を守る二重の厚い毛をまとっているその厚さはアルパカよりはやや薄い。

図4 グアナコ



2.神岡
2-1. 神岡鉱業の水力発電
 神岡鉱業所の発電は,明治27年(1894年)に鹿間谷に水車発電機を設置し,県下で初めて電灯をともした事に始まる。
 大正年間の初期に割石発電所(240kW),土第一発電所(800kW)等を建設した
1922年(大正11年)には神岡水電株式会社を設立し,跡津発電所(6850kW),中山発電所(1000kW),猪谷発電所(22300kW,土第二発電所(1100kW)等を建設した。
 神岡水電は東町発電所建設のために多くの調査と,水利権獲得のための10年間に及ぶ水量測定等,多大な尽力が費やされた。1939年(昭和14年)に東町発電所(31300kW)が設立された。しかし,突然この発電所は,日本発送電の所有となってしまった。神岡水電は工事のみ請負うことになり,工事完了後,1942年(昭和14年)神岡水電㈱は解散した。
 日本発送電の設立により高原川本流に位置する規模の大きい発電所は没収されて,残った発電所は支流である跡津川流域の小規模な発電所のみとなった。

2-2.ホワイトコール
 元三井金属社長の尾本信平氏の起業回想の中に,北アルプス水資源開発と神岡水電について書かれている。その中に“ホワイトコ-ル”,“ブラックコ-ル”という言葉が出てくる。尾本氏が入社(昭和3年)された頃,流行った言葉だそうだ。尾本氏も“ブラックコ-ル”は理解できたが“ホワイトコ-ル”は何のことだか解らなかったそうである。 “ブラックコ-ル”は勿論,石炭のことで,“ホワイトコ-ル”は北アルプスの水力資源のこと。
 石炭はエネルギー源として,ベースメタルは産業の原料として欠くべからざる資源である。しかし,いずれも減耗性の資源で採掘すればいずれは無くなる運命にある。
 一方,水資源は無限のエネルギー源である。太陽が海面より水蒸気を吸い上げ,これが雨雲となり,山岳に運ばれ,滝や川となって,再び海に注ぐ。その過程で水力発電がされる。地球の引力と太陽のエネルギーが存在する限り永遠のエネルギーである。この永遠の事業を残すことは三井人の使命であると記されている。

2-3.諏訪の滝
 東京本社には月に2~3度出張する。東京へ出張する際は,神岡から社有車で国道41号線を走り富山空港まで送って貰う。
 国道41号線は,国境橋以南は高原川沿いに,国境橋以北は神通川沿いに走っている。渓谷の風景は,春は桜,夏は深緑,秋は紅葉,冬は雪と四季折々に衣替えをする。幾度となくこの渓谷を走っているうちに,神岡と茂住の間で,西岸の茂みの中に谷川を見つけた。他の多くの谷川は1月,2月の渇水期には枯れてしまうにも拘らず,この谷川だけは四季を通じて滔々と流れている。
 ある時,茂住の住人:片山一郎氏宅で御馳走になっている時,この谷川について訊ねた曰く
 「よく知っていますよ,あれは私の子供の頃から,“諏訪の瀧”と呼んでいました。」
 不思議に思い地図で調べた。が何の変哲も無い,集水面積の小さい小さな谷である。この谷川について以下の二つの夢想をした。
 一つは高原側や神通川には電力会社や我が社の発電所がいくつもある。この谷川を利用して水力発電の可能性がある。幸い,滝の真下には神岡鉄道が走っている。将来神岡鉄道が廃止になるようなことがあるなら,ペンストックも開発しやすい。
 二つ目は,
 「この水の水源は地表水だけではない。この谷川の水源は上流に石灰岩帯があり,石灰岩中に胚胎している水が岩目を通して流来る水ではなかろうか。そして,その石灰岩帯の下部に大鉱床が眠っているかもしれない。」
 地質屋の小長井次長に瀧の上流の地質図と現地調査を依頼した。地質図によると,やはり,地表には石灰岩帯があり,その規模は幅200m,長さは南北に3kmにも及んでいる。時は冬,雪解けを待って「諏訪の瀧」の上流の調査をすることにした。
 一方この“諏訪の瀧”の云われを茂住の住人から少し聞いたことをヒントに,更に書物で調べてみた。次の「國盗りの神話」に起因している。
 天照大神は豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)を長子に統治させるため,健脚雷之男神(たけみかづちのおかみ)を正使として出雲の国に使わした。出雲の国の太守は因幡の白兎で知られている大国主命(おおくにぬしのみこと)である。彼には二人の息子がいた。
 大国主命と長男は渋々同意したが,次男は同意せず,正使の神様と戦った。しかし,次男は闘いに敗れ信濃の国の諏訪のほとりまで逃げたが,追い詰められた。
 「私の完敗です。あなたの言う通り,この信濃の國以外は何処にも行きません。どう
  か命だけは助けて下さい。この豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)は全て天照
  大神の子孫に献上します。」
と降伏宣言をして,國譲りの一件は落着した。 
 この時,大国主命(おおくにぬしのみこと)を祭る社として建立されたのが出雲大社である。闘いに敗れた次男の神様は北陸から神通川を通り神岡を経由して信濃の国に逃げた
 逃亡の途中茂住辺りで喉が渇き,水を所望した。付き添っていた臣下は近くの谷川から綺麗な水を汲んできた。これが「諏訪の瀧で」ある。
 因みに,「神様が通った川」が「神通川」であり,「神様が一休みした岡」が「神岡」である。

2-4.坑内水発電
 朝出勤するとき,総合事務所に近づくと,裏山の斜面から,滝の如く水が流れ出ている光景に心を引かれる。特に,雪解け,梅雨等の湧水期は水量が多い。この水は谷川の水が,堆積場に流れ込まないように,切り替え隧道に導かれたものが,事務所の裏山が出口となっているのである。
 神岡鉱業は亜鉛の鉱石を採掘することから製錬までを一貫して行っている。
 当社が消費する1年間に使用する電力量は約3億kwhで,その大半は亜鉛の電解電力である。電気分解で亜鉛1トンを作るためには,約3千kwhの電力が必要である。当社は水力の自家発電設備を所有している,自家発電の供給割合は約70%である。不足分は電力会社から購入している。この費用は1年間に数億円に達し,今後のコストダウンのタ-ゲットである。鉱山では鉱石の探鉱や採鉱の過程において,地下水が湧出する。坑内ではこれらの水を清水と濁水に分離して坑外に導いている。坑外では清水を工場用水に使用し,濁水はシックナーで処理した後川に放流している。鉱山の稼働範囲は高低差で海抜1150m~350mであり,落差800mもある。この落差と水で連想するのは水力発電である。事務所の裏山の滝のように流れる水も,坑内水も水力発電に供することは不能ではないと考える。
 神岡鉱業が所有する水力発電は全て流れ込み式で,夜も昼も流れ来る水を発電に供給している。
 しかし,夜間電力より昼間電力の方が遙かに付加価値が高いので,夜間に流れ来る水は貯蔵し,昼間の発電に供給した方が有利である。これを実現するのはダムである。ところがダムを作ると環境問題等で容易なことではない。そこで鉱山屋が考えるのが,地下空間の利用である。流れ来る水を地下空間に貯蔵し,環境問題をクリアする事が可能となる。問題は地下の掘削コストとダム建設コストの比較である。鉱山方式の掘削によれば,地下掘削の方が遥かに有利であると判断する。
 一方,通産省・資源エネルギー庁の調査では,未開発の一般水力発発電は2,707地点で12,250千kWの可能性があり,地域別に見ると岐阜県が最も有力である。環境に関する国際会議でC02ガス規制が問題になっている折り柄,中小規模の水力発電の開発に官民挙げて知恵を絞りたいものである。
 毎朝,出勤時に事務所の裏山に滝のように流れる光景を見る度に,鉱山の高低差を利用した水力発電にロマンを感じる。

2-5.金比羅祭り
 新年には神岡鉱業の幹部が揃って洞雲寺に参り,安全祈願をする。この席上,仏前で「般若心経」を出席者全員で朗読することが恒例になっている。
 安全祈願が終わると広間に案内され,お茶を戴いて,暫く歓談する。
 華所長の時であった。中口人事部長が今年は,「金比羅祭り」に鉱業所として何か「山車」を出したら如何かと提案があった。皆賛成した。話し合いの結果,鉱山関係で一つ,製錬関係で一つ「山車」を出すことになった。
 製錬関係は「金の延べ棒」を頑丈なガラスケースに入れて「山車」とした。「金の延べ棒」も町民を驚かせるに十分であったが,それにも増して,鉱山関係の大型鉱山機械の「山車」に人気が集まった。超大型LHDのバケットに七福神を乗せて「山車」とし,穿孔機械のジャンボ-もイルミネーションで飾り,行列に加えた。その日は雪が降っていた。鉱山機械は町の人が珍しがって,人気を集めた。盛り上がったところで,瀧華所長をLHDに乗せた。町の人達は神岡鉱業所の所長の顔を初めて見たと喜んでいた。
 「鉱業の所長さんは,あんなふくよかな顔をしているのだね。」
と感心する町民がいた。その年から2,3年間は鉱山機械の「山車」が出場し,そのたびに人気を集めた。
 鉱山であんなすごい「山車」を出されたら自分たちの「山車」など目立たないといって苦情を言う人もいた。

2-6.施餓鬼
 毎年8月には神岡鉱山の殉職者を供養するため,洞雲寺で施餓鬼が執り行われる。10人以上のお坊さんが参加され,盛大に執り行われる。参列者は殉職者の遺族を始め,会社の幹部以下管理者等である。10名以上のお坊さんが祭壇の回りを行脚しながら,読経が続く中,茂住の金竜寺の和尚さんが,神岡鉱山開闢以来の殉職者の氏名を一人一人読みあげる。
 ¶ 栃洞鉱山      : 169名,
 ¶ 茂住鉱山      :  68名,
 ¶ 鹿間工場      :  40名,
 ¶ 三井以前の操業    :  36名,
 ¶ 以上合計      : 313名である。
 明治7年以降126年間で313名であるから,年間2.5人の殉職者が発生したことになる。鉱山関係の殉職者を分析すると
 1874年(明治7)から自分が入社した1965年(昭和40年)までの91年間で217名,年間2.4名,その後2000年までの35年間で17名,年間0.5名である。
 明治・大正・昭和初期は鉱山が如何に危険な職場であったかを物語っている
 自分が入社したころは死亡災害が発生すると重大ニュースとなった。その後は重傷災害が発生すると重大ニュースになり,近年では軽傷災害が発生すると重大ニュースになる時代である。それほど職場が安全になったのである。
 三井以前の代表者として有巣利十郎の名前が読み上げられるのが印象的であった。

2-7. 焼岳登山
 何かの会合で神岡の警察署長と古川土木所長と知り合い,焼岳に登山をする機会を得た。何れも夫婦連れで焼岳に登った。穂高荘に泊まって翌朝8時頃出発した。旅館のお兄さんが引率してくれた。このお兄さんは旅館と焼岳の頂上を,1日に4~5往復するらしい

図1 焼岳


 我々は朝8時頃旅館を出発し,頂上にたどり着くまで数回休憩をし,頂上にたどり着いた時は,かれこれ昼近くになっていた。頂上の手前に平らな部分があった。遠くに穂高を望み,近くの焼岳を見上げた。上高地の大正池が眼下に見渡せた。大正池,即ち長野県側からも多くの登山客が登って来た。
 焼岳の頂上に登った時は太陽に雲が掛かっていた。一休みしている内に,雲が晴れ,快晴の秋晴れとなった。持参したコーヒを飲みながら周りの山々を見渡した。
 「何とかと何とかは高いところを好むという。例えそうであっても,頂からの見晴らしは,実に素晴らしい。」
 登るときは何とか頑張ったが降りるときは足が棒のようになって突っ張る。満足な歩行が困難となり,杖を突いて歩いた。
 標高2,455mといえども相当なものである。翌日足腰の節々が痛んだ。署長の奥さんは。登山の当日帰るか,神岡にもう一泊して帰るか思案したが, 無理してその日に帰られた。
 翌日,署長から奥さんに電話が掛かってきた。奥さんは寝間から電話機の処まで満足に歩けず。躄りのように這って,やっと電話口にたどり着いたそうだ。
 「昨日帰って好かった。さもなければ,足腰が痛み.二,三日は神岡に滞在しなければならなかった。」
と言っておられた。

2-8.一位一刀掘り
 警察署長が音頭を取って戴いて,戸塚洋二東大教授と神岡鉱業の小長井次長とそれに自分等で,高山祭りの見物に出かけた。高山祭は国の重要無形文化財に指定されている。11台の屋台が神社境内に曳き揃えられ,布袋台のからくり人形の妙技が披露される。
 最後に一位一刀彫の現場を見学した。
作業台に多くの彫刻刀が並べてあった。それを見て
 「一刀彫りなのにどうしてこんなに沢山の彫刻刀が並べてあるのですか?」
と質問する人がいた。
 「一位一刀彫り」の意味は
 「約100本の彫刻刀を使い,一刀,一刀魂を込めて彫る。」
ことが一位一刀彫と呼ばれる所以らしい。
 一位一刀彫は、江戸時代末期、彫刻の名人といわれた松永亮長(すけなが)が飛騨地方の象徴であるイチイ材に根付(ねつけ)彫刻と呼ばれる独特の彫刻を施したのが始まりと言われている。
 それ以来、飛騨を代表する彫刻として,現在に受け継がれている。作品を作るには,下ごしらえの木取り,荒取り,荒彫り,中彫り,仕上げ彫り,最終仕上げ迄6つの工程を経て出来上がる。
 説明をして貰って,印象に残るのは,次の3つのプロセスである。どんな仕事をする場合でも,このプロセスが当てはまるような気がする。
 文章を書く場合も同様で,一気に書いたものを後で見直すと,必ず修正したくなる箇所が見つかる。
1)荒彫り
   イメージに沿って,大まかな輪郭をダイナミックに彫る。此の段階で一休みする。
  一気に掘り進めると,その時の思い込みがあり,後で後悔することになる。他の仕事  をしながら,荒彫りした作品を見ていると,いろいろなアイディアが浮かんでくる。
2)中彫り
   浮かんできたアイディアを纏め,大小さまざまなノミを駆使し,全体のバランスを  考えながら,一気に彫り進める。
3)仕上げ彫り
   繊細なタッチで,細かい部分を修正して仕上げる。

図2 高山祭り戸塚教授


 自分はこの彫刻の仕方に大変感激した。
 「一気に彫り上げるのでなく,荒彫りの段階で一休みする。」其処に感激したのであるこれまで原稿を書く場合,締め切りに追われて一気に仕上げて提出してきた。一旦書き上げた原稿を2,3日置いて見直せば,欠点も見つかり,別のアイディアも浮かんでくるものである。
 一位一刀彫りの特徴
 ¶ 飛騨地方の樹齢300年から500年のイチイの木を使う。
 ¶ 色をつけないで天然のイチイの木の細かい年輪,年月と共に木の色が茶褐色に
   かわり,艶が出てくる。
 ¶ 木目の美しさ,赤太と白太の色の違いなどを生かし,彫った跡を鋭く残す。
 ¶ 干支の動物や仏像などが多い。
等の特徴がある。

3.奥会津
3-1.自転車通勤
 奥会津社に勤務するようになってから,運動不足を解消するために,自転車で日本橋まで通うようにした。自宅から事務所まで自転車で約30分である。
 京葉道路から一筋南の通りが「馬車通り」で,もう一つ南の通りが「千葉街道」である。何れも,自分の家から隅田川まで一直線の通りである。
 通勤の行きも帰りも,交通量の多い京葉道路は避け,「馬車通り」か「旧千葉街道」を走った。両国あたりでは「吉良上野介の屋敷跡」や「本因坊家の跡地」を通る。偶に京葉道路に出て「芥川龍之介生誕の地」に寄る。
 両国橋の袂には出羽海部屋,井筒部屋,春日野部屋がある。若い力士が朝早く通りに出て,稽古の後の汗を流している。
 両国橋に差し掛かると,隅田川から吹き上げる涼しい風を全身に受け,芥川龍之介の「大川(現在の隅田川)の水」を思い出す。
 ある日,何時ものように自転車で「馬車通り」を走って,会社に向かっていた。自動車など殆ど通らない静かな通りである。その日は物思いに耽ってペダルを漕いでいた。誰かが
 「齋藤君!」
と誰かが声をかける。振り向くと誰もいない。空耳かと思いながら再びペダルを漕ごうとした。左手の窓越しに,芥川龍之介が片膝を付いて微笑んでいる。思わず
 「お早う御座います!」
と挨拶をした。更に何かを話そうとした時,芥川龍之介は消えた。
 不思議に思い辺りを調べた。すると右側に,芥川の肖像が大理石を斜めに切った面に彫り込んである。左側の大きな,透明のガラス窓がある。光の関係で芥川の肖像画が,瞬間的にガラス窓に映ったのである。自分はその虚像を見て挨拶をしたことが判明した。その後,この「馬車通り」を通る度に,再現出来ぬものかと,透明のガラス窓を色々な角度から眺めるのであるが,未だに実現しない。
 物思いに沈んでいたのは以下のようなことを思い出していたのである。
 ¶「班女と梅若」の事,
    父を尋ねに出たわが子,梅若の後をたずねて,はるばる東国に来た都の女,班女   が隅田川の河原で梅若が人買いに殺されたのを知って悲しみ,狂乱する。
 ¶「十六夜清心」が身投げした事,
    鎌倉極楽寺の僧清心は大磯の遊女「十六夜」となじんだが,女犯の罪で由比ヶ浜   に追放される。二人は相抱いて滑川に身を投げたが二人共助かる。後に再会して再   び死を選ぶ。
 ¶「源之丞が女太夫を見染めた」事,
    本所に住む旗本源之丞は大川端をそぞろ歩きして,吾妻橋の袂で、ふと雪駄の緒   を切らし,居合わせた雪駄直しの長五郎に仕立てさせているうちに,そこを通りか   かった女太夫「おこよ」の艶やかな姿を見染めて逢い引きを重ねるが,身分違いの   悲恋に終わる。
 ¶ 鋳掛け屋の松五郎の事
    しがない鋳掛け渡世の松五郎が両国橋を通りかかり,ふと下をのぞくと,日本橋   の商人が遊客船に美人を乗せ,浮き世の快楽に耽る光景を見て
   「あれも一生,これも一生,こいつは一番宗旨を変えざあなるめえ。」
   と肩にかけた鋳掛け道具を大川に投げ込み盗賊となるが,ついに悪事の応報の恐ろ   しさに自殺する。
 ¶ 森鴎外が妹の喜美子を伴い「駒形の渡し」で隅田川を渡り,日本橋の写真屋に出掛
  けたこと。
 等々を思い出しながら,自転車で両国橋を悠々と渡る。

3-2.賀詞交換会
 毎年地熱調査会主催の「賀詞交換会」が開催される。開会の辞は地熱調査会の理事が挨拶し,閉会の辞は日本地熱開発企業協議会の会長が挨拶をする事になっている。以下は2001年の閉会の辞として述べたものである。
 今日,日本国は石炭・石油は勿論,ベースメタル等の地下資源は全て海外に依存している。今や「もの造り」も海外に依存するようになった。
 地熱資源に関しては,日本は世界の埋蔵量の約1割を保有する世界一の地熱王国であります。この地熱資源を経済的に有利に取り出す技術開発および国の制度を構築することが日本の使命であると考える。
 イギリスという国は立派な国であったと思います。16世紀後半にスペインの無敵艦隊を撃破して以来、海洋に魅力を抱いた。リスクがあろうと、危険であろうと,金がかかろうと,海洋にロマンを感じ,世界の海をことごとく探検し征服(?)した。それ以来,イギリスは3世紀に渡って海洋王国として世界に君臨した。
 日本の経済競争力世界一は1993年以来僅か5年間であった。日本の経済競争力は1位から26に転落した。その理由は経営者に対するインタビューの点数が極めて低かったことが原因だそうだ。イギリスの「300年間」と日本の「5年間」の違いは何処から生まれてくるか?
それは「志」であると考える。
 現在の日本の経営者は金の亡者のごとく算盤勘定ばかりしていて,夢もロマンも無い。皆さん方の中から,世界で一番多く保有している地熱資源の開発,温暖化ガスを発生しない地熱発電の開発,に情熱を燃やす人が,一人でも多くなるように祈っています。
 本田宗一郎は金欲しくて自動車を造ったのであろうか?彼は
世界一燃費の良い経済的な車を造る夢を抱いていたと考える。結果として金が儲かったのである。
 国家百年の計を忘れ,私腹を肥やすことに奔走している国会議員や官僚共は「初心に返って」反省すべきであると考える。

3-3.二十六夜待ち橋
 奥会津地熱発電が位置する西山地区に二十六夜待ち橋」という名の橋がある。
 昔,ある女と男が相思相愛の仲になった。事情があって駆け落ちをすることとあいなり,橋の袂で待ち合わせた。女は約束の時間に約束の橋の袂で男を待った。夜明けまで待っていたが男はとうとう来なかった。次の日も,次の日も待ち続けた。二十六日目の夜,女は約束の儚いことを嘆き,川に身を投げ,あの世に行った。この橋を「二十六夜待ち橋」と呼ぶようになったそうである。

3-4.長岡の出張
 エスケイエンジニアリングが新潟沖の洋上で石油の探鉱のボーリングをしている現場を見学させて貰った。洋上と陸の交通便はヘリコプターが利用されて,我々も洋上の現場にヘリコプターで移動した。感心したことは,ボーリングで発生する濁水を全て陸上に輸送し,処理されていたことである。
 その帰りに良寛堂,寺泊の魚市場,それに長岡の花火大会を見物した。
 
1)長岡の花火大会
 我が国の花火は1600年堺の港からオランダ人によって輸入されたのが始まりと言われている。また戦国時代の「合図」,つまり狼火・狼煙技術が転化した物といわれている。
 長岡の10代藩主牧野忠雅が1840年に,川越に移封の命が下ったが,翌年沙汰止みになった事を祝って「合図」を打ち上げた。これが長岡の花火の発祥である。本格的な花火は明治12年先手町の八幡様の祭りに遊郭関係者が金を出し合って花火350発を上げたのが最初である。大正末期から昭和初期に掛けて長岡の花火が全国的に知られるようになった。
 1945年8月1日の「長岡空襲」で、町の8割が焦土と化し多数の犠牲者を出した。長岡市は空襲から1年後の8月1日、「長岡復興祭」を開催し、1日を「戦災殉難者の慰霊」の「花火大会の日」と改めた。
 以後,長岡の花火は戦災殉難?の霊を慰める祭りとして雄大な大河信濃川という打ち上げ場所に恵まれた環境の中,名実ともに日本一を歩み続けている。
 長岡駅に下車して,西に10分ほど歩けば信濃川にたどり着き,其処が花火の打ち上げ地点である。堤防は多くの観光客ですし詰め状態である。てきとうな処に腰を下ろす。花火の種類や花火にこめたメッセージなどの「解説」放送は、観覧席の歓声・談笑・ざわめきでよく聞きとれない。唯,信濃川の夜空を彩る花火に見とれた。「正三尺玉」のズシンと腹に響く音には驚いた。
 次から次と打ち上げられる。打ち上げられては消え,消えては打ち上げられる。瞬間の美,儚いものへの憧れであろうか,何故か引きつけられる。暫く眺めていると,
 「ゆく河の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは,かつ消えかつ結びて,久しくとどまりたるためしなし世の中にあるひとと栖と,又かくの如し。」
と「方丈記」の冒頭の文句が浮かんでくる。打ち上げられる花火一つ,一つが誰かの人生であるような気がする。あの大きな花火は「東さん」,この奇麗な花火は「高多さん」と言うように。
その内,自分の花火が打ち上げられるような気がして寂しい気持ちになる。
それ以来花火を見ると寂しくなるので,極力花火大会には行かないようにしている。
 因みに,「たまや~」とか「かぎや~」は花火に対する賞賛のかけ声である。鍵屋は、初代弥兵衛が奈良・篠原村から江戸へ出て日本橋横山町で1659年に創立した花火屋である。玉屋は、鍵屋の番頭だった清七が1810年に暖簾分けをしてもらって両国吉川町に創立し花火屋である。
 鍵屋も玉屋も隅田川の川開きの花火で有名で,両国橋を境に上流を玉屋が担当し、下流を鍵屋が担当して花火を打ち上げていた。玉屋の人気は鍵屋をしのぐほどであったが1843年に玉屋は火事を起こし、江戸の町を焼いた。それによって財産没収、江戸追放、家名断絶の処分を受け,一代限りで絶えてしまった。

2)良寛さん
 手鞠をつきながら子供たちと戯れる良寛さん,
同時に,「正法眼蔵」座右に置く良寛さん
 「君看よや雙眼の色,
  語らざれば憂いなきに似たり」
と漢詩歌う良寛さん。
 良寛さんの書に「天上大風(てんじょうたいふう)」がある。子供達に
 「凧を作るから」
といって頼まれて書いた。
 凧は悠々と空高く浮かんでいる。
しかし,その凧を支えているものは烈しい風である。
高く昇れば昇るほど風は激しい。
 子供と戯れる良寛さんの穏やかな日々を支えているものは,人知れぬ烈風なのである。畢竟,良寛さんは孤高の人であったのだ。
 五合庵を訪れた時は思わず涙が出た。ああ!この庵で,あの歌を詠んだのかと。
 冬はメートル単位で雪が降る,厳寒の冬でも,暖房など何一つ無く,持っているものは煎餅布団一枚である。膝小僧を抱えて春の来るのを待ち侘びたのである。良寛さんの持ち合わせているものは,煎餅布団一式と鍋一つ,それに「正法眼蔵」のみである。
 現役時代にいろいろな研修を受けた。講師から
 「あの人がこう言った。この人が何した。」
という話を沢山聴いた。その度に
 「あなたは何をしたのですか?」
と問いたくなった。
 何も言わずに「自分の生きざま」で人間の生き方を示している良寛さんは迫力がある。

1 五合庵


 文政2年(1819年)7月のこと,長岡藩九代の藩主牧野忠清公が僅かなお伴を従えて,良寛さんを訪ねてきた。忠清公は良寛さんの人柄を慕い,その心を藩政に活かすため良寛さんを長岡藩に招聘しようと考えていた。藩主牧野忠清公は良寛さんのために城下に寺を建て,迎えたいと懇請された。
 その頃,良寛さんが暮らしていたのは五合庵で,六畳一間程度の粗末な庵であった。当時,良寛さんは穂先のちびった粗末な筆を使っていた。無言のまま座っていた良寛さんはおもむろに筆をとり,一句したため忠清公の前に差し出されました。
 その句は
 ¶ 焚くほどは,風がもてくる,落ち葉かな
であった。
 忠清公は学問だけでなく,和歌や墨絵にも優れた藩主であっただけに,良寛さんの気高い心境に敬服し,いたわりの言葉を残して山を下ったとのこと。

3)魚のアメ横
 寺泊名物の魚市場の通り。新鮮な日本海の幸と旬の味がずらりと並ぶ魚の市場通りである。大型鮮魚店が国道沿いに立ち並んで店を出して賑わう。通りには美味しそうな匂いがいつも漂っている。寺泊や出雲崎などに揚がる地物が購入できる。駐車場には他県から訪れる観光バスも数多く停車しており,毎日大勢の観光客で賑わっている。
 退職後,女房とこの寺泊の魚のアメ横に出掛ける。新幹線に乗り燕三条で降りると,旅館のマイクロバスが迎えに来ている。
 昼食は旅館で新鮮な魚料理を魚に酎ハイを飲む。食事の後,ホロリとしたところで,おもむろに魚のアメ横に出掛け,気に入った魚を沢山買い込んで帰るのである。

おわりに
 振り返れば,神岡に始まり,神岡で終わった会社生活であった。栃洞鉱山に長く勤務したことから,鉱山の技術革新により,労働生産性の向上,黒字基調を確立,災害の減少等の成果を得たことは望外の喜びとする処である。我が人生において神岡で花を咲かせたような気がする。
 神岡を去る時,玄関の櫻は未だ咲いてなかったが,満開であれば,名実ともに「男の花道」であった。
 栃洞の生活も懐かしい限りである。春の山菜と祭り,夏は鮎と花火,秋はキノコと運動会,冬はトンチャン(焼肉)とスキー等,四季折々の味覚と行事を楽しんだ事が思い起こされる。それらの思い出の記述は次の機会に譲ることにする。
 鉱山は減耗性の資産を対象としているので,鉱量が枯渇すれば,姿を消し去るものである。この世から多くの鉱山が消え去り,日本の鉱山は殆どなくなってしまった。それに伴い,鉱山の集落も姿を消し,人々の記憶からも忘れ去られようとしている。
 自分が渾身を込めた「鉱山の技術革新」も顧みる人はいない。せめてこの一文を書き孫達に伝えておきたい。
 人間形成は学校教育だけでは難しい。他人の生き様を観て
 「我が人生,如何に生きるべきか。」
を考えるものである。
 「爺ちゃん!爺ちゃんと!」と懐いてくれる孫達が,この「思い出すことなど」を読み,彼等が何かを感じ,彼等の人生に少しでも役に立てば幸甚である。


著者略歴
1941年2月3日兵庫県養父市八鹿町に生まれる。
1965年 京都大学工学部資源工学科卒
1983年 三井金属神岡鉱業栃洞坑鉱長
1987年 技術士資格取得
1992年 三井金属ペルー支社長
1994年 三井金属資源開発部長
1997年 三井金属取締役兼神岡鉱業社長
2000年 奥会津地熱社長
2003年 退職


「思い出すことなど」 第Ⅱ部 行雲之巻
2010年5月15日 第1刷
著者   齋藤修二
印刷   株式会社オーエム
発行所  さいとう書房


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